著者
コルナトウスキ ヒェラルド キーナー ヨハネス
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.74-75, 2013

単身高齢者集住地区の再生が研究対象となっていない欧米のジェントリフィケーション批判的研究を議論するため、大阪市内で最も単身高齢化問題が顕著である西成区北部におけるゲストハウス外国人宿泊者を中心にした地域の活性化の可能性を検討する。
著者
横山 智
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.38, 2010

<B>1.はじめに</B><BR><BR> 発表者は、東南アジアのナットウに興味を持ち、これまで研究報告が存在しなかったラオスのナットウを調査し、中国雲南省からの伝播ルートとタイからの伝播ルートが混在していることを明らかにした。しかし、先行研究では、タイのナットウ(トゥア・ナオ)は、ミャンマーのナットウ(ペポ)と同じグループと論じられている。<BR> そこで本研究では、2009年に実施した北タイとミャンマーの市場調査とナットウ製法調査をもとに、発酵の際に菌を供給する植物に着目して、ミャンマーおよび北タイのナットウの類似点と相違点を解明することを目的とする。<BR><BR><B>2.販売されているナットウの種類</B><BR> 北タイで製造されるナットウは、(1)粒状、(2)ひき割り状、(3)乾燥センベイ状の3種類に大別することができる。ただし、日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウは、現地の市場で見かけることはほとんどない。北タイでは、タイ・ヤーイと称されるシャン人(ミャンマーのシャン州出身)の村では見ることができるが、それ以外の市場では、「ひき割り状」か「乾燥センベイ状」しか売られていない。<BR> 一方、ミャンマーで製造されているナットウは、多様性に富んでいる。北タイに多い「ひき割り状」と「乾燥センベイ状」以外に、シャン州のムセーの市場では、油で揚げて甘い味付けをしたもの、豆板醤のようなソースをからめたもの、そして乾燥したものなど、「粒状」を加工したナットウが多く売られていた。さらに「ひき割り状」を一度乾燥させた後に蒸かして円筒状に形を整えた珍しいナットウも売られていた。しかし、日本の「納豆」のような糸引きナットウは、2009年の調査で訪れたシャン州内の市場では少なかった。ところが、バモーより北のカチン州に入ると、シャン州で見られたような加工された「粒状」ナットウよりも、糸が引く日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウの比率が高くなり、カチン州都のミッチーナ市場では、強い糸が引く「粒状」ナットウがほとんどであった。<BR><BR><B>3.ナットウの製法と地域的特徴</B><BR> 北タイとミャンマーのナットウの製法は基本的に同じである。大豆を水に浸した後、柔らかくなるまで煮て、その後、プラスチックバックや竹カゴに入れて数日間発酵させれば、「粒上」のナットウができあがる。なお、どの地域でも発酵のために種菌を入れることはない。その後、粒を崩し、塩や唐辛子などの香辛料を混ぜて「ひき割り状」のナットウとし、さらに「乾燥センベイ状」の場合は、形を整えて天日干しする。この製造工程のなかで、地域的な差異が見られるのが、菌の供給源となる植物の利用である。<BR> シダ類(未同定)とクワ科イチジク属は、ヒマラヤ地域で製造されているナットウの「キネマ」でも利用されていることが報告されており、カチン州との類似性が見られた。またシダ類は、シャン州でも利用されているため、ヒマラヤ地域の「キネマ」とミャンマー全域の「ペポ」との類似性も見いだすことができよう。そして、チークの葉およびフタバガキ科ショレア属の利用という視点からは、シャン州と北タイに類似性があることが判明した。<BR> 本研究の結果は、以下のようにまとめることができる。北タイとミャンマーのシャン州で大規模に「乾燥センベイ状」ナットウを生産している世帯では、発酵容器に竹カゴは用いられず、肥料袋のようなプラスチックバックに煮た大豆を数日間保存するだけであり、菌の供給源となる植物も入れない。<BR> 形状と糸引きの強弱に関しては、シダ類やイチジク属を用いているヒマラヤ地域とカチン州は「粒状」が多く、糸引きも強い傾向がある。チークやショレア属の葉を用いるシャン州や北タイは、多くが「乾燥センベイ状」で、粒状の場合でも糸引きが弱いことが明らかになった。<BR><BR><B>4.おわりに</B><BR> 本研究では、これまでの議論とは視点を変えて、菌を供給する植物に焦点をあて、植物利用からナットウ製法の地域区分を実施することを試みた。それの結果、これまで全く議論されていなかった、ミャンマーとタイでの類似点と相違点、そしてミャンマー内での類似点と相違点を解明できた。これらの結果をもとに、未だ達成できていない中国側での植物利用調査を進めることが出来れば、東南アジアのナットウが中国からの伝播かどうかを議論する際の重要な手がかりになると思われる。<BR>
著者
齊藤 知範 根岸 千悠
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.10, 2011

