著者
荒又 美陽
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.26-26, 2006

パリのマレ地区は、1962年に制定されたマルロー法によって街区全体が保護の対象となっており、マルロー法後の変化と整備の手法に研究の焦点が当てられてきた。しかし、マレ地区の保存事業は1960年代に初めて手がけられたわけではない。地方行政レベルでは、1940年代から調査や整備案の策定が行われていた。国の事業は、地方行政の政策を引き上げる形で実施されたのである。では、フランスはなぜこの17世紀の街区を選び取ったのだろうか。本報告は、地方行政時代のマレ地区の保存事業に携わっていた建築家アルベール・ラプラドの足跡から、フランスという国家によるマレ地区保存の背後にある思想について考察する。<BR> ラプラドは、1883年に地方都市ビュザンセに生まれ、1907年にボーザールを卒業した。1915年に第一次大戦のなかで負傷して軍隊を離れ、建築家アンリ・プロストについてフランスの保護領であったモロッコの都市計画に携わった。伝説的な総督であるユベール・リオテの下、いくつかの都市の建築を設計したが、特にカサブランカの都市計画に関わったことは、ラプラドのその後のキャリアに大きな影響を与えた。<BR>当時のカサブランカは、近代化の波の中で、内陸部から多くの労働者が集まってきていた。彼らが住むためのニュータウンを設計するのがラプラドの仕事であった。彼は、ラバトやサレの町で「伝統的な」建造物をスケッチし、そのデザインをニュータウンの新しい建造物に採用した。建築家にとってはモロッコの伝統への最大限の敬意であったが、政治的には別の意味も持っていた。リオテはモロッコの「伝統的な」都市を保護しながら、その外側にヨーロッパ入植者用の「近代的」都市を建設する方針を取っていた。ニュータウンに伝統的なデザインを用いることによって、支配・被支配の関係は視覚的に明らかなものとなっていたのである。<BR>パリに戻ったラプラドがパリ中心部の保存を訴えるようになったのは1930年代のことである。当時のパリでは、不衛生な街区を取り壊して再建する政策が進められていた。このうちの一つ、第十六不衛生街区が現在のマレ地区の南部に位置していた。ラプラドをはじめとする一部の知識人はこの事業に反対し、1940年代に入って取り壊しの方針を撤回させた。その後、この街区は保存しながら再生することになり、ラプラドはその計画者のひとりとなった。<BR>ラプラドが担当したのは第十六不衛生街区の一番西側の一部分、サン・ジェルヴェ教会の周辺であった。彼は街区の内部の建造物を取り壊し、ファサードを修復して、古きパリを思わせる区画を作り上げることに成功した。ここから行政の信頼を得、ラプラドはマレ地区全体の調査・整備計画を任されることになった。<BR>彼はマレ地区についても膨大なスケッチを残している。そこにはファサードの形状やスケールだけではなく、階段やバルコニーなどの細かな意匠が描かれている。写真は、主に航空写真が使われている。それは、18世紀の古地図を下に、見えない部分まで含めて街区を修復するための手段であった。ラプラドは、貴族の時代に造られたマレをまさに再現しようとしたのである。<BR>1962年にマルロー法が採択されると、国はマレ地区の整備のために三人の建築家を指名し、行政に一方的に通知を行った。ラプラドは、その後も審議会などに呼ばれてはいるものの、実質的にはマレ地区の整備から離れることになった。しかし、国が指名した建築家は、70年代の半ばまではラプラドの方針をほぼ踏襲していた。彼の街区整備手法や考え方は、マレ地区に大きな影響を残したのである。<BR>ラプラドが手がけた二つの都市計画は、状況がかなり異なってはいるものの、いくつか共通点も見ることができる。それは、歴史性に重点がおかれており、周辺の「通常の」地区とは違うという認識に基づいて整備が行われており、そのなかで無名の職人が作り上げた「伝統的な」デザインに大きく配慮されていたことである。マルロー法の審議の中で、文化大臣アンドレ・マルローは、傑作のみではなく過去の事物全てが国民の遺産だという考えを示した。ここには、国民とその過去が一対一で結びついているという信念が見られる。それを象徴的に表すのが、無名の職人たちが作り上げた街区なのである。<BR>1960年代のフランスは、対アルジェリア戦争によって植民地支配を維持できなくなり、冷戦構造の中でアメリカの側に組み入れられていった。ド・ゴール率いる新政府は、フランスのアイデンティティを強く打ち出す政策を実施していた。ラプラドは、マレを保護するために、「アメリカ人が見たいというのはフランスの建築だ」といっている。カサブランカのニュータウンがフランス入植者地区と対比的な関係にあったように、時代の要請を受けて、パリのマレ地区はアメリカとの対比において「フランス」を示す場となったのである。
著者
末永 雅洋
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.47-47, 2011

