著者
石野 聖
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.46, 2011

1.はじめに 発表者が勤務していた中学校の1年生全員を対象に、3学期の学年行事である『実力テスト』において日本の白地図に都道府県の正確な位置と名称を答えさせる問いを出題した。47すべての都道府県についての問題である。その結果を元に、次の2点に注目してみた。(1)都道府県ごとの正答率の対比―解答については、正確な漢字で書いているか平仮名か。誤答については、他県名を書いているか誤字か空白か。(2)今回の正答率と定期テストの得点率との対比―「この分野は得意」という生徒が散見されたため、小学校6年時の担任が社会科専攻かどうかを調べた。以上から、地理的分野の学習(県名認知を例に)において、現在の教育現場では具体的にどのような指導が必要なのかを考察する。2.白地図テスト実施までの流れ 発表者が勤務していた中学校は、大阪府門真市にあるE中学校(公立)である。この中学校では、S小学校、K小学校、H小学校(いずれも公立)の3小学校の卒業生を受け入れている。 毎年1月に、中学1・2年生の学年行事として、『実力テスト』を国語・社会・数学・理科・英語の5教科において実施している。それぞれ既習の範囲内で各教科50分出題される。中学1年生の社会科では、主に世界地理と日本地理(地形図)の出題が中心である。 試験対策については、基本的には『実力テスト』と銘打っているので、通常の定期テストのように事前に範囲を指定し、課題等を渡しておいて受験させるという流れではない。しかしながら、白地図問題が含まれるため、冬休み用課題として47都道府県をすべて記入するプリントを配布しておいた。 3学期開始後、課題の自己採点を行うための解答を生徒へ配布した。その際、「次の実力テストに、都道府県名を答える問題を出題する。」ということを明言しておいた。3.テスト結果について テストは大問6問で、世界地理(全地域)、日本地理(地形名)、都道府県の白地図で構成される。白地図問題の解答条件では、○(=正解)とするには、一定の基準を設けている。まず、**府、**県など漢字できちんと答えること、平仮名は一部でも△(=減点)、誤字は×(=誤答)として扱った。府・県などが抜けた場合は、漢字が正確でも×とする。このような条件で、47都道府県すべてを出題した。 受験者は、1学年6クラス204名であった。平均正答数は47問中、23.2問(49.4%)であった。 県別正答率でみると、北海道、青森、大阪、沖縄、岩手の順で高く、地方別では北海道を除くと、近畿地方、東北地方、中国地方の順に高い。逆に県別誤答(不正解)率でみると、茨城、栃木、福岡、神奈川、新潟の順で高く、地方別では、関東地方、四国地方、中部地方の順に高い。 誤答率の高い県の記述例をみると、茨城では「茨木」「?(誤字)城」、栃木では「群馬」「?(誤字)木」、福岡では「大分」や他県名の記述が多かった。また、平仮名での解答が多かった県は、岐阜、新潟、鹿児島、栃木、埼玉である。これらは、小学校の国語科で習得しない漢字を含んでいる県名である。 今回の「都道府県名を答える問題」が社会科の他分野に比して得意かどうか、正答率対比の値を算出して調べてみた。もとより社会科の得意な生徒もいるので単なる正答率で比較するのではなく、47問の大問正答率を年間5回の定期テスト得点率(平均)で割ることによって値を求めた。その結果、学年平均の値は0.92であったが、それを上回る生徒数は102名であった。 引き続きこれらの値を利用し、出身小学校と旧担任(6年時)との関係を調べると、旧担任ごとの正答率対比の値にばらつきがみられる。これは、社会科を専門とする担任の指導による影響も考えられる。4.考察 白地図問題を実施し、全都道府県を答えさせることによって、各県の正確な場所、名称の記憶について各生徒の県名認知の現状が把握できた。誤答の主な原因としては、正しい漢字が書けないことと、他県との誤認である。それぞれ、特定の県に集中している。 普段の学習には消極的だが、県名を答えるなら得意という生徒が少なからずいることがわかった。小学校時に受けた指導が影響しているかどうかは、具体的な聞き取りなどで調査しており、発表時に報告したい。
著者
末田 智樹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.13, 2010 (Released:2011-02-01)