<B>1.はじめに</B><BR><BR> 本報告では、若年女性の犯罪不安について、質的アプローチを導入することによる新たな枠組みを提示した上で、犯罪不安と都市空間における行動制約や防犯対策との関係について、試論的に考察を加えるものである。<BR> 犯罪不安がどのような社会的属性の人々に集中しやすいかは社会によって異なりうるが、重要な特徴のひとつとして、男女差の存在を挙げることができる。すなわち、他の諸要因を統計的にコントロールした上でも、女性のほうが男性よりも犯罪不安が高い傾向にあることが知られている(Ferraro 1995)。こうした男女差は、先進諸国において、比較的共通して観察されるパターンである。<BR> 一方で、犯罪不安は、主観的で多面的なものであり、生活世界を含めてその内実を深く知ろうとするほど、計量的手法だけでは、構造を解明する上で一定の限界があると考えられる。このため、質的手法が適する場合があり、諸外国においても、質的アプローチによる研究が行われてきた(若林 2009)。他方、吉田(2006)は、地理学におけるジェンダー研究を包括的に検討しつつ、育児等の再生産の舞台である郊外の住宅地における防犯のための監視性の高まりについて、ジェンダーの観点から考察を加えている。<BR><BR><B>2.先行研究</B><BR><BR> 犯罪学においては、犯罪や非行を犯す人間の心理や社会的環境要因に着目する犯罪原因論と、犯罪が起きやすい状況(場所、時間帯など)を生む条件や環境に着目する環境犯罪学の2つが、主要な説明理論として挙げられる。犯罪原因論はもとより、環境犯罪学においても、犯罪の被害に遭いうるターゲットが抱える犯罪不安や選択する防犯対策については、それほど考察がなされているとはいえない。<BR> 他方、小学生の防犯教育に関する実践的研究は比較的多くなされており、大西(2007)のレビューに詳しい。また、根岸(2011)は、公立高校の3年生(21名)を対象とする防犯の実験授業を実施しており、犯罪に関するリスクの情報を生徒に対して適切に伝達したり犯罪統計に関するリテラシーを身につけさせたりすることや犯罪不安の緩和などを目的とした、高校生の防犯に関するカリキュラム開発を行い、授業実践上の課題について明らかにしている。一方で、成人の犯罪不安や被害防止のためになされる防犯行動を空間との関わりにおいて検討した研究は、比較的少ないのが実状である。<BR><BR><B>3.研究の方法</B><BR><BR> 以上のような問題関心にもとづき、報告者は、大都市および郊外地域に居住する若年女性を対象として、質的調査を実施した。具体的な内容としては、つきまといや声かけなどのヒヤリハット事案への遭遇経験、犯罪不安の状況や背景、防犯情報への接触、防犯のために講じている対策や行動などについて尋ねるものであり、これを半構造化面接によって実施した。この安全・安心に関する質的調査は、犯罪不安と若年女性の社会生活との関係などについても、把握しようとする内容であった。<BR> 本報告では、この調査について予備的な分析を行い、第1節で提示した問いに関して若干の考察を加えることとしたい。<BR><BR><B>参考文献</B><BR><BR>Ferraro, Kenneth F., 1995. Fear of Crime: Interpreting Victimization Risk, State Univ of New York Press.<BR>根岸千悠, 2011, 「「犯罪について考える」授業の開発 ―犯罪の実態と認識の乖離および環境犯罪学に着目して―」『授業実践開発研究』4, 37-43.<BR> 大西宏治, 2007, 「子どものための地域安全マップへの地理学からの貢献の可能性」『E-Journal GEO』2, 1, 25-33.<BR> 齊藤知範, 2011, 「犯罪学にもとづく子どもの被害防止」『ヒューマンインタフェース学会誌』13, 2, 123-126. <BR>若林芳樹, 2009, 「犯罪の地理学-研究の系譜と課題-」金沢大学文学部地理学教室編『自然・社会・ひと-地理学を学ぶ』古今書院, 281-298. <BR>吉田容子, 2006, 「地理学におけるジェンダー研究-空間に潜むジェンダー関係への着目-」『E-Journal GEO』1, 22-29. <BR>
著者
遠城 明雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.341-365, 1992
被引用文献数
4 2

