著者
米田 巖 潟山 健一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.43, no.6, pp.546-565, 1991
被引用文献数
2 2

Nearly half a century has passed since Trewartha pointed out in his presidential address to the 49th annual assembly of A. A. G., that geography is fundamentally anthropocentric.Generally speaking, recent trends in geographical researches in Japan and abroad as well seem to have remained unchanged. However, something must have changed in those two decades. The main aim of this article is to evaluate some new underlying currents in recent geographical research work from a humanistic point of view. Just as D. Porteous has pointed out in his essay, the reason why geography is so dull and boring is closely connected not only to ways of explanation, but to presentation in geographical works. In most cases, human contents are lacking.Authors have tried to make clear other factors responsible for this present situation. Most of geographical research work in Japan and abroad has been so far made with special emphasis on"seeing"through eyes. Little attention has been paid to other human senses. It can be said that most geographers have tended to heavily depend on visual organs, suffering from auditory, tactile, olfactory, and taste disorder.In our minds, we instantly create images in a more configurative and unified way by using five senses at the same time. What is mostly urgently needed is how to reconstruct all the things we have sensed in geographical content. Some new underlying currents in humanistic geography seem to be deeply concerned with this hidden aspect as described above, and have come up as the emerging new geography. The 1980's has witnessed tremendous progress, leading surely to a so-called sensuous geography, which is not fully developed at the present time.D. C. Pocock, D. Porteous, Yi-Fu Tuan and A. Buttimer are preeminent among the sensuous geographers. Authors see that the holistic point of view can be basically traced back to J. G. von Herder. Along with these new currents, Michael Polanyi has also come to realize the importance of tacit knowing, from epistemological and ontological view points. In addition, A. Berque has also greatly contributed to opening up a new era in humanistic geography and paved the way to clear elucidiation of the complicated multi-dimensional structure of climate by applying a new concept, médiance.In Japan, T. Watsuji was the first to systematize the significance of human existence with special reference to climate (Fûdo). He often refers to the works of Herder, because the Herderian way of interpretation of our world should be properly treated. Authors are also contending that all the geographical observation so far made must be reviewed and reevaluated in these respects. Holism runs against reductionism.Thick description of geographical phenomenon is thus to be made. Fuller attention should be paid again to Herderian holism in this respect in order to humanize human geography.The objectivity-oriented scientific movement seems to have been believed to be true up to the present time. However, authors understand that objectivity-oriented reductionism is far from being complete in the sense that this methodology is based on one-sided observation and reasoning, neglecting the five human senses to the sacrifice of the richness of the lively world. Well balanced observation and reasoning can only be realized through close contact with the five human senses.
著者
須田 昌弥
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.310-310, 2008

2008年現在、我が国の11空港・14路線において空港ターミナルと鉄道を初めとする軌道系交通機関の駅が直結ないし隣接している。大阪を中心とする近畿圏では、大阪国際(伊丹)空港・関西国際空港(以下関西空港)・神戸空港が併存し、国内航空旅客においては競合関係にある。首都圏に東京国際(羽田)空港・成田空港の2つしかないにもかかわらず、近畿圏に3つも空港があるのは過剰であるとの指摘もしばしばなされる。 その際に関連して言及されるのが関西空港の「アクセスの不便さ」である。関西空港は都心から離れているためアクセスに時間がかかり、運賃・料金も高いという指摘である。このことが他方では、航空各社が関西空港発着の国内便を相次いで廃止・減便する理由ともなっている。しかし本当にそうであろうか?本報告では近畿3空港の鉄道アクセスを比較することを通じて、関西空港は本当に「不便な空港」なのか、そう言えるとしたらどのような点にあるのか、そしてその背景にある問題は何なのかについて検討する。 関西空港への鉄道アクセスはJR西日本・南海電鉄によって行われているが、運行本数においては両者の合計(149本/日)は伊丹空港(大阪モノレール:117.5往復/日)・神戸空港(ポートライナー:126往復/日)のそれを上回っている。また、伊丹・神戸両空港がいずれも大阪都心部(JR大阪環状線上またはその内部)に到るまでに必ず乗り換えを必要とするのに対し、関西空港からならば乗り換えなしに到達可能という点でも関西空港はむしろ「便利」である。 ただし、所要時間・運賃については大阪(梅田)駅までの場合、関西空港からが65分・1,660円(JR「関空快速」利用の場合)であるのに対し、伊丹空港からは蛍池乗り換えで24分・420円、神戸空港からは三宮乗り換えで51分・710円と差があることは否めない。しかし、上述した鉄道ネットワーク全体で考えた場合、関西空港の優位性について別の議論も可能なのではないか。 この点をさらに詳細に検討するため、市販の運賃検索ソフト「駅すぱあと」を使用して各空港から一定時間内に鉄道のみで到達できる駅の数を算出した。関西空港から120分以内に到達できる駅の数は伊丹・神戸両空港に比べやや劣るものの、首都圏における羽田空港と成田空港の2倍以上の格差に比べればその差はむしろわずかであるといえる。 次に、関西空港の「不便さ」の所在を考えるため、各空港から大阪市内主要駅ならびに近畿の主要都市中心駅までの所要時間を算出して比較した。その結果、関西空港は難波・天王寺などの大阪南部や和歌山方面には優位性があるものの、梅田・新大阪や京都・神戸方面は伊丹・神戸両空港の方が所要時間は短いことが明らかになった。個別の地点で見ると、南海電鉄のターミナルである「難波」で関西空港と伊丹空港がかなり互角の所要時間となっていること、JRの特急「はるか」で乗り換えなしに到達できる「京都」においても神戸空港が関西空港より所要時間が短いことが特筆される。これらの事実が、「関西空港は不便だ」という一般的評価につながっているものと考えられる。この状況をふまえ、関西空港のアクセスを改善するための施策はいくつか挙げられよう。具体的には、特急「はるか」のJR大阪駅乗り入れや、南海電鉄の梅田方面への延伸(またはJRとの直通運転)といった施策が考えられる。これらはいずれも、関西空港と「梅田」の間のアクセスを改善するものである。しかしそのような解決策で十分なのであろうか?この問題のさらに大きな背景として、本報告では「東京一極集中」のもとでの「大阪の停滞」のために、かつては「梅田」と互角の中心地であった「難波」の求心力が低下しているということがあるのではないか、という仮説を提示したい。関西空港の立地は「大阪南部の活性化」を意図した面が少なからずあると考えられるが、そのことが逆に、関西空港の「不便さ」を助長している可能性はないであろうか。この点は本報告の段階では厳密な検証には到っていないが、関西圏の都市構造を分析する上で、そして今後の関西の都市政策を立案する上で、この問題についても今後検討していく必要があるのではないか。
著者
大平 晃久
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.59-59, 2009

