著者
長井 彩
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2012年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.62-63, 2012 (Released:2013-12-17)

近年、従来では均質的で凡庸なものとして批判の対象であった景観に魅力が見出されており、その評価の特質について分析した
著者
佐藤 英人 中澤 高志
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.110-111, 2013 (Released:2014-02-24)

本研究の目的は人口減少や格差より生じる郊外住宅地の選別化を、裁判所の公告に基づく競売物件情報から分析することである。
著者
村山 祐司 尾野 久二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.19, 2002

<BR><B>I はじめに</B><BR> 最近,GISの世界では,計量地理学の成果と可視化技術を統合・発展させたGeoComputationが注目を集めている。この分野の研究は多岐にわたるが,重要な研究課題の1つに空間分析用のプラットホームの構築がある。その先導的役割を果たしのはSpaceStat を開発したLuc Anselinであるが,最近では,Leeds大学CCGやペンシルベニア州立大学GeoVistaなどでも精力的に研究が進められている。また,空間分析ツールの情報を集め,インターネット上で公開しているCSISS(Center for Spatially Integrated Social Science, http://www.csiss.org)の研究プロジェクトも関心を集め,世界的に高い評価を得ている。このように,人文地理学にとって有用な空間分析諸手法が次第にGISに取り込まれつつあるが,本研究は欧米の動向を踏まえ,オープンソースを利用した統合型空間分析システムを開発し,日本におけるGIS教育や地域分析に貢献することをめざしている。<BR><BR><B>II 利用ソフトウェア</B><BR> 本システムはWindowsNT/2000/XP上で動作する。 本システムを構築するにあたり活用したソフトはフリーウェアで,すべてオープンソースである。<BR>1.GIS関連<BR>GeoTools for Java(CCG開発のJava用GISエンジン), JTS(Java Topology Suite) (オーバーレイ解析モジュール)<BR>2.空間分析関連<BR>R言語・・・統計分析用言語。商用統計分析ソフトSplusのクローン。多くの拡張パッケージが存在する。<BR><BR><B>III 統合型空間分析システム</B><BR>(1)概要<BR> プログラム本体(Java言語で作成)とR言語を統合するために,本システムは以下のツールを利用している。<BR>1.JCOM・・・システム本体とRSTATサーバー間の通信ソフト(オープンソース)。<BR>2.RSTATサーバー・・・JCOMとR言語間の通信(独自開発)<BR> これらを用いることにより,GIS機能と空間分析機能とのTight なカップリングを実現した。<BR>(2) 空間分析機能<BR> 現時点で,以下の解析機能をサポートしているが,近い将来,空間的相互作用分析や空間的拡散モデルなど人文地理学の分析でニーズが高い技法やモデルを順次追加していく予定である。<BR> ・ 空間解析(バッファー),TIN,ボロノイ,凸包<BR> ・ 記述統計,多変量解析,ESDA(探索的空間分析)<BR> ・ ポイント・パターン分析,空間的自己相関分析,ニューラルネット分析<BR>(3) 実行例(空間的自己相関分析の事例)<BR> 第4図はローカルG統計量を求める画面を表示したものであり,第5図はローカルG統計量を導出した結果の地図表示の例(茨城県,市町村単位)である。<BR><BR><B>IV 展望</B> <BR> 現在,村山のサイト(http://land.geo.tsukuba.ac.jp/teacher/murayama/index.html)において,本システムを試験的に公開している。空間分析機能をより充実させるとともに,WebGIS化を果たすことが今後の課題として残されている。<BR><BR>参考文献<BR>村山祐司・尾野久二編 『地域分析のための地理情報システム─Arc/INFOを利用して─』,文部省重点領域研究「近代化と環境変化」技術資料,1993,206頁。
著者
神田 孝治
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.24, 2011

<B>I.はじめに</B><BR> 1970年代に観光ブームを迎えた与論島は、観光客と地域社会の間でコンフリクトが見られた典型的な事例であった。こうしたコンフリクトは、特に外部から付与された与論島のイメージと、そこから生じた観光客の諸実践をめぐって生じていた。この与論島は近年、映画『めがね』の舞台として注目を集めているが、そこで喚起される与論島のイメージも現地の対応も1970年代のそれとは大きく異なっている。本発表では、これらの比較を通じて、観光地のイメージとそれへの現地の対応について考察を行う。<BR><B>II. 与論島の観光地としての系譜</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は1945年の終戦によりアメリカ合衆国軍政統治下におかれたが、1953年に沖縄に先駆け日本に復帰した。そのため、1972年に沖縄が日本に復帰するまで、与論島は南の最果ての地となっていた 。<BR> この与論島に行くのは簡単なことではなく、例えば1968年段階で、鹿児島から最速船で約23時間を要し、船は1日1便であった。しかしながら、1967年に財団法人日本海中公園センターの田村剛が「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」として与論島を賞讃し、翌年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映されると、旅行業者の活動も盛んになるなかで観光客は増加していき、1979年には150,387人の入込客数を記録した。けれどもその後、石垣島への航空機の就航、沖縄の観光開発の本格化などの影響を受け、1980年以降は観光客が漸次減少し、2009年には58,048人となっている。<BR><B>III. 観光最盛期における与論島のイメージとコンフリクト</B><BR> 1970年代の与論島の魅力について、当時の新聞記事では、日常生活を営む都市との対比によってもたらされた「自由」を若者が感じていると指摘していた。さらに当時のマスメディアはさらなる幻想を与論島に付与しており、例えば1971年の週刊誌の記事では、「ブームの与論島の聞きしにまさる性解放」と題してそこを性の楽園として描き出していた。<BR> このように外部から来る観光客の欲望の対象とされた与論島では、地元住民による反発も生じていた。なかでも先の週刊誌の記事は地元住民の大きな怒りを買い、「夜ばいだの、フリーセックスだの、週刊誌の記事はまるで"南洋の土人"扱いではないか。未開の土地を探険する文明人の発想ではないか。」(『南海日日新聞』1971.7.2)と、本土側からのまなざしが批判の対象となっていた。<BR><B>IV. 映画『めがね』による与論島観光と現地の対応</B><BR> 2007年9月に公開された映画『めがね』は、「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとし、都会から南の島にやって来た女性が、観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。<BR> この映画は、与論島に自由を見出しており、それは1970年代の観光ブーム時と同じである。しかしながら、そのイメージは、性的な部分が強調される楽園ではなく、ゆったりとした気持ちで「たそがれる」島というものである。そして、この映画の影響を受けた主に若い女性が、与論島を訪れるようになっている。<BR> 映画『めがね』の提起する与論島のイメージや、それに憧れてやってくる観光客に対して、現地における聞き取り調査では地元住民の反発の声を聞くことはなかった。しかしながら、与論島観光協会への聞き取りでは、制作会社の意向により、そこが与論島であると積極的に宣伝することができないとのことであった。また、そうした宣伝を行うことは、インターネット等を利用して自分で情報収集してやって来る観光客に対しては逆効果であるとも考えており、いくつかの情報提供を行い、またそれによる観光振興への期待は高いものの、映画で与論島をアピールすることはするつもりがないとのことであった。<BR> 地元住民への聞き取り調査では、与論島ブーム時のような観光地化に対する反発は今でも根強い。そうしたなかで、映画『めがね』の喚起する与論島イメージやそれにともなう静かなブームは、地元住民にとっては受け入れやすいものだといえるだろう。しかしながら、それが産み出す与論島のイメージとその魅力は、観光への否定に基づいており、そのなかで映画の舞台であることを積極的に発信できないというジレンマも産み出している。与論島では、観光と地域がどのように関わるかという課題が、イメージの問題を中心に、形を変えながら現在でも続いているといえる。
著者
豊田 哲也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.29, 2002

