著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.39, pp.79-93, 2008-03

メタスタジオのオペラ『シーロのアキッレ』は1736年にマリア・テレジアの結婚式において初演された。この作品の特徴は主人公が女装していることである。アキッレは劇の冒頭から第二幕の終わりまで女性の姿で現れる。生まれながらの戦士は,リコメーデ王の宮廷で完璧に侍女になりすましているのである。このオペラは初演で大成功を収め,女装という主題にもかかわらず婚礼の祝典にふさわしいと考えられた。その理由は二つ考えられる。第一に十八世紀のイタリア・オペラにおいて英雄役はカストラートが歌い,彼らの高い声は女性性よりも偉大さの象徴であったこと。第二にアキッレはスカートや竪琴につねに嫌悪を催しており,栄光を求める彼は最終的にはトロイア戦争へと船出すること。この台本にはバロック・オペラ的な性的曖昧さとアンシャン・レジームにおける男性的な美徳の双方が読み取れるのである。
著者
岩崎 周一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.123-154, 2013-03

本論の目的は、近世においてハプスブルク君主国の兵士たちが実際に生きた世界の実状を、当時の法 令・通達、および関係者が残した体験記・見聞録を史料として検討することである。 17 世紀末より、常備軍の必要性を確信したハプスブルク王権は、軍を可能な限りその統制下におこう とした(「軍隊の君主国化」)。しかし、忠良にして勇敢・優秀な自国民出身の兵士によって構成される、 国家による管理監督が行き届いた軍隊の形成という理想が実現されることはなかった。人々の意識にお いて、戦争や軍事は基本的に自分とは関わりのない厄介事であった。実際に軍人・兵士となったのは、 (1)傭兵を生業とする人々、(2)強制的な徴募の犠牲となって意に反して軍役につかされた人々、(3) それまでの生活環境から脱出し、社会的上昇を果たす機会として軍役をとらえた人々のいずれかであっ た。また兵士たちは、身分・出身・民族・宗教・言語などにおいて多種多様であり、共属意識にはきわ めて乏しかった。 近世の軍隊が抱えたこうした諸問題を解決する策として、18 世紀後半からは、現実に存在する多様性・ 多元性を超克するような「国民」意識や愛国心の涵養が主張されるようになった。そしてこの主張の実 現は、フランス革命とナポレオン戦争がもたらした動乱の後、達成すべき国家目標に変化する。ハプス ブルク君主国の軍隊は以後その崩壊にいたるまで、個々の領邦や民族ではなくハプスブルク君主国その ものに愛国心をいだく「国民」を担い手とすることをめざし、不断の苦闘を重ねることとなっていった。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.172-130, 2015-03

京都・上賀茂に1927(昭和2)年、上加茂民藝協團(以下は協團)という新作民芸品をつくる若い工人の集団(ギルド)が誕生した。これは当時の民芸運動の一環であった。民芸運動は柳宗悦(1889-1961、以下は柳)が主唱し、大正末期から昭和初期にかけて起こった。柳は1924(大正13)年から1933(昭和8)年までの約9 年間にわたって、京都を本拠地として活動した。この間に民芸という言葉をつくり、多くの同志を得た。そして河井寛次郎(1890-1966、以下は河井)との交友関係を通して、協團が結成された。 京都は伝統工芸が数多く残っている町であったが、協團は単に伝統を受け継ぐという理念のもとに生まれたわけではない。協團では染織作家の青田五良(1898-1935、以下は青田)と、木工作家の黒田辰秋(1904-1982、以下は黒田、後に重要無形文化財保持者)らが活動した。柳は個人作家と工人の協同生活の必要性を力説し、工人に対しては、共同作業を成立させるために厳しい倫理的制約を設けることを求めた。しかしながらこの理想は、収入源や倫理観の欠如によって結束力が弱まったために、達成できなかった。多くの協力者を得ながら、協團はわずか2 年半足らずで解散した。 しかし柳らの民芸運動は挫折することなく、新たに日本民藝館の設立や『工藝』誌の刊行など、むしろ活発になっていった。しかし日本民藝館のコレクションには、民芸の特徴に当てはまらないものが数多く含まれるなど、柳の本来の趣旨と外れたものとなっていった。柳にとって工芸とは、美術と同じ美的価値を基調とした概念になってしまい、これは協團がめざした方向とは明らかな違いを示していた。
著者
小林 満
出版者
京都産業大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