In Japan, studies on "community" and the reality of everyday life in the city have been both assumed and largely ignored by geographers. This study, in exploring the role of various social bonds within a local area and the influence of some institutions on its bonds, attempts to clarify some aspects of "community" and its transformation in the city. Though "community" is a highly ambiguous notion, it could be defined as the complete range of relationships an individual is led to establish with other peoples within definite place and that members of it conform to certain unwritten rules or informal norms which can't be applied to outsiders.The research field for this study is Hakata, Fukuoka City, from the 1910's to the 1930's. In Hakata, the "Hakata Yamakasa" has long been held and is one of the most famous festivals in Japan.The main results of this study are summarised as follows:1) There is a mutually supportive role of neighbors materially and emotionally. The inhabitants conform to informal norms, for example, the duty of mutual aids at ceramonial occasions and payment of money used for local community's everyday expenses.In consumption, the inhabitants buy daily necessfties mainly through pedlars and retailers who depend on face-to-face local interaction. It seems that this mode of buying has a potential role in the reinforcement of connection within the neighborhood.Though it is clear that the residents keep close contact with each other, we must pay attention to the difference of these interactions according to gender, age, occupation, socio-economic status and so forth.2) As at "Yamakasa" the various and heterogeneous residents are integrated together in the internal system, they recognize each other as members of the local community and preserve identity and loyaly to their own community through various observances. This identity is necessary for the formation and maintenance of community. The division between the internal system and the external one is kept strictly during the festival. This is, however, not absolute and consistent, but relative and contingent. The nature of each grovp is context-bounded and contingent on two relationships, both intragroup-relation and intergroup-relation. The author emphasizes the contingency of these relationships and the relationship with externalities at various levels.3) In the process of modernization and urbanization, the intervention of administration and capital to the local community is thorugh the labor process, consumption and relief of the poor, etc. Although from the standpoint of inhabitants, local community forms an 'absolute territory' which can be a place of identity, from the standpoint of capital, it is a 'relative territory' and an obstacle to capital interests occasionally. The new systems gradually include or substitute for the existing institutions and social order or norms which depend on mutuality within the local community. In short, these institutions make individuals subject to control and the accumulation of capital. It seems, however, that there are cases where through the struggle around these institutions a different consciousness from the old one is generated.
著者
コルナトウスキ ヒェラルド キーナー ヨハネス
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.74-75, 2013 (Released:2014-02-24)

単身高齢者集住地区の再生が研究対象となっていない欧米のジェントリフィケーション批判的研究を議論するため、大阪市内で最も単身高齢化問題が顕著である西成区北部におけるゲストハウス外国人宿泊者を中心にした地域の活性化の可能性を検討する。
著者
川口 洋
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.1, 2010