<B>1.研究の目的</B><BR> 約40種類にのぼると言われる日本の香酸柑橘(酢みかん)のうち、徳島県特産のすだちは大分県のかぼすと並ぶ代表的なもので、年間生産量7千tと全国の97%を独占している。最大の柑橘である温州みかんの生産は1960年代に西日本各地で急拡大を遂げたが、生産過剰や輸入自由化による価格低下に直面し産地の大幅な再編を迫られた。もともと温州みかんに不適な気候条件の中山間地域で始まったすだちの栽培は、技術革新による周年出荷の実現で安定した収益の確保に成功し、1980年代にはみかんからの有力な転換作物として生産量の増加を見た。本研究では徳島市の南西に隣接する神山町と佐那河内村を事例地域に取り上げ、産地形成の過程を跡づけながらその生産構造を明らかにする。<BR><B>2.産地形成の過程</B><BR> すだち生産の開始から拡大、成熟に至る経過はおおむね10年ごとに以下の4つの時期に区分され、栽培面積の推移は典型的なロジスティック曲線を描く。<BR> <U>第1期</U> 徳島県におけるすだち栽培の歴史は江戸時代に遡るが、1956年に神山町鬼籠野地区で養蚕業や甘藷栽培の行き詰まりを打開すべく農家有志が栽培に取り組んだのが、商業的生産の始まりである。1960年代には消費宣伝と販路拡大を図りながら、同町におけるすだち生産は徐々に増加した。<BR> <U>第2期</U> 1970年代に入り、低温貯蔵技術の開発やハウス栽培の導入によってすだちの周年出荷体制が確立される。9月に出荷される露地すだちのkg単価が100円前後であった当時、長期貯蔵ものや加温ハウスものは1500-2000円の高値で取り引きされ、生産農家の収益性を大幅に高めた。<BR> <U>第3期</U> 温州みかんの価格低迷と生産調整が本格化する中で、1979年に県はすだちへの転換支援政策に乗り出す。1981年2月の大寒波でみかんの木が大量に枯死するなど大打撃を被ったのを契機に、佐那河内村など周辺産地ですだちへの転換が進んだ結果、栽培面積は10年間で2.5倍に急拡大した。<BR> <U>第4期</U> 1990年代なると、新興産地の成長にともなう競争の激化、長期不況による業務向け需要の伸び悩みなどのため市場は飽和気味となり、すだち栽培面積は約600haで頭打ちとなった。<BR><B>3.事例地域の生産構造</B><BR> 2000年におけるすだちの栽培面積は、神山町126ha(徳島県全体の21.2%)、佐那河内村109ha(同18.3%)で、県内で1位と2位を占める。また、販売農家のそれぞれ60%と75%がすだちを栽培している。<BR> 神山町鬼籠野地区はすだち栽培の先進地で、長い経験を持つ栽培農家の技術水準は高い。1戸あたり栽培面積は零細だが、密植による集約的な経営で補っている。貯蔵用冷蔵庫の設置は早かったが、気候が冷涼なためハウス栽培はふるわない。中心集落である東分・中分・西分では米や野菜との複合経営が多いのに対して、山間部には一の坂集落のようにすだち栽培に特化した集落も見られる。<BR> 後発産地である佐那河内村では、温州みかんからの改植や高接による転換園が多く、1戸あたり経営面積が大きい。1970年代はハウスすだちの産地として成長したが、1983年以降は採算上の理由から貯蔵の方が多くなっている。鬼籠野地区に近い北山集落は、みかんからすだちへの転換がドラスティックに進んだ例で、情報や人の交流がこうした動きを促進する役割を果たしたと考えられる。<BR> このように、神山町と佐那河内村はすだち産地として対照的な性格を示しながらも、出荷時期などで機能的な補完関係を有している。また両者に共通する産地形成要因として、行政や農協による支援体制のほかに徳島市への近接性を指摘できる。すなわち、意欲ある生産農家は機動的な個人出荷で利益を追求しうる一方、通勤兼業を選んだ農家が加工向けの粗放な露地栽培を続けることも可能なためである。しかし、近年はいずれのケースでも就業者の高齢化が進んでおり、後継者の不足とあいまって今後の展開は楽観を許さない状況にある。
著者
中島 茂
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.3, 2003 (Released:2003-12-24)

