著者
池谷 和信
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.513, 2008 (Released:2008-12-25)

バングラデシュは、約9割がイスラーム教徒であり、ブタは好まれない動物である。しかし、その起源は定かではないが、非イスラム教徒によってブタの遊牧がおこなわれてきた。本報告では、2007年から2008年にかけての4回にわたる現地調査から、ブタの遊牧の実態を、移動形態、管理技術、生産・流通システムなどから把握することを目的とする。
著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.412, 2008

地政学の「魅力」と地政言説<BR>言葉による表現が、特定の空間や場所をめぐる想像や表象を意味し、歴史的・政治的な文脈の中である種の真実性を持つものとして扱われることがある。その政治的に重要な例が「地政言説」である。オトゥーホール(O' Tuathail)によれば、地政学は「国家間の競争と権力の地理的な側面を強調した世界政治に関する言説」である。オトゥーホールは、現代において地政学がジャーナリスト、政治家、戦略思想家などにとって魅力であるという。ジャーナリストや政治家は地政学をとおして、混沌とした日常的な出来事を超えた、本質化された差異にもとづく永続的な対立や根源的な闘争を見出そうとする。そこで地政学を言説としてとらえるならば、特定の政治家や戦略思想家が「現実」として示す世界が、実は特定の時間と空間の文脈から描き出されていることや、多様で複雑な現実を特定の視点から単純化されていることに気づくことができる。<BR><BR>地政言説の構成と物質的基礎<BR>言説は単に書かれたものとして主体の位置、実生活、あるいは社会の諸制度から遊離しているわけではなく、それらの中に埋め込まれている。地政言説を例にとれば、世界政治の表象は特定の国家の物質的な要素(人口・資源・産業・資本など)と無関係ではなく、それを基礎としてつくり出される。オトゥーホールは地政学の概念的構成を図解している。図の上部におかれるのが三つのタイプの地政言説とその具体的な形態であり、これらの言説は地政的想像力によってつくり出される特定の地政的伝統から派生している。地政的伝統とは、特定の国家の構造を基礎としている。こうした図式は国際関係の分野での言説構成の理解には有効であるが、それ以外のスケールではどうだろうか。<BR><BR>スケールと言説<BR>政治地理学的にみると、地理的スケールは重要な政治的意味を持つ。個人または集団による政治行動は特定の場所において展開し、一定の空間的広がりを持つ。スミス(Smith)が分類する身体からグローバルにいたる7つのスケールは、政治行動が展開される空間的広がりの程度を示している。特定の政治問題や政治行動は特定のスケールを基盤に発生・展開し、またそのスケールの操作をめぐって政治的な駆け引きが起こる。これを「スケールの政治」と呼ぶが、問題のスケールが重層的な場合「スケールのジャンプ」と呼ばれる現象が起こる。こうしたスケールの政治にも地政言説が関係する。それを「スケール言説」と呼び、政治行動の理念的部分において重要な役割を果たす。政治問題や政治運動は単一のスケールで展開するものではなく、多様なスケールの間を往復する。故にスケール言説の分析についてもマルチスケールの視角が求められる。<BR><BR>言説分析の方法<BR>では言説はどのように分析されるのであろうか。社会運動における主体と場所や空間との関係とを明らかにするために、フレーム分析の手法を用いることができる。フレーム分析は、社会運動を「枠づける=フレーミング」言説に着目する。社会運動は特定の信念、価値観、あるいは世界観のもとに組織され、運動組織は自らの活動を正当化し、敵対する立場や組織の考え方を否定する。フレーミングとは、そうした運動の理念を言語的に表現する行為である。フレーミングに着目することで、特定の組織の活動理念の形成過程のみならず、組織内あるいは組織間での異なった理念の同調や対立を検討することができる。こうしたフレーミングは複雑な現実を言説的に単純化することで人々の支持を得ようとする。この点では地政言説と同様の働きをもっている。<BR><BR>地政言説から政治を読む<BR>地政言説と政治との関係を理解することは、地理学という観点から政治を分析する上で有効となる。また、特定の個人や集団が空間や場所を表象する行為から政治的な意図や権力関係を読み取ることは、政治という営みに対する感受性や批判的思考力を高めることにもつながる。そして、私たちがより賢明な市民や有権者であるためには、地政言説の作用に敏感であるばかりでなく、そうした言説の基礎をなすもっと複雑で錯綜した世界や社会の物質的構成(人口・権力・その他資源の配分、すなわち地理そのもの)を理解せねばなるまい。
著者
波江 彰彦 廣川 和花
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.12, 2010 (Released:2011-02-01)

