著者
麻生 将
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15-15, 2006

新聞をはじめとするマス・メディアがある特定の空間スケールをもって報道をし、その結果様々な社会的・地理的現象が生じるという事例は、近代社会におけるひとつの特徴とも言える。そして近代の、宗教集団と地域社会との諸関係の中で生じる諸現象においてもマス・メディア、特に地域メディアが一定の役割を果たしている事例が少なからず見られる。 こうしたことを踏まえ、本研究は1930年代に起こった美濃ミッション事件という一宗教集団と地域社会との間に生じた事件の中で、美濃ミッションをめぐる様々な言説がせめぎ合う状況、すなわち美濃ミッションをめぐる言説空間の生成に地域メディアがどのような役割を果たしたのかを考察することを目的とする。そして美濃ミッションに対する空間的排除の論理の正当化に地域メディアがどのような役割を果たしたかを考察することを目的とする。 美濃ミッションとは、アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナー(以下、ワイドナーと呼ぶ)によって1918年に大垣市郭町に設立されたプロテスタントの教団である。ワイドナーは大垣市を中心とする西美濃に教会を設立し、布教活動を展開した。その中で大垣市の美濃ミッション本部での幼稚園経営の他、在日朝鮮人や寡婦、母子家庭の親子、孤児、紡績工場の女性労働者らを積極的に保護し、布教を行った。こうした社会的に排除される傾向、要素を相対的に多く持つ人々、集団と積極的に関わりを持つことで次第に美濃ミッションという教会が周囲から「異質な」存在と見なされるようになっていったと考えられる。それは美濃ミッション事件における周辺住民や様々な社会集団の行動からそのように分析されるが、詳細は別稿に譲る。 次に美濃ミッション事件について概要を述べる。1933年6月、大垣市の市立小学校に通う美濃ミッション所属の児童らが、修学旅行の恒例行事であった伊勢神宮への参拝を信仰上の理由で拒否し、修学旅行への不参加を申し出た。これに対し学校側は児童とその母親、そしてワイドナーに対して神社参拝についての「教育的指導」を行った。しかし彼らは信仰上の理由で参拝拒否を貫いた。その結果、同年6月下旬から10月まで複数の新聞社がこれを大々的に報道した。大垣市教育委員会は8月、児童らに対して小学校令第38条に基づく性行不良を理由に出席停止、停学の処分を下し、彼らはそれぞれ市外の私立学校に転校した。 この事件において美濃ミッション排撃を主題とする講演会がたびたび開催された。また暴力的な市民が美濃ミッション本部の敷地へ押しかけて罵声を浴びせ、投石を行うなど日常的な暴力行為を行った。そして大垣市内および周辺の各界関係者らは新聞紙上で美濃ミッションへの批判を展開していった。6月から9月にかけて暴徒による美濃ミッションへの焼き討ち計画があり、実行される寸前で警官がこれを止めさせたという。事件そのものは、同年9月に入ってから新聞報道も自然に減少し、次第に終息していった。 今回使用する新聞は1933年6月から10月頃の美濃大正、岐阜日報、朝日、毎日そして読売の各紙である。 報道の焦点は当初、神社参拝を拒否した信者個人に当てられていた。それが6月22日から7月6日の投書記事が連日掲載される前後から、次第に美濃ミッションそのものに報道の焦点が移っていった。ここではいくつかの記事を挙げ、そこに現れている空間スケールを読み解く。 例えば1933年7月18日の大阪朝日新聞岐阜県版と同年8月6日の美濃大正新聞にはそれぞれ「…幼稚園閉館を断行を以て帝国の版図より悪思想を駆逐せんことを期す」「…更に全国的に経過報告をして神社参拝を拒否するような思想を国内から撲滅すると同時に此際愛国的観念を強調することが最も緊要だと思う。」とある。美濃ミッションの児童そして関係者の態度はナショナルなスケールで「異質な」ものであるという報道がなされた。特に後者の記事は岐阜県選出の衆議院議員大野伴睦のインタビューであるが、このような地元出身の有力者の発言がナショナルな文脈の言説と同時にローカルな文脈での親近感や美濃ミッション排撃の信念、確信を市民に与えたと考えられる。そして美濃ミッションをめぐるナショナルスケールの「異質さ」という言説がより強固に生成されていったと考えられる。 他方、大垣市民は身近な存在であった美濃ミッションに対する恐怖や怒りといった言説を抱き、日常的暴力を繰り返していた。そしてこのことは地域メディアでたびたび報道された。 美濃ミッション事件は大垣市でのローカルな事件であったが、美濃ミッションを巡る言説はナショナルな文脈であるとともに身近な存在への恐怖、怒りといった言説であった。こうした異なる文脈の言説を地域メディアが報道することで、美濃ミッションに対する空間的排除の論理が正当化されたのである。
著者
山本 匡毅
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.4-4, 2006

