著者
藤塚 吉浩
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.6, 2011 (Released:2012-03-23)

ジェントリフィケーションは、1980年代に比べると現象が大きく変質してきた。ジェントリフィケーションは、もはや住宅市場の狭い非現実的な特異さに関するものではなく、よりもっと大きなものを得ようとする居住の最先端、すなわち、中心部の都市景観に関する階級の再建となっている。 現象の変化として近年注目されている研究テーマは、新築のジェントリフィケーション(new-build gentrification)である。新築のジェントリフィケーションは、工場跡地や放棄された土地、建物が取り壊されたところに新たに建設されたものである。新築のジェントリフィケーションとは、再投資と高所得者による地域の社会的上向化、景観の変化、低所得の周辺住民の直接的・間接的な立ち退きを伴うものである。本報告では、このような現象が東京特別区部において発現しているのか考察する。 21世紀に入りジェントリフィケーションの多発する要因のひとつに、政府の積極的な支援がある。ニューヨーク市の事例では、工業地域から住宅建設を可能にする用途地域への変更により、大規模なコンドミニアムの建設が可能となった。本報告ではまた、住宅に関する施策の変化が、ジェントリフィケーションの発現に影響するのか検討する。 1990年代のジェントリフィケーションの発現は、京都市の事例では都心周辺地区にみられた。ニューヨーク市の事例では、イーストリバーを挟んだ都心の対岸地区でジェントリフィケーションがみられた。本報告では、2000年代の発現地区と都心との位置関係について検討する。 ジェントリフィケーションの発現を示す指標として、2000年代前半の専門的技術的・管理的職業従事者の動向について検討した。中央区の増加率は30%を超えて最も高く、江東区と千代田区の増加率は10%を超えた。地区で起こるジェントリフィケーションの特性を考えると、区の範囲でジェントリフィケーションが起こっているか判断することは困難なので、本報告では専門的技術的・管理的職業従事者が最も増加した中央区を事例として詳細に検討する。 中央区の住宅関連施策の実施に関しては、1980年代の投機的土地売買による居住人口の減少が背景にある。中央区は居住人口を確保するために、1985年に中央区市街地開発指導要綱を制定し、大規模な開発には住宅附置を義務づけた。住宅の確保に効果はあったが、新築された共同住宅の家賃が高く、従前の借家人は入居できず立ち退きとなる問題があった。住宅附置義務により増加した共同住宅の多くは、単身者用であった。住宅附置義務制度は、規制緩和された建物の高さに関する建築紛争の多発により2003年に廃止されたが、ジェントリフィケーションの発現に影響を及ぼしたのである。 ジェントリフィケーションの発現地区については、町丁別に専門的技術的・管理的職業従事者の変化を検討する。首都高速道路の都心環状線と上野線の西側が都心の業務地区であるが、専門的技術的・管理的職業従事者は、都心周辺地区で増加するとともに、隅田川の東岸の地区においても増加した。日本橋の問屋街や築地市場では卸売業が集積し、入船から湊にかけての地区では印刷工場や倉庫などがみられる。都心の業務機能はこれらの地域には拡大せず、再投資による共同住宅の建設があり、社会的上向化が起こった。新築のジェントリフィケーションに関連する景観の変化と立ち退きについては、地区ごとに詳しく検討する。 東日本橋から人形町にかけての地区では、繊維・衣服等卸売業が集積しており、近年ではそれらの店舗の跡地に共同住宅が多数建設されている。1階に店舗を設置しない共同住宅の建設計画には、問屋街の連続性が失われるとした建築紛争があった。 入船から湊にかけての地区では、1980年代の地価高騰期の投機的土地売買のために、住民は立ち退きとなり、住宅や工場、倉庫の建物は取り壊された。1990年代には、景気後退の影響からそれらの跡地は利用されず放置された。2002年には都市再生特別措置法が施行され、都市再生特別地区として超高層共同住宅の建設計画がある。 隅田川より東の佃や月島、勝どきでは、大規模な高層共同住宅開発が進められた。佃では、造船所と倉庫などの跡地に、1980年代半ばより超高層共同住宅が建設され、景観は大きく変化した。佃や月島は、路地空間に特徴のある下町である。近隣への中高層共同住宅の建設に際しては、既存の高層住宅の住民から反対されるなど、新たな建築紛争が起こっている。
著者
河角 龍典 佐古 愛己
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.13, 2004 (Released:2004-11-12)

歴史的空間情報へのGIS(地理情報システム)の適用が、過去数年の間に急速に発展しつつある。古代都市に関する歴史GIS研究もその例外ではなく、考古学の分野からすでにいくつかの研究が実施されている。しかしながら、埋蔵文化財の発掘調査や文献史学から得られる膨大な古代都市にかかわる歴史的空間情報については、そのデータベースが十分に整備されていないために、古代都市研究へのGISの適用が遅れている。 本報告では、平安京に関連する歴史的空間情報のデジタルデータベースの構築とそれらへのGISの適用から様々な歴史地図を作成し、平安京の地形景観、土地利用景観の復原を試みた。京都に関する歴史学的、地理学的、考古学的な研究成果には、膨大な蓄積がある。これらの大量かつ精緻な研究成果は現在活字媒体で提供されているが、これをデジタル媒体でデータベース化することにより、さらに容易かつ有効な検索・利用が可能となる。本研究では、『兵範記』を記主平信範が存命した12世紀の京都を中心に、GISに利用可能なデータベースの構築を行った。本研究では、『平安京提要』1) や『平凡社日本歴史地名大系 京都市の地名』2) などから作成したデータベースの構築と、12世紀の中級貴族・実務官僚である平信範(たいらののぶのり、1112~87)の日記『兵範記』(『人車記』ともいう)のデータベースの構築を通して、具体的な検討を進めた。本研究では、古記録に表れる歴史的空間情報にGISを適用することにより歴史地図を作成し、平安京の景観復原を試みた。その結果以下のことが明らかになった。1)過去の景観について議論するためには、過去の地表面の復原が必要である。2)平安京の土地利用データベースとGISの結合によって、平安時代の土地利用の視覚化が可能になった。
著者
成瀬 厚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.19, 2011 (Released:2012-03-23)

