著者
裾分 一弘
出版者
学習院大学
雑誌
研究年報 (ISSN:04331117)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.25-46, 1995
著者
小幡 みちる
出版者
学習院大学
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-28, 2009-03

北魏的道教像是窺祝在当時社会的宗教実隊状恋的重要資料,有美道教造像的研究,到現在力止杁佛教美木史,道教思想史等的立場被討愴。不せ,道教像集中在美中的理由,像的制作主体在是急祥的人伯附有到現在力止不一定明碗。 筆者対美中迭奈地域性着眼,叙述了新天師道主劫了的冠謙之是美中出身,遊行了杁当地道教信仰中改革這幼的事,上谷冠氏通せ宗教的國絡和通婚美系等杁美中在洛阻以南的地杓筑勢力基石出的事,更加北魏政枚力了隼北支配的貫御打算利用那祥的勢力的事。
著者
安部 清哉
出版者
学習院大学
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.540-491, 2013-03

日本語の方言分布に見出した「南北方言境界線」は,日本列島における南北での気候の相違を主要な要因として形成されたものであった(安部1999)。同様に,気候の南北差と一致する方言境界線は,中国語にも,朝鮮語にも存在していた。これら3つの言語の南北方言境界線をっなぐと,ほぼ同じ緯度的位置において東西に横にっながっているひと続きの境界線となり,相互に関連性があることがわかる。アジアの3言語には,南北を2分する,連続する一つの方言(言語)境界線が存在していると解釈される(「モンスーン・アジア南北方言境界線」)。 気候の相違(最寒月期1月の平均気温0度等温線に代表させられる)が,言語(方言)の相違に影響するなら,同様の理由により,ヨーロッパ大陸のインド・ヨーロッパ語族(IE語族)の方言(語派)の境界線と気候の境界線も,同じ位置に存在するであろうことが推定された。 本稿では,東アジアの南北方言境界線気候境界線,および,文化人類学的諸特徴の境界線が,日本語,朝鮮語,中国語で一致していることを,それらの基礎的データである個々の分布地図も含めて改めて提示する。新たに,同じ現象が,ヨーロッパ大陸のインド・ヨーロッパ語族の2大分派Centum-Satemにも見られることを,世界で初めて指摘する。さらに,それら東洋と西洋の2つの地域における南北(東西)の方言において,同じ音韻対応[k-p(kw)]の現象があることを指摘する。 これらの一致を示すことによって,東アジアの言語・文化と,ヨーロッパ大陸のインド・ヨーロッパ語族およびヨーロッパ文化の比較言語・比較文化論的研究の必要性を主張するものである。 In this paper, the common linguistics feature between the east Asian language and Centum-Satem is ponited out. "Boderline of dialect in the south and the north" in Japanses was formed partly due to the difference of the climate. In the Chinses dialect, a similar remarkable borderline of dialect between south and north exists at the same latitude position. Also in the dialect of Korean language, between the south and north this kind of remarkable borderline also exists in the same geographic position. These three south and north boaderlines have the same one consecutive dialect borderline of the bout. The difference in the north and the south of the climate divides the language in the region into two. In European language, the similar borderline of the climate can be confirmed in the boundary of Centum-Satem. And in the south and north area of each boderline in Asia and Europe, the same phonetic correspondence [k-kw (p)] exists. The difference in the south and the north of the culture that the climate had produced influenced inventing two types of the languages in Asia and Europe similarly. In this thesis, this common feature seen in an each borderline of east Asia and Europe language is pointed out for the first time in the world. I stress on the necessity of the comparison research on east Asia and a European language by showing these common features.
著者
荒川 理恵
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.33-53, 1996