第三セクター鉄道は,地域公共交通の維持・発展を目的として作られた制度である.この第三セクター鉄道という方式は,臨海鉄道などの貨物輸送を除けば,初めに岩手県にある三陸鉄道に導入され,赤字ローカル線の黒字経営を実現した.それによって第三セクター鉄道が評価されこととなった.ところがポストバブル期には第三セクター鉄道の経営に厳しさを増した.その結果,鉄道経営における第三セクター方式への疑問も出されたが,整備新幹線の建設に伴う並行在来線の維持のために第三セクター方式が活用されることとなり,このたび再び見直されることになった.本発表では,長野新幹線の開業によって開業したしなの鉄道を事例としながら並行在来線の第三セクター化を取り上げ,地域社会の持続的発展における影響について考察していくことにする.
著者
阪野 祐介
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.10-10, 2006

_I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。<BR> 1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。<BR> こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。<BR><BR>_II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。<BR> 公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。<BR><BR>_III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。<BR> ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。<BR><BR>_IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
著者
三原 昌巳
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.21-21, 2010

「予防医学の時代」に健康増進や疾病予防を目的にした旅行(ヘルスツーリズム・医療ツーリズム)に関心が集まっている。その一つである、ここ数年で急成長した検診ツアーは、医療施設(主に病院)・旅行会社・宿泊施設(旅館やホテル)が提携することによって積極的な広報活動を行い、顧客を呼び込もうとする新しい試みである。このような動きは地理学的な観点からみると、患者の居住する地域つまり受療圏が非常に広範囲であることに加え、都市部の患者が地方へ受診に向かうという行動は従来の受療行動からすれば一般的ではないといえる。これまでの地理学では居住地と医療施設間の物理的移動に着目しながら地域医療における患者のアクセシビリティについて検討がなされてきたが、患者にとって地理的障壁はもはや存立しないのだろうか。予防医学の推進によって、医療施設までの距離や移動時間といった地理的要素は重要視されなくなったのか。こうした問題意識を踏まえ、本発表では福島県郡山市内の医療施設で実施されているPET(ペット)検診ツアーを事例にし、PET検診ツアー成立までの過程、検診ツアー参加者の特徴を述べると同時にその地理的特性を明らかにしたい。具体的な調査方法としては、現地調査を2010年6月~8月にかけて実施した。クリニック、受入れ旅館・観光協会、旅行会社3社などを対象に聞取り調査や資料収集を行った。PETは、ポジトロン・エミッション・トモグラフィー(Positron Emission Tomography/陽電子放射断層撮影装置)の略語で、日本人の3大死因のトップを占めるがんの早期発見の切り札として、近年注目される検査方法の一つである。しかし、1台数億円と言われる高額なPET(またはPET-CT)機器に加え、検査薬の製造室や空調設備までを兼備しようとすると、大規模な医療施設でさえPETの導入はしづらいものであった。このため当初は全国的にもPETを導入する医療施設はわずかで、とくに人口の多い都市部において受診予約がとりにくい状況が続いていた。検診ツアーは、このような状況を察知した旅行会社によって企画された。廉価なツアー価格設定が可能な飛行機での移動が専らで、名古屋、羽田、大阪などの空港から出発し、目的地は北海道、九州・沖縄などであった。20万円前後の価格にもかかわらず、異例のヒット商品となったと言われる。しかし2006年以降、人気は下火になり、PETを導入した医療施設には倒産する所もみられた。郡山市内の対象クリニックでは、2004年4月からPET(PET-CTを含む)を導入し、保険適用診療と自由診療のがん検査を開始した。クリニック開設以来、PET検診の周知のため、県内外各地での市民公開講座による住民向けの啓蒙活動と、PET講習会による医療提供者側への普及活動を継続的に実施している。同時に、2005年から同県二本松市岳温泉の旅館・首都圏各地の旅行会社と提携し、検診パックツアーを提供している。岳温泉は、「湯治場」の歴史を持ち温泉地として繁栄してきたが、バブル崩壊後の宿泊客減少に歯止めがかからず2004年ごろから健康保養型温泉地への転換を図った。起伏に富む安達太良山系の自然環境を活かし、主に50代以上の中高年層を対象にしたヘルスツーリズムの取組みによって地域づくりを実施している。検診ツアー受入れ旅館では、地域のこのような取組みもツアー参加者に提供しており、旅行の付加価値を高めている。申込み窓口である旅行会社は首都圏を中心に数社あり、各顧客層に応じて商品の告知と勧誘を行っている。対象クリニックではPET検診ブームが終焉した後も自由診療による患者が多く来院しており、PET機器は高い稼働率を維持している。このうち、検診ツアー参加者をみると、東京・群馬を中心に埼玉・千葉・神奈川など首都圏に居住する50~70代が多いことが分かった。検診ツアー普及初期は遠方の医療施設も選択されたが、PET導入の医療施設が増加するに従って都市部でも受診しやすくなり、交通至便な医療施設が選択されるようになった。一方、郡山市は県内で交通の要所、また首都圏からのアクセスの良さを背景に、検診時・宿泊旅館での付加サービスや検診後のケアを充実させ顧客の定着を図った。検診後のケアでは、何らかの異常が発見された場合には再検査や治療などの再診を、異常が発見されなかった場合でも健康管理のために定期的な検診を行う。このため、旅行商品として売り出されたものの、継続的な通院を必然的に伴う医療サービスの特質ゆえ居住地近郊の医療施設での受診が選択されやすいことが分かった。
著者
李 小妹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.501-501, 2008