従来、昭和戦前期までにおける百貨店と言えば、三越を筆頭に松坂屋、大丸、高島屋、白木屋、松屋などの呉服系百貨店が前面に押し出され、本報告の主題であるターミナルデパートに関して大きく論じられることはなかった。されど、百貨店の店舗立地を礎とした昭和戦前期までの都市商業空間の形成にとって、昭和初期に登場したターミナルデパートは欠かせない役割を果たしていた。 そこで、昭和戦前期における大阪を主軸とした日本のターミナルデパートの成立過程について浮き彫りにすることで、この時期までにターミナルデパートを成立させた要因とは何であったのか。そして、ターミナルデパートの出現が、現代に繋がる大阪の都市商業空間の原型を完成させていたのかなどをつまびらかにした。 小林一三による阪急百貨店は、大阪北部の梅田にターミナルデパートとして昭和4(1929)年4月15日に開店し、雑貨・実用本位の商品構成を基本として、「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」の大方針のもとに、呉服系百貨店よりも明確に営業戦略として位置づけて経営を展開した。昭和7(1932)年10月8日の新聞広告には、この営業の大方針を掲げた阪急百貨店が如何にしてそれを実践できたのかが説明されている。「経費がかゝらないから」と載せたうえで、「一 広告費が少くてすむから。一 現金売を主としてゐるから。一 外売をしないから。一 遠方配達の経費も省けるから。一 阪急電車の副業であるから。一 家賃がいらないから。」といった6つの要因をあげている。これは小林自らが考案したもので、電鉄のターミナルと併設した立地展開の利点を重視した彼の百貨店構想が、ターミナルデパートとして実現したことを述べている。開業当初の阪急百貨店は、立地条件に基づく店舗展開と商品販売に成功することで、阪急電鉄の沿線客をターゲットとする沿線の市場開拓を狙った経営戦略を強力に推進できたのである。 昭和4年4月10日から建設に着手し、昭和5年12月18日に高島屋南海店が一部開設したのと同時に、同年12月1日に株主総会の承認をへて「株式会社高島屋」に変更した。これによって高島屋はより積極的に大衆消費者向けの百貨店経営へと踏み出すことになり、新店舗の南海店がターミナルデパートであっただけに、同社にとっても明暗をわける挑戦となり、オープン当時大変な話題を呼んだ。その点から考えても、大阪北部の梅田に世界で最初の阪急百貨店によるターミナル方式のデパートが誕生して間もなく、1年半ほど経過して大阪南部の難波にもターミナルデパートが姿を現し、その後高島屋よりさらに大阪南部の地域に大鉄百貨店と大軌百貨店が営業を開始し、阪急百貨店と同じ梅田に阪神百貨店(阪神マート)が生成したことで、昭和初期において大阪の北と南の地域にターミナルデパートをセンターとする現在を想像させる大都市商業空間の原型が完成していたのであった。 このように昭和戦前期までの全国におけるターミナルデパート化の状況では、小林率いる阪急百貨店が設立されて以降、大阪・東京の私鉄会社による百貨店経営や全国の新興百貨店の勃興へ大きな刺激を与え、彼こそが革新的経営者であった。東京では京浜デパートや東横百貨店の成立へと広がり、これまでの呉服系百貨店とは異なったターミナルデパートという百貨店スタイルが大いに波及し、福岡市の岩田屋や岡山市の天満屋など地方百貨店のターミナルデパート化にも多大なる影響を与えた。小林の発想から始まる昭和戦前期までのターミナルデパートの成立が、戦後期以降今日までの日本における独特の百貨店業態発展の肝心な要となったのである。
著者
山本 健児
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.33, no.4, pp.334-351, 1981
被引用文献数
2 1
著者
米家 泰作
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.30-31, 2013

20世紀前半に朝鮮半島と中国東北部を周遊した日本人の旅行記約200点に着目し,旅行の形態や規模,訪問地,目的について基礎的検討を示す。
著者
古賀 慎二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.2-2, 2005