天然痘は,高熱を発し,水泡性の発疹が四肢に広がることを主症状とする感染症である。牛痘種痘法が導入されるまで有効な予防法がなかったため,江戸時代に生きた人々民衆も天然痘を生涯に1度は罹る致命率の高い病と認識していた。しかし,衛生統計が整備されるまでの期間における天然痘流行の実態,天然痘への対処法,牛痘種痘法の導入過程に関する研究は,全く未着手とみられる。他方,痘苗が日本にもたらされた嘉永2(1849)年は,持続的人口増加開始期に当たる。牛痘種痘法導入期の天然痘による疾病災害の実態解明は,持続的人口増加がいかなる状況下で始まったか,という課題に接近を図るためにも不可欠である。本報告では,19世紀中後期の多摩郡周辺における牛痘種痘法の導入過程と天然痘死亡率との関係について検討する。
著者
田中 康一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.47, no.5, pp.417-438, 1995
被引用文献数
2 1

The author's purpose was to elucidate the mechanisms of the location and transfer of the headquarters of an enterprise.The author did a case study on an enterprise and used several kinds of numerical indicators and written statements from annual financial reports, corporate history book and other materials about the enterprise to explain the reasons for and the processes of the location and transfer of functional departments of its corporate headquarters, including those for purchasing, production control, sales, personnel, finance, general accounting, planning, general affairs, and the strategic decision making, with the help of theories of business management.For example, the transition of the financial ratios and the spatial distribution of financial sources of the enterprise were used to explain the location and transfer of its Finance Dept. and the transition of the spatial distribution of labor was used to explain those of its Personnel Dept.The implications resulting from the analysis of the differences and similarities between the transferring processes of those functional departments greatly helped to extract some common and important rules for the location and transfer of functional departments of the corporate headquarters.In this empirical analysis, Snow Brand Milk Products Co., Ltd. (founded in 1925), Japan's largest dairy products company, was selected as a case study.The main reasons for choosing this enterprise were the abundant data concerning its financing and location since its foundation, and its experience in transferring its headquarters from the city of Sapporo, the largest city of Hokkaido, the northernmost of Japan's four main islands, to the capital city of Tokyo, the location of the nation's largest money market, most of the headquarters of the nation's largest banks and of other private and/or public organizations, the most important market for selling products, and the location with the most efficient access for transportation, communication and information processing.The facts found in the empirical study are summarized as follows:1. Until the company established its management base in the Hokkaido area, its financing depended on the local financial institutions and its Finance Dept. was located in Sapporo. But, as the company gradually expanded its operational space nationally, the volume of financial demand dramatically increased and came to depend on large financial institutions based in Tokyo and finally the Finance Dept. was transferred to Tokyo. Its gradual transfer started in 1958, just before the company started its nation-wide expansion, and took about two years to finish. Simultaneously, the transfer of the General Accounting Dept., the Planning Dept., and the Board of Directors occurred.2. As the locations of its plants and sales offices expanded nationally, the distribution of its labor also dispersed nationally. Accordingly the Production Control Dept. and the Personnel Dept., transferred to Tokyo, seeking for the most efficient access infrastructure to secure a national scale of transportation, telecommunication and information processing. As for the Personnel Dept., its gradual transfer started in 1958 and took more than seven years to finish and for Production Dept. about 10years, while the Sales Dept. had been located in Tokyo since the foundation of the enterprise.3. The General Affairs Dept. transferred following the locational shift of other departments.4. These transferring processes all involved a gradual transfer of authority from Sapporo to Tokyo and a spatial division of business management/administration both between and within functional departments was observed.Possible rules for the location of the functional departments based on the facts above are as follows:1. The location of a corporate headquarters is subject to the location of its functional departments.
著者
益田 理広 碓井 建哉 川村 一希 久保 尭史 柳 鍇
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.68-69, 2013 (Released:2014-02-24)

東京大都市圏辺縁部の居住者に対する、主としてメンタルマップを用いた地理的な帰属意識と空間認識の分析に関する発表。
著者
玉懸 慎太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.31-31, 2004