1.はじめに 日本では,1899年から1926年にかけて断続的にペストが流行した。特に大阪は,最も多くの患者(死者)がみられた地域である。大阪では2回の流行が起こり,第一次流行(1899~1900年)には161名の患者(死者146名,致死率90.7%)を,第二次流行(1905~1910年)には958名の患者(死者860名,致死率89.8%)を数えた。本報告では,このうち第一次流行を取り上げる。後述する患者データベースを用いて,近代大阪における第一次ペスト流行の特徴について検討したい。 なお,廣川(2010)は,第一次流行に対する防疫行政などについて検討している。第二次流行については,坂口(2005)やSakaguchi et al.(2005)が分析を行っている。 2.分析に用いた資料 大阪におけるペスト流行に関しては,第一次・第二次ともに詳細な記録が刊行されている。そのうち,第一次流行のものは,大阪府臨時ペスト予防事務局(1902)『明治三二、三三年大阪府ペスト流行記事』(以下,『流行記事』とする)であり,また,ほぼ同内容のものとして臨時ペスト予防事務局蔵版(1902)『百斯篤殷鑑』がある。報告者らは,後者の資料を用いて患者データベースを作成した。このデータベースには,患者の氏名,性別,年齢,住所,職業,発病年月日,症状,死亡(全治)年月日などが含まれている。 3.第一次流行の概要 大阪の第一次ペスト流行は,3期に分けることができる。第1期は1899年11月~1900年1月で41名の患者,第2期は1900年4~6月で50名の患者,第3期は1900年9~12月で70名の患者がみられた。 患者が示すペストの症状は,ペスト菌の感染の仕方によっていくつかのタイプに分かれる。リンパ腺ペスト(腺ペスト)は最も一般的な症状であり,ペストに感染した齧歯類から吸血したノミに噛まれた付近のリンパ腺が腫れる。ペスト菌が肺に回ると肺ペストを発病する。肺ペストは人から人へと感染する。ペスト菌が直接血液に入ると敗血症ペストとなり,最も致死的である。皮膚ペストは,皮膚にペスト菌が感染し膿疱や腫瘍ができるものである。 こうしたことをふまえて,患者データベースを集計した結果をいくつか提示する。流行期別・患者住所別の患者数をみると,流行全体では西区の患者数が最も多いが,期別でみると,第1・2期で最多だった西区に代わり,第3期では南区の患者数が最多となっている。 次に,流行期別・生死別・症状別の患者数をみると,3期を通じて腺ペスト患者が最も多いが,特徴的なのは,第1期における肺ペスト患者の多さと,第3期における敗血症ペストの多さである。このうち前者については,短期間に人から人への感染が生じた結果である。このことについては,次節で説明する。また,生死別にみると,全治した患者がみられるのは腺ペストのみであり,それ以外の症状の患者はすべて死亡している。 4.流行第1期における患者分布とペスト感染経路 次に,第一次ペスト流行における3つの波のうち,流行第1期における患者分布とペスト感染経路について検討する。 ペスト患者とペスト斃鼠の分布図から読み取れるホットスポットは大まかに2箇所あり,第1は初発付近の西区堀江川下流両岸,第2は西区川北四貫島の金巾紡績会社周辺である。 『流行記事』では,ペストの感染経路について詳細な分析を行っている。それによれば,第1のホットスポットについては,患者1が出入りしていた住宅付近で多くのペスト有菌鼠が発見されたことと関連づけている。他方,第2のホットスポットは,人から人への感染と推定されている。金巾紡績会社の従業員だった女性から始まり,1か月あまりのあいだに,彼女の家族,この家の患者を診察した医師とその家族,この医師を診察した医師とその家族,そのほか最初の女性と接触のあった同居人や従業員などが次々と肺ペストや腺ペストで死亡した。 5.おわりに 今回用いた患者データベースからは,患者の居住地・発見地の位置関係やペスト感染経路のかなり詳細な把握が可能である。今後は,「大阪地籍地図」上に各患者をプロットする作業を考えているが,第一次流行の患者住所は「屋敷番制度」で記載されており,「大阪地籍地図」の地番とリンクしない。この点については検討中である。また,GISを用いて,ペスト患者やペスト感染経路に関する空間分析を行うことも考えている。