明治大正期日本の近代化過程に焦点を当て、都市部と農村部、西日本と東日本といったマクロあるいはメソスケールの人口構成や工業構成の差異に注目しながら、そうした日本全体の歴史的背景をもった地域特性の中で、大阪における工業化と工業地域の形成がどのような特性と意味を有したのかを考察する。工業地域が大小さまざまな規模からなる工場の集積とその相互の機能連関から成り立つとして、その業種的特性や空間的展開性と工場経営を担い、働いた人びとの諸特性が、工業地域形成に大きく影響しているはずである。日本の近代工業化の地理的諸相を普遍化してみる試みの一端として、当時の工業最先進地であった大阪を取り上げ、おもに泉北農村部に展開した綿織物工業と大阪市とその周辺部の都市化地域に集積した機械金属工業を軸に、その地理的特性を検討する。それは現代の日本工業の地域構造を理解する上でも重要な課題と考えられるからである。
著者
渡邉 英明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2007年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.107, 2007 (Released:2007-12-12)

本研究では定期市の変遷を把握する手段として村明細帳に注目する。17世紀末期から各地で作成され始める村明細帳には、自村での市開催や周辺市町の利用状況が記されることがある。そして、これらの記事をもとに村明細帳から近世の定期市が分析できる可能性は戦前から指摘されてきた。だが、当時は史料整理が進んでおらず、村明細帳を広範に収集することは困難だった。だが、武蔵国に関しては『武蔵国村明細帳集成』が1977年に刊行され、近年では村明細帳だけで資料集を刊行する自治体も増えてきた。村明細帳を広範に収集できる条件が整ってきたのである。発表者はこの点に注目し、村明細帳を広域的に収集して定期市に関する項目を分析した。本発表ではそこから得られた知見を報告したい。なお、本発表の対象地域は武蔵国のうち多摩郡以北(以下、北武蔵)とする。江戸府内やその南方では定期市場網の展開が確認できず、官撰地誌を用いた先行研究でも検討の対象外とされているからである。 村明細帳は、江戸時代の領主が村柄を把握するために村々から提出させた帳簿である。村明細帳における定期市関係の記事は、主に自村市場と近隣市場の2種類に整理できる。自村市場の記事は、その村での定期市開催の有無を記したもので、定期市が休止・廃絶している場合はその旨が記される。また、近隣市場の記事は、その村の近隣にある定期市について記し、当該村からの距離が合わせて記載されることが多い。ただし、これらは必ず記される訳ではなく、村明細帳によって、自村市場・近隣市場の両方が記載されるもの、片方だけ記されるものなど区々である。これは、村明細帳はその時々の徴収目的によって記載内容は一定でなかったためだろう。さて、発表者は現在までに、自治体史や埼玉県立文書館での調査から、近世北武蔵の村明細帳624点(310村)を収集した。これは、天保郷帳の村数(2611)の12%に相当する。 以下では、村明細帳における自村市場・近隣市場の記事のそれぞれに注目して検討を進めたい。まず、自村市場の記事は、245点(120村)の村明細帳(全体の約4割)で確認できた。自村市場の記事は、市町が提出した村明細帳とそれ以外とで記載内容が大きく異なる。すなわち、市町の明細帳には定期市の開催とともに、その市日も併せて記されることが多い。それに対し、市町以外の一般農村では、「当村市場ニ而無之候」など定期市が存在しない旨が記されるのみである。当該村がその時点で市町でないことが確認できるのだが、一般農村が市町でないことは、言わば当然のことであり、さして重要な情報とは言い難い。従って、自村市場の記事は、市町の明細帳において特に注目される。市町が提出した明細帳は61点あり、うち51点で自村市場の記事が確認できる。市町の明細帳は、市場争論で定期市開催の証拠として採用された例が確認でき、また、市町として重要な事柄であることからも、その情報はかなり正確に記されたと思われる。記事の内容として最も多いのは市日に関する記載で、ある時期の市日を確認できることは、市場網の変遷を把握する際に意義が大きい。また、休止中の定期市や、以前に定期市が存在した古市場の記事は、個々の定期市の消長を示す記録として重要である。また、官撰地誌には表れない定期市の存在が、村明細帳から明らかになる場合がある。 近隣市場の記事は、172点(117村)の村明細帳(全体の約3割)で確認できた。そこでは、近隣市町名と提出村からの距離が記されることが多く、明細帳を提出した村々がどの定期市を利用したのかを示すデータとして価値が高い。『新編武蔵国風土記稿』にはこうした記事はなく、江戸時代の武蔵国における定期市の商圏は、今まで不明な点が多かった。これを鑑みると、個々の定期市の商圏について、江戸時代の同時代データを提供する村明細帳の価値は大きい。近隣市場のデータは西部山麓地帯や東部地域で多く確認でき、熊谷・川越・秩父大宮郷など近代に高い中心性を呈する町は、近世においても相対的に広い商圏を有した。なお、官撰地誌に表れない定期市や、個々の定期市の消長が読み取れる点は、自村市場の記事と同様である。近隣市場としてあがる市町は、古市場と明記される例が確認できず、基本的にその時点で存在したとみなされる。だが、個々の市町の厳密な消長の時期について、近隣市場の記事を証拠として画定するには留保が必要だろう。村明細帳は、先年の提出分をそのまま写すことも多く、近隣市場の細かい動向を逐一反映するとは限らないからである。なお、31点の村明細帳において、近隣市場での取引商品に関する記事が確認でき、西部山麓地帯では織物、平野部では穀物があがることが多い。こうした定期市の取引品目に関する地域的特徴は、民俗調査などで明らかにされている近代のあり方と共通点が大きい。
著者
全 ウンフィ
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.76-77, 2013 (Released:2014-02-24)

韓国ソウル市ホンデ地域におけるオルタナティヴな音楽シーンの形成とその空間的移動を当地域のジェントリフィケーション過程と照らし合わせて分析する。
著者
磯部 作
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.7, 2006