There are various legends of"SUGARU"in''NIHON-SHOKI","NIHON-RYOIKI", and''SHINSEN・SHOJIROKU". In these legends,"SUGARU"is related to the empress and the emperor, or to silkworms and thunderbolts, at first sight, with such strange episodes as gathering babies instead of silkworlns, or caputuring the got of thunderbolt. Although there are already some studies about"SUGARU',, we have as yet no clear explanation about the relationship between''SUGARU"and those strange episodes. This paper examines the relationship between the empress and the emperor量n comparison with the Iegends of''SUGARU". They are based mainly on two ideas;the identification of the empress with the goddess of silkworm(on the one hand), and the assimilatioll of the emperor to the deity of storm and thunderbolt(on the other hand). The sexual union of the empress and the emperor means(mythologicaUy speaking)that of the goddess of silkworm and the god of thunderbolt as we find in the myth of"AMATERASU"and"SUSANOWO". In conclusion, there is a similarity of the mythical structure of the relationship between the empress and the emperor(on the one hand)and that between"AMATERASU"and"SUSANOWO"(on the other hand).
著者
南雲 千香子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.69-84, 2011

本稿では近代日本語研究の一環として、明治期に大量に日本へ流入した専門用語、その中でも法律用語に焦点を絞り、漢語の観点から考察を行った。その事例研究として、現在の法律用語に大きな影響を与えている箕作麟祥訳『仏蘭西法律書・訴訟法』を取り上げ、箕作麟祥がどのように法律用語を漢語訳していたかを明らかにすることを目的とした。 『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語から箕作麟祥が作った、あるいは法律的な意味を加えたと思われる漢語を選別し3 グループに分類した。その中から典型的な特徴を現している4 つの語を取り上げ、詳しく語の成立を見た。その結果を基に、『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語を改めて5グループに分類した。『仏蘭西法律所・訴訟法』よりも用例を遡ることが出来ないもの、あるいは『仏蘭西法律書・訴訟法』以外で用例を見ることが出来ないもの、日本や中国の古典籍などで使用されている語を法律用語として使用しているものが『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語の大半を占めていることがわかった。このことから、主に箕作麟祥自身が新たに語を作る、あるいは古くから存在している語を転用して、法律用語へ当てはめる方針を取っていたことが明らかになった。This paper will examine legal terms in the Meiji era from the perspective of Sino-Japanese relation as part of a study on modern Japanese languages. As a case study, legal terms in Furansu-Hôritsusho-Soshôhô(仏蘭西法律書・訴訟法)were translated into Sino-Japanese by Rinshô MITSUKURI. First, I classified Sino-Japanese into three categories according to their source. Second, I selected four words in each category and researched the history of them. On the basis of this research, I classified Sino-Japanese again in greater detail. This classification revealed that Rinshô MITSUKURI created a new Sino-Japanese to translate Furansu-Hôritsusho-Soshôhô and used terms had which existed from ancient times as legal terms.
著者
松崎 由貴
出版者
学習院大学
雑誌
言語 文化 社会 (ISSN:13479105)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-42, 2013-03

These days our society is flooded with loanwords.Loanwords have been investigated by many scholars and even the National Institute for Japanese Language. They proposed the differences between loanwords and original languages, their usage, meanings and characteristics.However, they just described their situation not based on any principles.They have not explained the mechanism of how people borrowed words from other cultures. In this paper, I will explain the machanism of it within the framework of relevance theory.In relevance theory a hearer decodes and handles pragmatic process constrained by the principle of relevance to reach the speaker's intended meaning.One part of the process is ad hoc concept construction, by which a hearer adjusts the concept linguistically encoded by word.Ad hoc concept construction has three ways in which the concept expressed by use of a word on a give occasion may differ from the concept encoded: lexical narrowing,lexical broadening and attributive use.It can shed light on the mechanism of loanwords.Furthermore, attributive use of concepts can provide descriptions of loanwords characteristics proposed by many scholars.
著者
有川 治男
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.5-44, 2004