2005年、京都府は『事業所・企業統計調査』を「事業所の形態」別に「業種」、「従業者規模」、「本所・支所の別」、「開設時期」、「業態」がクロスで把握できる独自集計を行った。本研究は、この『独自集計データ』を利用して、「事務所・営業所」形態の事業所を実質上の「オフィス」とみなし、景気後退期にあたる1990年代後半期における京都市のオフィス立地変化の特徴を、これまで分析できなかった業種別の変化から明らかにしたものである。1990年代の後半期は、バブル経済崩壊の影響で事業所数や従業者数が全国的に大きく減少した時期にあたる。京都市もその例に漏れず、ほとんどの業種で事業所・従業者が減少した。なかでも「繊維・衣服等卸売業」、「繊維工業」など京都を特徴づける業種での減少が著しく、その活動拠点はCBD(三条から五条の烏丸通沿道)に集約化される傾向が明らかとなった。オフィス集積地区(オフィス従業者100人/ha以上の地区)が京都市中心部(丸太町通・鴨川・JR京都線・堀川通で囲まれた地区)において全体的にコンパクト化するなか、修正ウィーバー法でオフィス集積地区の業種構成を検討すると、京都のオフィス街のいわば代名詞であった「室町繊維問屋街」は急速に縮小し、近年台頭してきた情報・専門・事業サービス業オフィスが中心部の核心地区や京都駅周辺で拡大しつつある状況が認められた。
著者
北川 眞也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.39-39, 2003

1990年代前半のイタリアは激動のときであった。冷戦期の「第一共和制」と呼ばれる政体が崩壊し、既成政党の消滅や経済危機などに直面した。イタリアはグローバル化する世界において、その位置付けを見失った状況にあったのである。それゆえ「イタリア」をめぐって、さまざまな言説が生み出された。政治のレベルでは、新政党が「第二共和制」を構築していくこととなったが、その中でもっとも「イタリア」を問題化したのは、北部に自治を求める北部同盟という政党であった。北部同盟は、既存の政治システムを批判し、国家の連邦制改革を訴えることで、1990年代前半に躍進した。だが1996年には北部をイタリア内のリージョナルな場所から、それとは異なる「パダニア」というナショナルな場所として表象し、分離を目指した。しかも1996年の総選挙で過去最高の躍進をみせ、中央に対する不満を募らせるイタリア経済の中心である北東部から多くの支持を得た。一方で、1996年はイタリアのEUの通貨統合へ向けての国家改革の端緒とも言える。通貨統合への参加が危ぶまれていたイタリアにとっては、かなりの困難が予想されていた。国内からの北部同盟の分離への訴えと、国外からのヨーロッパ統合の圧力は、いずれもしばしば近代性の欠如として特徴付けられるイタリアを「普通の国」へと適合させていくための挑戦と考えられる。発表では、北部同盟による地理的スケールの政治が、イタリアの政治に及ぼす効果に注目する。なぜならこの表象によって、ユーロをめぐる重要な時期にイタリア北部の意味が問題化されるからである。他の政治勢力が、この北部同盟の「パダニア」・ナショナリズムからどのようなことを読み取ったのか。そしてそれが「イタリア」の言説にどのように節合されたのかということを明らかにする。またここから、グローバル化の中で活躍する「イタリア」へ向けての道のりの困難さが伺えるだろう。
著者
グエン ティー ハータイン 野間 晴雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.508, 2008

農地転用は都市化の一側面から生じる一過程あり,社会経済発展の結果である。近年、ベトナムは年率3.05%(1995-2006)の急激な都市化を経験した。しかしながら,スプロール化が生じているのに,現状では,政府の方策は都市化を抑えることも,正しい方向への農地転用を動機付けすることも,住民を満足させることもできない。ハノイ市郊外のメッチー社(Me Tri commune)はそのような問題が顕在化する典型地域である。本稿の目的は,この地域で都市化おける農地転用の影響を評価することである。<BR> メッチー社では2000年以降現在まで,急激な農地転用によって,農民は以下のようなさまざまな問題に直面している。次々に林立する高層建築やオフィスビルの景観とは対照的に,この地域の伝統的な生業であったブン (<I>bun</I>)といわれる米麺づくり,コム(<I>com</I>)といわれる未熟な糯米をハスの葉にくるんだハノイ名物の菓子づくりは衰退し,農民が以前の職業に取って代わる工業やサービス業での新規就業機会をみつけることは困難で,不安定で危険な仕事に従事せざるを得ない状況にある。さらに立ち退きによって得た補償金で,農民はこぞって所得に不似合いな高価な家を購入し,モーターバイクや携帯電話を所有するようになった。<BR> 農地転用における望ましい方法としてわれわれは以下の4点を提起したい。1) 農民に 一時的な補償金ではなく,代替の土地を与える,2) 職業訓練コースのため受講料の支給ではなくの受講証を発行すること, 3) 農地転用や廃止の前に労働の移転計画を考える, 4) 仕事を与えるのみならず,伝統的な生業が可能な場所を農民のために確保する。<BR>
著者
香川 雄一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.46-46, 2004