1970年代の人文主義地理学によってキーワードとされた「場所place」は概念そのものの検討も含んでいたが,その没歴史的で,本質主義的な立場などが1980年代に各方面から批判された。1990年代にはplaceを書名に冠した著書や論文集が多数出版されたが,そこでは場所概念そのものの検討はさほどなされなかったといえる。 本報告では議論を拡散させないためにも,検討するテクストをプラトンの『ティマイオス』および,そのなかのコーラ=場概念を検討したデリダの『コーラ』を,そしてアリストテレスの『自然学』および,そのなかのトポス=場所概念を検討したイリガライの「場,間隔」に限定する。 プラトン『ティマイオス』におけるコーラとは,基本的な二元論に対するオルタナティヴな第三項だといえる。コーラは岩波書店全集では「場」と翻訳されるものの,地理的なものとして登場するわけではない。『ティマイオス』は対話篇であり,「ティマイオス」とは宇宙論を展開する登場人物の名前である。ティマイオスの話は宇宙創世から始まるが,基本的な種別として「存在」と「生成」とを挙げる。「存在」とは常に同一であるもので,理性(知性)や言論によって把握される。これは後に「形相」とも呼び変えられる。「生成」とは常に変化し,あるという状態のないものであり,思わくや感覚によって捉えられる。創世によって生成した万物は物体性を具えたもので,後者に属する。そのどちらでもない「第三の種族」として登場するのが「場=コーラ」である。コーラとは「およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し,しかし自分自身は,一種のまがいの推理とでもいうようなものによって,感覚には頼らずに捉えられるもの」とされる。その後の真実の把握を巡る議論は難解だが,ここにコーラ概念の含意が隠れているのかもしれない。いや,そう考えてしまう私たちの真理感覚を問い直してくれるのかもしれない。 デリダはコーラ概念を,その捉えがたさが故に検討するのだ。「解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは,つまり,形を与えることができるのは,ただ,接近不可能で,平然としており,「不定形」で,つねに手つかず=処女的,それも擬人論的に根源的に反抗するような諸女性をそなえているそれ[彼女=コーラ]が,それらの類型を受け取り,それらに場を与えるようにみえるかぎりにおいてのみである」。 『ティマイオス』では,51項にも3つの種族に関する記述があり,それらは母と父と子になぞらえられる。そして,コーラにあたるものが母であり,受容者であり,それは次のイリガライのアリストテレス解釈にもつながる論点である。このコーラの女性的存在はデリダの論点でもあり,またこの捉えがたきものを「コーラ」と名付けたこの語自体の固有名詞性を論じていくことになる。 アリストテレスのトポス概念は,『自然学』の第四巻の冒頭〔三 場所について〕で5章にわたって論じられる。トポスは,物体の運動についての重要概念として比較的理解しやすいものとして,岩波書店全集では「場所」と翻訳されて登場する。アリストテレスにおける運動とは物質の性質の変化も含むため,運動の一種としての移動は場所の変化ということになる。 ティマイオスはコーラ概念を宙づりにしたまま,宇宙論をその後も続けたが,アリストテレスは「トポス=場所」を物体の主要な性質である形相でも質料でもないものとして,その捉えがたさを認めながらも論理的に確定しようとする。トポスには多くの場合「容器」という代替語で説明されるが,そこに包含される事物と不可分でありながらその事物の一部でも性質でもない。 イリガライはこの容器としてのトポスの性質を,プラトンとも関連付けながら,女性としての容器,女性器と子宮になぞらえる。内に含まれる事物の伸縮に従って拡張する容器として,男性器の伸縮と往復運動,そして胎児の成長に伴う子宮の拡張,出産に伴う収縮。まさに,男性と女性の性関係と母と子の関係を論じる。 この要旨では,デリダとイリガライの議論のさわりしか説明できていないし,これらの議論をいかに地理学的場所概念へと展開していくかについては,当日報告することとしたい。
著者
太田 孝
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.22-22, 2011

(はじめに) 「修学旅行」という言葉は,ほとんどの日本人の心に思い出として残っている言葉であり,長年にわたって学校教育の中で大きな役割をになってきた。白幡1)は,昭和の日本人の「旅行」を「昭和が生んだ庶民の新文化」とする。この「庶民の新文化」がどのように形成され,日本人の特徴としての「団体型周遊旅行」という旅行行動が生まれてきたのかを明らかにすることが本稿の目的である。その際,特に着目したのが修学旅行である。 修学旅行は,日本の特徴的な文化の一つとして定着しており,日本人の旅行を考える上で,決して欠かすことのできないテーマである。昭和時代には国家体制と社会環境の影響を受けながらも,太平洋戦時下を除き息長く継続されてきている。「なんとか子どもたちを修学旅行にいかせたい」。それは父兄のそしてムラ・マチの大人たちの,戦前・戦後を通じての熱い思いであった。昭和戦前期また戦後の荒廃下でも,わが国の地域社会において,都市と農村や生活の格差を越えて幅広い層にわたって組織的に「旅行」を経験し,「外の世界」に触れたのは子どもたちであり,修学旅行にはひとりでも多くの生徒の参加がめざされていた。自分たちが「日頃行動できる範囲=日常生活圏」から離れ,見聞きしたことを家族やムラ・マチの人々に話す。この子どもたちの体験と情報は地域社会に大きな影響を及ぼしたと考えられる。このような問題意識を持ったとき,戦後における日本のツーリズムの画期性を考察するには,その土壌が出来上がる前段の,戦前における人々の「旅行行動の意識形成」の過程をとらえて論じる必要があることに気がつく。本稿のめざすところは,日本人の旅行行動の意識形成を明らかにすることであるが,それに影響を与える大きな役割をになった一つが,幅広い層にわたって誰もが経験した修学旅行であったと考えられる。日本人の旅のスタイルの特徴を形づくってきた淵源のひとつは修学旅行にあるのではないか。このような仮説と問題意識のもとに,戦前において「参宮旅行」と称して全国から修学旅行が訪れた「伊勢」をフィールドとして,筆者が発見した資料(1929~1940年の間に全国から伊勢神宮を修学旅行で訪れた学校の顧客カード3,379校分・予約カード657校分ほかが内宮前の土産物店に存在した)をもとに考察した。(得られた知見) まず第1に,「伊勢修学旅行の栞」による旅行目的と行程の詳細分析から,目的である皇国史観・天皇制教化としての「参宮」を建前としながらも,子どもたちにたくさんのものを見せ,体験させたいという「送り出し側(学校・父兄・地域)」の思いが修学旅行に色濃く反映していることが実証された。