近年、「水産業・漁村の多面的機能」が重視され、「交流などの『場』」を利用した体験漁業などが行われている。「水産業・漁村の多面的機能」とは、食糧資源供給に加え、自然環境保全、地域社会形成維持、居住や交流の「場」の提供する役割などがある。漁村は水産業が基本であるが、他産業も存在していることなどのため、「漁村地域」として捉え、その多面的機能も地域性を踏まえることが重要である。 水産業・漁村地域体験は、多面的機能の「交流などの『場』」を利用して、食糧資源供給や、自然環境保全、地域社会形成維持などの役割を体験することであり、それらを有機的に結合することが重要である。 2003年調査の第11次漁業センサスによると、全国の全漁業地区2,177のうち漁業体験が行われた漁業地区は31.2%であり、漁村体験が行われたのは8.0%である。それを都道府県別にみると、千葉県や和歌山県などの大都市周辺や、九州・沖縄などが多い。また、漁業・漁村体験の実施主体は漁協や市町村が多い。 沖縄県は全国でも有数の漁業・漁村体験が行われている。漁業地区でみても、沖縄本島中部の読谷村と恩納村が全国12位にランクされており、沖縄県内各地で水産業・漁村地域体験が行われていて、行政も水産業・漁村地域体験を推進している。沖縄県では、地域の漁業や伝統漁法を活かすとともに、亜熱帯の気候や、サンゴ礁やマングローブなど、地域の環境を活かした水産業・漁村地域体験が行われている。東シナ海に面していて沿岸海域にはサンゴ礁がある読谷村では、水産業・漁村地域体験として、役場と漁協などにより、漁業の中心である大型定置網、サンゴ礁でのアンブシ漁、モズク採り、魚の裁き方、漁具作りなどの体験が行われている。沖縄県では周年にわたって水産業・漁村地域体験をすることが可能であるが、修学旅行は5月や10月などが多い。また、修学旅行でも、小学校は沖縄県内から、中・高は沖縄県外からが多い。 佐賀県鹿島市七浦は漁業体験回数が全国第3位で、地先には有明海の広大な軟泥干潟があり、地区の全戸が加入する「七浦地区振興会」が結成され、300人以上の地区民が出資して会社を作り、干潟体験や、干潟物産館、干潟レストラン、直売市などを経営している。干潟体験は、潟スキーや潟上綱引きなどのミニ・ガタリンピックを行うもので、干潟環境教室なども行われている。2004年度では、九州を中心に、関西などからの小中学生の修学旅行生など15,941人が干潟体験をしていて、1,346万円の売り上げをあげており、直売市やレストラン、物産館などを含めて、全体で約2億円を売り上げている。 水産業・漁村地域体験は、水産業や漁村地域がなければ成り立たない。このため、水産業をはじめとして、漁村地域の環境や風俗・文化などを存続させることがなによりも重要である。また、体験漁業などを行い、体験資源などを解説できる人材の育成も必要である。水産業・漁村地域体験のメニュー開発などにあたっては、地域の自然環境や漁法などの地域性を活かすことが重要であり、漁法や集客の季節性、大都市などからの時間距離なども考慮しなければならない。 水産業・漁村地域体験は、まだ十分とは言えない場合もあるが体験料収入などをもたらし、水産業・漁村地域に付加価値をつけるとともに、体験漁業は少量の漁獲でも成立するため、過度の漁獲努力や乱獲を回避することができるうえ、体験者が地域内に宿泊することなどにより地域振興にも寄与する。さらに、体験者は水産業や漁村地域への理解が深まり、魚食文化の普及などに繋がる。このため、水産業・漁村地域の多面的機能を活用して、水産業・漁村地域体験を行うことは重要で、地域性などを十分考慮した取り組みが求められている。
著者
月原 敏博
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.54, 2010

地域環境と学校との関係を考えるために,福井県内の小学校校歌の歌詞(172校歌,165校分)を収集・分析した。その際,歌われている地域環境の要素のほか主体を含む景観の構図につき,歴史的変化も視野に分析した。 校歌で歌われる環境要素は,自然要素,歴史・文化要素,産業要素に細分できるが,自然要素では「白山」「九頭竜川」などの具体の山川や海が多く歌われており,可視性が重視されるとみなされた「白山」の場合を除き,学校から近距離にあるものが歌われていた。歴史・文化要素では寺社と城の名が多く,郷土史に関わる人名や神名も一部に現れていた。産業要素では農業関連の表現が多く,漁業関連の表現がそれに次ぎ,第二次・第三次産業に関わる表現はほとんど見出せなかった。 制定年に注目すると,「われら」や「ぼくたちわたしたち」といった児童自身を指す主体的要素の表現や,そうした主体要素と環境要素で構成される地域と,国家や世界など,地域を超える時空間との関係性の描き方には大きな歴史的変化が見られた。特に戦前・戦中と戦後とではそれらには大きな差があり,戦前・戦中に制定された校歌では国家や天皇に奉仕する忍耐強い姿勢が礼賛される傾向があったのに対し,戦後制定の校歌では「理想」「世界」「平和」「科学」「自由」などが対照的に現れ,校歌はそれが制定された時代を映す鏡でもあったことが判明した。 地域環境との関係では,近年では統廃合による学校数の減少によって歌われる具体の地域環境が減少傾向にあるが,地域環境を歌う際には抽象度において様々なレベルがあることも注目された。すなわち,近年に作られた校歌では,地域の環境を固有名で歌わず抽象的に表現する例が増えており,山川などの固有の地名が現れないために学校名を隠すと全国どの地域でも通用するような校歌さえ出現していた。このことも,歌われる地域環境の減少傾向を加速していることが判明した。
著者
谷 謙二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.44-44, 2004

戦後長らく郊外から東京都区部への通勤者は増加を続けてきたが,1990年代後半にはその減少が観察された。その要因として,1)高度経済成長期に就職し,東京に通勤していた世代が退職する年齢層に到達し始めた,2)新卒者の地元就業率の上昇,3)大都市圏外からの人口流入の減少および都心周辺部での分譲マンションの供給の増加により,郊外への住み替えが減少,4)中高年層のリストラ,などがあげられる(谷,2002)。本研究では特に2)に着目し,郊外に居住する男性若年者の就業先がどのように選択されているかをアンケート調査の結果をもとに検討する。 東京大都市圏の30km圏以遠においては,中高年層では東京へ通勤する者が多いが,若年層では地元や郊外核での就業者が多いという地域が広がっている。本研究では埼玉県上尾市を事例地域として選定し,アンケート調査を行った。上尾市は人口約22万人で,さいたま市の北側に隣接し,JR上尾駅から東京駅まではJR高崎線・山手線で約50分の位置にある。上尾市では,第1図に見られるように,中高年層では県外に通勤する男性が多いが,20~30歳代では県内で就業する者が多いという特徴が見られる。 アンケート調査に際しては,上尾市内から無作為に16町丁を選択し,その町丁に居住する1970年代生まれの男性1942人を対象とした。住民基本台帳の住所をもとに2003年10月に調査票を郵送し,230人から有効回答が得られた(有効回収率11.8%)。調査項目は,生年・学歴・婚姻状態・勤務先・情報入手手段・居住歴等である。 発表では、この調査結果を基に就職に際しての情報入手経路等を検討する。
著者
中西 僚太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.2, 2009