栃木県旧上都賀郡鹿沼町の「歳入歳出決算書」と「町会会議録」を中心とした行政資料を読み解くことによって、地方財政をめぐる政治過程が予算から決算に至るまでの金額の更正に、いかにして作用しているかを明らかにする。町制を施行した直後の明治20年代には1万人に満たなかった鹿沼町の人口は、大正期に入ると1万5千人を越えるようになる。鹿沼町では明治23年に鉄道の日光線が開通し、帝国製麻株式会社の主力工場も存在していたため、一時的な増減はあるにせよ、人口は増加傾向を示していた。とくに大正期は工場の増設による工業化を主導として、町の内部に都市化をもたらすことになった。大正9年の国勢調査による職業分類別人口を見ても、商業を抑えて工業が第一位部門となっている。工場労働力の流入など、人口が増えることによって必要となるのは住宅である。一方で若年人口の増加は義務教育体制下にあって、学校の増改築を不可避のものにすることになった。 鹿沼町における学校建設費用による財政規模の急変は決算額の推移によって裏付けられる。明治28年度は学校建設のための寄付金によって、歳入額が前年度の倍以上となる。明治35年度と36年度は校舎建築費と復旧費で決算総額が再び急増する。42年度以降も毎年多額の学校建設費が予算化され、翌年度以降の歳出増加を導いている。大正期に入っても前半はそれほど変化していないが、大正9年度以降は急激に財政規模を膨張させる。これもやはり小学校改築費用のためであり、町債によって準備された金額が大正10年度には多額の繰越金として歳入に組み込まれ、歳出では小学校改築費に使われた。学校の改築や新築といった建設費用に町の財政が苦心していたことはひとまず確認できた。財政規模の拡大により、町有財産を充実させてきたのも事実である。財政に取り組む政治過程が行政施策の方向性を定めてきたことが理解できる。
著者
齋藤 鮎子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.96-97, 2012

B級グルメとしての浜松餃子がいかに発祥し、定着・普及したかを地域社会との関わりから考察する。
著者
岡橋 秀典
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.31, 2006