イナゴ採集・調理・食の文化は東北・関東地方等で今も残っているが、2011年3月11日に起こった東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故によって近隣地域のイナゴの食文化に影響が出てきている。福島県の須賀川市立白江小学校やいわき市立夏井小学校では児童の放射線に対する影響を懸念して従来から行われていたイナゴ採集行事が中止された。長年イナゴ採集を行っていた郡山市在住の男性も、今年度は福島県中通り地方では採集活動を行えないため、さらに西の会津地方でイナゴ採集を行うことを決心している。福島第一原子力発電所事故は、福島県内のイナゴ採集従事者に大きな影響を与えた。戦後の食生活の変化によってイナゴ食慣行は衰退していったが、福島第一原子力発電所の事故はその流れをより一層加速させるものだと予想される。群馬県吾妻郡中之条町では昨年と同様、地域振興の一環としてイナゴの採集イベントを予定しているが、こうした取り組みはこれからのイナゴ文化にどのような機能を果たしていくのかが注目される。本発表では、イナゴの食慣行があり、かつ学校教育や地域振興の一環として取り入れている地域の取り組みを紹介し、現代的課題と今後の展望を考察する。
著者
松尾 容孝
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.32-32, 2010

1.研究の目的日本最大の民有林業地帯であった奈良県吉野地方の川上村、その拡大地天川村、新興地(限界地)野迫川村を対象地に、現代における林業の衰退・縮小に伴う再編、山村地域の動態を検討した。2.林業の衰退(1)潜在的対応策 林業の衰退への対応策として、林業経営、複数業種への就業、生産基盤の物理的改善(林道整備、育苗、作業用機械、生態系)、政策的支援などが考えられる(予稿集 図1)。(2)日本林業の衰退と吉野林業の地位1970年代、杉立木代金は、全国平均で1m3あたり約19000円のであったが、2009年には約2500円と七分の一の価格に下がっている。需要材積も減少している。また、吉野材の杉は、2005年頃まで都道府県別で上位3番目ぐらいまでに位置する高級材であったが、2008年には9位、2009年には19位に下がっている。現代は需要の停滞・縮小期で、立木価格が低下し、通常ではこれまでの植林投資を回収できない。林業地帯は再編・縮小期にあり、流通が規定する傾向がいっそう強くなっている。また、吉野では伐出労賃が高いため、相対的に林業諸条件が厳しく、不振の度が大きくなる。3.吉野林業地帯の再編(1)吉野林業地帯における居住・就業実態の推移と林業への関与の状況天川村と野迫川村のすべての世帯・人口について、1982年と2009年に職業や世帯構成等を調査し、生活・生産における林業への関与の状況を比較検討した。林業への関与は大幅に縮小し、廃村化を肇とする深刻な状況が振興している。野迫川村では、全就業機会事態が非常に限られた状況になっているし、天川村の西部地帯も深刻である。(2)先進地川上村:山林地主、山守、林業関連業者の動向、さぷり育成林業山村としての構造的特色:山守、社会的分業、素材業、市売市場 は、山守の減少や林業関連業種の縮小が振興している。そのようななか、消費ニーズの開拓により既存の構造の脱構築をめざす山守が「さぷり」を立ち上げて活動中である。林業地帯として存続するために、従来の仕組みの一部を山守自身が解体・再編を目指している。(3)拡大地天川村:山守・林業関連業者の動向育成林業による地域の組織化が微弱で、既存の構造の消極的受容にとどまり、ほとんどの山守や地元林業家は、個別に林業外での対応をはかっている。(4)限界地野迫川村 山林地主の構成が中核地や拡大地とは異なる、模倣的成長地であったが、模倣自体が困難な状況にある。森林資源を活用して従来紀伊半島に見られた森林産業が現代的に蘇る状況が皆無ではないが、新たな森林産業による地域形成にも長年を要するため、現在は縮小が進行していると言えよう。4.吉野山村地域の動態(1)日本山村の人口増減パターン日本の山村地域における近代以後の人口の推移には3~4タイプがあり、紀伊半島や東海地方の外帯山村は、明治期以後昭和中期まで増加率が最も高く、逆に1955年前後以降減少率が最も高いタイプ。(2)3か村における住民の職業と居住の動向 持続可能な再生産の閾値を上回る生活様式を築けるのか?住民の居住動向を通じて今後の地域像と現下の問題状況を検討する。詳細は当日に譲るが、次の点が指摘できる。_丸1_村民の二箇所居住が3か村で顕在化している。農業の比重が低く日常的な土地管理を必要としない地域でこの傾向は強い。_丸2_社会的分業は縮小し、生活は単純化している。_丸3_天川村と野迫川村については、30年前と昨年、住民の職業と居住動向の全戸調査を行った。天川村では、資産保有世帯がキャンプ場を営み、資源利用の競合が生じ、一部世帯が個別に再生産を実現している。野迫川村では、就業機会に乏しく、3大字(4集落)以外の廃村化と地域資源の村外資本家による掌握が進行している。_丸4_新たな存在価値と一体性志向がポジティブな地域動態にとって必要である。「さぷり」等の取り組みが新たな生活様式・地域像を構築するか否かは現時点では不明瞭である。_丸5_離村住民の土地所有等や未利用地の増加は、充填した生活空間の形成を阻害する共通の地域問題になっている。教育・保健衛生の水準や知識・技術を用いた行動機会の可能性も今後の農山村の存続にとって重要性を高めよう。
著者
塚田 秀雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.231-269, 1971