近代の日本では,近世の絵図・地図作成を背景として,新たな意匠の絵図・地図が多数作成された。その代表例としては,大正・昭和初期の吉田初三郎とその門下による一群の鳥瞰図があげられるが,明治・大正期にはそれとは異なる意匠をもつ鳥瞰図が,市街地や温泉地,景勝地,社寺を対象に数多く作成された。それらは当初は銅版,後には石版印刷による対象の精緻な描写を特徴とする鳥瞰図であり,図の名称から「真景図」と総称することができる。本発表では,景勝地の「真景図」の事例として,主に松島と厳島を取り上げ,同時期の案内記や写真帖と比較しながら,刊行状況や作成主体,作成意図,図面構成,構図,描写内容などの資料的検討と考察を行う。その上で,「真景図」を活用した当時の景観(風景)研究や観光研究の可能性を探ってみたい。
著者
折橋 幸代
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.23, 2004

本発表では、高齢者の外出行動パターンの特徴を明らかにするため、第2回および第3回の「富山高岡広域都市圏パーソントリップ調査データ」を分析する。富山県は全国的にも高齢化が進んでいる県のひとつであり、2025年には高齢化率が30%を超えると推計されている。なお、トリップとは「何らかの目的を達するために行われる空間移動」である。分析の結果、外出率は加齢に伴って減少するが、平均トリップ数は65歳以上75歳未満の前期高齢者が非高齢者よりも多いことがわかった。就業者ほど1トリップ当たりの平均トリップ所要時間が長く、どの年代も20分程度である。平均トリップ所要時間は2時点を比較してもほとんど差がない。代表交通手段は、男女とも加齢に伴い徒歩トリップが増加し、自動車トリップが減少する。非就業者が多い高齢者は、通勤・帰宅ラッシュ時を避けてトリップが発生し、午前と午後の2回ピークがある。なかでも午前10時台に発生する全トリップのうち3割が高齢者のトリップである。2時点を比較すると、高齢者の非外出パターンは減少している。高齢者の特徴としては、「私用・帰宅」パターンが2割以上を占め、通学・通勤・業務関係のパターンが少ない。平均トリップ数は、非高齢者よりも前期高齢者のほうが多くなる要因を探ることが今後の課題である。
著者
山口 覚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.27, 2011

本発表では,主に1984年制定の尼崎市都市美形成条例を対象として,その運用例や,市の財政難などにともなう運用上の変化を確認する。同条例は「狭義」の景観行政に関わるものであり,今回の発表ではその部分に焦点を当てる。ただし「まちづくり」全般と関わる「広義」の景観行政にも必要に応じて言及する。 その際には,行政(や研究者)による「都市」表象との関係にも留意する。自市をいかなる「都市」と見なすかによって,その時々の行政の在り方は変容する。都市景観行政は「都市」それ自体が置かれた複雑な流動的状況や,その時々のトレンドにに左右される「都市」表象を色濃く反映するのである。 より具体的な事例の内容としては,1980年代以降における尼崎市の狭義の景観行政の整理,旧尼崎城下町の一角を占める「寺町」を中心とした景観行政の注力とその変化,それを裏付ける市財政における景観行政の位置づけの変化などを取り上げる。脱工業化,バブル崩壊,阪神大震災の影響といった広範なコンテクストの変化の中で様々に変化してきた景観行政は,「市民派」市長のもとで決定的に弱体化されていき,自他ともに「市民」と認めるであろう寺町住民と行政との間で「寺町マンション建設問題」という形でのコンフリクトを生じせしめるに至る。この間に尼崎市は,「独自の歴史を有する個性ある都市」との表象から,「大阪大都市圏における住宅都市」というようにその表象を大きく変容させている。 都市景観行政論を幅広い都市論の中に置き直して再考することが最終的な目標となるが,この発表それ自体では,尼崎市都市美形成条例に関する詳細な事例の紹介を中心におこないたい。
著者
松原 光也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.47, 2003

LRT(Light Rail Transit)は歩行者や公共交通を中心とした都市計画(パーク&ライド等のTDM施策やトランジットモール)に基づいて設置された軌道系中容量交通機関である。これを導入することにより、中心市街地活性化や環境対策、福祉対策に役立った。本論はヨーロッパで導入されているLRTの特徴と、実際に日本で走っている路面電車との相違点を明確にすることにより、これから日本でLRTを導入する上での問題点を提示した。 福井市で2001年秋に行われたトランジットモール社会実験の結果及び、著者が独自に行ったアンケート結果を踏まえて、都市交通に対する住民の意識を調査した。福井市役所の調査では商店街に来る人は増加し、約12%の人が自家用車から路面電車利用に転換した。商店街店主は車が通らないと売上が少ないと考えているのに対し、市民はトランジットモールに対して好意的であった。筆者のアンケート結果で、福井鉄道に乗ったことがない人が約3分の1おり、あまり利用されていないことがわかった。ところが、その印象については好意的な意見が多く、市民の愛着が感じられた。利便性については、運転本数についての不満が一番多かった。その機能を生かすため、増便や発着時間の調整、共通乗車券の発行、低床式車両の運行などの改善策が望まれる。 利便性が向上すれば自家用車から公共交通利用に転換する可能性がある。LRTの整備費用を負担する住民が計画に参加する方がよい。行政側は情報開示や社会実験を通じて、市民が活動できる場を提供する。各段階で他都市の例を参考にしながら問題点を明確にし、協議を重ねていく必要がある。
著者
野間 晴雄 香川 貴志 土平 博 河角 龍典 小原 丈明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.48, 2011 (Released:2012-03-23)