1613年の「カステッリ宛の書簡」のなかでガリレオは聖書と自然学の関係を整理してコペルニクス説のほうがアリストテレス・プトレマイオス体系よりも優位にあることを証明したが、その論理の攻撃性もあって、彼は宗教的な論争に巻き込まれてしまう。その反省から、『偽金鑑識官』から『世界の二大体系についての対話』へと執筆活動が展開していくにつれ、彼の説得の技術は、論理的に敵を打ち負かすだけでなく、「たとえ話」をも導入して、読者をより引き込むものへと進化していった。17世紀の前半には「感覚」を重要視する文化的風土があった。たとえば「感覚に基づく経験と必然的な論証」を自然学の研究手段と考えるガリレオ、あらゆる事物には感覚が備わっているという視点から自然を説明する哲学者カンパネッラ、そして五感を通した快楽を主題としたバロック詩人マリーノである。『アドーネ』のなかでマリーノは、望遠鏡を「遠くにあっても、対象を非常に拡大して、誰の感覚にでも近づける道具」と位置づけているとおり、「感覚」に奉仕する新器具の発明者としてのガリレオを賛美した。また、海の航海者=地理的征服者コロンブスと天空の航海者=自然哲学的征服者ガリレオという2人のイタリア人が新時代の象徴として描かれており、ペトラルカの『カンツォニエーレ』所収「わがイタリアよ、たとえ語るのがむだでも」からレオパルディの『カンティ』所収「アンジェロ・マイヘ」に到るイタリアの偉人たちを引き合いに出しながらイタリアを憂える詩のバロック的変奏をなしているとも考えられる。またマリー・ド・メディシスの招聰によってパリの宮廷に登ったマリーノがこの作品をフランスで発表したことを考え合わせると、新旧論争の前段階の重要な作品と位置づけることも可能であろう。ガリレオの存在がいかに国境や領域を越えた「事件」であったかの証左と言える。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.75-102, 2019-03-30

本稿は,近年の日本社会における「団地」を一種のノスタルジアの対象として見るようなまなざしのあり方を「団地ノスタルジア」と名付け,この団地ノスタルジアを分析するための足がかりとなるような予備的考察を提供することを目的としている。この目的のため,本稿では1960年代当時において「団地」を文学作品の中で扱ったものとして影響力の大きかった安部公房の小説『燃えつきた地図』(1967)を現代の団地ノスタルジアに先行する想像力を含んだ先駆的作品として読み解き,そこに見出される論理が現在においていかなる意義を持ちうるのかを検討する。さらに,この『燃えつきた地図』において提起された問題が,現在の団地ノスタルジアにおいてどのような形で継承・発展させられているのかを検討するために,近年の代表的な団地ノスタルジア的文学作品として,柴崎友香『千の扉』(2017)を取り上げる。 これらの分析を通じて新たに明らかになった知見は以下の4点である。(1)団地ノスタルジアとは,「団地」という建築空間の中に,ここ数十年の時間とそこにおける断片的な記憶が寄り集まって集積するような一種の「磁場」を見出す想像力のことである。それは決して何らかの美化された過去への回帰願望ではなく,むしろそうした過去の記憶が集積した結果として存在する「現在」を志向している。(2)団地ノスタルジアは,時に徹底して「反ノスタルジア的」「反ユートピア的」である。すなわちそれは,過去に措定された「幸福な過去」へと回帰することで共同性や全体性を回復しようとするような,素朴なノスタルジアやユートピア主義とは一線を画すものであり,むしろ過去に対するより反省的・批判的な態度のありかたを示唆している。(3)団地ノスタルジアはこのような安易なユートピアへの回帰による共同性の復活を拒絶しつつ,新たな形での「共同性」を模索する想像力である。(4)この共同性は,団地という場が孕む「危機」や「空虚」から目をそむけるのではなく,逆にそれに徹底的に向き合うことから生まれうるものである。
著者
渋江 陽子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.53, pp.167-196, 2020-03