本論文は、現在の美術史研究において一般的になっている「ゴッホ=種播く人」という解釈に対して、「耕す人としてのゴッホ」という視点を新たに提示するものである。 画家としてのゴッホを「新しい芸術の種播く人」として捉える見方は、既にゴッホ自身が残した数多くの手紙の中に見られるが、そのようなゴッホ像は、そののちの評論家、研究者たちによって支持され、強化されてきた。本論ではまず、そのような象徴的芸術家像がどのように形成されてきたかを、アルル時代の2点の《種播く人》の作品分析、ゴッホ自身の言葉による検討、そして研究史を辿ることによって、跡付ける。その際、《種播く人》に典型的に表明されたゴッホの「色彩の象徴主義」にも言及し、また、「種播く人」というモティーフが絵画史の中で負ってきた意味合い、とりわけミレーの《種播く人》とそれに関する言説の中で形作られてきた「種播く人」のイメージ全般にも注目する。 そのような前提のうえで、次に、そのような象徴的意味合いを負う《種播く人》に対して、同じくアルル時代に制作された《耕された畑》を例として挙げ、ゴッホの制作にとって重要なもうひとつの側面、すなわち、技法的側面に注目する。ゴッホは、英雄的な身振りをもって画中に堂々と登場する「種播く人」に自らの姿を重ね合わせただけではなく、広大な大地の上、黙々と農作業にいそしむ「耕す人」の小さな姿にも、また、画家としての自らの姿を見ていた。それは、「芸術の種播き」という象徴的身振りにとどまらず、筆によってキャンヴァスに絵具の筋を定着させてゆくという実際の制作行為に対応するものであった。 ゴーギャンに対して提示された、もう1点の《種播く人》や、サン=レミ時代の《耕す人のいる畑》などの検討をも踏まえ、絵具のタッチでカンヴァスに畝を刻み込んでゆくゴッホの「耕す人」としての自己表現が、また、当時の前衛美術の有力な担い手としてゴッホが強く意識していたゴーギャンやスーラに対する、自己差異化の有力な手段であったことも確認して、本論を閉じる。The creative activities of Vincent van Gogh have becn ordinarily interpreted in symbolic terms as that of"the sower","the sower of the new spiritual art". The artist himsclf was aware of his、vocation as such and represented the figure of the sower as the disguised selfi)ortrait repeatedly in his paintings throughout his life. The author of this article gives attention to anothcr side of the activities of the painter, "Van Gogh, the plowman", and surveys the usage of the motive of the plowman(the peasant working with plow or harrow)in Van Gogh's oeuvre and the reference to the plowman in his letters.When Van Gogh said,"I am plowing on my canvases as thc peasants do on their fields", he meant not only the symbolic role of thc artist, the creator, but also the practical activities of the painter, the worker. He likens the strokes of paint on canvases to the fhrrows op fields. The article also suggests that the image of the artist as the plowman was strategica11y adopted by Van Gogh to differentiate himself丘om othcr avantgarde artists, especially from Paul Gauguin and Georges Seurat.
著者
辰巳 憲一
出版者
学習院大学
雑誌
學習院大學經濟論集 (ISSN:00163953)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.147-162, 2004-07

フローター(変動利付き債)は,事前に定められたリセット日と呼ばれる期日毎に金利が更改され,この事前に定められた小期間内だけはクーポンが一定である証券である。更改される金利が参考とする国債利回り,地域連銀指定の貸出金利(米国の場合),などの金利はインデックスあるいは参照レート(reference rate)と呼ばれる。フローターのクーポン・レートは参照レートに依存して決められるが,一般に,上限などが定められ非線形である。米国では,プライシング・モデルや数多くのスプレッド概念など,フローター分野で用いられる様々な特殊な分析概念・技法が,既に存在し,活用されている。その多くはディーリングなどの画面上で数値として見られる。わが国では,漸く,2000 年6 月から15 年物変動利付国債が発行され,2003 年3 月からは個人向け変動利付国債が売りに出され,また2004 年6 月には機関投資家向け10 年満期物価連動債が初めて発行され,変動金利商品は広く知られるようになった。フローターのプライシングとスプレッドの分析体系のひとつを,金利やイールドカーブの理論を用いて,詳しく展開しよう。辰巳[10]では,基礎的な概念やプライシングの基礎などについて展開しているので,本稿はその本編に相当する。なお,証券化証券のフローターはさらに複雑であり,本稿では割愛する。
著者
小倉 芳彦
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.12-15, 1987-03
著者
山本 政人
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.119-128, 2009