人文地理学において記念碑を対象とした研究は隆盛をみているが、個別の記念碑研究ではなく、記念碑と場所の関係の一般化を指向する研究は少ない。本発表では,まず,既存のモニュメントを否定するアンチ・モニュメントの事例,とりわけベルリン・バイエルン地区の「追憶の場」を紹介し,そこにみられる記念碑と場所との関係を考える。その上で,バイエルン地区「追憶の場」の事例から,場所間の見立てという記念碑の働きに注目する。<BR> アンチ・モニュメントとは,ドイツにおいてナチスの記憶と向き合う中で生まれた,従来の記念碑の概念を打ち崩そうとする作品群に与えられた名称である。ザールブリュッケンやカッセルの不可視の「記念碑」,ベルリン・ゾンネンアレのセンサーが感知したときのみ説明文が浮かび上がる「記念碑」、ホロコースト記念碑の計コンペで落選した、ブランデンブルク門を破壊してその破片をばらまくというプラン,ブランデンブルク門南の敷地にヨーロッパ各地の強制収容所跡地行きのバスが発着するバスターミナルを建設し,アウシュヴィッツなどの行き先を表示した真っ赤なバスが市内を毎日行き来すること自体を「記念碑」とするプラン,アウトバーンの一部区間を走行速度を落とさざるを得ない石畳にすることで「記念碑」とするプランなどが事例としてあげられる。<BR> ベルリンの「バイエルン地区における追憶の場」はそうしたアンチ・モニュメントの系譜に位置づけられるプロジェクトである。戦前にアインシュタイン,アーレントなど中流以上のユダヤ系住民が数多く暮らしていたこの地区では,地域の歴史を掘り起こす住民運動が起こった。その結果,1993年に記念碑の設計コンペが実施され,シュティ, R.とシュノック, F.によるプランが1位となった。閑静な住宅地区であるここバイエルン地区では,あちこちの街灯に妙な標識が取り付けられている。全部で80枚のそれらの標識は,例えば片面がカラフルなパンのイラスト,もう片面には「ベルリンのユダヤ人の食料品購入は午後4時から5時のみに許可される。1940. 4. 7」というナチス時代のユダヤ人を迫害する法令の文章が記され、,標識の下に簡潔な記念碑としての説明が取り付けられている。商店の看板とみまがうようなポップなイラストと恐ろしい文言からなる標識群は,その形態からも,またそれらが日常の生活の場にあり生々しい過去と日々向かい合うように設けられている点からも,まさに既存の記念碑を否定するアンチ・モニュメントといえよう。<BR> これらのアンチ・モニュメントにおける,場所と記念碑の関係を検討すると,まず,脱中心的であったり不可視であったりすることから,そもそも場所との位置的な対応を問うこと自体が無効である可能性がある。一方で,アンチ・モニュメントが決まったメッセージを伝えるのではなく,記念碑をめぐる実践が意味を作り出す点は場所的な特性として指摘できる。このようにアンチ・モニュメントは場所と記念碑の関係に新たな視点をもたらすものなのである。<BR> バイエルン地区「追憶の場」については、個々の標識については第三帝国当時ではなく現在の景観とおおむね対応している点も特徴的である。過去におけるパン屋や病院など小スケールの事物を記念するというオンサイトの記念碑の文法に則りながら,通常の意味でオンサイトの記念碑ではない点は訪れる者を戸惑わせるものである。しかし,歴史地理的な探索ではなく,現代における実践を誘うものとしてこの記念碑(標識群)は捉えられるべきであろう。現代のスーパーマーケットの前の標識をみてナチス期の商店を想起するという実践は,場所間の見立てであり、バイエルン地区の標識は,そうした見立てを誘うものとして捉えられることを指摘したい。そして,管見の限り,アンチ・モニュメントはいずれも場所間の見立てである一方,大半の記念碑はそうではない。例外は記念碑としては周辺的である文学碑の一部と,聖地など宗教関係の記念碑に限定されると考えられる。<BR> ここで垣間みた場所間の見立ては記念碑の対場所作用の一例に過ぎない。そうしたレトリカルな分析の可能性,また広義の記念碑=「記憶の場」まで含めた考察の必要性を試論的に指摘しておきたい。
著者
清水 克志
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.51-51, 2011

<B>I.はじめに</B><BR> 現代の日本人が口にする野菜には、明治期に導入された外来野菜が多く含まれているが、それらのうち、キャベツ・ハクサイは、明治後期以降に新たな調理法が考案され、食習慣が定着することにより、昭和戦前期までに普及が進展した品目であることが明らかとなっている。本発表では、キャベツ・ハクサイを事例として、日本最大の都市である東京の流通関係資料をもとに産地構成や流通量、価格の変化などの実態を提示することにより、昭和戦前期における外来野菜の大衆化について考察する。<BR><B>II.輸送園芸産地の台頭</B><BR> 東京市場における野菜の産地別入荷割合は、1921(大正10)年の時点では、全ての品目で、東京府と隣接する埼玉・千葉・神奈川が大部分を占め、近郊産地が圧倒的な地位を誇っていた。また、外来野菜の入荷量は、キャベツが94万貫、タマネギが19万貫、トマトが0.6万貫に過ぎず、ハクサイに至っては、他の非結球ツケナ類と一括され、独立した品目としての地位を獲得していなかった。<BR> 1937(昭和12)年になると、ダイコン(17,669万貫)在来野菜の首座を占めることには変わりがないが、キャベツ(12,529万貫)は、岩手、静岡、愛知、沖縄、長野、大阪など、ハクサイ(11,939万貫)は茨城、群馬、静岡、宮城などの産地から大量に輸出されるようになった。また、同年の品目別の取扱高は、ハクサイが165.3万円(5.94%、3位)、キャベツが139.0万円(4.78%、4位)であり、ダイコン、キュウリに次いで多くなった。結球野菜であるキャベツ・ハクサイは共に、昭和戦前期に至り、鉄道を利用した輸送園芸産地の確立によって、ダイコンに次ぐ主要品目の地位を獲得したといえる。<BR><B>III.価格の低廉化と大衆化</B><BR> 大正後期の東京府では、明治後期以降の急激な人口増加に加え、第一次世界大戦後の深刻な物価問題などにより、生活必需品である生鮮食料品の流通状況を改善する機構整備が急務となっていた。1923年の中央卸売市場法の公布により、東京市では、同年に江東青果市場が、1928年に神田青果市場が市設市場として竣工した。<BR> 東京市場におけるの月別の取扱量と平均価格をみると、キャベツは1924年には東京近郊産の出荷期である6~8月の取扱量が最も多く、平均価格も底値を示すのに対し、冬季から春季にかけての各月は取扱量が未だ僅少であり、4~5月には平均価格も高騰して端境期を形成していた。1934年になると、各月ともに取扱量が急増しているが、とくに岩手・長野産の出荷期にあたる9~10月と12月の取扱量が、東京近郊産の出荷期で、1924年には最大の取扱量を誇っていた6月の取扱量を上回るようになるとともに、6月から11月にかけての期間は、平均価格が底値に近い値で安定的に推移するようになった。また1~3月には広島と愛知、4~5月には静岡、8月には群馬がそれぞれ新興産地として台頭し、平均価格の最高値も大幅に低下している。<BR> 一方のハクサイは、1928年には10~12月の3ヶ月間のに全取扱量の94%が集中していた。1934年になると、取扱量が飛躍的に増加するとともに、1月から3月にも一定の取扱量があり、出廻期が長期化する傾向が確認できる。産地構成についてみると、両年度とも、10月以降には宮城産・栃木産・東京近郊産が、12月から翌年の1~2月にかけて茨城産・静岡産が入荷するパターンは変わらないが、1934年になると、秋季に福島・岩手・山形・群馬などの後発産地が乱立し、このことが入荷量の急増と、平均価格の着実な低下に繋がったとみられる。<BR><B>IV.結びにかえて</B><BR> 都市大衆層への具体的な普及の実態については、紙幅の関係上、詳述することはできないが、同時期の東京では都市大衆層を対象とした大衆食堂や学校給食におけるキャベツやハクサイの利用実態がすでに指摘されているほか、東京府下の農家においても、「近年蕃茄(トマト)、白菜、甘藍(キャベツ)等は新たに副食物として需要され始めた(中略)農家でも最近自製の洋食が多くなった」(帝国農会1935;228、引用中のカッコ内は筆者補入)など、都市部で醸成された新たな食文化が近郊農村へも浸透しつつあった。このように、キャベツ・ハクサイは、昭和戦前期において、複数の輸送園芸産地が台頭し、取扱量の急激の増加と、それに伴う価格の低廉化、出廻期の長期化が起こった結果、都市大衆層や近郊農家を含め、幅広い階層への普及が著しく進んだとみられる。以上のことから、昭和戦前期は、外来野菜の大衆化にとって、現代へと続く主産地が形成された高度経済成長期に優るとも劣らぬ、重要な普及の画期とみなすことができる。
著者
高﨑 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.72-73, 2013