本発表の目的は、マス・メディアとしての劇映画が、ロケ地に与える影響を実際の事例で検討することにある。本発表では、フィルム・コミッションが誘致した映画のロケ地が、映画のヒットによって「名所」になっていく過程を報告する。事例としたのは、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」とそのロケ地となった香川県木田郡庵治町である。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」は、300万部を突破した片山恭一原作のベストセラー小説を映画化したものである。映画の公開は2004年5月で、観客動員は400万人を超えた。劇映画とは別に、テレビドラマも制作され、「セカチュウ現象」という言葉を生み出した作品である。香川県木田郡庵治町は、高松市中心部から車で約30分ほどの距離にある。人口は約6,500人で「四国本土最北端のまち」「石と魚のまち」がキャッチフレーズであった。庵治町で撮影が行われた背景には、香川フィルムコミッションの存在が大きい。原作の小説の作者は、愛媛県出身のため、映画の行定監督らスタッフも瀬戸内海を中心にロケ地を探していた。そこで香川県観光協会内にある香川フィルムコミッションが、映画制作会社東宝に働きかけ、香川県内の数カ所を紹介した。スタッフが実際にそれらの場所を訪れ、庵治町が映画のイメージにぴったりだったことからロケ地に決定した。町に観光客が来始めたのは、2004年5月に映画が公開された直後のことである。ロケ地目当ての観光客が町に殺到した。町では慌てて4カ所に看板を設置し、ホームページでロケ地情報を提供した。7月にはパンフレットができあがり、町内の公共施設などで配布を始めた。このブームをきっかけに、庵治町では有志によるボランティア団体「庵治町おこし会」が結成され、7月24日から町役場に隣接する町民ギャラリーでロケ地と映画の写真展を始めた。将来的な課題として、映画ブームが去った後、どのように町おこしをしていくのかがあげられる。
著者
横山 智
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.38, 2010 (Released:2011-02-01)

1.はじめに 発表者は、東南アジアのナットウに興味を持ち、これまで研究報告が存在しなかったラオスのナットウを調査し、中国雲南省からの伝播ルートとタイからの伝播ルートが混在していることを明らかにした。しかし、先行研究では、タイのナットウ(トゥア・ナオ)は、ミャンマーのナットウ(ペポ)と同じグループと論じられている。 そこで本研究では、2009年に実施した北タイとミャンマーの市場調査とナットウ製法調査をもとに、発酵の際に菌を供給する植物に着目して、ミャンマーおよび北タイのナットウの類似点と相違点を解明することを目的とする。 2.販売されているナットウの種類 北タイで製造されるナットウは、(1)粒状、(2)ひき割り状、(3)乾燥センベイ状の3種類に大別することができる。ただし、日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウは、現地の市場で見かけることはほとんどない。北タイでは、タイ・ヤーイと称されるシャン人(ミャンマーのシャン州出身)の村では見ることができるが、それ以外の市場では、「ひき割り状」か「乾燥センベイ状」しか売られていない。 一方、ミャンマーで製造されているナットウは、多様性に富んでいる。北タイに多い「ひき割り状」と「乾燥センベイ状」以外に、シャン州のムセーの市場では、油で揚げて甘い味付けをしたもの、豆板醤のようなソースをからめたもの、そして乾燥したものなど、「粒状」を加工したナットウが多く売られていた。さらに「ひき割り状」を一度乾燥させた後に蒸かして円筒状に形を整えた珍しいナットウも売られていた。しかし、日本の「納豆」のような糸引きナットウは、2009年の調査で訪れたシャン州内の市場では少なかった。ところが、バモーより北のカチン州に入ると、シャン州で見られたような加工された「粒状」ナットウよりも、糸が引く日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウの比率が高くなり、カチン州都のミッチーナ市場では、強い糸が引く「粒状」ナットウがほとんどであった。 3.ナットウの製法と地域的特徴 北タイとミャンマーのナットウの製法は基本的に同じである。大豆を水に浸した後、柔らかくなるまで煮て、その後、プラスチックバックや竹カゴに入れて数日間発酵させれば、「粒上」のナットウができあがる。なお、どの地域でも発酵のために種菌を入れることはない。その後、粒を崩し、塩や唐辛子などの香辛料を混ぜて「ひき割り状」のナットウとし、さらに「乾燥センベイ状」の場合は、形を整えて天日干しする。この製造工程のなかで、地域的な差異が見られるのが、菌の供給源となる植物の利用である。 シダ類(未同定)とクワ科イチジク属は、ヒマラヤ地域で製造されているナットウの「キネマ」でも利用されていることが報告されており、カチン州との類似性が見られた。またシダ類は、シャン州でも利用されているため、ヒマラヤ地域の「キネマ」とミャンマー全域の「ペポ」との類似性も見いだすことができよう。そして、チークの葉およびフタバガキ科ショレア属の利用という視点からは、シャン州と北タイに類似性があることが判明した。 本研究の結果は、以下のようにまとめることができる。北タイとミャンマーのシャン州で大規模に「乾燥センベイ状」ナットウを生産している世帯では、発酵容器に竹カゴは用いられず、肥料袋のようなプラスチックバックに煮た大豆を数日間保存するだけであり、菌の供給源となる植物も入れない。 形状と糸引きの強弱に関しては、シダ類やイチジク属を用いているヒマラヤ地域とカチン州は「粒状」が多く、糸引きも強い傾向がある。チークやショレア属の葉を用いるシャン州や北タイは、多くが「乾燥センベイ状」で、粒状の場合でも糸引きが弱いことが明らかになった。 4.おわりに 本研究では、これまでの議論とは視点を変えて、菌を供給する植物に焦点をあて、植物利用からナットウ製法の地域区分を実施することを試みた。それの結果、これまで全く議論されていなかった、ミャンマーとタイでの類似点と相違点、そしてミャンマー内での類似点と相違点を解明できた。これらの結果をもとに、未だ達成できていない中国側での植物利用調査を進めることが出来れば、東南アジアのナットウが中国からの伝播かどうかを議論する際の重要な手がかりになると思われる。
著者
宮本 真二 安藤 和雄 バガバティ アバニィ デカ ニッタノンダ リバ トモ
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.38-39, 2012

