著者
田中 雅一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.63, 2012

本分科会の目的は、女性による接客が主たる職場で、男性客を叱りつけるという行為について考察することである。これによって、働く女性のエイジェンシーや、仕事とジェンダーならびにセクシュアリティとの関係についての理解を深め、感情労働研究に貢献したい。具体的に取り上げるのは、銀座のクラブホステス、京都のスナックのママ、関東の芸者、日本人セックスワーカー、在韓米兵相手のフィリピン人セックスワーカーである。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.153-171, 2019

<p>本稿は、大学入学を機に東北地方で暮らすことになった関西出身者としての私の自己と他者認識の形成、およびその変遷についてのオートエスノグラフィである。関西と関西人については、主にマスメディアから発せられる画一的な表象によって、その「ユニークさ」が広く人口に膾炙している。私は地元にいた18歳までは厳密な意味で自分が関西弁を話す関西人であると意識したことはなかったのだが、仙台で暮らすようになってから、関西人はよくしゃべる、どこでも関西弁を話す、面白い、値切ることができる、ガラが悪い、納豆が嫌いといったステレオタイプに基づくまなざしを受け、次第にそれを内面化させた振る舞いをして関西人として生きるようになった。今回、オートエスノグラフィのかたちで改めて関西人としての自己について思考し記述してみて分かったのは、それらのトピックを冗談以上の主題に発展させることは難しく、結局のところ個人的な差異の領域に帰されること、かつその背景には私を含めた日本の文化人類学における自己/他者認識の偏った枠組みが遍在していることである。他方で、私のこの状況は、エクソフォニー(母語の外にある状況)についての議論さえも相対化しながら、自己/他者認識の軛を自らの個人的次元で受け止め、それを弛めうる可能性につながることも明らかになった。</p>
著者
柄木田 康之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.485-503, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
31

オセアニアの共同体オリエンテーションが顕著な公共圏の特質は、外部の批判者によって市民社会を欠くと批判される。他方、過度に規範化された公共性の概念自体が、オセアニアに限らず、サバルタン的公共圏を抑圧排除していると批判されてきた。この対立は、単一文化主義的国民統合と多文化主義的国民統合の対立を想起させる。多文化主義も文化の異なる中間集団を相互に媒介しえず、中間集団を統合するのは国家でしかないと批判されるのである。このような状況で、公共圏、国民統合の研究における人類学の貢献は、中間カテゴリーとしての公共圏の相互関係を民族誌的に特定することである。本稿では新興国家ミクロネシア連邦の中心島嶼に位置する主流派社会と少数 離島社会の在地の論理によって実践される共生の様態を報告した。 ヤップ州の本離島関係には交易ネットワークの連鎖に基づく領域と、本島と離島をカテゴリーとして対比する領域が存在する。本島離島の二元化は第二次大戦後の米国信託統治の枠組みで生じ、独立後、離島出身公務員のアソシエーションの枠組みともなった。しかし交易ネットワークの関係はヤップ本島と離島という二元的なカテゴリーに変換されてしまったわけではなく、今日離島出身者のヤップ本島での生存戦略の中で流用されている。 ポーンペイ州のカピンガマランギ人は、米国統治初期の農村入植プログラムを通じて、首長国の称号を獲得し、称号を与える祭宴を開くほどポーンペイ島の首長国に統合された。しかし行政主導の貨幣経済化が進行するにつれて、カピンガマランギ人は雇用機会、手工芸品販売を求め、他の民族集団と同様に孤立化した。しかし入植村の権利や首長国の称号は、放棄されることなく、保持された。 ヤップ州とポーンペイ州の双方で、近代政治体制の導入により、エスニックな差異に類する対立関係が形成されながらも、主流島嶼と少数離島の間では互酬性による共生が維持されているのである。
著者
渡部 瑞希
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.78-94, 2018

<p>ネパールの首都カトマンズの観光市場タメルで宝飾品を買い求めるツーリストは、小売商人の売る宝飾品の品質や価格の妥当性に懐疑を抱いたり、小売商人のホスピタリティに溢れたサービスに詐欺行為を感得したとしても消費欲を抱き続けることがある。本稿の目的は、小売商人とツーリストの取引過程を事例に「なぜ人は商品の価値やサービスの内容に疑いをもった場合でも消費欲を維持し続けるのか」という問いを人類学的に考察することである。この問いを考察するために本稿では、小売商人がツーリストとの取引に持ち込む親密さの表現、フレンド(友人)に着目する。</p><p>友人は、互恵的な利他性によって特徴づけられるものと歴史的に捉えられてきた。そうした利他主義的な性質が疑われたり否定されることで、そのつど理想化された「本当の友人」が友人を意味するものとして形づくられてきた。この懐疑と否定により、友人が利他的か利己的か、本物か偽物かについて決定不可能な仮面(face)と化していること、詐欺の疑いを抱きつつも特定の売り手から買うことにこだわる消費が友人の仮面に向けられることを主張する。具体的には、タメルの宝飾店で働く小売商人の見せるフレンドの仮面がツーリストによって疑われ否定されることで、ツーリストが騙されている可能性を知りつつも消費欲を抱き続ける状況を民族誌的に記述していく。</p>
著者
西川 麦子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