本研究では幼児がどのように因果的な話を産出するかを検討した。5 ~ 6 歳の幼児46 名に3枚の絵カードを見せ、話を作ることを求めた。幼児に呈示した絵には具象的なものと非具象的なものとがあった。幼児へのインタヴューの結果、具象的な絵では、5 歳児の38%、6 歳児の56%が因果的な話を作ることができた。しかし非具象的な絵では、ほとんどの5 歳児が話を作ることができなかった。話を作ることができた子どものうちの何人かは接続詞や副詞を使用したが、それらの使用は5 歳児ではほとんど見られなかった。これらの結果から、因果的な話の産出はディスコースの発達に支えられており、子どもは6 歳までに「起承結(発端・展開・解決)」という物語構造を獲得することが示唆された。
著者
堀越 孝一
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.163-207, 2002-03-25

「パリの住人の日記」は15世紀前半、パリで暮らした人が書き残した日記である。名も素性も知られていない。日記とは呼ぶが、その実、出来事の回想、一年を振り返っての感想文など、覚え書きふうの記述も目立つ。唯一たしかな15世紀後半の書体の写本がヴァチカン図書館に保存されている。フォリオ版の紙187枚を綴じた冊子であって、最終ページが9行で終わっている下の余白に筆生マシオの署名が見える。ほぼ同時期にやはりパリで暮らし、「ヴィヨン遺言詩」と総称される詩集を残した文人がいたが、その詩集が収められている詞華集のひとつで、パリの国立図書館の分館であるアルスナール図書館が保存する詞華集の最終ページにジルベー・クークィ、ジャン・マシオ、クロード・マシオの三つの人名が見える。ヴァチカン写本の「マシオ」は、このジャンかクロードかが同一人と思われる。日記の一番古い日付の記事は1405年9月のもので、一番新しいのは1449年10月の記事である。ブルグーン家とオルレアン家の張り合いが、オルレアン侯ルイの闇討ち事件(1407)を切っ掛けに党派の争いに展開し、そこにイングランドのランカスター王家が、またそろノルマンディーに兵を入れる(1415)。日記はそのあたりからパリの暮らしの日常と非日常を記録し始める。かれは二十歳代の若者だったろうか。四十年後、老人のかれは、サンマーティン大通りのモーブエの水場のあたりに、仮舞台が組まれていて、「平和と戦争の物語」が演じられていたと実見報告する。これが残された一番最後の記事であって、なにかかれはかれの日記は「平和と戦争の物語」だといいたげではないか。"Pari no jUnin no hikki"(in French, it is called customarry''Journal dlun bourgeois de Paris")is the journal of a person who lived in Paris in the first half of the fifteenth century. Neither its writer's name nor his social status is known to us, Only one verified manuscript is preserved in the Vatican Library. Its calligraphy points to the second half of the fifteenth century. The book contains 187 folios and on the last page one can see the signature"maciot", most probably the name of its scribe. About one generation earier, there also lived in Paris a poet who left a series of poems called collectively"Testament Villon". On the last page of the anthology of poems which contains"Testament Villon", preserved in the Arsenal Library of Paris, one can see three names, Gilbert Coquille, Jean Maciot and Claude Maciot. The Vatican"Maciot"is most probably one of these two"Maciots". The earliest dated item in the journal has the date of November 1405, the newest one October 1449. The feud between the house of Bourgogne and that of Orl6ans escalated into a partisan struggle on the murder of Louis, the duke of Orleans(1407). The royal house of Lancaster of England re-opened the French War and occupied Normandy(1415). The writer of the journal began his business. Conceivably he was in his twenties at that time. Pa『s6 quarant ans(after forty years), the now oldman reports that, on the temporary stage by the "fbntaine de maubue"(outlet of city water nicknamed maubue),"on fist une tsbelle histoire depaix et deguerre"(one presented a very beautiful history of peace and war). One reads it in the last item in the journal. As if he wanted to say that his joumel itself is a history of peace and waL