東部ヒマラヤ(インド北東部,アルナーチャル・プラデーシュ州,ネパール東部,ブータン東部)における埋没腐植土層の各種分析から,土地開発史を検討した.その結果,①古い段階での初期的な土地開発時期(約2000年前代が中心)も分散的に行われた。②集中的な土地開発時期は、約千年前以降、特に約500年前以降に行われた。③民族移動のルートは、東ネパールでの先行研究とは違い、東西ルートでの民族移動にともなう土地開発過程が示唆された。
著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.412, 2008 (Released:2008-12-25)

地政学の「魅力」と地政言説 言葉による表現が、特定の空間や場所をめぐる想像や表象を意味し、歴史的・政治的な文脈の中である種の真実性を持つものとして扱われることがある。その政治的に重要な例が「地政言説」である。オトゥーホール(O' Tuathail)によれば、地政学は「国家間の競争と権力の地理的な側面を強調した世界政治に関する言説」である。オトゥーホールは、現代において地政学がジャーナリスト、政治家、戦略思想家などにとって魅力であるという。ジャーナリストや政治家は地政学をとおして、混沌とした日常的な出来事を超えた、本質化された差異にもとづく永続的な対立や根源的な闘争を見出そうとする。そこで地政学を言説としてとらえるならば、特定の政治家や戦略思想家が「現実」として示す世界が、実は特定の時間と空間の文脈から描き出されていることや、多様で複雑な現実を特定の視点から単純化されていることに気づくことができる。 地政言説の構成と物質的基礎 言説は単に書かれたものとして主体の位置、実生活、あるいは社会の諸制度から遊離しているわけではなく、それらの中に埋め込まれている。地政言説を例にとれば、世界政治の表象は特定の国家の物質的な要素(人口・資源・産業・資本など)と無関係ではなく、それを基礎としてつくり出される。オトゥーホールは地政学の概念的構成を図解している。図の上部におかれるのが三つのタイプの地政言説とその具体的な形態であり、これらの言説は地政的想像力によってつくり出される特定の地政的伝統から派生している。地政的伝統とは、特定の国家の構造を基礎としている。こうした図式は国際関係の分野での言説構成の理解には有効であるが、それ以外のスケールではどうだろうか。 スケールと言説 政治地理学的にみると、地理的スケールは重要な政治的意味を持つ。個人または集団による政治行動は特定の場所において展開し、一定の空間的広がりを持つ。スミス(Smith)が分類する身体からグローバルにいたる7つのスケールは、政治行動が展開される空間的広がりの程度を示している。特定の政治問題や政治行動は特定のスケールを基盤に発生・展開し、またそのスケールの操作をめぐって政治的な駆け引きが起こる。これを「スケールの政治」と呼ぶが、問題のスケールが重層的な場合「スケールのジャンプ」と呼ばれる現象が起こる。こうしたスケールの政治にも地政言説が関係する。それを「スケール言説」と呼び、政治行動の理念的部分において重要な役割を果たす。政治問題や政治運動は単一のスケールで展開するものではなく、多様なスケールの間を往復する。故にスケール言説の分析についてもマルチスケールの視角が求められる。 言説分析の方法 では言説はどのように分析されるのであろうか。社会運動における主体と場所や空間との関係とを明らかにするために、フレーム分析の手法を用いることができる。フレーム分析は、社会運動を「枠づける=フレーミング」言説に着目する。