本研究は,中国・シンセンにある「錦繍中華」,「中国民俗文化村」と「世界之窓」という三つのテーマパークにおいて,新しい都市空間がいかなる過程で作りあげられているのかについて考察する。これらのテーマパークは,中国国内で初めて作られた同類の観光施設として,中国の文化観光開発事業をリードし,経済開発の産物と見本であると同時に政治文化の発信地でもある。テーマパークがもつこのような経済的,政治文化的特性は,シンセンの都市空間のそれを反映している。そのうえ,市場経済化とグローバル化の中で成長したシンセンは,グローバル時代における中国都市の都市空間の変容と,都市空間を生きる人々とのかかわりのダイナミックな変容実態を,他のどの都市よりも先見的に,よりよく反映している。本研究において,これらのテーマパークの建設経緯,展示内容および展示手法について検討し,「見せ物の場所」と「生きられる空間」といった二つの視座から,開発側である中国政府と華僑資本家および「ユーザー」である観光客や少数民族の若い労働者による「空間の生産」がいかなるものかを明らかにした。 まず,「見せ物の場所」としてこれらのテーマパークは,中国および世界の歴史文化といった大きなテーマの下で,「社会主義的国民国家」と「市場経済の発展ぶりおよび生活の向上」を見せ,経済発展を正当化する手段であると同時に,愛国主義教育といったような政治宣伝の場でもある。 また,アンリ・ルフェーブルの「表象の空間」とエドワード・ソジャの「第三空間」の概念を用いて,これらのテーマパークが「見せ物の場所」であると同時に「生きられる空間」でもあると確認した。具体的に三つの場面を挙げながら論じる。場面_丸1_:「錦繍中華」において,観光客であるシンセン住民がテーマパークを自らの所有物でもあるように他の町から来た観光客に紹介する時の,彼らの表情や振る舞い型や使った言葉と話す口調から,彼らがこの空間に付与された意味を自分たちの住民としてのシンセン・アイデンティティとも言うべき主体性の発揮が見られる;場面_丸2_:「中国民俗文化村」に百人以上の少数民族の若者が働いている。彼らはテーマパークのすぐ近くにある社員寮に住み,テーマパークを中心に生活している。テーマパークの中での活動と言えば,観客にパフォーマンスしたり民族文化を紹介したりするような労働だけでなく,売店やレストランで自ら消費者になって見せる身から見る身に変身するのである。こうした「生産」と「消費」の間に移行する身体は,見せ物の場所を生きられる空間へと変えている。場面_丸3_:「世界之窓」で80歳の闇ガイドに出会った。彼は「75歳以上の老人が入場無料」という規則で毎日テーマパークに来ている。目的は観光ではなく,観光客にテーマパークを案内することで案内費を稼いでいるのだ。彼のようなテーマパークに雇われていないガイドをここにおいて「闇ガイド」と名付け,彼らによって「世界之窓」という空間が一種の抵抗空間として生産されている。つまり,シンセンのテーマパークは,観光客や少数民族の若者や闇ガイドのおじいさんのような住民や「ユーザー」の空間であって,彼らの諸活動によって抵抗の空間,または「生きられる空間」に練り上げられている。 国民国家のアイデンティティと民族文化は,常に変化しており,確立される必要性に迫られている。従って,それらが空間と時間の枠組みのなかで再生産され,再確認されるプロセスは,わたしたちの周りに絶えず展開されている。万里の長城が5000年の中国歴史文化を象徴するように,シンセンは経済発展がもたらした現代性を象徴する。シンセンの都市空間は,いわばひとつのテーマパークのような存在であって,そのテーマというのが,「グローバル化」であり,中国の改革開放の成功(「社会主義体制」と「市場経済様式」との接合)である。中国が社会主義の政治体制と資本の自由化との間に,その矛盾と戦いながら自らの発展の道を探りつつあると同様に,中国の人びとは,矛盾に満ちた都市に放り出された身をもって,都市を自分たちの需要に合わせながら作り変えている。こうした表象され,実践され生きられる空間には経済発展に巻き込まれている社会的諸主体間の関係性が生き生きと作られ,また現されてもいる。わたしたちが今日及び近未来の中国の都市空間と中国社会を理解するのに,こうした関係性としての空間を第三空間的想像力で考察することはきわめて有意義であろう。
著者
水内 俊雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.34, no.5, pp.385-409, 1982
被引用文献数
2 5