沖縄県東村高江区におけるヘリパッド建設問題に反対して座り込みを行う地元住民や支援者のネットワークがどのように広がっているか、また地域とはどのような関係性を構築しているのかについて明らかにする
著者
キーナー ヨハネス 水内 俊雄 コルナトウスキ ヒェラルド 冨永 哲雄 高田 ちえこ
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.84-85, 2013 (Released:2014-02-24)

30名ほどのゲストハウス宿泊者を対象とした聞き取り調査の結果から、特にワーキングホリデーで来ている宿泊者の来日経由パターン、ゲストハウス生活、就労へのアクセス、ゲストハウス近隣に対するイメージを明らかにする。
著者
山崎 修
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.6, no.5, pp.360-373,407, 1954

Okino-Shima is a small island, belongs to Kochi prefecture, on the southern part of the Bungo Channel. As this island is on the border line of Kochiand Ehime prefecture, it has been being to keep the peculiar characteristics as the historical, economical and cultural point of contact between the southern power and the northern one. This is also due to the double-sided natural characteristics of the island. The southern part of the Bungo Channel on which the island lies, is the transitional area between the Pacfic and the Seto Inland Sea. Temperature is high in this area, therefore this island has the oceanic characteristics as the wild growing place of the subtropical plants.They got the abundant haul near the island, and fishing was the most important industry with agriculture. But now the main industry is agriculture with few fishing. They cannot extend their farm on the island, population comes also to the maximum. As the island is mountainious, the small terrace farm and the residential land is on the sharp slope. The most houses are low due to many starms.Historically the island was included in the market area of Uwajima before the war, but during the war it was included into that of Sukumo artificially owing to the rationing system. As the sea transportation between the island and Sukumo has been facilitated, their economic relation has been closed. But now it is going to be included into the market area of Uwajima.
著者
山田 朋子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.55, no.5, pp.428-450, 2003
被引用文献数
2 2

Hideaki Ishikawa was one of the most important Japanese modern city planners. He was convinced that cities had to enrich people's lives, and he wanted to establish modern city planning as a discipline. Ishikawa was well-known as a man of unique ideas and he enthusiastically studied amusement places (sakari-ba). In this paper, I focus on how he developed his ideas on amusement places and how he put them into practice in designing amusement places for rich people's enjoyment during the period of time he worked in Nagoya (1920-1933).To better understand Ishikawa's practices, I refer to H. Lefebvre's conception of recognition of space. Lefebvre's conception has three dimensions. "Representations of space": conceptualized space, the space of planners; "Space of representation": space as directly lived, the space of "inhabitants" and "users"; and, "Spatial practice": creation of space by the interaction of the other two dimensions. From this, therefore, city planning would be regarded as "representations of space", while amusement places in which people enjoyed their lives would be regarded as "space of representation." "Space of representation" has the possibility of creating a new movement of thought to counter the control of space by city planning.Ishikawa always criticized Japanese city planning as being just a plan for land use which did not significantly consider people's lives. So he searched for a way to create a city planning for the people. He wrote a series of thirty-four articles on "The story of a Local City" in the magazine, Creation of the City (Toshi Sousaku). He explained his vision of the modern city and about how city planning should be conducted. Ishikawa was gradually able to create his own theory of amusement places in his planning.The following four keywords characterize his modern city planning in his serial writing. The keywords are: "city planning for the night", "small city doctrine", "a bustling and lively square", and "hometown city". The first one, "city planning for the night", was an idea to restore the functional role of the night. Ishikawa thought that many planners made a plan for the "industrious time" when people worked during the daytime, but, at night, people were set free from their labors and relaxed. Ishikawa changed this idea and reorganized a plan for people to enjoy their leisure time at night. He paid attention to street lighting, especially lighting for buildings, the layout of amusement facilities, and so on.The next idea is "small city doctrine". Ishikawa rejected the big city. He insisted that an ideal city should be within the scale where people could feel intimacy among neighbors. Though a city may be big, each town in a city should have a center which would be a psychological anchor for people, which should be combined organically, and in which the center should be a lively square.The next idea is "bustling and lively square". Ishikawa recognized that people tend to gather in a square to look for closeness with one another, and also a square should offer people some way to satisfy their desires. Thus, he noted the importance of shopping and regarded shopping malls as "an casting vote". He therefore combined squares with shopping malls.The last keyword is "hometown city". Ishikawa recognized the importance of the square in Western cities, but stressed that Japanese city planning should not blindly imitate Western cities without considering the character of each city. Ishikawa thus decided to transform the Western square into an amusement place (sakari-ba in Japanese) where people could enjoy flowing down the street.
著者
藤井 正
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.2-2, 2004

都市圏は、爆発的に拡大する近代都市空間を把握し整備するための、単核で求心的な構造を有する結節地域概念(中心地とその関係圏という空間的まとまり)である。それに対して近年の日米大都市圏についての構造変化・多核化研究は、新たな機能地域構造を提示しつつある。都市圏は、都市機能の郊外立地とともに多核的な構造へと変化してきた。合衆国ではオフィス中枢をも含む郊外都心も形成され郊外の自立化が指摘された。しかし、各郊外領域間や中心都市との流動は少なくないし、都心群はむしろ機能分担している。日本でも中心都市通勤者数が減少をみるなど、少子高齢化や都市機能の郊外立地、郊外への転入人口の減少などのなかで東京や大阪などの大都市圏という従来の地域構造は転機を迎え、今後の住民の生活行動が問われている。 このように相互流動の展開が見られる都市圏を、本報告では新たな機能地域(相互流動による空間的まとまり)として理解したい。中心都市による単核の求心的な結節地域構造から、郊外への中心機能の立地(分散的多核化)がすすみ、合衆国では機能集積を生み出す集中的多核化によって郊外都心形成もみた。しかしそこでも都心群は機能分担し、領域間ではかなりの相互流動を示す。こうした郊外都心形成には至らないわが国大都市圏でも、郊外間流動が増加する一方、中心都市通勤者も減少を示すようになってきた。そこでは中心都市の強固に見える結節地域構造の下層で展開する分散的多核化により、やはり相互流動の展開する新たな機能地域構造がその重要性を増している。また都市政策面で盛んに主張されるコンパクトシティだが、それらが形成する都市圏(都市地域)全体の構造についても、同様の視角からの検討が今後求められよう。
著者
溝尾 良隆 菅原 由美子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.300-315, 2000
被引用文献数
3 4