社会運動は特定の信念、価値観、あるいは世界観のもとに組織され、運動組織は自らの活動を正当化し、敵対する立場や組織の考え方を否定する。フレーミングとは、そうした運動の理念を言語的に表現する行為である。フレーミングに着目することで、特定の組織の活動理念の形成過程のみならず、組織内あるいは組織間での異なった理念の同調や対立を検討することができる。こうしたフレーミングは複雑な現実を言説的に単純化することで人々の支持を得ようとする。この点では地政言説と同様の働きをもっている。 地政言説から政治を読む 地政言説と政治との関係を理解することは、地理学という観点から政治を分析する上で有効となる。また、特定の個人や集団が空間や場所を表象する行為から政治的な意図や権力関係を読み取ることは、政治という営みに対する感受性や批判的思考力を高めることにもつながる。そして、私たちがより賢明な市民や有権者であるためには、地政言説の作用に敏感であるばかりでなく、そうした言説の基礎をなすもっと複雑で錯綜した世界や社会の物質的構成(人口・権力・その他資源の配分、すなわち地理そのもの)を理解せねばなるまい。
著者
山崎 貴子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.41, 2003

学習塾の全国的な動向を分析し、次に京都市右京区を事例地域として、学習塾の立地場所・立地形態等の変化、および生徒の属性などを検討した。 その結果、以下のことが明らかになった。 1 大手学習塾の多くは、高度経済成長期から安定成長期に創立され、規模が拡大している。学齢期人口の増加および高学歴化などにより、営利性が高まったことが要因と考えられる。 2 学齢期人口と学習塾の件数との関係は、大都市レベルではほぼ正の相関関係にある。しかし、京都市を例とした都市内レベルでの検討によると、交通の至便性および地域の教育水準が関与しており、両者の相関関係は低くなる。 3 京都市右京区にある学習塾は、「単体開設」の学習塾が住居系用地にある「自己所有」の物件を利用して展開するタイプから、「複数開設」の学習塾が商工業系用地にある物件に「テナント」として入居し展開するタイプに変化してきている。 4 学習塾は、様々なニーズに対応するため、対象学年の広範囲化、小学生の英語教育、さらに個別指導の強化など、多様な事業を展開している。 5 学習塾の選択背景には、居住地からの距離や交通手段、および学習塾の教育方針が関わっている。 完全学校週5日制の実施および教育内容の削減などにより、教育機関としての学習塾の役割は、ますます大きくなると思われる。また、学習塾を含む民間教育機関、学校および地域の連携の動きがみられ、民間教育機関が地域の中で果たす役割も注目されている。民間教育機関の情報公開の消極性が克服されれば、地理学からの教育に関する研究のさらなる発展が望めよう。
著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.17, 2011 (Released:2012-03-23)

ドイツの劇作家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)は晩年,バイロイトに終の棲家を得て,ここに自らのオペラ専用たるバイロイト祝祭劇場を建造し,舞台神聖祝祭劇「パルジファルParsifal」(1882)を完成させた。本論は,この「パルジファル」の主題となったヨーロッパの聖杯騎士伝説とバイロイトとの関わりについて歴史地理学的視点から論じたものである。