The object of this paper is to clarify how the residential areas in large Japanese city, Osaka, developed their own distinctive characteristics in the course of industrialisation. The study covers the modern period from the Meiji Restoration (1860's) to the beginning of the Showa Era (late 1920's to 1930's). The built-up area in this period exactly corresponds to the present-day inner city area. This paper also examines how and why the problems relating to the present inner city such as economic decline, physical decay and social disadvantage appeared in the industrialisation process since the Meiji Era. The author holds the following viewpoints: First, most of the emerging factory workers are assumed to be members of lower class society. Secondly, the poorer areas, which later became the inner city area, were created through the inflows of above mentioned factory workers in the course of industrialisation. Therefore the formation of lower class residential areas provides the key factor for the study of inner city problems in Osaka. Study of the labor market are used in clarifying social and living conditions of factory workers in the course of industrialisation. So the author deals with the changing process of labor markets as the analytical tool and focuses on the level of laborers' daily lives. The inadequacies of the existing Anglo-Saxon models to the areal structure of the Japanese city are pointed out, since the Japanese urban residential expansion can only be understood by taking into consideration the peculiar characteristics of the Japanese modernisation process.The results obtained are as follows: The expansion of residential areas up to the beginning of World War I characterised mainly by the outward extension of the lower class residential areas that included most of the laborers working in the cotton textile industries, heavy industry and the miscellaneous industries. The labor markets in each industry were organised differently in this development. These laborers, however, all belonged to the essentially the same class, with no appreciable income or living standard differences among industries. The organisation of residential structure consistently reflected the periphery-lower class structure proposed by Sjoberg. After World War I, the following two new factors emerged: The first is the rapid increase of white collar office workers. The second is that of a growing distinction in standard of living as well as income among members of the former lower class society, i.e., between large heavy industry workers and other factory workers. These new two factors contributed to the transformation of residential structure independently of the existing structure. The most important development was the creation of new residential areas. In this stage three types of residential area were clearly observed. The first and dominant were lower class residential areas which surrounded the city center and extended outward, building up sparse areas among some flophouse districts even at this time. This area was also characterised by the progress of the slum clearance, appearance of Korean residential districts and real advent of social policies. The second type of residential area was that of the better-off factory workers, which was formed adjacent to the factories' sites. However, this type of residential area was distributed sporadically within the first type of residential area. Between them, there were found no appreciable distinctions of housing and living conditions. The third type was white collar office workers' residential areas, which were created beyond the lower class ones and restricted to the upland lying to the south-east of Osaka City. These areas were created independently of periphery-lower class structure, which had been the most dominant or sole areal differentiation up to this time.
著者
長島 雄毅
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2012年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.34-35, 2012 (Released:2013-12-17)

本報告は、近世京都商家が雇用する奉公人の性格を、奉公人請状を使用して、性別・出身地・身分などの点から検討していくものである。
著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.14-14, 2011