At the Sarobetsu field, the most northern part of Hokkaido, development had been disturbed and delayed by some natural and economical factors: too short and insufficient time for crop growth owing to the cold temperature, distribution of the acid peat deposits which are hard to drain off, and vast sheet of water caused by flood and other disasters at the thawing season are the former factors; its geographical location of being too far isolated from the market is the latter one. The existing farm production at its environs was also extremely dull. At the end of the World War II, in acting on the Urgent Development Project, the total number of farmers, who had settled only in the comparatively rich areas, had amounted to 433 houses. Yet it decreased to 176 houses in 1968, In this interim, about 3, 000ha of field were cleared to be arable and at present each farmer's cultivable land counts 17.4ha. It had been changing from the self-sustaining agriculture type, which was held until 1960 in putting stress on cultivation of oats and potato, into the mono-dairy farming management in the form of multi-cows raising at the meadow.Originally, it was aimed to start as the dairy farming type management, As it is easily observed from the circumstance that the development investment had just ultimately set out in full scale since 1961, the unfavourable condition, which was brought about by the scanty reclaimant administration and its retarded promotion, made each dairy farmers, with insufficient capital, have to find themselves difficult to enlarge their management under the heavy charge of the accumulated, unproductive debt. After the completion of the short-cut of the Sarobetsu river in 1969, the arable area expanded in size, and the land was considerably improved, yet the total farmers number still now does not cease from decreasing, owing to the fact that the faicilitating measures of disengagement from the agriculture had been putting in motion as well as to the essential shortage of the enlargement fund. Before 1965, farmers' desentations, for the most part of them, took place at the casual disaster as a sort of turning-point on the impedimental hot bed brewed by the accumulated debts. Nowadays, it is considered as the outcome of the farmers class differentiation which has been recently extremely accelerated; and at the same time it reflects the promotion of the new measures for encouragement of the reclaimant areas.As for the remaining farmers, the authority's misguidance in the past distorted their rationalization of agricultural management; for instance, the underestimation of target figure of the breeding cows had inevitably invited the inadequate distribution of arable field. Furthermore, it indicates a conspicuous turn for the worst management accounts such as the enormous debt which came out from the too hurried accomodation to the multi-cows breeding system and the sudden swelling up of the fodder cost.The Agricultural Cooperative Society had greatly contributed to the expansive trend of the farm management in fostering common use of heavy agricultural machines and implements. Nevertheless, on the other hand it has fallen down to a mere profitable corporation, alienating from the farmers, upon a pretext as "sound management" of the cooperative itself, in following suit after such a lucrative line of policy: preferential treatment for the upper-class, discarding of the lower-class. Its attitude denotes the inseparable adhesion to the dairy and fodder capitalism.In summing up, after the end of the World War II the reclaimant farmers could at last manage to fix the mono-dairy farming management against the harsh natural condition, yet the trend of the reclaimant policy as well as the dairy farming measures had been consistently affecting as the primary factor the way they should be in this area.
著者
中西 僚太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.2, 2009 (Released:2009-12-16)

近代の日本では,近世の絵図・地図作成を背景として,新たな意匠の絵図・地図が多数作成された。その代表例としては,大正・昭和初期の吉田初三郎とその門下による一群の鳥瞰図があげられるが,明治・大正期にはそれとは異なる意匠をもつ鳥瞰図が,市街地や温泉地,景勝地,社寺を対象に数多く作成された。それらは当初は銅版,後には石版印刷による対象の精緻な描写を特徴とする鳥瞰図であり,図の名称から「真景図」と総称することができる。本発表では,景勝地の「真景図」の事例として,主に松島と厳島を取り上げ,同時期の案内記や写真帖と比較しながら,刊行状況や作成主体,作成意図,図面構成,構図,描写内容などの資料的検討と考察を行う。その上で,「真景図」を活用した当時の景観(風景)研究や観光研究の可能性を探ってみたい。
著者
渡辺 久雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.159-174,233, 1953

I can dare to say that the conception of historical geography as a subject of human geography is not established yet. The most important reason, I think, is how the historical factor would be conquered. So at the temporal steps the mistake of thought is inevitable. This report is one of the sort.In this report the object of study is the Inano-sho, Manor of Todaiji Temple, (Hyôgo Prefecture) as the earlier manor which has been already studied by the many materials. The convenience of field survey and investigated materials are the reason why I took this area up. But nobody has investigated Inano-sho from the geographical standpoint. At least the localization and location of Inano-sho has not been explained yet, so I am intending to have the main subject of the report to clearify these facts.I take the old map of Inano-shc, the fundamental material of geographical study, the manuscript made in one or two centuries after entry to Todaiji Manor. Therefore I use its manuscriptive items as the material of reappearance of landscape. I take the earlier manor as the progressed type of developed field to study the character of developed field, especially the relation to Miyake.The classification of land taken as the object of developed field was the waste land. So at first I made the reappearance of the Muko Plain in middle age micro-geographically by the geological condition, underground materials and the today's natural landscape. I suppose the antecedent Inano-sho was the Miyake in this area.I would go on to the localisation of Miyake from its character, and limit the location of Sho gradually by the old road. At last I found the key point to study the relation of manor and the compartment of Jori in the old map. So I made the reappearance of Jori of the southern part of Kawabegun and I could the location of Inano-sho on the transportation route.In short this report is engaged in finding the location of a manor with the reappearance of natural and cultural landscape by the old map and old manuscripts.
著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.15-15, 2011