本稿では,イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオが第一次大戦以前の飛行機パイオニア時代に,飛行機とどのような関わりをもったのかを概観し,考察する。 イタリアの飛行機時代の幕開けは1908 年頃である。翌年4 月にウィルバー・ライトがローマを訪れ,パイロット候補者に飛行訓練を行った。9 月にはブレッシャ近郊で,イタリアでは初めての国際飛行競技会が開催された。この大会はイタリアが飛行機の分野で発展を始める契機となった。 ダンヌンツィオは,ブレッシャ大会で飛行機に乗せてもらう機会を得た。詩人の飛行機への関心は熱狂的なものとなり,この新しい乗り物を表す単語をラテン語から導入することを提唱した。飛行家が主人公の小説を書き,この航空機についての講演会も開いている。 飛行機小説には,主人公がグライダーの滑空練習を経て,エンジン付きの飛行機を製作する場面がある。アメリカやフランスにはあっても,自国にはないと感じた狭義の飛行機パイオニア時代を描くことによって,ダンヌンツィオは現実を補完しようとしたのではないかと思われる。
著者
辻田 智子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.215-231, 2012-03

文化大革命では多くの映画作品,映画人が批判されたが,批判の理論的根拠となったひとつ が文芸黒線専政論である。文芸黒線専政論は「林彪同志が江青に委託して開いた部隊文芸工作 座談会紀要」(部隊紀要)で提起された。「部隊紀要」では建国以来のほとんどの映画が否定さ れたが,『南海長城』は映画作品のなかで唯一肯定的にとりあげられている。 『南海長城』はその制作が文革期の文芸政策の根幹に関わる重要な問題であるにもかかわら ず,これまでほとんど論及されてこなかった。また江青が推進した文芸政策の一環としてとら えて論じられたものは管見の限りでは見当たらない。本稿は「部隊紀要」にとりあげられなが ら撮影が中断した映画『南海長城』の制作過程について考察しようとするものである。 江青は文革前から『南海長城』を「模範映画」にしようとする意図を持っていた。中国建国 後17 年間に制作された映画作品のほとんどが否定されたなか,新たな模範を示そうとしたの である。しかしその文芸観は監督である厳寄洲の作風と相容れず,制作が遅々として進まない まま文化大革命を迎える。文革が始まると八一電影製片廠は混乱し,所長の陳播や厳寄洲に対 する批判運動が展開され映画の制作は中断する。映画『南海長城』は文革末期の1976 年9 月 になってようやく完成し10 月に公開された。制作決定から完成まで10 年以上の歳月を要した が,公開されてわずか二週間足らずで公開中止となった。 江青が「模範映画」を作ろうとした背景には「模範」という権威を作り出して自らの権威を 高める意図が潜んでいた。また解放軍所属の映画撮影所である八一電影製片廠という軍の文芸 の力を借りて自らの政治的野心を実現させる思惑もあった。文革により映画の制作が中断した のは,映画制作よりも対立するグループを批判,排除することを選択したこと,文革の開始と ともに江青の政治的地位が急上昇したこと,いっぽうで進めていた京劇改革が成果を上げ評価 されたこと,そのため「模範映画」に依拠する必要がなくなったことなどの要因が考えられる。 本稿は以上について論及し,文革が始まる前から文革に至る文芸政策がどのようになされて いたのかの一端を解明しようとするものである。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.79-93, 2008-03

メタスタジオのオペラ『シーロのアキッレ』は1736年にマリア・テレジアの結婚式において初演された。この作品の特徴は主人公が女装していることである。アキッレは劇の冒頭から第二幕の終わりまで女性の姿で現れる。生まれながらの戦士は,リコメーデ王の宮廷で完璧に侍女になりすましているのである。このオペラは初演で大成功を収め,女装という主題にもかかわらず婚礼の祝典にふさわしいと考えられた。その理由は二つ考えられる。第一に十八世紀のイタリア・オペラにおいて英雄役はカストラートが歌い,彼らの高い声は女性性よりも偉大さの象徴であったこと。第二にアキッレはスカートや竪琴につねに嫌悪を催しており,栄光を求める彼は最終的にはトロイア戦争へと船出すること。この台本にはバロック・オペラ的な性的曖昧さとアンシャン・レジームにおける男性的な美徳の双方が読み取れるのである。