1.目的・視角と本発表の経緯 大学学部専門レベルの地理学研究の知識と技術を網羅した教科書・副読本として1993年刊行の『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』(海青社)1)は,情報アップデート化2)を除いて,2001年に『ジオ・パル21 地理学便利帖』3)以降,大きな改訂をしてこなかった。この間,日本の大学地理学教育をめぐる環境変化,IT技術の急速な変化,高等学校での「地理」の未履修者の増加とその対応,隣接分野への地理学的アプローチの拡がりと地域学・観光などのコース・学科や学部の新設などにより,提供すべき知識・内容を抜本的に改訂・一新する必要が生じてきてきた。 本発表の目的は,2012年春の刊行をめざした全面改訂版である『ジオ・パルNeo 地理学・地域調査便利帖』(仮題)の要諦を,旧版と比較して解説し,現代の大学生が身につけるべき地理学の基礎知識や技術や情報について考察することである。副次的な意図としては,改訂内容への忌憚のない意見・情報を学会参加者から求め,最終稿へ導くことである。 2.大学の地理学教育をめぐる環境変化 この約20年間,アカデミック地理学の動きとしては、環境論が装いを新たにして再浮上してきたこと,計量・モデル志向の方法論の相対的後退,自然地理学の細分化,新しい文化社会地理学・政治地理学の隆盛,場所・地域論の見直し,地理思想の拡がりなどである。技術論としては,GIS,ITの目覚ましい発達,とりわけインターネットを通じた大量かつ広範囲の情報の入手,加工が容易になったことがあげられる。 日本の大学における地理学の立場も大きく変わった。大学「大綱化」による教養課程の廃止と専門科目の低学年次への繰り下げ,大学における組織改組,多様な(一部には意味不明な)専攻・専修・コースの設立や改称,地理学やその隣接分野を学べる専攻の多様化・分散化などがあげられる。高等学校「地理」が必修科目からはずれたことによる学生の基礎知識の低下と格差拡大,ゆとり教育の推進による常識・学力の低下,学生の内向化,フィールドワークや基礎的技術を疎んじるインターネット過信などの状況がある。 3.全面改訂作業の内容 ―旧版との比較を通じて― 旧版『ジオ・パル』の趣旨には,故・浮田典良氏の地理教育・地理学への高い志が凝縮されている。詭弁を排し,徹底して大学生が学ぶべき内容をコンパクトに盛り込む便覧を意図し,2~4年ごとの改訂によって最新情報の提供をめざした。その構成は,地理学史などの本質論から,地理学の諸分野,研究ツール,文献,分析手法,キーワードに及んだ。今回の全面改訂は,旧執筆者の意見を汲み込みながら,現役で学部の実習や演習を担当している若手・中堅4名の十数回にわたる討議・共同作業により,3部構成(イントロ,スタディ,アドバンス)に全体を組み替えた。 「イントロ」は,高校「地理」を履修せずに入学する多様な学生の注意をひき,現在の学生の最大の関心である就職や資格にも配慮した入口~出口解説である。本論が「スタディ」で,さまざまな授業で随時参照でき,かつ4年間あるいは卒業後も使える有用性をめざした。地図の利用と自ら主題図を作成する技術,地域データの入手法,地域調査事例,GISの入門などを充実させるとともに,学生がプレゼンテーションや卒業論文を書く際の注意事項などを追加した。その一方で,地理学史や著名学者,学会など,大学院をめざす人,より高い専門性を追求する学生向きの事項は「アドバンス」にまわした(図1)。 4.今後のよりよき改良と修正に向けて 研究発表時には野間が全体の概要とねらいを,香川が具体的な改訂版の新機軸や内容の一端を紹介する。まだ,全体に盛り込むべき内容が完全には確定していない。情報として盛り込むべき事項(専攻名称や地方学会の雑誌情報)も変化が激しい。会場入口に置いた追加資料に挟み込まれたアンケート(無記名)と情報提供について,ご協力を賜れば幸いである。 注・文献 1)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』海青社,1993年[白表紙]。2)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖1998-1999年版』海青社,1998年[紫表紙]。3)浮田典良・池田碩・戸所隆・野間晴雄・藤井正『ジオ・パル21 地理学便利帖』海青社,2001年[赤表紙]。
著者
貴志 匡博
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.45, 2011