I はじめに 本研究では、沖縄県北部の名護市辺野古区への移設が計画されている普天間飛行場代替施設の建設問題と沖縄県国頭郡東村高江のヘリパッド移設問題をめぐる環境運動を取り上げる。これまでの沖縄における基地移設問題は、日本とアメリカが形成する安保体制に基づく、そして時には安保を越えた米国主導の世界国際システムを維持するための要としての米軍基地の存続が、沖縄に厳しくのしかかってきた。そのため、政治学や国際関係論の議論が必要不可欠であった。他方で、基地収入などによる外部依存経済体制の沖縄の地域構造を、沖縄の自治や内発的な発展の模索を目指した研究がおこなわれてきた。 しかしながら、基地問題を含めた沖縄の環境問題研究については、多くの場合、保護・保全という側面ばかりが強調されてきた。それは、沖縄の豊かな環境や生物多様性が乱開発や基地建設に脅かされることで、「現場」における緊急な保護・保全の対応が求められたからである。言い換えれば、市民が「現場」での対応に追われたことで、環境と地域住民のローカルな関係性が評価されることは少なく、グローバルで普遍的な価値を見出す視点が重要視されてきた。 そこで、本研究では、辺野古と高江の座り込み運動を事例とし、空間スケールの視点から分析を行うことで、運動の展開過程とそれらの環境運動がそれぞれの地域とどのような関係性を持っているかを明らかにすることを目的とする。II 辺野古をめぐる反対運動の展開 1996年の「沖縄に関する特別行動委員会」の最終報告で宜野湾市の普天間飛行場の全面返還が発表されたことで、辺野古沖への移設問題に対する反対運動が展開されることとなる。翌97年1月には、辺野古区民を中心に27名が参加して、「ヘリポート建設阻止協議会」が結成され、この協議会は後に、通称「命を守る会」としての役割を担うこととなる。それ以降、地元集落だけではなく、名護市民の動きが急速に活発化し、4月には「ヘリポート基地を許さないみんなの会」、5月には「ヘリポートはいらない名護市民の会」が結成され、市民投票推進協議会結成への足がかりとなる。 1997年12月21日の市民投票結果は、条件付き反対を含めて過半数が反対、無条件反対のみで過半数を占めた。反対派の市民グループとしては、「命を守る会」の他に、旧久志村北部の「二見以北十区の会」、名護市西部とくに市街地女性を中心とした「ヤルキーズ」(命どう宝ウーマンパワーズ)、名護市東部を中心に活動した「ジャンヌの会」などが中心となって活動を行った。中でも「ジャンヌの会」の呼びかけで沖縄をつなぐ全国的なネットワークが形成され、5月8日から10日に、東京大行動を行った。県内20団体、124人の沖縄女性が参加した。市民投票の1年後には、「新たな基地はいらないやんばる女性ネット」が形成された。 2000年以降になると、ジュゴン保護関係団体や世界自然保護基金日本委員会(WWFジャパン)などによる自然保護運動が沖縄の反基地運動・平和運動において無視できない大きなうねりを生み出した。III 高江をめぐる反対運動の展開 沖縄本島北部の山や森林など自然が多く残っている地域は、やんばると呼ばれ、東村高江はそのやんばるの中に存在する。人口は150名、そのうち中学生以下が約2割を占めている。先述の1997年のSACO合意により、北部訓練場の約半分を返還する条件として、返還される国頭村に存在するヘリパッドを、東村高江へ移設することが計画されている。現在でも東村には15か所のヘリパッドが存在しており、そこへ新たに6か所のヘリパッドの建設が予定されている。 高江の住民は2006年にヘリパッド反対の決議を行い、計画の見直しを要請してきた。2007年7月2日、防衛局は工事を着工したことで、その日から高江住民は座り込みによる工事阻止行動を続けている。2007年8月24日に、「ヘリパッドはいらない住民の会」が設立されているが、高江集落の規模から考えてみても、その中心となっている住民はわずか数世帯である。しかも、2008年11月、国は座り込みが工事の妨げになっているとして、住民ら15名に対し、通行妨害禁止の仮処分を那覇地裁に申し立てるなど、座り込みを維持するためには、支援団体によるサポートが不可欠である。その中心を担っているのは、奥間川流域保護基金のメンバーを中心とした沖縄・生物多様性市民ネットワーク、沖縄平和運動センターなどが、現地での座り込みのサポートを行ったり、防衛局への異議申し立てなどを行っている。 報告では、辺野古・高江をめぐる座り込み運動の空間スケールおよび、運動主体の関係性について比較をおこなうことで、現在運動の置かれている状況の分析をおこない、運動が抱えている課題について検討していく。
著者
平野 昌繁
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.35, no.5, pp.454-464, 1983