1.はじめに 日本の中山間地域は、高度経済成長期を経て公共事業や分工場に依存する外部依存性の高い周辺型経済を形成してきた。それが曲がりなりにも1970~80年代に地域経済を支え、地域を存続させる役割を果たしたことは否定できない。しかし、今日、急速に進むグローバル化、構造改革の波は、そうした経済にも根本的転換を迫っている。また、現代日本における知識経済化の急速な進展はこうした転換を促す大きなベクトルを醸成している。それゆえ、こうした認識にもとづき、わが国の中山間地域における新たな経済社会システムを展望することが求められている。 本報告では、上記課題に応えるための第1歩として、広島県内の農村ツーリズムの1事例を取り上げる。対象地域は、東広島市福富町竹仁地区である(福富町は2005年2月に東広島市へ編入合併した)。2.「こだわりの郷」の成立と展開 この地区には、釣り堀と飲食店などの複合施設をはじめ、天然酵母のパン屋、酪農家によるジェラート店やレストラン、いくつかのブティック、その他の飲食店など、多様な業態の店舗が分散的に立地している。これらの飲食店、ブティックなどは90年代になって徐々に集まってきたが、「こだわりの郷」という名称の下でネットワーク化されることで、地域外に広く認知されるようになった。その活動は90年代中頃から始まり、正式にグループが発足したのは99年である。この組織の成立の経緯は、立地店舗の中の1経営者が「こだわりの郷」のネーミングを考案し結成を呼びかけたのが発端で、行政はその形成のプロセス、運営にも一切関与していない。現在は13業者が加入しているが、活動は共通パンフレットの作成やスタンプラリーを行う程度であり、ゆるい結合の組織である。 地域振興という点で重要なのは、分散的にこの地区に立地していたに過ぎなかった店舗群が、一つの名称を与えられることで、特徴ある地域集積として広く認知されるようになったことであろう。ネットワーク化と地域ブランド化が、タイミングよくなされた事例と言える。3.物産館の設置とその役割 この地区の地域振興に新たな展開をもたらしたのは、福富町(当時)による2002年の物産館設置である。「こだわりの郷」の集客力に注目した町が、国の補助事業によって、農産物等の加工と販売を行う休憩施設を地区中央の道路沿いに設置した。この物産館には地元の9グループ約140人が参加し、野菜の直売に加え、エゴマ油、豆腐、味噌、餅、パンなどの多彩な手作り物産の製造販売を行い、また小規模ながら食事の提供も行っている。 このような活発な活動が功を奏し、来客数は初年度の5万人弱が年々増えて2005年度には8万人に達した。販売金額も順調に伸びている。 この物産館は、この地区での行政による観光関係事業としては最初のものであったが、自然発生的な地域づくりの動きを的確に捉えて有効な施策を実施し、インフラ面、社会面、経済面など多方面で成果をあげていることが特筆できる。4.来訪者の特性と行動 まず来訪者の特性をみる。回答者は性別では男と女、ほぼ同数であるが、年齢層では50歳台と60歳台が多く、両者で全体の60_%_以上を占める。居住地は、東広島市が1位で40_%_強、2位が広島市で30_%_弱を占め、これら2市で全体の70_%_に達する。 回答者の半数は10回以上この地区を訪問している。このようなリピーターが来訪者の半分を占めるということは、根強いファンが存在することをうかがわせる。また、同伴者は、夫婦だけで50_%_弱に達するが、これに夫婦プラス子供同伴の20_%_弱を合わせると、夫婦を中心とする形態が70_%_にも達する。夫婦を中心とした来訪が基本パターンであり、それには居住地による地域差もほとんどみられない。 この地区への訪問目的で最も多いのが、約40_%_を占める物産購入であり、食事が30_%_でこれに続く。他方、この地区の魅力として強く意識されているのは自然や田園景観である。このため、この地区のツーリズムは魅力的な自然や田園景観というベースの上に、食事や物産の提供が行われることで成立していることがわかる。しかし、地区内での訪問先は3箇所程度であり、しかも大部分は自動車利用であるため滞在時間が短いのが問題と言える。5.おわりに 以上検討した事例からは、知識経済化時代の中山間地域の地域振興に求められるいくつかの要素が見出せる。列挙すれば、行政への依存度の少なさと住民の自主性、ネットワーク型の組織、地域ブランド、新旧住民双方の関与と交流、来訪者とのコミュニケーション重視の販売形態、健康に代表される生活文化領域での提案、自然環境や景観の重視などである。
著者
川口 洋
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.1, 2010 (Released:2011-02-01)

天然痘は,高熱を発し,水泡性の発疹が四肢に広がることを主症状とする感染症である。牛痘種痘法が導入されるまで有効な予防法がなかったため,江戸時代に生きた人々民衆も天然痘を生涯に1度は罹る致命率の高い病と認識していた。しかし,衛生統計が整備されるまでの期間における天然痘流行の実態,天然痘への対処法,牛痘種痘法の導入過程に関する研究は,全く未着手とみられる。他方,痘苗が日本にもたらされた嘉永2(1849)年は,持続的人口増加開始期に当たる。牛痘種痘法導入期の天然痘による疾病災害の実態解明は,持続的人口増加がいかなる状況下で始まったか,という課題に接近を図るためにも不可欠である。本報告では,19世紀中後期の多摩郡周辺における牛痘種痘法の導入過程と天然痘死亡率との関係について検討する。
著者
グエン カオ・フアン 野間 晴雄 グエン ドック・カー チャン アイン・トゥアン
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.58, no.6, pp.588-605, 2006
被引用文献数
2