12 0 0 0 OA 想像された都市

著者
上杉 和央
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000012, 2002 (Released:2002-11-15)

本居宣長(1730年から1801年)は国学者として著名である.彼は,まだ学問世界に身を置く23歳よりも以前から,多くの書物を読んでいるが,同じ頃,地図とも戯れていたことはほとんど知られていない.宣長は,15歳から23歳にかけて,6枚の地図を作製しているが,それらは既存図の単なる模写ではなく,彼独自の地理認識が表現されたものとなっている.その中でも,特に異彩を放っているのが「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館蔵)と称される作品である. この図には端原氏の治める城下町が描かれている.端原氏とは何者か.実は本居宣長が創りあげた架空の氏族である.地図とは別に,宣長は (架空の)神代に端を発する端原氏の系図,および端原氏15代当主宣政時代の家臣256氏の略系図が記載された「端原氏系図」(本居宣長記念館蔵)と呼ばれている系図も作成しており,この宣政の治める城下町が描かれているのが「端原氏城下絵図」である.法量は51.7cm×72.0cm.裏面に「延享五ノ三ノ廿七書ハジム」とあり,19歳の頃,作製されたことが分かる.彩色は全体には施されていないが,端原氏に関する建造物の一部には朱が用いられている.街路や屋敷割,周辺部に至るまで精緻に描かれ,また系図中の人物がその住所どおりにほぼ矛盾なく記載されるといった芸の細かさである.部分的に空白もあり,もしかすると未完成であったのかもしれないが,全体としてこの地図の凝った趣向には圧倒させられるものがある. 構図をみてみると,一見して「京都図」に似ていることがわかる.当時,すでに京都図は林吉永を始めとする諸版元から売り出されていたが,その構図ははほぼ一定であった.これらの刊行図は北が上として描かれているが,東を上にして見た場合,「端原氏城下絵図」と京都図の構図は非常に類似したものとなる.系図についても王朝時代が意識されたものとなっており,京都という舞台が意識されていたことは明らかである.この頃の宣長は,京都に関する記事をあちこちから抜書した書物や,洛外図などを作成/作製しており,京都に対して強い憧憬の念を抱いていた.実際,京都に赴いたこともあり,これらを勘案すると京都図を見ていた可能性は極めて高い. 次に,「端原氏城下絵図」の都市と近世の実際の都市とを比較するため,矢守氏の提示された「城下町プラン」をもとに検討していく.矢守氏がパターンの析出に用いた,城内・侍屋敷地区・下士の組屋敷地区・町屋敷地区・囲郭といった指標をもとに,「端原氏城下絵図」を分析すると,この都市は「郭内専士型」に分類することができる.ここから,宣長の都市形態の理解のひとつに,このような「郭内専士型」という形態があったことが理解される.近世城下町は,それぞれの城主の意図にもとづいて都市が形成されたものである.その意味で,矢守らの分析する「城下町プラン」は支配者側の都市理念ないし都市認識の抽出であろう.しかし,それが市井の町人にどのように認識されていたのかは,あまり明確ではない.この意味で,町人である宣長が空想の都市を「郭内専士型」に描いたことは興味深い. 「郭内専士型」は近世城下町に広く見られる形態のひとつとされるが,当時の宣長がそのような一般的状況を理解して描いたとは考えにくい(第一,この分類は近代の所産である).それでは,宣長は何をもとに,この形態を思いついたのか.京都や江戸の旅行中に赴いた都市である可能性もあるが,やはり,矢守が「郭内専士型」の代表として挙げた都市,そして宣長が生活していた都市,松坂の影響であろう.宣長は日常生活を営む中で,武士と町人の住居地が区別されていることを,自然に受け止めていた.架空の都市を描く際,この日常経験にもとづく都市形態の認識が反映したと考えられる.「端原氏城下絵図」に描かれているのは,架空の都市である.しかし,宣長がまったくのゼロから創りあげたわけではない.彼の京都への憧れ,そして日常生活における都市空間の認識といったものが基礎となっている.さらに,宣長は「郭内専士型」といった支配者側の理念を(おそらく無意識のうちに)受け止めていることも重要であり,個人的な体験や志向性とともに,近世という時代的なコンテクスト,そして空間的なコンテクストの中で,「端原氏城下絵図」は想像/創造されたのである.
著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.25, 2009 (Released:2009-12-16)