その結果としての,短時間での盛りだくさんな見学箇所と時間の取り方や駆け足旅行という特徴は,子どもたちに,『旅行とはこういうものだ』という観念を植えつけ,団体型周遊旅行の基礎を作り上げるとともに,『見るということに対するどん欲さ』を身につけさせた。第2に,夜行も厭わない長時間の移動と,食事・宿泊も一緒という実施形態により,団体型の行動や旅行に慣れていった。この形態が戦後の団体臨時列車,引き回し臨時列車,修学旅行専用列車,バスによる団体旅行等の旅行形態と,それを歓迎する(好む)旅行行動の意識形成につながった。第3に,現代の日本の団体旅行の誘致手法は,江戸時代の伊勢御師の檀家管理手法や講による団体組成方式にルーツがあり,その思想を受け継いだ伊勢の旅館や土産物店の修学旅行誘致・獲得策が,戦後の旅行業の団体営業型のモデルになった。ツーリズムは需要側と供給側の相互作用によって醸成されていくものである。この供給側の需要側に対する活動が日本人の団体型旅行行動意識形成の重要な部分を担ってきたことが検証された。第4に,旅行における『本音と建て前』の旅行行動の意識を明らかにした。すでに江戸時代から存在したものであるが,特に満州事変以降の戦時体制下において,子どもたちの修学旅行を実現するためにその考え方が強く現れている点を指摘した。この『本音と建て前の旅行文化』は,戦時体制下という事情とともに,日本人の余暇観・労働観が旅行行動の意識の根底にあるものである。このように,従来の研究ではとらえられていなかった,戦前の修学旅行が旅行の形態と旅行行動に関する意識形成に与えた影響を明らかにした。そして第5に,この影響は,「都市と農村」や「生活面での格差の階層」を越えた幅広い層の子どもたち本人と,その日常生活圏の人びとに対するものであったことも,戦後の日本のツーリズム形成の要因として見逃すことはできない。1)白幡洋三郎『旅行のススメ 昭和が生んだ庶民の「新文化」』1996.中公新書
著者
井上 孝 森本 健弘
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.43, no.5, pp.479-492, 1991

This study examined how population density and agricultural land productivity in a metropolitan area varied spatially by discussing the case of the Kanto district. A mathematical model was presented for describing the relationship of these two values. Population density values were calculated from grid-cell data of the population census of 1980. Values of agricultural land productivity were represented by agricultural income per hectare estimated from grid-cell data of the agricultural census of 1980. Figure 3 shows distribution of these values.We attempted to find the complicated spatial patterns of these values by analyzing the covariation of them in two aspects: the covariation with distance from the city center (Fig. 4) and with azimuth angle in distance belts (Fig. 5).The facts that we found are summarized as follows:The covariation with distance showed a tendency to correlate positively in the inside range of 35km and showed a tendency to correlate negatively in the outside range of 35km, except the non-agricultural city core and the mountainous area beyond 95km.The variation with azimuth angle, both of density and of productivity, consisted of long waves and short waves. The long waves of density and productivity showed similar curves. By contrast, the short waves of them showed inverse curves. This inverse relationship was weaker in the outside range of 35km than the inside.A mathematical model was then presented on the basis of these facts. This model consists of the following two parts:1) The covariation with distanceThe following formulation describes the covariation of population density fP and agricultural land productivity fA with distance. Equation (1) shows the productivity fA (r, p) at a place where distance from the edge of the city center is r and deviation of density is p. Variables fA (r, p), gA (r), and hA (p) in (1) correspond to curves FA, G, and H in Figure 6 respectively. The variable gA (r) is a component declining exponentially with distance r; gA (r)>0 and (d/dr) gA (r)<0 for r>0. The variable