1.はじめに<BR> 本研究は,近年の都市に近い農村における若年既婚者のUターンに注目し,その属性と傾向を明らかにするものである。これまでのUターンに関する研究は,農村地域を対象としたものがほとんどなく,対象地域の人口が数十万人規模の研究が多い。 これまでのUターン研究では,20歳代でのUターンが多いとされ,就職と学歴に注目した研究が展開されてきた。例えば,山口ほか(2010)などの研究がある。しかしながら,30歳代といった若年のUターンは結婚後に家族を伴ってなされること事が多く,子どもの存在が集落に活気をもたらすなど,無視できない点も多い。<BR><BR>2.対象地域と調査手法<BR>県庁所在都市より高速道路を経由して2時間の地にある農村地域として,兵庫県多可町加美区を対象とした。多可町は,2005年に加美町,中町,八千代町の3町が合併した。町役場を中町におき,旧町はそれぞれ地域自治区となった。そのうちの加美区の人口は,7204人(国勢調査2005年)である。本研究はこれまでの研究のように高校同窓会名簿によるアンケートではなく,加美区に居住する全世帯に対するアンケート調査に基づいている。この調査は神戸大学経済学研究科と多可町とのまちづくりむらづくり協定,加美区各集落の役員方の協力によってなされた。配布と回収は2009年8月のお盆休みに集落の区長を通じて配布し,町役場へ郵送回収する方法をとった。世帯主から世帯主本人と配偶者,その子に関する移動歴を尋ねる形の調査票を用いた。これにより,農村地域を対象とした全世代的な調査を行った。なお,本研究においてUターンの定義を,加美区出身者が加美区外に転出し再び加美区に戻ることと定義する。調査票は1912票を配布し,うち510票(回収率26.7%)を回収した。うち世帯主で加美区出身者は424人である。<BR><BR>3.結婚後Uターンの特徴と実像<BR>紙幅の関係上ここでは世帯主だけの分析結果をしめす。加美区出身で在住の世帯主419人のうちUターン者数は179人であった。加美区出身者の約4割は他出経験があり,6割近くは他出経験が無いことになる。そのうち移動経歴が正確に把握できた149人において,結婚後のUターン者が67人で半数近くを占めている。未婚者のUターン(以下,未婚Uターン)と既婚者のUターン(以下,結婚後Uターン)では,Uターンのなされるピークが異なっていることがわかる。未婚Uターンのピークは20歳代前半で,結婚後Uターンのピークは30歳代前半である。本研究では以上の点を踏まえ,20・30歳代の結婚後Uターンに注目する。20・30歳代結婚後Uターンを高校と大学の学歴別にみると,学歴によってUターンのなされる時期が異なっていることがわかる。20歳代前半のUターンでは大学卒業者の未婚Uターンが4割を占める。これに対し,30歳代前半では,高校卒業者の結婚後Uターンが約5割,大学卒業者の結婚後Uターンが約3割を占めている。Uターンを誘発させるには,年齢以外にも学歴などの属性に注意を払う必要があると思われる。<BR>次に,就業についてみる。20・30歳代の結婚後Uターン者の4分の1は,教員,公的企業職員を含む公務員系であった。Uターン前後での職業の変化をみると,家業継承とみられる変化が目立つ。正規会社員から家業継承とみられる自営業や会社役員へ約2割が変化している。そのため,Uターンに際し転職を経験している人が多くなっている。本調査を分析した山岡ほか(2011)でもUターンの理由として,イエの継承に関する回答が多かったことがわかっており,職業の変化にも家業継承を確認できる。また,少数ながら20歳代後半と30歳代後半のUターン者で教員,医療,美容師といった専門職もみられ,専門的な技能を身に付け出身地にUターンした事例も見られる。Uターン前の居住地も就業地に対応して兵庫県や大阪府に集中している。兵庫県内居住者を詳細にみると,約3割が多可町周辺市町であった。結婚直後は周辺市町に居住し,その後加美区へ戻るケースと考えられる。これは一般的なUターンのイメージとかけ離れるが,実際のUターンにはこのような移動パターンが存在する。<BR>加美区内において,30歳代結婚後Uターン者の地理的分布を見る。加美区北部の旧杉原谷村で,30歳代結婚後Uターン者が高い割合の集落が集中している。加美区北部の旧杉原谷村は,同じ加美区でも交通アクセスの不便な地域として住民から認知されている。このような地域では本来Uターン者の割合が低くなることが予想される(貴志;2009)。このような結果の背景として,既に行った加美区内の全集落調査から,集落内での行事との関係が考えられる。世代を超えた交流をもたらす祭りなどの行事は集落への愛着を高め,将来のUターンを盛んにしている可能性が高い。
著者
金 どぅ哲
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.14, 2006

I はじめに 本研究は旧韓末(朝鮮時代の末期)の代表的な学者で啓蒙思想家である張志淵の地理思想を中心に、韓国における伝統的な地理思考と近代的な地理思想との接点を探ることを目的とする。張志淵(1864~1921)は、韓国初の民間新聞である「皇城新聞」の創刊者および主筆として、日韓保護条約(1905)を痛烈に批判した社説「是日也放聲大哭」で有名であるが、一方では旧韓末の代表的な儒学者・史学者としても大きな足跡を残している。それだけに今日にも張志淵は言論人の草分けとして、また儒学者・史学者として韓国で広く知られている人物であるが、彼の地理学的な業績と近代地理学への影響についてはあまり知られていない。そこで、本稿では、張志淵の思想的背景に注目しつつ、彼の著書である「大韓新地誌(1907)」を中心に韓国における近代地理学の黎明期の特徴を明らかにするとともに、韓国の近代地理学に及ぼした影響について検討したい。II「大韓新地誌」の内容と特徴 張志淵は韓国の3大地理書の一つと呼ばれる丁若鏞の我邦疆域考 (1811年)を増補した「大韓疆域考(1903)」や「大韓新地誌 (1907)」などを著するなど、地理学と地理教育にも少なからず功績を残した。張志淵は「大韓疆域考」の序文で、「いま地理を論ずるためには、歴代の疆土の沿革をまず調べなければならず、・・・歴史の一部分を補充しようとする・・・」とし、地理学を歴史の一部と見なす伝統的な地理思考を示している。しかし、4年後に刊行した「大韓新地誌」の序文では、「今日、我々に最も緊急な問題は地理の不在である・・・地理学が発達しないと、愛国心もない・・・近年我が国では新学問を論ずる人々が世界各国の地理と事情だけを一生懸命議論するのみで、真の我が国の地誌を研究するものはほとんどいない。また、学校では教科書で地理を教えていると言っているものの、完全無欠な教本がなく地理に関する常識がはなはだ浅い。これは我々の大きな欠点である・・・」とし、新学問としての地理学の必要性を力説している。この時期、彼は地理教育を通じて愛国心や民族意識を向上させることを試みており、その方法として近代的な学校教育を取り、実際にいくつかの民族学校の校長に努めるなど、教育運動にも関わっていた。「大韓新地志」は、1907年に学部(統監部)の検定を受けたが、内容が不純であるという理由で1909年に検定無効となった。しかし、当時としては比較的に科学的な内容構成であり、優秀な地理教科書であったため、1907年初版の発行以来1年半後に再版を発行するほど人気が高かった。「大韓新地志」は韓国地理を地文地理、人文地理、各道の3部構成で叙述しており、近代地理学的な地誌体系を取っている。また、「大韓新地志」田淵友彦の「韓国新地理」を参考にした痕跡があるとの意見もあるが、伝統的な地誌を基本に近代的な韓国地理の体系を樹立したと評価できる。例えば、従来韓国では風水地理の影響を受けた「白頭大幹」あるいは「白頭正幹」という表現が用いられてきたが、「大韓新地志」で初めて「白頭山脈」という表現が登場する。また、「大韓新地志」の挿入図には、方位や縮尺、海岸線や航路の距離、礦山・港口・鐵道などの凡例のように近代地理学の概念や表現が用いられている。「大韓新地志」の目次からも分かるように、「大韓新地誌」には「山経」などの伝統的地理思想に基づいた項目もあるが、近代地理学の体系を受容している項目が多く、近代的な地誌としての体系を整えていると言える。III 終わりに 韓国における近代地理学の黎明期に波瀾万丈な人生を過ごした張志淵の地理観を要約すると、次の3点が指摘できる。第一に、開花思想の影響で、日本から導入されはじめていた近代地理学的な概念を受容し、伝統的な地理観からの脱皮を試みた。第二に、儒学者としての生い立ちの影響で、地理を歴史の一部としてとして捉える認識が残っていた。第三に、地理学を愛国啓蒙の手段として捉えていた。最後に、このような張志淵の地理観にみられる特徴のうち、地理学を愛国啓蒙の手段として認識は、独立後の韓国の地理学にも影響を及ぼしてきたことを指摘しておきたい。すなわち、韓国では少なくとも1980年代まで地理学を「国学」として捉える風潮が色濃く残っていたが、その原因は海外研究が自由にできなかった社会経済的な要因もあるが、韓国のおける近代地理学が愛国啓蒙の手段として出発したことと大いに関わっているからである。参考文献張志淵(1907)『大韓新地志』、廣學書舗。具滋赫(1993)『張志淵』、東亜日報社。カン・スンドル(2005)「愛国啓蒙期知識人の地理学理解:1905~1910年の學報を中心に」、大韓地理学会誌、40-6、595-612。金基植(1994)『韓・日合併を前後した韓国地理教科書に表れた国家意識の分析』、韓国教員大学修士論文。
著者
阿部 志朗
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.60, 2009