本報告は、熊本県球磨川流域を事例に、環境運動がどのように展開してきたか、川辺川ダム計画との関係に注目しながら、地域や政策決定に与えた影響について明らかにすることを目的とする。
著者
山野 正彦
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.56-57, 2013 (Released:2014-02-24)

本報告は、リオタールの「風景(paysage)の離郷depaysement」という発想を起点とした、景観と場所、場所/非場所の両義性、定着と移動についての省察である。グローバル化、メディアの膨張、技術支配による主体の危機、合理性の貫徹、時間の節約(リオタールがdevelopmentと言い表すものの要求)の思想に対応するための方策として、他者、他文化との包摂を目ざしたコミュニケーションの遂行のために、風景の離郷の発想が有効であることを提起する。これはクレスウェルのいう、モビリティをめぐる議論――定着主義者と移動主義者の場所概念の議論に関係する。この新しい発想に伴い、場所や故郷についてのこれまでの概念は再検討を余儀なくされる。グローバル化時代における、選べない恣意的条件としての「場所」や「故郷」からの脱出が企図される。レルフが「場所のセンス」として挙げた第3のものの敷衍、すなわち狭いローカリズムを脱して、地球規模での差異と相互作用に目を向けることが転換点となる。
著者
由井 義通 宮内 久光
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.59-59, 2010

沖縄県における情報通信関連産業は,1990年代後半から始まる日本政府と沖縄県の産業振興政策の誘導などにより,飛躍的な成長を遂げた。特にコールセンターは,沖縄県観光商工部が把握しているだけでも2000~2009年度までの10年間で48社が県内に拠点を開設し,12,031人の新規雇用を創出した。このことから、常に深刻な雇用問題に悩む沖縄県にとって,コールセンターは新たな中核的産業と位置付けられつつある。『平成15年特定サービス産業実態調査報告書テレマーケティング業編』によると,全国のコールセンター従業者の79.1%が女性であることから推察するに,沖縄県におけるコールセンターの集積は,特に女性の就業機会の確保にも大きく貢献しているといえるだろう。 今日,経済のサービス化に伴い,総労働力人口に占める女性労働力人口の割合が高くなる「労働力の女性化」が著しい。なかでもコールセンター業務は,仕事量が多く,マニュアル化された単純な作業,精神的なストレスの多い職場(林,2005)であることに加えて,低賃金の非正規雇用が中心で離職率の高さに特徴づけられる「女性の仕事」であるともいえよう。 沖縄県におけるコールセンターに関するこれまでの研究は,コールセンターの集積地としての動向が注目され,もっぱら産業振興策の紹介と現状把握の側面が強かった(鍬塚,2005)。すなわち,立地論的なアプローチが中心であったといえよう。一方,コールセンターで働く従業者,特にその多くを占める女性従業者の就業に焦点を当てた研究は乏しい。女性従業者の中には,仕事と家事・育児・介護との両立を求められている者も多く,コールセンターにおける雇用の実態とあわせて,生産と再生産の調和を検討することは,「労働力の女性化」が著しい現代において,女性就業を理解する上で重要なアプローチであると考えられる。そこで,本研究の目的は,沖縄県を事例としてコールセンターの雇用特性を把握するとともに,女性の就業と生活の状況を把握することである。研究資料を得るため,本研究ではコールセンター事業所および女性従業者へのアンケート調査および聞き取りを実施した。 結果は学会発表時に報告する。
著者
卯田 卓矢
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2012年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.50-51, 2012 (Released:2013-12-17)