hA (r) is a component increasing with decreasing deviation p; (d/dp) hA (p)<0; hA (p)≈0 at p=0. Let fP(r) be the population density at distance r and fP be the mean value of fP(r) with respect to overall r, we get p=fP(r)-fP and (d/dr)fP(r)<0. Thus hA (p) becomes a function of r and (d/dr)hA(p(r)) becomes positive. Let r0 be a constant distance, the relationship between gA (r) and hA (p) is given by inequalities (2) and (3).2) The covariation with azimuth angleThe following formulation describes the covariation of population density up and agricultural land productivity uA, with azimuth angle in a specific distance belt Both uP and uA are standardized values with respect to overall angle in the distance belt. The density uP(θ) at angle θ can be written in equation (4). Variables uP(θ) and vP(θ) in (4) correspond to curves UP and VP in Figure 7 respectively. The variable vP(θ) is a component representing long periodic variation; vP(θ+λ1)=vP(θ) for a constant λ1(>0)
著者
佐藤 英人
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.353-368, 2001
被引用文献数
6 2

In recent years, the understanding of the processes of the suburbanization of office location has long been a major foci of discussion in urban geography. However, few studies have analyzed why large, high status office buildings have developed in the metropolitan suburbs.The purpose of this study is to investigate the supply and management of large office buildings in the Tokyo metropolitan suburbs. The analysis is based on a questionnaire survey of tenant offices in Omiya Sonic City, one of the earliest large office buildings in the suburbs.The paper can be summarized as follows:Office workers and office space stocks have steadily increased since 1990 in suburban core cities. However, there are regional differences in the temporal fluctuation of the rental ratio of office space. In particular, there has been a tendency for an improvement in the rental ratio of office space following the prominence of the bubble economy in Omiya city, one of the suburban core cities.Omiya Sonic City is a 'smart-building', which was developed by a joint enterprise of private office developers and the public sector. As this building has attracted many tenants, the rental ratio has kept to a high average since it opened in 1988. The building maintains this high rental ratio by attracting many branch offices of headquarters located in central Tokyo. These branch offices have played an important role in the regional business base of the northern Tokyo metropolitan region.The reasons why these tenant offices rent their spaces in this building are not only due to its good location and easy access to both the northern region and central business district in the Tokyo metropolitan region, but also to the fact that Omiya Sonic City is the highest status building in the suburbs.As the building's owners invited many tenant offices, they surveyed office market trends in suburban areas in