The variation principle is a concept for investigating the spatial pattern of any path on a given curved surface. From this point of view, properties of the Mt. Fuji climbing route are discussed, based on morphometric data. The route goes straight towards the summit on the gentle slope at the foot of the mountain, and shows a zigzag pattern on the steep slope near the summit.The variation principle maintains that the route can be a stationary one which minimizes some quantity. The straight portion of the route near the foot is the geodesic on a conical mountain, which gives the shortest distance to the summit. In order to explain the zigzag pattern near the summit, however, the amount of energy required to climb the mountain has to be taken into account. From this point of view, two types of models, namely, the excess energy model and the total energy model are possible, among which the latter seems better.If the latter model is employed, it is reasonable to assume that the energy required is proportional to the reciprocal of the power function of cosine of the slope. The exponent of the power function here is approximately 12. The zigzag route in this case has been designed so that the route needs 1.6 times as much energy as on a flat surface. The portion of the climbing route higher than 3200m in elevation is less steep, and this may correspond to the lower oxygen content above this level.
著者
瀬川 真平
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.47, no.3, pp.215-236, 1995
被引用文献数
7 3 8

Buildings are moulded by and reflect order, social relations and ideas. However, how people build not only results from but also exerts influences upon how they think: order, social relations and ideas find expressions in actual buildings.As a message any building has to be decoded by those who use or observe it. But while it is composed of a multiplicity of signs, it also invites a plurality of readings and meanings. It must thus be considered on the basis of whose beliefs or whose view of the world a particular reading and meaning circulated in society is made up.The powerful in society often bring up unintentionaly as well as deliberately a certain reading and meaning of a building. Rather, the dominant are those who manage to present them that may be taken in as unquestioned and thus "natural". Buildings are major arenas where reading and meaning publicly unfold.The material of my discussion is the Taman Mini Indonesia Indah (Beautiful Indonesia in Miniature Park), popularly known as Taman Mini, located in a suburb of Jakarta, the capital city of Indonesia. It is both a recreation park and a cultural theme park containing examples of traditional architecture, museums, religious buildings, movie theaters, gardens, and other cultural and historical exhibitions and facilities alike. It is designed to provide visitors with an overall insight into Indonesia's people, arts, social customs, history and living environment.My purpose is to reveal the use of the Taman Mini by investigating its design, location and way of representing, considering the socio-political setting of which it is a part. Both in the selectivity of its content and in the signs and style of representation the Taman Mini works to support the order favorable to those who have built it.In November, 1971, when the government was shifting to pro-capitalistic development policies, the President's wife first announced an idea to build a museum-park complex aiming at making Indonesia known to international tourists and raising national consciousness. A few years before, the republic saw the most crucial time in its post-colonial history. Late on the evening of 30 September 1965, army units launched a limited coup in Jakarta ostensibly to remove a group of generals said to be plotting against the then (and first) president. They killed six leading generals, the corpses of whom were later discovered in a well near the present site of the Taman Mini. The coup was crushed in twenty-four hours by special forces commanded by Major General Suharto. These events laid basis for a gradual seizure of power by him and the installation of the so-called New Order.Mrs Suharto's idea immediately came under attack by intellectuals and students, for being for her prestige and a waste of domestic funds, and for the compulsory clearing of small-holder farmlands at the site at a low rate of compensation. She insisted on fighting for her project and declared it was of service to the people to deepen their love for the fatherland. At last the President uttered a statement affirming his full back-up to his wife's project. Construction of the vast park began in 1972, and the opening by the President occurred on April 20, 1975.Some facilities and exhibitions of the Taman Mini are precise replicas with more perfection than their originals. Others are drained from immediate functions and actual life by being replanted regardless of the backgrounds on which they should be. They are all signs of"Indonesian-ness", and the Park serves as a sketch map showing in public space how Indonesia is organized.The Taman Mini conveys a set of values. The juxtaposition of provincial architectures, houses of worship, folk ways of life, handicrafts, and performing arts visualize the cultural diversity and relativism of Indonesian society.
著者
中西 雄二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.56, no.6, pp.649-665, 2004
被引用文献数
2 1