The purpose of this paper is to clarify how and why the conservation of Kurazukuri buildings increased the number of tourists and re-vitalized a shopping street in Kawagoe City, Saitama Prefecture.Kawagoe City is located about 30 Kilometers from the central part of Tokyo with a population in 1998 of 324, 879. Ichibangai Street was planned as an area for craftsmen and merchants about 300 years ago. Since then, Ichibangai Street continued to be the center of commerce in Kawagoe City. However, the center of commerce in Kawagoe moved to the south of the city in the early 1960s. This is mainly because Japanese National Railways and three private railways built terminals there, and supermarkets and department stores moved to or were newly-opened nearby. As a consequence, commercial activities in Ichibangai Street declined.Fortunately, a lot of Kurazukuri style warehouses, houses, and stores with their invaluable historical heritage remained as the original buildings. These buildings were constructed to make them fire-proof structures after the great fire of 1893. Following the advice of external architects, the local administration and the inhabitants have become deeply committed to the conservation of these buildings.The local administration took the following steps: 1) providing a subsidy for the restoration of buildings; 2) enforcing landscape regulations; 3) constructing small parks along the street; 4) laying a more attractive pavement; and 5) burying the electric power lines.Inhabitants of Ichibangai Street organized the Kura-No-Kai (Association of Kurazukuri buildings) for the re-vitalization of commerce and conservation of Kurazukuri buildings. One more important action by the inhabitants was to design the Machinami Kihan (Standards for House Conservation) which is applied in the case of house restoration.Today, many tourists visit Ichibangai Street with the number of people visiting Kawagoe amounting to 3.5 million persons per year. Visitors to the Kurazukuri Museum, for example, increased 3.6 times between 1982 and 1997. Tourists make up nearly 100per cent of the customers at shops in Kashiya Yokocho Street and tourists make up at least half of the customers at almost 40per cent of the shops in Ichibangai and Kanetsuki streets. Between 1975 and 1997, almost 60per cent of the shops changed their function, with restaurants and coffee shops for tourists especially increasing in number.A large increase in consumption by tourists has resulted and shops and bustling streets have been re-vitalized. It follows that the inhabitants gained in confidence to conserve the Kurazukuri buildings and to maintain a landscape featuring a row of well-conserved buildings.
著者
新井 智一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.301-301, 2008

1.はじめに 東京大都市圏郊外に位置する多摩地域西部では2000年以降,ショッピング・モール,大規模スーパーマーケットやホーム・センターの進出が著しい.従来の商業地理学では,いわゆる大店法の改正や大店立地法の成立に見られるような,流通規制緩和に伴う大規模商業施設の進出についての研究は数多いものの,商業施設の進出をより大きな政治的背景から検討したものは少ない.そこで本研究は,多摩地域西部における大型ショッピングセンターの進出について概観し,このうち西多摩郡日の出町の「イオンモール日の出」開業の政治的背景について明らかにすることを目的とする. 2.多摩地域西部における大型ショッピングセンターの進出 多摩地域西部において,2000年以降に開業した主な郊外型大規模商業施設は,アウトレット・モール,ショッピング・モール,大規模スーパーマーケット,大規模ホーム・センターに分けられる.また,開業前の土地利用に着目すると,自動車・自動車部品メーカーの工場閉鎖,百貨店の物流センターの再配置,製造業による都市開発事業への展開,銀行の福利厚生施設売却,などの背景が大規模商業施設の用地を供給していることがわかる. 3.イオンモール日の出の開業と秋留台開発計画 こうした経済的背景の一方で,多摩ニュータウンにある三井アウトレットパーク多摩南大沢などは,不動産会社などが都有地を買取するなどして開業させたものであり,東京都の多摩ニュータウン開発からの撤退という政治的背景も見られる.こうした政治的背景について,日の出町のイオンモール日の出を事例とし,さらに検討する. イオンモール日の出のある地区は秋留台地に含まれる.東京都や秋留台地域の自治体は,1984年に首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の整備が表面化して以降特に,秋留台の開発をうたってきた.これを受けて1993年に東京都都市計画局は,「秋留台地域総合整備計画」(以下,秋留台計画)を策定した. 秋留台計画は,「多摩地域の自主性を高めるための先端技術産業の導入と就業の場の確保」を目的とし,旧秋川市を中心として68,000人の人口増加と36,000人が働く産業を誘致するとした.また,秋川市・五日市町・日の出町の合併を暗に促進した.その結果,秋川駅周辺において「あきる野とうきゅう」を中心とした商業施設の集積が進んだ.また,いくつかの工業団地造成や土地区画整理が進んだ.しかし,計画策定後の深刻な景気低迷により,目標に遠く及んでいない. 秋留台計画においてイオンモールのある三吉野桜木地区は当初工業・住宅地区として,また3市町合併の際には行政地区として開発される計画であったが,未開発地区として取り残されていた.そうした状況の下でイオンがショッピング・モールの進出を日の出町に打診し,全面的な賛同を得た.しかし,この地区と秋川駅との距離は1kmほどしかなく,2007年の開業前後から数多くの店舗が秋川駅周辺の商業施設を離れ,イオンモールに移転するという問題が生じている. イオンモールの進出は秋留台計画の変更を伴うものであったものの,都や秋留台地域自治体の議会では秋留台計画についてほとんど議論されていない.秋留台計画頓挫の後処理を進めるために,都や秋留台地域の自治体がこの計画を省みないことによって,イオンモール日の出は開業に至ったと考えられる. このように,多摩地域西部では,上位スケールの政治的・経済的背景が新たな商業空間の創出を促していると結論づけられるのである.
著者
土居 浩 西 訓寿
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.P04, 2008 (Released:2008-12-25)