detail. Based on this survey, they decided to invite branch offices of headquarters located mainly in central Tokyo. As a result, Omiya Sonic City succeeded in inviting many superior tenant offices.Recent studies have already pointed out that various 'back offices' carrying programmed works using telecommunications have moved from downtown to the suburbs because they do not need face-to-face contact in downtown. However, this study shows that the suburbanization of office locations is caused not by decentralized back-offices but by new suburban branch office locations.To comprehend the processes of the suburbanization of office location in more detail, future studies must consider examples of large office buildings at other suburban core cities.
著者
柴田 陽一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-19, 2006-02

The purpose of this paper is to examine the ideological establishment of the geopolitics of Saneshige Komaki (1898-1990), who was a Professor of Geography at Kyoto Imperial University, and a well-known advocate of "Japanese Geopolitics" during World War 2, and accordingly a remarkable figure in the history of Japanese geography. Approaching this subject biobibliographically, I focus on the personal background of Komaki. Using his own bibliography, and through an analysis of his written works, I trace the development of his thought. To begin with, I demonstrate the ideological background of Komaki's geopolitics. Komaki had a great antipathy toward Western imperialism. In addition, immigration issues closely related to racial discrimination were his great concern. He held the view that geography in those days had lost its social relevance, and that the nature and culture of each land should be maintained under an indigenous order. Next, I examine the ideological composition of Komaki's geopolitics. His geopolitics began before the outbreak of the Sino-Japanese War in July 1937. He asserted that "Japanese Geopolitics" was indigenous and one which attaches importance to the autonomy of Japan, after he had criticized the history of Western exploration, conventional geography, and Geopolitik. His geopolitics tried to clarify what was destroyed by Western colonization and had an historico-geographical and irrational character. Lastly, I point out some of the positive and negative aspects of his geopolitics. The social relevance of geography, his criticism of Western colonialism and the issue of positionality in research can be seen the light of Japan at that time. On the other hand, the lack of an attitude to relativize Japan and the subjective/intuitive judgement in the reasoning process were negative aspects. However, the positive and negative are not clearly divided. "Japanese Geopolitics" has suggested important issues in connection with the political nature and the social relevance of geography and geographical knowledge, although it served to justify the aggressive wars of the Japanese Empire.