島根県西部石見(いわみ)地方で19世紀半ばから生産されてきた陶器「石見焼」の、三斗~六斗の容積の水甕(「はんど(はんどう)」)は、古くは北前船と総称された日本海海運で、さらに大正時代の山陰線の全通以後は鉄道貨物として、おもに日本海沿岸地域を中心に全国的に広く普及した。これまでその流通・分布の実態について報告されたことはほとんど無かったが、北海道~北陸の北前船寄港地の資料館や旧家で石見焼の水甕が現存することを先に報告した(阿部 2008)。それらの水甕には出荷向けの石見焼特有の刻印や墨字が印されていることが分かった。これらの印を参考に「石見焼」の産地同定や、近世・近代における石見焼の流通過程について考察する。方法として「石見焼」の水甕の有無について兵庫県以北の日本海沿岸の市町村に対するアンケート形式の調査とそこから得られた回答をもとにして実施した現地調査をもとに、近世末~近現代の石見焼の分布と流通の実態を把握する。アンケート調査では、兵庫県~北海道の日本海および津軽海峡に面した多くの市町村から石見焼らしい水甕が「ある」という回答と、写真資料も届けられた。それらの水甕の底面にある刻印や墨字から、石見地方で生産されたことが断定できる「石見焼」と石見焼の特徴が強い「石見系」の水甕に分類した。この分類を踏まえ、本州~北海道の「石見焼」および「石見系」の水甕の分布を概観すると、いわゆる北前船寄港地として知られる諸港とその周辺に刻印や墨字を含む古いものが存在すること、能登半島など半島先端部には「石見焼」が多いが半島の基部にはほとんど見つからないこと、青森県の日本海沿岸・津軽半島では存在が確認できたが、下北半島周辺ではほとんど見られないこと、などから日本海側ルートで船(北前船)で流通したことが考察できる。一方、稚内市~函館市までの日本海沿岸の市町村(島嶼部と積丹半島を除く)で行った現地調査では、ほぼすべての市町村で「石見焼」「石見系」水甕の存在が確認できた。とくにニシン漁関連の施設にはすべて「石見焼」水甕があり、飲み水用として六斗サイズの大物が用いられていたことが分かった。また、調査の中で大型で茶色の水甕だけでなく、小型の白い甕にも「石見焼 ○製」の刻印があるものが多数見つかった。このような刻印の甕類が多いのは、同じ沿岸部でも移住・開拓の時期が早い地域である。島根県西部は鉄道の開通が大正時代の後半に下るため、それまでの製品は船で運ばれ、徐々に鉄道輸送に移行する。石見焼の水甕は古いものは「入れ子状」のセット販売、戦後の新しいものは単品での販売・輸送というように製法・形状の変化よりも輸送形態や販売方法の変化が顕著であるが、北海道では本州にあるような明治中期までの「石見焼」は松前、江差以外ではほとんど見つからず、北に行くほど単品販売の形態の新しいものが多く現存することが分かった。北海道での移住・開拓の進展と石見焼流通時期とも少なからず関連するようにも考えられるが、この点についてはさらに精細な検討が課題である。
著者
片平 博文
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.20, 2005

『日本後紀』以降の六国史や『小右記』『権記』『殿暦』などの公家の日記等によれば、平安時代を通じて、平安京は数多くの洪水に見舞われてきたことがわかる。これらの史料類から把握できる洪水の多くは、「都城両河洪水」などの記述からも明らかなように、東の賀茂川や西の桂川が溢れたことによって生じたものと考えられる。洪水の中には、賀茂川と桂川とが同時に溢れたケースや、賀茂川が溢れることによって発生したケースなどがある。ところが、頻繁に平安京を襲った洪水の中には、賀茂川や桂川以外の河川によって引き起こされたと考えられるケースも認められる。このような洪水は、天安2年(858)5月のほか、長和4年(1015)7月、寛徳3年(1046)5月、永久元年(1113)8月、長承3年(1134)5月などの記述にもみられ、東堀川や西洞院川などの小河川が、11_から_12世紀になってもしばしば溢れていたことがわかる。 これら小河川から溢れた水は、どこから来たのだろうか?それを解く手がかりとして、『日本三代実録』貞観16年(874)8月の記事が注目される。そこには、台風と思われる大風雨によって賀茂川・桂川などが溢れ、内裏や京内に甚大な被害の出たことが記されている。京外でも、與渡の渡口や山崎橋付近に大きな被害が出たことが知られる。注目すべきはそれに加えて、平安京の北部にあたる栗栖野(西賀茂)や鷹峯付近の被害状況がとりわけ具体的に記述されているということである。この記事からは、貞観13年(871)の大雨や同16年の大風雨によって、栗栖野や鷹峯付近は大被害を受け、しかも同時に京内も橋が流出するほどの被害が出ている。この事実は、両地域の被害に関連のあることを示唆するものと考えられる。以上の分析を受けて史料類を検討した結果、栗栖野・鷹峯付近と左京の小河川とを結んでいたと考えられる水系の存在が確認された。