ライトノベルは《どこを》描写しているのか,ライトノベルは《どこに》存在しているのか.文化現象に対してむしろ「場所・空間フェティシズム」(参照:森正人『大衆音楽史』中公新書,2008)をより徹底化させることで,場所・空間研究の立場から,ライトノベル研究ひいてはポピュラーカルチャー研究に寄与することができないか.この目論見を素描することが,本発表の目的である. ライトノベルは《どこを》描写しているのか,との問いで注目するのは,安藤哲郎(「説話文学における舞台と内容の関連性」人文地理60-1,2008)が「舞台」と呼ぶ対象とほぼ同義である.安藤は「舞台」を「登場人物などに何らかの行動がある場所,由緒や出身地としての説明がある場所」として,院政期に編纂された説話集からその「舞台」を抽出した上でさらに分析軸を加える.本発表も安藤と同様に,登場人物の行動を追いかけることで作品の「舞台」を抽出するが,分析軸については安藤の方法をとらない.それは対象とする作品群の違いに拠る.つまり安藤における説話集と異なり,本発表におけるライトノベルが文学研究の対象としてようやくみなされつつある現状を前提としている. 文学作品を対象とする地理学研究に対して小田匡保は,「地理学研究者が文学を扱う際に,文学研究者の研究史を踏まえ,それに(地理学的観点から)何か新しいことを付け加えるのでなければ,文学の人には相手にされないだろう」(「文学地理学のゆくえ」『駒澤地理』33,1997)と指摘している.すでに10年以上経過した現在においてもなお有効な指摘であることを認め,本発表ではライトノベル研究を踏まえつつ,まずは「文学の人」に相手にされる研究を試みた. ライトノベル研究の現状については,大島丈志(「ライトノベル研究会の現在」日本近代文学78,2008)の整理が参考になる.大島は「ライトノベル市場が拡大し影響力を増す一方で,ライトノベルに関する研究は文学研究の落とし穴のような状況になっている」と指摘した上で,ライトノベル研究会で蓄積された知見を紹介する.そのひとつとして,ライトノベルの成立期におけるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)の影響がある.この点に関連し発表者はライトノベル研究会に参加し,ライトノベルが描写する「舞台」について直接に研究会参加者たちと意見交換する中で,「舞台」の時期的変遷が参加者たちにある程度共有されつつも,いまだ実証的検討が試みられていないことに気がついた. ライトノベル研究に場所・空間研究の立場から寄与すべく,本発表ではアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)主宰の小説賞である電撃小説大賞を対象とし,その大賞・金賞受賞作品は《どこを》描写しているのか,作品の「舞台」を抽出し整理を試みた.その結果,90年代の受賞作品と,00年代の受賞作品とでは,その「舞台」の明確な差異が指摘できた.ライトノベルはより《学校を》描写するようになってきており,端的に述べればライトノベルの「舞台」は《学校化》しているのである. 以上は作品内部の分析である.では作品外部はどうか.これに対応する問いが,ライトノベルは《どこに》存在しているのか,である.森前掲書の「重要なキーワード」である「聴衆,音楽産業,商品化,物質化,アイデンティティ,政治,歴史,地理(移動,場所,空間)」は,冒頭の二語を「読者,出版産業」等に置換すればそのままライトノベルの語り口としても適用可能かつ重要なキーワードとなる.とはいえこれらキーワードが示すメタ次元の問いを発する前に,本発表ではベタな実地踏査を試みた結果を報告する.その意味では断片的報告であり,トポグラフィならぬトポグラフィティを名乗る所以でもある.
著者
渡邉 英明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.11-11, 2010

雁木通りは,街路に面した町屋が軒先を張り出すことで形成されたアーケード状の構造物で,新潟県を中心とする降雪地域で特徴的にみられるとされてきた。雁木通りをめぐっては,従来,無雪通路としての意義が強調されてきたが,玉井(1994) は,江戸の庇下空間のような商業機能が,降雪地帯の雁木通りでも同様に重要であった可能性を指摘している。雁木通りの商業機能は,今後検証を進めるべき論点といえよう。 さて,雁木通りは江戸時代に起源を有することが指摘されながら,近世史料に基づいた本格的な分析は長くみられなかった。そのなかで,菅原(2007)は,越後・陸奥・出羽など各地の事例を比較しつつ,近世初期から近代に至る雁木通りの形成・展開過程を検討し,雁木通りの商業機能についても,八戸藩や秋田藩について,定期市認可に伴って建設された小見世通りが多いことを指摘した。ただし,定期市設営時の雁木下利用の実態については,なお不明な点が多い。本研究では,19世紀の三条町を事例として,雁木通りの形成状況と,定期市設営時における商業機能について検討することを目的とする。 三条町は1616年の市橋氏入封とともに城下町として整備され,1623年の廃藩後は在方町として発展した。町並は信濃川と五十嵐川の合流点付近に形成され,五十嵐川に沿って東西に展開した。上町の東端は一ノ木戸村に接し,さらに,その先は田島村に通じていた。両村は1717年に高崎藩領に編入され,三条町(幕領)と支配違になった。これを契機として,一ノ木戸村,田島村では町屋建設が進められ,その規制を求める三条町との間で,幕末期に至るまで争論が繰り返された。一連の争論では,一ノ木戸村・田島村の町屋における「庇(=雁木)」が度々問題になった。その後,幕府裁定により,両村の庇は撤去が命じられたが,町屋造成と同時に庇(雁木)建設の動きがあった点は興味深い。 三条町の雁木通り建設時期について,氏家(1998:480)は江戸時代中期としている。これに関して,1846年に八幡小路の五人組頭8名が町会所に提出した嘆願書に「八幡小路の儀は両側とも地狭に付き雪中は雪卸し積立て候故通行難儀仕り候に付,古来より本町並庇通行に御聞済に相成り居り候」という一節がみられる(三条市立図書館所蔵文書1458,1846年「道路拡張願上書」)。八幡小路や本町通り(上町~四の町)で,無雪通路として利用されていた雁木通りは,1846年段階で「古来」とされる時期に形成された。18世紀中期には,縁辺部の田島村で庇建設の動きがみられたが,三条町内の庇(=雁木通り)は,その頃には広く形成されていたことが推定できよう。なお,三条町内の雁木通り形成街区について,氏家(1998)は上町から四の町に至る本町通りとしたが,菅原(2007:7-8)は幕末期の絵画史料から,四の町の西端(五の町境)や本寺小路でも雁木通りが存在したことを指摘した。それに加え,上記嘆願書からは,八幡小路における雁木通り形成も知られる。 三条六斎市における雁木下利用は,1828年の三条地震を記録した『懲震毖録』に窺える。三条地震は,未曽有の大災害として知られ,六斎市が開かれている最中に発生した。大地震に,家屋は一瞬で倒壊し,本寺小路で見世を広げていた野菜売りが庇の下敷きになったという。『懲震毖録』は,市見世が庇下に設置されたことを窺わせるのみであるが,1884年「官有地御拝借願小前書」および「官有地拝借孫庇地麁絵図面」(三条市立図書館所蔵文書648・2315)は,より詳細な出店形態を示す。これらは,孫庇の設置場所とその幅員,使用者,使用料を記録した史料である。孫庇は,雁木先からさらに小庇を道路側に張り出したもので,1928年の加茂六斎市の規定に現れる紙天と同様の機能を果たしたとみられる。三条六斎市では,孫庇の張り出しは,4尺5寸以内に規制されていた。孫庇は,町の両端に多く内側に少ない傾向を示し,大町では著しい集積がみられる。 三条町では,少なくとも19世紀末期まで,雁木を伴う町屋建設が継続されていたとみられる。しかし,その後は三条町の雁木通りは衰滅に向かい,1930年代には既に衰退が進んでいたことが報告されている。また,氏家(1998:480)も,1960年代に実施した現地調査から,大正後期に衰退が始まり,昭和初期に消滅したと位置づけている。これに伴って,雁木下を利用した三条六斎市の出店形態も,変容を余儀なくされた。文献氏家 武『雁木通りの地理学的研究』古今書院,1998。菅原邦生『雁木通りの研究』住宅総合研究財団,2007。玉井哲雄「町割・屋敷割・町屋―近世都市空間成立過程に関する一考察―」(都市史研究会編『年報都市史研究2』山川出版社,1994)68-85頁。
著者
中村 努
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.5-5, 2006