本研究では叡山文庫所蔵資料を基に、戦後比叡山の観光化に伴う維持・管理の過程について検討を行う。
著者
金 木斗 哲 Yoon Hong-key
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000003, 2002 (Released:2002-11-15)

1991年にニュージーランド政府がユーロピアン以外にも移民の門戸を開いてから新たな生活スタイルを求める多くのアジアの人々が当地に渡っている。特に韓国人移民の増加は目を見張るところがある。現在韓国はニュージーランドの5番目の輸出国であり、イギリスを追い越す勢いで両国の経済関係は緊密になってきた。これに伴って韓国人移民も急速に増加し、1996年のセンサスでは総人口の0.35%に当たる12,657人もの韓国出身の住民が報告された。これは10年前の426人に比べ約30倍の増加であり、彼らはニュージーランドの多文化傾向に十分貢献できるまで成長している。また、ニュージーランドにおける最大の都市であるオークランドには約1万人以上の韓国人が住んでおり、オークランド総人口の約1%に上っている。彼らの居住地域を見ると、約6割がオークランド大都市圏のNorthshore地域に居住していると推定され、アジアからの移民グループの中でも最も地理的集中度が高い。 Yoon(1997)によると、韓国人移民の職業の種類は1992年の20から1997年の55と韓国人移民の増加に伴って多様化している。また、韓国人移民が経営する事業体の数も1992年の37から1997年の636へと1600%の増加を見せている。しかしながら、韓国人が経営する事業のほとんどは、ホスト社会の経済ネットワークに浸透できず、典型的なエスニック・ビジネスの段階に止まっている。つまり、韓国人の資本と経営スタイルで韓国人の従業員を雇い、主に韓国人を客にするものである。 では、ニュージーランドへ移民する韓国人はどのような人々で、なぜニュージーランドを移民先として選んだのか。ニュージーランドにおける韓国人移民はほぼ例外なく高学歴で中産階級のホワイト・カラー出身である。また、韓国経済が好況のピークに向かっていたときに祖国を離れた彼らは、子供の教育環境ときれいでゆとりある生活環境をもっとも重要な移住動機として挙げている。このような社会経済的属性や移民の動機は、低い社会経済的ステータスと経済的理由といった従来の韓国人移民とは明らかに異なっており、新しい韓国人ディアスポラを象徴するものと言える。このように異なる社会経済的背景と移住動機をもつニュージーランドにおける韓国人移民は、移住前に描いていたパラダイスとしてのニュージーランドのイメージと現実としてのニュージーランドでの生活の間でどのように妥協し生活を営んでいるのか。本報告ではニュージーランドにおける韓国人移民の動向を1996年度センサスの分析と現地での深層インタビューより明らかにする。 ニュージーランドにおける移民政策の転換はニュージーランドの実験と評される新自由主義改革の一環として1986年に行われた。それまでニュージーランドでは社会の安定(social fabric)という名分のもとに白人特にイギリスとアイランド出身を優遇する差別的な移民政策が厳格に維持されてきたが、1986年の移民法改正によって伝統的な特定出身国選好システムを廃止された。しかし、この改正では移民者に高い英語能力を要求するなど依然として差別的な要素が多く残され、期待された投資移民の増加はほとんど現れなかった。1986年の移民法改正が批判を浴びる中、ニュージーランド移民省は1991年に‘新しい移民者の個人的な貢献により多文化社会としてのニュージーランドを促す’ため、‘ポイント・システム’と呼ばれるより進んだ移民法改正に踏み出した。このポイント・システムの導入はアジアからの移民の増加に特に効果的であった。ニュージーランドの移民法は移民の数だけでなく、移民者の年齢、学歴、技術や経済状況をも巧みにコントロールしてきた。現在、ニュージーランドにおける韓国人移民の典型は3、40代で大学教育を受けた中産階級出身である。しかし、ニュージーランドにおける彼らの就業状況をみると、65%が失業ないし非就業人口であり、就業者のほとんども記念品店、レストラン、旅行代理店などのエスニック・ビジネスに従事している。これは移民社会の初期においては共通する現象であるが、韓国人移民の場合は言葉の壁以外にも文化的な違いによって主流社会への同化にほかの移民グループより困難を極めている。 ニュージーランド移民省長官は1998年に“移民政策の失敗は数万の高級労働力が彼らの専門分野で働く展望をなくす結果を招いた”と認めた。確かに数千の高級技術を持つ韓国人移民が失業或いは非就業状態にある。しかし、ニュージーランドにおける韓国人移民社会の歴史は浅く、主流社会に適応する十分な時間がなかったことを考慮すると、彼らのアイデンティティつまり、Koreanか, New Zealanderかあるいは Korean New Zealanderかは今まさに形成中であると考えられる。また、それは移民社会に存在する3つの力、同化、隔離, そしてディアスポラの相互作用にかかっている。
著者
阪野 祐介
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2006年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.10, 2006 (Released:2007-03-01)