橋下徹大阪都知事が代表となる「大阪維新の会」が提唱する「大阪都構想」について、橋下知事と平松邦夫大阪市長との意見交換会の討議内容をコーディング分析し、関西における大都市圏ガバナンスのゆくえについて、リスケーリングの政治という概念から考察する。
著者
村田 陽平
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.29-29, 2005

最近の人口地理学において,2007年頃から増加する「団塊世代」の定年退職者が老後をどこで生活するのかという問題は、注目すべき課題の一つになっている。そこで本研究では,積極的に移住政策を進め,退職後の移住地として脚光を浴びる北海道伊達市の現状を報告する。伊達市は,道央胆振支庁に位置する人口約3万6千人の地方都市であるが,北海道においては温暖な気候を持つことから,「北の湘南」とも呼ばれている。この伊達市では,2003年度の基準地価上昇率(住宅地)で全国1位を記録したように住宅地開発が盛んに進められており,道内のみならず全国から多くの移住者が集まっている。本報告では,このような移住を大きく支えている伊達市の「伊達ウェルシーランド」構想という政策の現状を紹介したい。
著者
天野 太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.128-147, 1996
被引用文献数
1

The main purpose of this paper is to make clear the plan of Ishiyama-Honganji's Jinaimachi and restore it on a map.Jinaimachi are temple compound towns from the late 15th to early 17th century in Japan. They have a characteristic form and most of them have walls or moats, and were primarily to facilitate defence against feudal lords (especially, Oda Nobunaga) and some old Buddhist factions.The spatial and social structure of this Jinaimachi has been studied for about 50 years principally by historians, and some effective proposals were preshnted by Yamane Tokutaro (1954), Ito Tsuyoshi (1987), and Niki Hiroshi (1994). Above all Ito's plan is considered most effective. But I think these have some serious problems in both position, and the plan itself. Therefore this paper attaches importance to both position and plan geographically.First, the restoration research of this plan is based upon the"Tenbun Diary"(written from 1536 to 1554 by Saint Shonyo, the tenth chief abbot of the Honganji-Temple), and "Shishinki"(also diary by Jitsuju, the chief of Junkoji-Temple, in the network of the Honganji-Temple). Preceding research used these diaries also, and this paper rechecks their details geographically. As a result, the precise arrangements of temple and six quarters (inside the Ishiyama) can be recognized.Second, in the point of position, this paper is based upon the name of sections and the old configuration around Osaka castle. Consequently it is clear that the positions shown in preceding reseoches are not correct, and have to be modified to the South.Third, this paper looks at the results of archaeological excavation. It attempts to make clear the spatial structure of this Jinaimachi.From these three viewpoints, I suggest the plan in Fig. 8. It shows that the position of the centre of it, "Honganji-Temple", exists at"Terayama", the name of the section. It is a more suitable place for configuration than one in the preceding research. And I suggest that the port"Jinainoura"was separated from the town, and connected to it by a road. This structure looks like the precedent of Deguchi Jinaimachi, in Osaka Prefecture.This paper deals with only one Jinaimachi, but the Ishiyama Honganji's Jinaimachi is the most significant in the history of Jinaimachi's, and can point out the existence of the succession of plans from among Yamashina, Ishiyama.I am convinced that such a study of plan contanins some important elements in studying spatial and social structure of Jinaimachi, and about medieval towns and villages in Japan.
著者
横山 智
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.P01, 2008 (Released:2008-12-25)

納豆様の無塩発酵大豆食品は,東南アジア大陸部の中国雲南省あたりが起源との見方がある.そして,雲南省を中心に,ミャンマー,タイ,ラオスにも納豆様の無塩発行大豆食品が分布している.ラオスの無塩大豆発酵食品は「トゥアナオ(腐った豆の意味)」と呼ばれ,北部の市場などで売られており,カオソーイと呼ばれる日本のうどんのような麺の辛子ミソには必ず入っている.しかし,ラオスのトゥアナオについては,ほとんど知られていない.発表では,ラオスの無塩発行大豆食品がいかにして製造され,そしてだれによって伝えられ,また,どのような経路で拡がっていったのか文化地理学的視点から考察する.
著者
西岡 尚也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.6, 2004 (Released:2004-11-12)