<B>はじめに</B><BR> 戦後、メーカーの系列下で配送業務のみを担当していた医薬品卸は、1992年に仕切価制度が導入されて以来、自ら価格設定を行う必要に迫られた。また同年、薬価算定基準が改定されたことによって、薬価差が縮小している。<BR> 一方、医薬品流通の川上に位置し、新薬の研究開発費を捻出したい製薬企業は、医薬品に高い仕切価を設定しようとする。他方、川下に位置する医療機関や薬局も、診療報酬における包括支払い制度の導入や、医薬分業の進展によって、医薬品へのコスト意識が高まっており、値引きと高頻度の配送を要請している。<BR> 医薬品卸は1990年代後半以降、合併再編や淘汰、業務提携を繰り返して4グループに集約されつつある。さらに、製薬企業の物流代行や医療機関の在庫管理など、従来の配送業務にとどまらない情報サービスを提供することで、顧客との取引を維持、拡大しようとしている。<BR> 本発表では、再編が進む医薬品卸売業の経営戦略と新たな情報サービス機能の実態を把握して、医薬品卸が日本の医薬品流通において果たす役割を検証する。<BR><BR> <B>4大卸グループによる全国ネットワークの形成</B><BR> まず、連結売上高における規模の大きい順に、各医薬品卸グループの経営戦略の特徴を整理する(第1表)。<BR> 連結売上高1位のA社は、2005年4月に日用品卸と合併したことによって、医薬品に加えて、化粧品や日用品を一括して納入できる配送体制を構築した。商圏は子会社を中心とした沖縄を除く地域となっている。また同社は、商社と提携して院内物品管理(SPD)の共同事業を進めるとともに、中国への進出も検討している。<BR> B社は2005年10月、北海道と九州地方以外の販路を確立した。2005年4月以降、女性配送員による多頻度配送を実施して、保険薬局に対する市場シェアを高めている。さらに情報提供会社による医療機関に対する情報提供、医療材料の仕入れ集中化によるSPDの強化、医薬品製造子会社を活用した医薬品の開発、製造などを行っている。<BR> C社は2005年10月、九州4県を商圏とする医薬品卸と業務提携を締結したことによって、その商圏は全国をカバーするにいたった。同社は医薬品製造子会社と医療機器製造子会社を活用して、医療関連製品の開発、販売している。<BR> D社は地方の医薬品卸と提携するグループを、複数形成している。具体的な共同事業を実施していないグループの商圏を除くと、D社の商圏は滋賀、京都、和歌山、沖縄以外の43都道府県である。同社の特徴は、顧客への付加価値を高めるための情報サービス機能を強化していることである。保険薬局や病院、診療所向けの医薬品の発注端末、保険薬局向けの分割販売や在庫処理システム、病院、診療所向けの診療自動予約システムや処方せん送信システムを、それぞれ自社開発したうえで有償で提供している(第1図)。さらに、医療材料を扱う商社と提携することで、SPDを強化している。<BR> このように、医薬品卸4社はいずれも、他の医薬品卸との合併や提携を通じて、全国的な営業網を形成している。また、医薬品市場におけるシェアの大幅な拡大が見込めない中で、他分野への事業に商社など他業種と連携して取り組んでいる。しかし、医薬品卸の経営戦略によって、強化しようとするサービスの内容には違いがみられる。<BR><BR> <B>D社による情報サービス機能の強化</B><BR> D社は4グループのうち、顧客支援のためのサービスにもっとも積極的に取り組んでいる医薬品卸である。同社は、不採算品目の除外を含めた価格改定交渉を進めて取引の正常化を図るとともに、顧客支援システムの導入を拡大している。特に同社の保険薬局向けの有料会員システムは、1998年9月に販売を開始して以来、導入先件数を2006年3月現在で9,800件まで拡大しており、その中心となる分割販売サービスを黒字化した。<BR> しかし、病院向け在庫管理システムの導入先は地域の中核病院である国公立の病床数200床以上の大病院に多い一方、中小病院や診療所向けの販路は少ない。その理由として、大規模病院は情報システム投資余力が大きいうえに、取扱品目数が多いために在庫コスト削減の効果が大きいことが考えられる。<BR><BR> <B>医薬品卸が採りうる経営戦略の方向性</B><BR> 今後、日本の医薬品卸が採りうるビジネスモデルは、1) 欧米の卸が採用する物流特化型、2) 顧客の付加価値を高めるために情報を加工する情報サービス型の2タイプがあろう。医薬品卸は医薬品の配送業務のみでは利益を拡大しにいことから、後者で利益を確保するため、営業マンの削減と情報化投資を並行して進めている。医薬品卸はこのビジネスモデルを確立するため、営業マンを育成すると同時に、システム開発コストを適正な価格に反映させ、医療機関や薬局が有償サービスを付加価値として認識させる必要があろう。
著者
青山 宏夫
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.12-15, 2013

近世日本における世界図は、仏教系世界図、南蛮系世界図、マテオ=リッチ系世界図、蘭学系世界図などに系統分類され、とくに南蛮系世界図をのぞく三者は近世を通じて併存していたといわれている。また、これらに加えて、17世紀半ばから18世紀前半に流布した万国総図やその影響下にある世界図を、別の系統に分類する見解もある。本報告では、この点を再確認したうえで、これらの異なる系統の世界図はいかにして併存しえたかという課題設定のもと、とりわけ近世を通じて影響力を維持したマテオ=リッチ作製の世界図に基づく世界図を中心に、当時の思潮にも注意しつつ、近世日本における世界図史を検討する。また、この過程で、坤與万国全図の諸版とその写本・増補、その影響下にある刊行図などを検討することにより、坤與万国全図をはじめとするマテオ=リッチ世界図が、その東西両半球図を含めて、近世日本にいかにして受容されたかについても考察したい。
著者
伊藤 貴啓
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.49-49, 2011