More than two million Russian refugees resulted from the Russian Revolution in 1917. These refugees were termed "White Russians" ("Hakkei-Roshiajin" in Japanese) and did not accept the Soviet regime. For this reason, they escaped from their motherland and spread to many countries similar to a diaspora.The purpose of this paper is to discuss the way of life and the functions of White Russian society who chose Kobe, a former central city of White Russians living in Japan, as their domicile. This study is based on documents from the Diplomatic Record Office of the Japanese Ministry of Foreign Affairs and oral data gained through fact-finding visits and interviews in the area.Most White Russians in Japan lived in Tokyo and Yokohama before the Great Kanto Earthquake in 1923. However, a large number of them migrated from the Tokyo area to Kobe, which provided shelter from the disaster. Thereafter, Kobe became one of the central settlements of White Russians in Japan, along with the Tokyo metropolitan area. In those days, many White Russians, more than 400 people at its highest point, settled in Kobe, particularly in the former Fukiai and Ikuta wards.The term "White Russians" refers to all people from the territory of the Russian Empire, including Christians, Jews, and Muslim Tatars. Therefore, White Russians are a group that is diverse in terms of culture, ethnicity and religion. Consequently, their organizations were based on their religious affiliations in Kobe.In the period after 1925, White Russians were categorized as stateless in Japan. They had the right to obtain a "Nansen Passport", issued by the League of Nations as identification cards, but their status was very uncertain. Moreover, many White Russians were peddlers and frequently travelled around. As a result, the Japanese authorities watched them closely as they were suspicious that White Russians were spies sent from foreign countries, especially from the Soviet Union. In fact, some White Russians were expelled from Japan in the 1920s. However, in the 1930s, chauvinistic nationalism arose among White Russians themselves, and some of them even provided donations to the Japanese government and army. This indicates that the White Russian society was subsumed within Japanese society in those days. In addition, there was some conflict over the attitude toward the Soviet Union in White Russian society.After W. W. II, the number of White Russians in Japan suddenly decreased. This is because many people went abroad in order to avoid chaos after the war. In Kobe, there was also a rapid decrease in the population of White Russians, and their organizations gradually declined and eventually dissolved. Today, only "The Kobe Eastern Orthodox Church Assumption of the Blessed Virgin", "The Kobe Muslim Mosque", and "The Kobe Foreign Cemetery" remain in Kobe as remnants of former White Russian society.These cases illustrate the disappearance of the ethnicity of White Russians in Kobe. There is a tendency for refugees to remigrate or for their families to disperse. Many White Russians were no exception, and this tendency is one of the reasons why White Russians disappeared from Kobe. In addition, the negative attitude of the Japanese state towards the inflow and settlement of foreigners is one of the major factors explaining their disappearance.
著者
柴田 陽一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-19, 2006
被引用文献数
1

The purpose of this paper is to examine the ideological establishment of the geopolitics of Saneshige Komaki (1898-1990), who was a Professor of Geography at Kyoto Imperial University, and a well-known advocate of "Japanese Geopolitics" during World War 2, and accordingly a remarkable figure in the history of Japanese geography. Approaching this subject biobibliographically, I focus on the personal background of Komaki. Using his own bibliography, and through an analysis of his written works, I trace the development of his thought. To begin with, I demonstrate the ideological background of Komaki's geopolitics. Komaki had a great antipathy toward Western imperialism. In addition, immigration issues closely related to racial discrimination were his great concern. He held the view that geography in those days had lost its social relevance, and that the nature and culture of each land should be maintained under an indigenous order. Next, I examine the ideological composition of Komaki's geopolitics. His geopolitics began before the outbreak of the Sino-Japanese War in July 1937. He asserted that "Japanese Geopolitics" was indigenous and one which attaches importance to the autonomy of Japan, after he had criticized the history of Western exploration, conventional geography, and Geopolitik. His geopolitics tried to clarify what was destroyed by Western colonization and had an historico-geographical and irrational character. Lastly, I point out some of the positive and negative aspects of his geopolitics. The social relevance of geography, his criticism of Western colonialism and the issue of positionality in research can be seen the light of Japan at that time. On the other hand, the lack of an attitude to relativize Japan and the subjective/intuitive judgement in the reasoning process were negative aspects. However, the positive and negative are not clearly divided. "Japanese Geopolitics" has suggested important issues in connection with the political nature and the social relevance of geography and geographical knowledge, although it served to justify the aggressive wars of the Japanese Empire.
著者
佐野 静代
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.352-374, 1999

The purpose of this paper is to clarify the actual situation of land reclamation caused by the local landlord in Medieval Japan, focusing on the relationship between his residence and the evolution of irrigation systems. This paper lends weight to studies of village landscapes in Medieval Japan, consisting of settlement, landlord's residence, irrigation canals and paddy fields. It seems reasonable to suppose that the social structure of the seigneurial regime is reflected in the spatial structure of Medieval landscapes.Considering irrigation systems from a spatial point of view, the author demonstrates that the location of the landlord's residence is closely related to the structure of paddy field irrigation in the Medieval Period. It followed that the local landlord constructed irrigation systems, and reclaimed waste land such as terrace surfaces and alluvial fans. Particularly in the early Medieval Period, the local landlord was concerned with the formation of the manorial system, being in complete control of Kannou-with rights being mainly based on water supply.The case study of the Ane River basin made it clear that the local landlord-Kokujin-Ryoushu-strengthened his control over irrigation in the 14th century. It has been generally considered that the developing village community, So-son, was responsible for the construction of irrigation systems and the reorganization of villages in the latter Middle Ages. However, the author demonstrates that the role of the local landlord in such situations was much more important than had been expected since it is obvious that some nucleated settlements were formed under his leadership. The spatial structure of such nucleated settlements reflects the process of Kokujin-Ryoushu expanding his territory by making his branch families invade the villages.The author considers that the purpose of studying landscape is not only to restore the different components of landscape to their original state, but also to clarify the driving forces behind its formation. Therefore, in future, it will be more important to emphasize the formation process of landscape in any historical geographical inquiry.
著者
岡村 光展
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.25, no.3, pp.259-289, 1973