著者
土居 浩 西 訓寿
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.P04-P04, 2008

ライトノベルは《どこを》描写しているのか,ライトノベルは《どこに》存在しているのか.文化現象に対してむしろ「場所・空間フェティシズム」(参照:森正人『大衆音楽史』中公新書,2008)をより徹底化させることで,場所・空間研究の立場から,ライトノベル研究ひいてはポピュラーカルチャー研究に寄与することができないか.この目論見を素描することが,本発表の目的である. ライトノベルは《どこを》描写しているのか,との問いで注目するのは,安藤哲郎(「説話文学における舞台と内容の関連性」人文地理60-1,2008)が「舞台」と呼ぶ対象とほぼ同義である.安藤は「舞台」を「登場人物などに何らかの行動がある場所,由緒や出身地としての説明がある場所」として,院政期に編纂された説話集からその「舞台」を抽出した上でさらに分析軸を加える.本発表も安藤と同様に,登場人物の行動を追いかけることで作品の「舞台」を抽出するが,分析軸については安藤の方法をとらない.それは対象とする作品群の違いに拠る.つまり安藤における説話集と異なり,本発表におけるライトノベルが文学研究の対象としてようやくみなされつつある現状を前提としている. 文学作品を対象とする地理学研究に対して小田匡保は,「地理学研究者が文学を扱う際に,文学研究者の研究史を踏まえ,それに(地理学的観点から)何か新しいことを付け加えるのでなければ,文学の人には相手にされないだろう」(「文学地理学のゆくえ」『駒澤地理』33,1997)と指摘している.すでに10年以上経過した現在においてもなお有効な指摘であることを認め,本発表ではライトノベル研究を踏まえつつ,まずは「文学の人」に相手にされる研究を試みた. ライトノベル研究の現状については,大島丈志(「ライトノベル研究会の現在」日本近代文学78,2008)の整理が参考になる.大島は「ライトノベル市場が拡大し影響力を増す一方で,ライトノベルに関する研究は文学研究の落とし穴のような状況になっている」と指摘した上で,ライトノベル研究会で蓄積された知見を紹介する.そのひとつとして,ライトノベルの成立期におけるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)の影響がある.この点に関連し発表者はライトノベル研究会に参加し,ライトノベルが描写する「舞台」について直接に研究会参加者たちと意見交換する中で,「舞台」の時期的変遷が参加者たちにある程度共有されつつも,いまだ実証的検討が試みられていないことに気がついた. ライトノベル研究に場所・空間研究の立場から寄与すべく,本発表ではアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)主宰の小説賞である電撃小説大賞を対象とし,その大賞・金賞受賞作品は《どこを》描写しているのか,作品の「舞台」を抽出し整理を試みた.その結果,90年代の受賞作品と,00年代の受賞作品とでは,その「舞台」の明確な差異が指摘できた.ライトノベルはより《学校を》描写するようになってきており,端的に述べればライトノベルの「舞台」は《学校化》しているのである. 以上は作品内部の分析である.では作品外部はどうか.これに対応する問いが,ライトノベルは《どこに》存在しているのか,である.森前掲書の「重要なキーワード」である「聴衆,音楽産業,商品化,物質化,アイデンティティ,政治,歴史,地理(移動,場所,空間)」は,冒頭の二語を「読者,出版産業」等に置換すればそのままライトノベルの語り口としても適用可能かつ重要なキーワードとなる.とはいえこれらキーワードが示すメタ次元の問いを発する前に,本発表ではベタな実地踏査を試みた結果を報告する.その意味では断片的報告であり,トポグラフィならぬトポグラフィティを名乗る所以でもある.