小中学校時代に形成された「地理的見方や考え方」は生涯にわたって世界認識形成や地域イメージを左右する。本発表ではこのような地理教育の役割を考え、特にアフリカに関わる記述に焦点を当て考察した。検討したのは2004年4月現在使用されている、小学校社会6年下5冊、中学校地理7冊の合計12冊の教科書である。 6年下でアフリカの国を取りあげ詳しく記述した教科書はない。かつ5冊の教科書に登場するアフリカに関わる写真は合計19枚しか存在しない。しかもそのうち14枚が、「飢えに苦しむ」「食糧配給を待つ」「難民」「紛争」「砂漠化」などのマイナス面を表している。私にはこれらで学ぶ子供たちに、アフリカ大陸の「悲惨さ」のみが誇張されて伝わり、誤った地域イメージが形成されると思えてならない。 明治初頭の福澤諭吉(1869)『世界国尽』は、異文化地域にランク付けし、欧米以外の文化地域を蔑視した世界観を「啓蒙」した。当時の福澤の視点は、欧米人の世界観を「模倣輸入」したもので、福澤一人の問題ではなかった。しかし今日の日本人の誤った世界認識形成は「日本の地理教育の責任」である。 開発教育では「多様性の尊重」を重視している。私たちはこの視点に学び、福澤以来の欧米以外の地域への偏見を改めなければならない。そのためにも地理教科書では「正しい世界認識」をめざした表記が重要になる。
著者
大石 貴之
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.30-30, 2010

<B>I はじめに</B><BR> 近年,日本における緑茶の消費量はコーヒーや紅茶など,他飲料の消費量が増加したことによって減少傾向にある。また,1990年代から登場した,ペットボトル飲料に代表される緑茶飲料は,大手飲料メーカーが緑茶の原料となる荒茶を安く大量に仕入れることによって,高級茶の茶価を低下させることとなった。緑茶原料の生産者である荒茶の加工工場は,こうした茶価の低迷によって経営が厳しい状態となっており,消費部門や流通部門の動向は生産部門である茶産地に与える影響が大きい。<BR> 茶業における生産部門と流通部門を対象とした既往の研究,特に茶の一次加工品である荒茶の流通について検討した研究では,荒茶を調達して最終製品である仕上げ茶を加工する茶商の重要性が指摘されている(坂口 1998)。その一方で,静岡県の高級茶産地を取り上げた深瀬(2008)は,荒茶のほとんどが農協で最終製品に加工されて小売店に供給され,茶商への出荷割合は相対的に少ないなど,必ずしも大手茶商の存在が重要でないと指摘している。また,茶商は経営規模や形態によって荒茶の調達先やその方法が異なり,茶商の存在が荒茶工場に対していかなる影響をもたらすのかを検討することは,緑茶流通の構造を明らかにする上で重要な課題である(木立 1985)。<BR> そこで,本報告では生産部門である荒茶工場を対象として,工場の経営形態によっていかなる荒茶製造・出荷が行われ,出荷先である茶商がいかなる販売行動を行っているのかを検討する。その上で,各荒茶工場が荒茶供給構造においてどのような役割を果たしているのかを明らかにする。<BR><B>II 鹿児島県南九州市知覧町における荒茶の生産・流通</B><BR> 本報告の対象地域である鹿児島県南九州市知覧町は,1970年代から1980年代にかけて茶の栽培面積が増加し,茶が町内の基幹作物となっている。知覧町における荒茶の流通は,茶商に対する相対取引が多かったが,1990年代に知覧町の荒茶工場を管轄する知覧茶業センターが,各工場を巡回して荒茶を受け取って市場などに配送するシステムを確立してからは,市場出荷の割合が増加した。知覧町では,このほか相対取引によって荒茶が茶商へ供給される。<BR> 2010年現在,知覧町における茶工場数は36で,自園で摘採される生葉を中心として荒茶加工を行う個人工場,複数の農家が共同で荒茶工場を設立して組合員の生葉によって荒茶加工を行う組合工場,個人が経営主となって,自園で摘採される生葉に加えて他農家から生葉を調達して荒茶加工を行う法人工場に分けられる。<BR> 個人工場は9工場で,1番茶や2番茶などの高級茶のみを生産し,荒茶の出荷先は県内茶商であるという工場がほとんどである。また,仕上げ茶に製造して小売販売をする工場も多く,その多くが知覧町内の観光地にある土産店で販売したり,指宿,枕崎など近隣自治体の観光地にある土産店やホテル等に出荷したりしている。組合工場は9工場で,1番茶から秋冬番茶に至るまで,5期全てにおいて荒茶を製造しており,高級茶である1番茶や2番茶は一部の工場で茶商へ出荷する割合が多いものの,ほとんどが茶業センターを通じた市場出荷である。組合工場では,組合員の話し合いによって出荷先が決定されるために,リスクの大きい相対取引を選択する傾向が低い。法人工場は残りの18工場が該当し,所属する農家は工場に生葉を出荷すると共に,工場における荒茶製造にも参加している。出荷先は工場の生産規模によって異なり,比較的生産量の多い工場では市場出荷を中心に,茶商との相対取引も行っている。一方で,生産量の比較的少ない工場では茶商との相対取引による荒茶出荷が多いが,近年では市場への荒茶出荷量も増加傾向にある。<BR><B>III 鹿児島県の茶商にみる荒茶の調達と供給</B><BR> 知覧町で生産される荒茶の28%にあたる1371tは,茶業センターを通じて鹿児島県茶市場に出荷される。鹿児島県茶市場では,買参権を持った鹿児島県内の茶商27社が参加して入札による取引が行われる。知覧町で生産される荒茶を多く取り扱う茶商は,鹿児島県内に4社立地しており,調達した荒茶のほとんどは静岡県を中心とした県外の茶商に対して荒茶の状態で供給している。このうち,知覧町内に立地するA社は,荒茶取扱量2000tのうち半数の1000tを鹿児島茶市場から,残り半数の1000tは知覧町を含む南九州市や枕崎市など近隣の約80工場から相対取引によって直接調達している。荒茶供給先は静岡県内の茶商が多く,仕上げ茶に製造後に小売店で販売したり,仏事用に利用されたりする。また,JAS法が改正された2004年以降,「知覧茶」の使用を希望する茶商が増加傾向にあり,直接調達した荒茶が多く供給されている。<BR>
著者
稲田 七海 若松 司 蓬莱 梨乃 水内 俊雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.406-406, 2008