本発表は東海地方(愛知・三重・岐阜の3県)における農産物直売所の地域的特色をその設立と立地,開設効果,消費者ニーズとその対応などに関するアンケート調査1)を基に考察するものである。<BR> <B>直売所の設立と立地</B> 東海地方において,直売所は1990年代以降,とりわけ90年代後半から2000年代前半にかけて設立されたものが多い(図1)。その立地は愛知県を除いて山間部が過半数を占め,残りを主に平地農村部と都市部で分け合う形となっている。これに対して,愛知県では平地農村部が最も高く,都市部と山間部がともに4分の1ずつを占める。それらの立地理由として,各県直売所ともに主要道路沿線,生産者近接,既施設併設をあげる割合が高かった。また,設立・運営の主体は生産者または生産者グループが中心であるものの,愛知県において農協が設立・運営の主体になる割合が高い(図2)。これは農協施設に併設して直売所を設けるタイプが多いためである。<BR> <B>設立目的と開設効果</B> 直売所の設立目的として,直売所の6割強が「地元農業の振興」「地域の活性化」を,3割強が「地元農産物への消費者ニーズを満たす」「女性・高齢者の活躍の場を作る」を挙げる。具体的な利用者状況をみると,愛知・岐阜両県では年間利用者数1万人未満と10万人以上という直売所が多く,三重県では10万人以上が半数を占めた。年間売上高では愛知・岐阜両県の場合,年間売上高5千万円未満が半数以上を占め,他方で岐阜県の直売所の4分の1が年間1億~5億円の売上高を誇り,愛知県ではさらに年商5億円以上の直売所が12施設(11.7%)みられた。これらから規模からみた直売所の両極性を指摘できよう。全体としてみれば,直売所の開設効果は「地域農産物の有効利用」「消費者とのコミュニケーションの活発化」「地域の活性化」「生産者の所得向上」「女性・高齢者の活動が盛んに」という点にある(図5)。<BR> <B>出荷者と価格決定</B> 直売所へ出荷する生産者を規模別にみると,全体として50人未満の直売所が4割強を占め,なかでも愛知県の場合,半数以上を占めたのに対して,出荷者数300人以上の大規模な直売所も愛知県で12施設みられ,先述のような規模の両極性がみられた。出荷者は直売所と同一市町村内の農家がほとんど(86.9%~90.1%)であり,これに隣接市町村の農家が加わる形となる。従来,出荷者は専業農家が少なく,女性・高齢者を担い手とするとされたが,愛知県では4分の1弱の直売所で専業農家が過半数以上を占めることが注目される。各直売所の価格決定権はほぼ生産者個人または生産者集団に委ねられている。生産者は周辺スーパーの価格を参考とし,さらに愛知・岐阜両県では周辺直売所の価格を,三重県では津の卸売市場の建値を参考としていた。<BR> <B>消費者ニーズとその対応</B> 消費者は同一市町村または隣接市町村に居住する者が多いため,リーピーターの割合が高い(図4)。ただ,一部の大規模直売所は県内他市町村からの集客を可能にしている。直売所は消費者ニーズを鮮度(5段階評価で4.3,以下同),安心・安全(4.1),品質(3.8),価格(3.8)の順で捉えている(図6)。これを具現化するため,直売所の過半数弱が朝採り販売を行い,3分の2が生産者氏名を明記し,3分の1強が地場農産物の安定販売や地場農産物の販売のみを行う。また,トレーサビリティに対応し,残留農薬の検査を行う直売所も3分の1弱ある。<BR> 直売所のこのような取り組みは消費者からみた「鮮度」「安心・安全」「品質」を真に具現化し,ローカルフードシステムの構築の地域的条件となり得ているのであろうか。この点について,今後,消費者側からの調査も含めて考察を深めていきたい。なお,発表では紙幅の関係で提示できなかった分布図も交えながら上記の諸点(直売所の設立と立地,開設効果,消費者ニーズとその対応など)について考察する。<BR><BR>1)アンケートは2011年3月に東海農政局及び各県ホームページ掲載の直売所(愛知県267か所,岐阜県123か所,三重県47か所)に対して行った。回答率は全体で37.1%(愛知県38.6%,岐阜県33.3%,三重県43.9%)であった。
著者
久島 桃代
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.54-55, 2013

1990年代以降のイギリスの人文地理学では、「障害」の意味を社会的・空間的文脈に位置づけながらも、一方で個々の身体的行為に根差した、パフォーマティブなものであるとする見方が強くなっている。本大会ではこの議論について紹介する。
著者
高木 秀和
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.201, 2008 (Released:2008-12-25)

1 目的と方法 本論は、三重県先志摩半島に位置する志摩町(現・志摩市志摩町)のなかから片田についで「漁法の多様性」がみられる御座において、漁村の村落構造と漁法との関係をフィールドワークにより示し、村落構造の規定要因を明らかにすることを目的とする。 2 地域概況 三重県志摩市志摩町は先志摩半島と呼ばれる半島の大半を占め、全体が隆起と沈降を繰り返した海蝕台地の上に乗っている。そのため、台地面および海底地形は複雑であり、熊野灘側の磯漁場、英虞湾側のリアス式海岸のような好漁場をうみだした。 このような基本的な自然条件にある志摩町域の西端に位置する御座は、英虞湾口にあるために海水循環がよく、イワシ類がよく入ってくる。そのために、カツオ漁に欠かせないイワシを狙う小型定置網(御座では「大敷」と称する。以下、大敷とする)による水揚量が他地区に比して多く、真珠養殖漁場も相対的に恵まれている。また、御座岬周辺には岩礁が発達し、磯漁に好影響を与えている。 御座の人口・世帯数は2007年9月末の時点で、人口664人、うち65歳以上208人、世帯数265を数えるが、1955年時点と比較すると世帯数は約20、人口は560人以上減少した。2001年時点の正組合員数は117人であり、漁業従事者も減少している。 御座の基本的な社会集団をみてみると、地区内を6つに分けた番組があり、それぞれが定期的に寄合を持っている。後述するが、漁協とムラとのつながりや関係性は強く(以下、ムラ=漁協と記述する)、志摩漁村のなかでは地縁的まとまりが比較的強いといえる。そのほか、特権的な集団として氏神の御座神社の世話役である祷屋(大祷)があった。これは30軒前後の家でその役を順番に回して務めていたが、1988年を最後に廃絶した。 3 御座における漁村の村落構造と漁法との関係 御座では小型定置(大敷)、あま、えび刺網、ツボアミ、一本釣などの漁法がみられ、そのほか真珠養殖もおこなわれている。このように御座でも「漁法の多様性」がみられるといえる。どの単位で漁を行うかをみてみると、大敷以外は血縁や地縁や個人のレベルで漁業に従事しており、規模も家族レベルで営まれる漁法が多いので大きくはない。なお四艘張は戦後廃絶した。 ところで、ムラ=漁協の収入源となっているのが大敷の漁場料(餌鰯沖売歩合金)と口銀(手数料)である。大敷は網元経営によるが、かつてはムラ人の就労先となったり現在でもムラ=漁協に対して多額のカネを納めているという点では地縁的な漁法であり、ムラ=漁協に自由を奪われた網元といえる。また、昭和30年代後半まで「村営」とよばれた「御座村鰯大敷網組合」があり、各種団体(婦人会や青年団など)に運営資金が支給され、なおかつムラ人たちには盆前に漁獲物が支給されたという。村営廃止後は、各種団体に運営資金を支給する習慣が漁協に受け継がれ、毎年漁協から100万円(うち50万円は御座神社の祈祷料)が捻出された。しかし、1970年ころ町から注意を受けて両者ともに廃止された。さらに、各番組で話し合われた要望事項を漁協の総会や理事会に提出して議論をおこなうことから、旧御座村が志摩町に合併(1954年)後も漁協はムラの行政的な役割の一部も担っていたといえる。なお、かつては何軒かの網元があったが、現在では御座に網元が在住するY大敷(3統)と浜島に在住するY氏(1統)が従事しており、後者は浜島に漁獲物を水揚げする。 その他、磯魚を対象とする漁法に関しては片田ほど磯漁場の環境には恵まれておらず、聞き取り調査から刺網とツボアミなどいくつかの漁法を組み合わせて生計を立てる零細漁民の姿がうかがえる。なお、真珠養殖が普及すると雇われの従業員も含めて養殖業に転業するものも多かったためにこの「漁法の多様性」は見えにくくなったが、それが衰退している今日においては再び「漁法の多様性」を明瞭にしている。 4 御座における漁村の村落構造の規定要因 御座では多数の一般漁民たちは少数の網元のもとで水夫として大敷に従事したが、網元より納められる多額のカネによりムラ=漁協の財政は潤い、各種団体の活動資金も配分されていたことなどからその存在は肯定されていたといえる。このように御座の大敷は網元経営でありながらもムラに密着した地縁的漁法であり、その構成員たちも比較的横並び的な関係にあった。しかし、真珠養殖の成功や観光地化(民宿業)により一時的に財をなすものもいたが、今日では両者ともに規模を縮小させたり廃業に追い込まれているケースが多く、再び磯漁を中心とした「漁法の多様性」が浮かび上がってきたといえる。
著者
小林 致広
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.193-214, 1984
被引用文献数
2