著者
三上 絢子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.304-304, 2008

奄美諸島は第2次世界大戦後(以下、戦後)の1945年から1953年まで、日本本土から行政的・社会的・経済的に分離され、米軍統治下に置かれた。このような状況下の奄美諸島では日本本土との正規の交易は断絶したが、一方で盛んに密貿易が行われて、島の人々の生活を支える重要な役割を果たした。本研究の目的は奄美における密貿易の成り立ちを明らかにすることである。<BR> 奄美諸島は東経128度~130度、北緯27度~29度に位置し、鹿児島から台湾までおよそ1200キロに及ぶ南西諸島のほぼ中央に位置し、鹿児島の南南西約380Km、沖縄から280Kmに主島である奄美大島があり、他に喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、加計呂麻島、請島、与路島の有人8つの島々から成り立っていて、戦前までは日本本土との交流も海上交通によって、経済活動が行われていた。<BR> 1946年(昭和21年)2月2日、奄美諸島は連合軍最高司令部の覚書「若干の外郭地域を政治上、行政上日本から分離することに関する」によって、北緯30度線以南の南西諸島は日本政府から行政分離される事が明らかにされ、アメリカ海軍軍政府の直轄支配下におかれることになる。鹿児島と奄美大島の海上200海里の海上が国境線で閉ざされ「海上封鎖」で自由渡航も禁止となり、戦前には日本本土の消費を目的に生産されていた黒糖は、販路を閉ざされて市場を失った。<BR> 戦前には生活必需品から学用品に及ぶ物資は日本本土から流入していたが、戦後は極度の物資不足におちいる。一方、日本本土においても黒糖は貴重品で奄美諸島が分離されて入手できず、黒糖不足の状況下にあった。このように日本本土の黒糖、奄美の生活物資といった品物の需要と供給で発生したのが密貿易である。米軍政府は「密航に関する件」によって、取締まり対象と適用範囲を北緯27度20分より北緯30度に至る水域を出入りする特別渡航許可書を持たない船舶は密航とみなすと発令し、厳重な取締り対策をとった。密貿易は鹿児島、奄美間の2百海里の海上をわずか5~6トンのポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンの小型船で、巡視船や警備船の目をかいくぐって、トカラ列島の口之島を拠点として、本土商人と取引が盛んに行われた。また台湾、沖縄、朝鮮からの50~60トンの大型船が、本土商人と海上での沖取引をしているケースもある。船賃は黒糖や米軍配給衣料の羅紗生地等でバーター方式がとられ、奄美の商人達は戦略商品に本土側の需要の高い黒糖を運び出し、本土側からは学用品、日用雑貨品、瀬戸物、鍋、化粧品等の生活必需品を流入して、物資不足のトカラ列島、奄美、沖縄の島民の生活を支えてきた。人々は密航船を「ヤミブネ」、「タカラブネ」と呼び密貿易を「ヤミトリヒキ」、「ヤミ商売」と呼んでいた。<BR> 奄美諸島の密貿易船の主な出航地は、宇検村の名柄港・平田港、大和村の津名久港・浦内港、瀬戸内の久慈港・古志港旧三方村の大熊港、龍郷村の芦徳・瀬留・久場の各港、喜界島の小野津港、徳之島の秋津港、亀徳港、与論島の赤崎海岸・大金久海岸が主な出航地である。<BR>『徳之島町誌』によると、1946年徳之島では、生活物資が島に持ち込まれなく行政的な封鎖が経済的封鎖となり、島の経済が崩壊する危機感で密貿易に目を向け、島の特産品の黒糖を持ち出す手段をとったと記述されている。戦前奄美で経済活動をしていた島外出身の寄留商人は戦争によって撤退し、入れ代わって島の商人達が命がけで封鎖された海上を越えて、生活物資をつなぐ役目を自らの責任で、密貿易が行われている。密貿易が行われるのは、そこには需要と供給があるからである。米軍政府の厳しい取締りと摘発の中で、行われてきた密貿易は、人々の生活を支える重要な役割を果たしたとともに奄美経済の原動力となった側面もあった。密貿易が展開されたのは、戦前に奄美を撤退した寄留商人が関わったからこそ成立したのであり、その結果、奄美出身者の多くの商店主を誕生させている。このように米軍統治下での統治政策が島の経済に及ぼしたものはマイナスだが、闇市を起点の「市場」や密貿易による「商店街」を中心とした自立への興隆が奄美の暮らしに及ぼしたプラスの側面を見逃すわけにはいかない。奄美社会の足元を固めることとなったといえるだろう。
著者
大石 太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.16, 2010 (Released:2011-02-01)