_I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。 1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。 こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。 _II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。 公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。 _III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。 ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。 _IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
著者
寄藤 晶子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.131-152, 2005
被引用文献数
1

In this paper, the author argues that gambling businesses managed by public authorities face issues regarding monopolization, regulation of space and socio-spatial exclusion.Since the end of the 19th century, informal private gambling has been strictly outlawed in Japan, while both the national and local governments have resorted to investing in the gambling business to secure revenue. At present, with the exception of lotteries, 120 gambling facilities such as keiba (horse race), keirin (bicycle race on a short track), autorace (motorcycle race on a short track), and kyotei (motorboat race on a square pond) are offered by 21 prefectures and 443 municipalities. These are called "public gambling".In his book The Production of Space, Henri Lefevre notes that non-productive expenses are made according to the neocapitalist's interest. Therefore, the author refers to the three elements that constitute space according to Lefevre: spatial practices, representations of space and space of representations. The author conducted field work in and around the motorboat gambling facility operated in Tokoname City, Aichi Prefecture, and the highlighted the "gambling space" using Lefevre's scheme mentioned above.From 1997-2000, the author interviewed: Tokoname motorboat officers, residents from the areas (sinkai-cho) around the motorboat facility, police officers, members of the "koie-sinkai crime prevention association", a security guard and ticket sales women employed at the motorboat office, shop managers in and around the motorboat facility, and the motorboat gambling fans. The author also conducted participant observation studies of more than 400 motorboat gambling fans. The author's findings are as follows:Firstly, while the public authority, the Tokoname motorboat office, adopts several measures to draw visitors to the motorboat facility and thus ensure income, this practice includes spatial separation, i.e., separating the Tokoname motorboat gambling fans from the public. This is partly because the nature of gambling itself threatens social order, therefore, the public authorities control and enclose gambling fans. These practices of exclusion are observed in their spatial practices.Secondly, shops and restaurants are located on the route taken by visitors from the Tokoname railway station to the motorboat facility. These shops and restaurants sell alcohol, low-priced light meals and magazines or newspapers regarding gambling. Fans regularly take the route from the Tokoname railway station to the motorboat facility and purchase these goods from these shops. Loitering fans and torn blank tickets visibly distinguish the "gambling space" from the rest of the city. Japanese public gambling fans are largely men over 60 years of age. However, in Tokoname motorboat facility, 60-70% of motorboat gambling fans are men, who are 60 years and over. Therefore, the "gambling space" is occupied by middle and old-aged men is littered with blank tickets.Thirdly, measures adopted by the local community, the "koie-sinkai crime prevention association", neighborhood residents and the police to regulate the behavior of visitors' create negative representations of Tokoname motorboat gambling facility and its fans. In 1970, as the number of visitors increased, a few residents living around the motorboat facility founded a crime prevention association in order to put a burglar alarm to their house. At this time, the Tokoname motorboat office began sending presents, such as handkerchiefs, rice, pans and soaps as compensation to residents. The activities of "koie-sinkai crime prevention association" provided subsidies by Tokoname City, although they are not strictly monitored. They unfairly claimed and represented the undesirable behavior of visitors in order to protect their interests.