本報告は、地方都市における社会的条件不利地域を対象に、格差、貧困、社会的排除などの課題について地域がどのように対応し改善への道筋を探っているのか、その福祉実践のプロセスに迫り、新たな地域福祉構築の可能性について検討することを目的としている。そこで、本報告は、Q県R市における貧困層や生活困難者を対象とした包摂型コミュニティ福祉の先駆的な実践に着目し、掘り起こし型の福祉実践のあり方を「見える化」システムと定義し、新たなコミュニティ福祉の創造の可能性について検討を試みる。<BR> 現代社会における福祉ニーズの多様化や高度化によって、公的な福祉では対応しきれていない福祉課題が現われてきている。そのため、地域における身近な生活課題に対応し、支え合いを進めるための地域福祉のあり方を検討することが緊要の課題となっている。従来型の福祉ニーズが複雑化し福祉そのもののあり方が多様化する中で、福祉部門における社会的コストは確実に拡大している。それにもかかわらず、近年の日本の福祉政策は、サービス主体の多元化と市場化の推進によって、福祉における国家の役割を間接的な役割へと縮小させ、地域や家族の役割を増大させる方向にある。福祉における国家の役割が縮小しつつある現在、地域社会におけるローカルな「つながり」の再構築こそが国家に変わる福祉の担い手として要請されているのである。<BR> Q県R市は、主要幹線交通体系から遠く離れたS半島の南東部に位置する。現在の人口約3万3000人、高齢化率が29.4%となっており同一県の市部と比較しても高い値を示している。R市における福祉ニーズは、失業の増加に付随した地域就労支援の問題と、これに付随した若年層、ひとり親、中高年世帯における生活困難現象の深刻化である。R市はいくつかの同和地区を有していることから生活困難者への生活支援課題を古くから有し、隣保事業の拡充に伴いさまざまな支援が独自に行われてきた。しかし、R市における地域経済の不安定化や雇用の流動化は格差の拡大を市民にも認識させ、貧困や生活困窮の問題が同和地区などの特定の地域に限った問題としての認識から、広く一般に浸透した問題として立ち現われてきた。特に重要かつ必要度の高い分野として、地域就労、児童福祉、独居高齢者の生活支援が挙げられるが、それぞれが行政および関係機関ならびに民間の支援者の連携を通じてユニークな実践を始めている。<BR> 子ども会は1972年に同和地区における児童教育の一環として隣保館で開始された。実施にあたり、専任主事が各隣保館に配置され、放課後の児童の学習生活全般にわたる指導を行ってきた。また、子ども会に通ってくる児童・生徒の様子から家庭問題の端緒をいち早く捉え、家庭養育環境の改善に介入することも少なくないことから、生活困難世帯における児童養護を行うことも多い。次に地域就労支援については、2006年より15歳から34歳までの若年層を対象とした就労ナビゲート計画が実施され、2007年よりNPO法人に業務委託して地域就労支援が行われている。NPO法人では就労相談員を1名配置し、窓口対応だけでなくアウトリーチ型の就労相談によって、個別の就労ニーズ、世帯状況、本人のスキルなどを総合的に判断し就労機会の紹介を行っている。また、相談者のケース記録を蓄積しているため、就労相談員は相談者の日常的な生活実態を把握し、就労相談を通した生活全般の見守り、問題解決の支援にもつながっている。地域福祉啓発推進相談事業は、相談業務は窓口対応型ではなく、相談員が高齢者世帯を個別に訪問し、ニーズを拾い上げサービスを届けるデリバリー型の相談業務であるが特徴的である。これらの相談業務は、困窮している独居高齢者が公的な福祉、社会保障へのアクセスすることを容易にしただけでなく、受益者としての負担の義務も啓発する役割も担っている。<BR> R市の福祉実践にみる複雑化した困窮者のニーズを発掘し、人的資源によりネットワーク化されたローカルな調整機能によって問題解決する「見える化」システムは、これからの新たな地域福祉を再構築する上でひとつの手がかりを示すものである。さらに、「見える化」は、地域の不可視化された問題を掘り起こすだけでなく、人的ネットワークによる地域の課題の共通認識を深め、「支えあい」や「つながり」の再構築を促がす装置としても注目すべき福祉実践のシステムであるといえよう。
著者
木村 辰男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.15, no.3, pp.269-291, 1963
被引用文献数
1