In the last decade, alternatives have been proposed to the "Darwinian" paradigm in cartography, which has concentrated its attention on the chorometric and planimetric accuracy of maps. This article examines structural and iconographical analysis in map studies, which can be of great help in understanding the indigenous structure of geographical knowledge.The Mapamundi of Guaman Poma, inserted in his "Nueva Corónica y Buen Gobierno", has a title that would imply necessity of both traditional and alternative approaches. The title "Mapamundi de las Indias" shows that it depicted the extent of the Viceroyalty of Peru in the early seventeenth century. But the marginal notes of the Mapamundi tell us that the territory of Tawantinsuyo, or the so-called Inca Empire, is also depicted.In the third chapter, the Mapamundi is examined as an Andean regional map in the traditional scheme. The identification of 17 ports and 25 towns shows that their distribution on the Mapamundi does not coincide with that of the modern scaled map. A river that flows leftward in the Mapamundi is designated as Marañón or the Amazon, the Orinoco and the Magdalena. The "caminos reals" which had connected primary colonial towns from Bogotá to Santiago de Chile connect only eight towns on the Mapamundi, although all the towns depicted in the Mapamundi were situated on the "caminos reals". Therefore Poma's Mapamundi completely lacks the minimum criteria of accuracy that a contemporary regional map should have.In fourth chapter, the Mapamundi is examined according to an alternative scheme to extract the cognitive structure of Andean space. In spite of its resemblance to the format of European medieval mapamundi, Poma's Mapamundi reveals the indigenous structure of Andean space. Two diagonal lines divide the Mapamundi into four quarters. Each of them corresponds to the four suyos or quarters of the Inca Empire, that is, Chinchay-suyo, Colla-suyo, Ande-suyo and Conde-suyo. The quadripartitional structure of space corresponds to the Andean vertical dichotomy, hanan (above) vs. hurin (below). This vertical dualism is based on the socio-political structure as well as spatial structure of Cuzco, the capital of the Inca Empire. Needless to say, Cuzco (the center) and the four suyos constituted the quintipartitional structue of Andean space.These structures of Andean space were applied to Poma's recognitional model for the mundial monarchy that was under the reign of the Spanish king. In his scheme, the kingdom of the Indias is located in the lower half of the world, although it is depicted in the upper half of the "Pontificial Mundo". The former location was indicated by the Spaniard invasion in Tawantinsuyo.The multidimensional structure of Andean space, which consists of vertical dualism (hanan vs. hurin), center-peripheral structure, and quadri and quinti-partitional systems, is extracted by structural analysis of Poma's literary and visual text. The Mapamundi is divided into two sections by the river system. The upper half beyond the river system is filled with non-Andean icons, for example griffins, sirens, or unicorns. Indias would be classfied into three spheres, that is, the Andes, the selva or montana, and the other imaginary mountainous land along the Mar del Norte or the Atlantic Coast. Figure 11 shows the classification of the Indias in Poma's Mapamundi and its iconographic structure. Poma's geographical knowledge beyond his native land is so vague that Guinea, the land of black people or Africa, is located next to Panama in his chronicle.
著者
竹中 克行
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.24-24, 2010

I.遺産都市タラゴナ タラゴナは,スペイン北東部カタルーニャ自治州の地中海に面する都市である.州都バルセロナの南西約85kmに位置し,人口は13万8千人(2008年),内陸側に近接するレウスともにカタルーニャ第2の都市圏をなしている.タラゴナには,フランコ体制期(1939~1975年)に開発された大規模石油化学コンビナートとともに,スペイン5指に入る国指定管理港湾があり,これらが地域の産業・雇用にとって重要な基盤を提供している. 他方,郊外中心で進められた産業地区・住宅開発とは裏腹に,歴史地区にあたる面積約18haの上手地区は,長期にわたって行政の施策から置き去りにされ,著しい生活環境の悪化を経験した.本報告が注目するのは,1980年代に始まる歴史地区再生に向けた動き,なかでも歴史文化遺産に与えられた意味である. 古代ローマの属州の都,タラコを起源とするタラゴナには,きわめて豊富な考古遺跡が残されている.とくに上手地区は,神殿・属州フォルム・競技場の3大要素がおりなす古代タラコの中枢部を継承する空間である.考古遺跡には,博物館ないしオープンスペースの一部を構成するものもあるが,現実には,大部分が地下に眠ったままか,後世の建造物の礎石や壁の一部をなしている. このような考古遺跡の特性は,遺産保護をめぐるタラゴナの都市政治に複雑な問題を提起している.報告では,(1)考古遺跡を中心とする歴史地区の遺産化,(2)遺産保護が生活環境整備に与える制約,という主に2つの側面から考察する.II.歴史地区の遺産化 1993年に制定されたカタルーニャ文化遺産法のもとで,タラゴナは,市全域にわたって考古学遺産の指定を受けた.とくに上手地区に関しては,中世以降の建造物を含めて,全域が歴史的建造物群とされ,さらに,文化財の個別指定を受けている地区内の建造物は約100件にのぼる.国から文化政策に関する権限を移譲されたカタルーニャ自治州によって,独自の地域・歴史認識を背景にもつ遺産政策が始まったのはこの頃である.2000年,タラゴナ古代ローマ遺跡群はUNESCO世界遺産に登録され,上手地区だけでも,属州フォルム・競技場と市壁の3件が登録対象となった. 現在のカタルーニャ自治州の遺産保護政策では,考古学遺産に指定されているエリア内で建物の建替え・大規模改修を行うさいには,開発者の負担で発掘調査を実施しなければならない.調査の結果,学術的・文化的価値のある遺跡が発見された場合は,開発者に対して保存の義務が課せられる.遺跡調査・保護にかかわる制度的要請ゆえに開発に一定のブレーキがかかるなかで,博物館,市民センター,文書館など,行政自らが上手地区の建物を活用する事例は着実に増えてきた.また,民間投資の面でも,デベロッパーが採算性を見込んだ不動産が,賃貸アパートメントなどの形で選択的に更新されている.考古遺跡の存在に注目し,これを一種の付加価値として積極的に活用する事業者も現れた.III.遺産保護と生活環境整備 他方,1985年,都市計画マスタープランの下位計画に位置づけられる上手地区特別計画が策定され,減築とオープンスペース創出を基本とする,行政による地区の生活環境整備が始まった.注意すべきは,居住者向けの生活環境整備に対して,先述の遺産保護政策が,建造物取壊しなどをめぐって,しばしば矛盾する力を加えているという点である.古代遺跡に限らず,中世以降の建造物も含む歴史地区の建造環境全体を保護しようとする自治州の遺産保護政策が,市主体の都市計画への制約要因としてのしかかっているからである. とはいえ,遺産保護と生活環境整備を単純な対立関係でとらえることはできない.実際,生活環境の改善に主眼をおく都市計画においても,遺跡への眺望を重視した広場の改修や古代都市の構造に合わせたカラー舗装など,訪問者の視線を強く意識した事業は少なくない.また,それらの公共事業を引き金として,民間投資による都市空間の化粧直しも進んでいる. 更新された賃貸アパートメントに住む若い専門職・教員,オープン工房に市民を集める職人・アーティスト,毎年台詞を変えながら大祭りの人気の出し物となっている「婦人と老人の踊り」など,上手地区の新しいダイナミズムを示す局面はけっして少なくない.そうした動きには,文化行政が創り出す大きな遺産の物語だけでなく,都市の顔たる歴史地区にさまざまな蓄積された価値を見いだす,よりミクロな市民の視点が深くかかわっている.