<p>本稿の目的は,ベトナム地理学の歴史を前近代の地理的知識の発達から現在の状況まで,その専門分野や方法・手法の変遷と制度や大学での地理学の教育から概観を試みることである。</p><p>前近代は中国の地誌の影響を受け,国家の土地問題や地方行政制度に有用な地理的知識が蓄積され,それらに関連した地図も作成されたが,地誌の体裁は中国の伝統的な形式を超えるものではなかった。</p><p>フランス植民地時代には旧来の地誌の形式を踏襲した自然,経済,歴史・政治地理,統計の4分法が用いられた。マスペロらによる古文書研究所での地名や歴史地理は注目される。自然地理学ではカルスト地形や洞窟学が考古学者や地質学者によって発達した。応用的な地理学分野としては工芸作物の適地利用,灌漑システム,気象観測所の適地調査,フランス人のためのヒルステーション立地などが研究された。</p><p>1930年代になるとフランスの人文地理学の影響が顕著となり,ロブカンやグルーが北部ベトナムの地誌や土地利用研究で活躍した。とりわけグルーの『トンキンデルタの農民』(1936)は空中写真や詳細な地形図を駆使した不滅の業績であるが,第二次世界大戦以後のベトナム地理学では長く忘れられた存在であった。</p><p>現代の地理学は1954年から75年までが一つの画期となる。モスクワ大学を頂点とするソビエト地理学の圧倒的な影響下にあって,地質学,地形学が中心となった。ベトナムの戦後第一世代の多くがこの時期に共産圏諸国の留学生によって占められた。1975年に南北ベトナムの統一が達成されたが,メコンデルタや中部の研究に特色が見いだされる。</p><p>1986年以降のドイモイによる経済開放によって,アングロサクソン系地理学のさまざまな手法や概念が英語メディアを通じて徐々に入ってきたが,その歩みは遅々たるものだった。その間に,リモートセンシングやGISの手法による地域計画が国家事業の観点から重要な役割をにない,地理学の地位を高めた。</p><p>大学における地理学はハノイ大学(現在はベトナム国家大学ハノイ校)の地質学・自然地理学を中心に,景観生態学や地形学,土地管理などの分野が中心の学部と,ハノイ教育大学,ホーチミン大学における経済地理,人文地理学中心のものに大別される。いずれもGIS,リモートセンシングなどを用いたツーリズムや応用地理学的な分野に特色を持つ。</p><p>ベトナムの地理学会は1988年に設立され,ハノイ大学を中心として5年ごと大会を開催しているが,定期刊行物はない。ほかにベトナム国立科学技術アカデミーにも研究者がいて,天然資源,環境,災害が主要テーマとなっている。</p><p>近年は「総合地理学」の名のもとに,人文地理学がベトナムでようやく力を持ち始めている。その対象とするのは人間が作った人文景観や中・小地域でのコミュニティ,都市・農村地理学で,現代ベトナム地理学の台風の目となろうとしている。その一方で,政策・計画や自然地理学と社会経済地理学を重視したソ連流の人文地理学も並存し重要視されている。</p>
著者
渡邉 敬逸
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.40-40, 2010