(1) 等運賃線は,運賃の地域的構造を示す一つの有効な方法である。そしてその構造は場所によって非常に変化し,かならずしも模式的な同心円にはならない。(2) 鉄道車扱貨物運賃の複雑な構造は,わが国の鉄道で現在行なわれているさまざまの制度や,大都市・地形による路線の迂回に基づくものであり,とくに前者の制度的な要因は重要な意味をもっている。(3) トラック貨物運賃の構造は比較的同心円状を示すが,山地では迂回も多くなり,運賃構造もいくぶん不規則になる。鉄道のような制度的要因に左右されることはほとんどなく,主に地形による道路網分布の疎密に左右される。しかし全般的に鉄道に比べれば規則的である。(4) 末端運送の諸掛りを考慮に入れた鉄道運賃とトラック運賃の構造をつき合わせることによって,両交通機関の運賃競争力の分界線が得られる。これは貨物の種類によって変動し,また都鄙の度合いによって差異のみられる鉄道諸掛りや,トラック運賃のダンピングの程度によっても変化する。(5) この分界線は種々の地理的意味をもっており,鉄道・トラックの運賃構造の結節地域を画定する。また,これは交通機関選択の重要な基準になり,両交通機関の競合・補完の問題を中心にして,交通地理における運賃のダイナミックな一つの側面を示しているものといえる。(6) しかし現実における交通機関の選択に際しては,運賃ばかりでなく運送速度その他の運送のサービスの質的な面についての諸考慮もあわせて行なわれる。運賃を当面の課題として取り上げた関係で,本稿ではこれらの問題を一応見すごすことにするが,個々の貨物の動きと運賃その他の運送のサービスなどとの関連については,今後の考察にゆずりたい。(7) 本稿では車扱運賃だけを対象にしたが,近時における路線トラック事業の進展は,むしろ小口扱においての鉄道・トラックの競合関係が強くみられるから,小口扱貨物運賃の検討も必要である。(8) 最近は経営合理化の観点から,鉄道貨物取扱駅の大幅の整理と,それに伴う貨物集約輸送体系の新しい組織化が進行しつつあり,これに伴って運賃構造にも大きな変化がもたらされようとしている。これについては,貨物運賃構造の図示法の問題とも関連して,今後の検討がなお必要である。
著者
西原 純
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.42, 2009 (Released:2009-12-16)

行政分野 今次の平成の大合併によって誕生した超広域自治体で、政令指定都市制度を採用した自治体について、浜松市を事例として合併後の行政の実情を明らかにすることを目的とした。 浜松市は、2005年に周辺11市町村を編入合併し、2007年に政令指定都市となったが、合併後の行政の実情・評価を、旧12市町村連合自治会長らへのインタビュー調査、旧浜松市・旧天竜市・旧水窪町の住民へのアンケート調査によって把握した。 自治会長へのインタビュー調査・住民アンケートによって、編入市町村ほど合併に不満が強く、窓口サービスの低下が顕著であった。さらに、新市や区についての帰属意識もまだ醸成されておらず、一つの自治体として機能するためにはかなりの時間が必要である。
著者
橋田 光太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.23-23, 2010

分野:観光地理学・都市地理学発表概要:2009年人文地理学会大会で発表した内容の継続的研究で, 門司港「レトロ」地区の観光地の形成過程を整理し, 現在進んでいるまちづくりを観光地化の視点から報告する。 特に, 第3期事業の長期プランである「門司港レトロ観光街づくりプラン」, 全国初の観光専用鉄道として「レトロ」地区で運行を始めたトロッコ列車 「潮風号」, 旧料亭「三宜楼」を巡る市民運動, 栄町銀天街で展開されている商店街の活性化 の動向などを中心に報告する。
著者
中村 周作
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.37, no.4, pp.310-331, 1985
被引用文献数
2 3