The dispersed settlements in Japan are developed on the Sho-Gawa, the Hii-Gawa and Oi-Gawa fans etc., and they have been investigated by some historical or rural geographers who have presented many arguments. But their origins and development have not been fully clarified. This paper deals with the dispersed settlements on the Oi-Gawa fan, and the purpose of this study is to research the land exploitation on this fan in the Edo era.The results of this research are summarized as follows.1) The dispersed settlements are developed on the fan, but not totally scattered. They take the form of the hamlet or Weiler rather than the isolated farmstead. Most of them occupy the higher places on the fan.2) In the Edo era there were more than 90 floods. The Keicho flood (1604) was the greatest of all. After this disaster, many settlements were newly established or reconstructed. But it was in late medieval times that the cultivation on this fan was set about. At that time there was a manor (Hatsukura-no-sho) between the Oi- and Tochiyama Rivers. According to the cadastre of the Hatsukura-no-sho manor, the arable lands were far smaller and scattered within the extensive unutilized lands. These scattered arable lands are related to the isolated farmsteads. Comparing this cadastre with other materials in the early Edo era, it is found that the exploitation reached its limit at least in the early Edo era and settlement patterns of the early isolated farmstead were transformed into hamlet or Weiler.3) In the other areas, particularly in the districts along the Tochiyama River, the exploitation was delayed a little more than in the districts of Hatsukurano-sho, and it was about the middle of the Edo era that the cultivation reached its limit. The increase of the farmsteads shows this. After this the holdings became more and more fragmented and the landowner system was established. The rural community was organized for flood control.4) The last exploitation on this fan was that of the Kyuichi-shinden (the reclaimed land in the Edo era). It had the character of the chonin-ukeoi-shinden, the capital of which was invested by the merchants in the towns. But the Kyuichi-shinden consisted of independent peasants and was very small.
著者
福本 拓
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.11, 2003 (Released:2003-12-24)

昨今の世界的な移民の急増は,諸外国の,特に非合法な手段による入国者(=「密入国者」)・滞在者に対して,右翼勢力の台頭といった人種主義や移民排斥等の社会問題を顕在化させた。日本でも,いわゆる「ニューカマー」の増加に伴い,同種の事態が見られるようになってきた。しかし日本の場合,「密入国者」を巡る問題は,近年の来日者のみならず,戦前の植民地期から戦後に至る動向の影響を多大に受けている。それゆえ,戦前・戦後を通じた「密入国者」に対する政策・認識の変遷を,政治・経済・社会情勢を踏まえて歴史的な観点から分析する視点は不可欠といえる。 戦前の「密入国者」は,朝鮮の所轄警察署が発行する「渡航証明書」なしの入国者を指す。彼らを管理したのは内務省で,その「密入国者」に対する認識は,国内の失業問題といった経済的問題の悪化を憂慮するものと,治安維持上の問題を懸念するものとに大別される。これに対し,占領期には正規帰還を除く全ての渡航者が「密入国者」とみなされた。この時期の国内の朝鮮人は法的地位が定まっておらず,「密入国者」に関しても,その対応にはかなりの紆余曲折があった。ただし戦前と異なり,「密入国者」を経済的問題と関連させる認識は見られなかった。 この占領期の混乱状況における政策決定過程を明瞭化することが,「密入国者」への認識や政策の変遷を辿る上で重要である。その際,地方における「密入国者」をめぐる議論に着目したい。というのも,彼らを含む在日朝鮮人関連の諸問題への関心は地域的に偏ったものであったからである。そこで,地方の動向と日本政府・占領政府の「密入国者」管理政策の関連に特に焦点を当てて,その背景にあった政治・社会情勢を踏まえながら「密入国者」に対する政策・認識の変化を考察する。
著者
石田 曜
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2012年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.58-59, 2012 (Released:2013-12-17)

本発表は、近年の人文地理学における公共空間研究の展開と課題について、主に英語圏の研究を中心に検討することを試みるものである。