<B>_I_目的</B>:本発表の目的は,新潟県小千谷市で行われる闘牛,牛の角突きを事例として,その牛の成長過程と取組作成における人々の合意形成のプロセスに注目し、牛の強さがいかにして決められるかを,人と牛との関係から明らかにすることにある。<BR><BR><B>_II_牛の角突きにおける牛の勝敗</B>:一般的に日本の闘牛は,どちらかの牛が頭を離して逃走したら負け,として勝敗を明確につける。しかし,牛の角突きは,慣習的に勝敗をつけずに,全取組を「引き分け」とする。すなわち,人力によって対戦中の両牛を無理やり引き離すことにより,文字通りに「引き分け」として,牛の勝敗を公にしない。<BR>では,牛の角突きは,牛間の勝敗を問わず,ただ牛を突き合わせるだけの行事かというと,もちろんそうではない。牛の角突きが開催されるたびに取組表が作成され,取組毎に番付が付される。そして,番付上位に位置する牛ほど「強い」という認識は,会場に集まる人々に共有されており,明確な格付けこそされないまでも,常に番付上位に位置するような牛は「横綱牛」とさえ称される。<BR> つまり,牛の角突きは「引き分け」を慣習としているが,それは決して牛個体間の強弱に基づく勝敗を否定するものではない。取組によっては,一方の牛が戦意を喪失して逃走し,勝敗が衆目に明らかになる場合もある。また,結果としての勝敗だけではなく,その内容も強く問われる。決して最後まで逃走しなくても,手も足も出なかったり,技が単調だったりすると,その牛への評価は芳しくないどころか,負け,と評されることもある。そして,なによりも牛持ち(牛の所有者)は,決して「引き分け」であることを前提に牛を飼っているわけではない。すなわち,牛の角突きには,明瞭ではないものの,勝敗という概念が存在し,それは牛の角突きに関わる者達に概ね共有されている。特に,牛持ち達は勝敗へのこだわりを強く持っており,これは自らの牛への思い入れの裏返しとも言える。<BR><BR><B>_III_牛の成長過程と人々の評価</B>:個々の取組を見れば,牛の勝敗は,牛の健康状態,気性,体重,年齢(経験),そして牛同士の相性という牛個体間の生態的特性の違いによるところが大きい。ただし,牛達の成長過程を概観すれば分かるように,必ずしも生態的に優れた特性を持つ牛が勝ちを重ねれば,「強い」と認められ,順調に番付上位に上り詰め,「横綱牛」と称されるようになるわけではない。<BR> まず,牛には概ねその年齢階層に沿った役割があり,これに沿わない限り,ただ勝ちを重ねるだけの取組だけでは許されなくなる。すなわち,3歳~5歳は概ね同齢の牛との組み合わせによる「力比べ」,6歳~10歳は同齢の牛に加えて中~上位牛との組み合わせを中心とする「力試し」,そして10歳以降は「力試し」に臨む牛の挑戦を受け「横綱牛」の門番を務めるような役回りを受けつつ「横綱牛」の座を伺うこととなる。特に,自らよりも「強い」牛を相手としなければならない6歳~10歳の過ごし方は,その後の牛の成長過程に大きく影響すると言われている。<BR> 次に,人の牛や牛持ちに対する評価が,牛の勝敗や強さとは別に,牛の成長過程に強く影響を及ぼす。こうした牛やその牛持ちへの評価は,関係者の間で共有されることで,牛の成長過程に強く影響を及ぼすと考えられる。また,人々の話の中に牛の「格」なるものが引き合いに出されているように,牛の角突きでは,人の牛に対する評価として,勝敗を超越した牛の「格」に言及されることがある。特に「格」は「横綱牛」と称される。つまり、牛の角突きにおいては,単純な牛の勝負という結果に加えて,人々の様々な角度からの評価によって,牛の強さが形作られている。<BR> 特に,牛に対する人々の影響は,取組作成のプロセスに色濃く表れる。「取組審議会」は牛の角突きを主催する小千谷闘牛振興協議会における取組作成の専門部会である。牛持ち達は同会に,次回開催時の希望相手を伝えることが出来るものの,その組み合わせは取組審議会に出席する「取組審議員」に一任されており,彼らの合意をみなければ,取組が決定されない。その取組作成プロセス,つまり彼らの牛や牛持ちに対する何気ない評価に,牛の角突きにおける牛の強さを理解するヒントがあると考えられる。<BR><BR><B>_IV_発表内容</B>:本発表では、まず、現在までの牛の角突きの取組表から、牛の番付移動を抽出し,一般的な牛の成長過程を検討する。次に,取組審議会における人々の実践と取組の合意プロセスに注目し,いかにして牛の角突きにおける牛の強さが形作られるかについて述べたい。<BR>
著者
中川 聡史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.309, 2008 (Released:2008-12-25)

タイからドイツへの結婚を目的とした国際人口移動に関して,ドイツでの移動者への調査,送り出し地域であるタイ東北部における送り出し世帯への調査をもとに国際結婚移動の意義と課題を検討する。
著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2014, pp.24-25, 2014

2014年人文地理学会大会.2014年11月8日(土)-10日(月).会場:広島大学東広島キャンパス大学院教育研究科
著者
冨永 哲雄 コルナトウスキ ヒェラルド キーナー ヨハネス 高田 ちえこ
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.88-89, 2013

大阪市西成区北部においての、生活保護受給者をターゲットにしたシェアハウス及び、長期間滞在外国人をターゲットにしたゲストハウスのローカルな不動産による改築実践を明らかにする。