Itinerant peddling has played an important role in the retailing of seafood predating shop-selling in Japan. The origins of peddling forms we find today go back to the early Meiji Period (the late 19th century). In this period, the goods dealt with by peddlers were salt, fish and shellfish, which included fresh, salted and dried varieties. The author has classified the retail forms from the viewpoint of the relationships in the goods, the place of purchase, and markets:I: salt-peddling.II: peddling of fresh fish and shellfish, II-a: from the suburban fishing villages to urban region, II-b: from the fishing villages located in the region which distibutes the salted and dried fish to urban region, to the neighbouring farming villages, II-c: from the remote fishing villages to their neighbouring farming villages, II-d: activity within the urban region.III: the peddling of salted and dried fish (from the remote fishing villages to the broader hinterlands).Since modern times, however, such trade forms of peddling have been largely transformed along with the changing socio-economic circumstances. For instance, first the salt-peddling disappeared through the enforcement of the salt monopoly-system. Also, the peddling areas of fresh fish expanded and the remote fishing villages were included in the distribution-networks of the cities with the development of transportation facilities.The aim of this paper is to consider the spatial pattern of such behaviour, because some past studies on peddling in Japan have been lacking in this viewpoint. For this purpose, the writer first tried to make clear the distribution and distinctions of the peddling forms all over Japan and next investigated in detail the distribution and behavioural patterns of peddling in the San'in District, Western Japan.The results are as follows:1. The peddling forms according to how the goods are carried are classified as follows; a), carrying poles with hanging bamboo baskets ("Ninaiuri"), b), bamboo baskets carried on the head ("Kaberi" or "Itadaki"), c), handcarts, d), bicycles, e), motorcycles, f), automobiles.But a) and b) disappeared about 1960; c) and d) have been used since about 1960; e) and f) since about 1965.2. The number of peddlers who can be observed today is estimated to be roughly 37, 600 persons. Among them, the number using automobiles is about 15, 500 persons.3. The peddlers, except for those using automobiles mostly distribute to the markets located at the place of seafood production and the fishing villages in the metropolitan suburbs. On the other hand, the automobile-using peddlers are mainly working in the inland and isolated regions. Furthermore, in the San'in District, the latter spread remarkably from seashore inland.4. The motives for forming a peddling group are to purchase the goods in the same place, or to use the same transportation facilities.5. Finally, the behavioural patterns of peddling are classified as follows according to the distinctions among peddling forms and purchase-place:I: peddling in the place of production, II: paddlinng in the place of consumption, A: peddling without automobiles, B: peddling with automobiles.Therefore, these combinations make four types; I-A, I-B, II-A and II-B. In the San'in District, with respect to the age structure of peddling groups, in general, A) consists mainly of an old-aged class and B) of a middle-aged class. Concerning the sex of the peddlers, females predominate in I-A. On the other hand, the number of males increases more in proportion as the types tend towards I-B, II-A and II-B. These groupings can be further divided into twelve behavioural patterns.I hope that such results gained from this case study can be applied to more general issues.
著者
野中 健一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.276-290, 1989
被引用文献数
1 2

The purpose of this paper is to investigate how people obtain and eat Vespula sp., a kind of wasp, and how such habits are distributed in Japan. A general survey based on the literature and quastionnaires given to authorities was conducted for each part of Japan, and field work was conducted by interviewing in Central Japan, where examples of this habit can be seen. Among several kinds of wasps which are eaten in Japan, especially immature Vespula have been eaten cooked in various ways. This is because people feel it more tasty than any other wasp, and they can find the nests easily, catch them without any danger and obtain large numbers of the immature wasps from one nest. This haibit is not spread all over Japan but concentrated particularly in some parts of Central Japan.The results of the survey in Central Japan are as follows: there are six kinds of foods made of Vespula, that is, raw Vespula, roasted Vespula, boiled Vespula, mixed rice maze-gohan with Vespula, sushi with Vespula and, a kind of rice cake with soy bean sauce (gohei-mochi) containing Vespula. These recipes are listed here according to increasing complexity in cooking process. People eat these foods 1) occasionally, 2) daily, or 3) daily and on special occasions. In the area where the usage of Type 1) is found, Vespula is usually roasted and eaten only occasionally. In the area of Type 2) boiled Vespula in soy sauce is eaten as a daily food and even stored in many places. It is used as a side dish for daily meals or relish for drinking. Moreover in the area of type 3) boiled Vespula can be used on special occasions such as festivals and parties. The foods which need a longer cooking process tend to be used on special occasions. The usage of type 3) is seen in eastern Mino Province (Gifu Pref.) and its surrounding regions.People obtain Vespula by hunting or purchasing. Methods of hunting are classified into four types according to ways of discovering the nests. They are: (1) discovery by chance, (2) discovery by simply running after Vespula, (3) discovery by making Vespula hold a mark and running after it, and (4) breeding after finding the nest. An assorted mix of hunting (2), (3) and (4) is adopted in eastern and southern parts of Sinano Province (Nagano Pref.) and eastern Mino Province as well as mountainous areas in Mikawa and Owari Provinces (Aichi Pref.). People who want to eat Vespula may also purchase canned Vespula or their nests with immature wasps. The former are sold as souvenirs in some cities of Shinano Province, and the latter are mainly used as raw materials for cooking in eastern Mino Province. These are regions where active hunting is also popular.Generally speaking, the intensiveness of eating and that of hunting are closely related. That is, the more positively Vespula is eaten, the more actively hunting is conducted. The kind of foods (Figure 3), their uses (Figure 4), and the hunting methods (Figure 5), show similar areal distribution. These neighbouring three regions, that is, eastern Mino, the southernmost part of Shinano and the mountainous area of Mikawa, form the core with the highest intensity. The custom becomes less pervasive in regions that are located farther from the core. This shows a kind of cultural circle with a concentric structure. This is also the core area of Vespula eating in Japan.