第二次世界大戦前における日本人の海外への移民については、地理学をはじめ多くの学問分野から関心が寄せられてきた。日本人の移住先は多方面にわたっており、環太平洋地域の全域に広がっているといっても過言ではない。環太平洋地域には第二次世界大戦前までに、人・物・金が移動する地域システムが形成されており、日本人の国際移動はそれを構成する重要な要素であった(米山・河原 2007: 18)。この立場に従えば、1892年以降、おもにニッケル鉱山の労働者として日本からの渡航者がみられるようになったニューカレドニアも、その地域システムの一部であったということになる。実際、ニューカレドニアには戦前期を通じて日本人が居住し、とくに日米開戦直前の数年間は人や金の往来が激しくなっていた。本報告では、ニューカレドニア公文書館が所蔵する在ヌメア日本領事館の記録に基づいて、第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人の実態を明らかにすることを目的とする。 ニューカレドニアは、1774年にイギリスの探検家クックによって「発見」された。しかし、当時は領有には至らず、結局、1853年になってフランス領となることが確定し、流刑植民地として利用されるようになる。その後、1864年にジュール・ガルニエによってニッケルが発見されたことにより、急速に開発が進められた。19世紀後半、鉱山開発のための良質な労働力の確保を迫られた鉱業会社は日本に白羽の矢を立て、日本政府との交渉を模索する。 ニューカレドニアの鉱業会社ル・ニッケルと日本外務省との間で合意に達し、契約移民として最初の移民が日本を旅立ったのは1892年のことであり、600名全員が熊本県出身の男性であった。以来、1918年までの間に5,500名あまりが契約移民としてニューカレドニアに渡航した。移民の出身県をみると、もっとも多くの移民を輩出したのが熊本県であり、2,049名を数えている。以下、沖縄県の821名、広島県687名、福岡県596名、福島県341名の順になり、全体としてみれば,一般に指摘されている傾向と同様に、西南日本からの移民が多数を占めているといえる。 これらの移民は鉱業会社との契約に基づくものであり、たとえば5年間などの契約期間が終われば、帰国することもできた。実際、初回の移民はほとんどが帰国したようである。しかし、その後は現地にとどまる移民がみられるようになる。そして、首都ヌメアでは日本人の商店が軒を連ねるようになり、同時代の記録によると、外地とは思えぬ印象を訪問者に与えるほどであったという。第二次世界大戦直前には合弁により日系の鉱業会社が設立され、それにともなって日本との間で人の往来が活発になり始める。 しかし、1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃を受けて、ド・ゴールの自由フランス側に立つニューカレドニア当局は日本人を一斉に逮捕し、順次オーストラリアへ強制送致した。終戦後に彼らは日本に強制送還され、ごくわずかな例外をのぞいてニューカレドニアに戻ることはなかった。日本人女性が極端に少ないなかで、現地の女性と結婚あるいは同棲した日本人男性も少なくなかったが、相手の女性とその間に生まれた子どもたちは、現地に残されることになった。こうして、戦前期ニューカレドニアにおける日本人移民社会は崩壊した。 日本とニューカレドニアとの間の人の往来は第一次世界大戦以降、1920年代を通じて停滞していたが、1930年代に入ると再び活発になってくる。そのようななか、在ヌメア日本領事館は1940年3月に開設された。初代領事は黒田時太郎であり、続いて1941年3月に山下芳郎が2代目の領事として赴任している。ニューカレドニア公文書館には、日米開戦までの2年弱のあいだ存在した在ヌメア日本領事館の記録が所蔵されている(資料番号107W)。 この記録にはさまざまなものが含まれるが、中心となるのは受信文書と送信文書である。これらの文書の送信元や送信先はおもにニューカレドニアの政庁や各国の在ヌメア領事館、鉱山会社などであり、そのほとんどはタイプライターを用いてフランス語で書かれている。そのほか、領事業務にかかわるものとして在留日本人から提出された文書やそれらの手数料の記録、領事館で必要とした物品等の購入にかかわる領収書類などが残されている。報告では、こうした資料に基づいて第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人社会に関する知見を提示する。
著者
冨永 哲雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.144-145, 2013

大阪市西成区北部において展開される生活保護市場に注目して、社会資源の動向及び、地域のリノベーション過程を明らかにする。
著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.17, 2011

ドイツの劇作家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)は晩年,バイロイトに終の棲家を得て,ここに自らのオペラ専用たるバイロイト祝祭劇場を建造し,舞台神聖祝祭劇「パルジファルParsifal」(1882)を完成させた。本論は,この「パルジファル」の主題となったヨーロッパの聖杯騎士伝説とバイロイトとの関わりについて歴史地理学的視点から論じたものである。