多文化社会における文化人類学のフィールドワークと社会的実践を、大学教育にどのように取り入れ、表現・協働・発信力を培うアクティブ・ラーニングを展開できるのか。アメリカのコミュニティラジオ局と連携し、日本の大学の教室から番組を制作・発信するメディア実践の授業を紹介する。学外の組織、関係者、大学の教職員、学生が協働し、教室と海外メディアをつなぎ、「他者に伝える」営みのなかで、身近な暮らしを見つめ直す。
著者
岡野 英之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.19-38, 2019

<p>アフリカ諸国の紛争を扱った政治人類学および政治学の研究において、社会の統治過程に見られるパトロン=クライアント関係の分析は重要な課題の1つとなってきた。これらの議論では、パトロンとクライアントとの間に取り結ばれるインフォーマルな人間関係が統治のツールとなっているという理解が前提となっている。政治学ではパトロン=クライアント関係に対して議会制民主主義と官僚制が対置され、両者を導入することにより、統治の場からパトロン=クライアント関係を払拭できると考えられる。では、官僚制や民主主義が組織運営に導入されると、パトロン=クライアント関係を支えるモラリティは失われるのだろうか。本稿では、内戦後のシエラレオネでバイクタクシー業を統括する全国規模の職業団体「全国商業モーターバイクライダー協会」(以降、「全国バイク協会」と略称する)を取り上げ、その日常業務について考察する。内戦末期に隆盛したバイクタクシー業では、その管理・運営においてある種のパトロン=クライアント関係が重要な役割を果たした。しかし、民主主義と官僚制に基づく組織運営を求める国際社会の潮流ともあいまって、全国バイク協会が設立される際には、官僚制的な仕組みや役員選挙制度が導入された。ただし、これによって従来のパトロン=クライアント関係が払拭されたというわけではない。ライダーたちは、官僚的で非人格的な業務を行うべきである執行役員に対してクライアントシップをもって接する。それに対して執行役員もパトロンシップをもって応えようとする。全国バイク協会の日常的な活動から見えてくるのは、執行役員がパトロン=クライアント関係のモラリティと官僚制のロジックの両者を翻訳しながらライダーとの関係性を築いていることである。</p>
著者
金子 正徳
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.1-20, 2007

本論文は、インドネシア共和国ランプン州に位置するプビアン人社会の婚姻儀礼の事例を中心として、新秩序体制期とそれ以後数年の間にみられた社会文化動態を分析する。今日のインドネシアでは、婚姻儀礼は二つの側面から解釈される。一つはアダット(慣習/慣習法)の側面、もう一つはクブダヤアン(文化)の側面である。アダットの側面からいえば、婚姻儀礼はそのエスニック集団のアダットに従い、正しく行われねばならない行為である。村落を活動基盤とするアダット知識人がその中心にいる。クブダヤアンの側面からいえば、婚姻儀礼は意味や象徴性という観点から解釈される対象である。都市を活動基盤としているローカルな知識人によって、各エスニック集団のアダットはインドネシア国民文化にとって必要不可欠な地方文化の一部分として解釈される。同じ対象を扱いながらも、アダットとクブダヤアンは異なる知の体系なのである。K村で行われたある婚姻儀礼は、アダット儀礼というだけではなくて、文化イベントとしても位置づけられていた。ここでは、アダット知識人とローカルな知識人が同時に行為者となるという特異な状況がみられた。この婚姻儀礼のクライマックスでは、プビアン人社会外部からやってきた来賓へ儀礼行為の意味や象徴性を説明する役割を負っていたローカルな知識人に対して、儀礼進行の主導権を奪おうとしたアダット知識人が仕掛けた小競り合いがみられた。小競り合い自体は儀礼の出資者によってすぐに収められ、以後は何事もなく進められたが、これはアダットとクブダヤアンの関係を如実に示している。アダットとクブダヤアンは単に並存しているのではなく、両方を一度に選択できない二つの選択肢として、一つの解釈装置を構成している。二つの概念の近接が生みだしたこの解釈装置を介して、現代の地方エリートは地方社会内部での上昇を図っているのである。
著者
中屋敷 千尋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.79, no.3, pp.241-263, 2014-12-31 (Released:2017-04-03)

インドは「世界最大の民主主義国家」といわれる。しかし実際には、それは理念通りに定着しているわけではない。近代的な政治制度は土着の親族などの制度に影響を与えつつ依拠することで成立することが可能となっている。本論では近代的な制度を支える過程で変容を遂げている親族関係に注目する。そして、北インド・チベット系社会スピティにおいて、親族が、比較的新しく導入された選挙の影響を受けてどのように意味づけされ、再構成されているのかを明らかにすることを目指す。ここでいう親族とは親族全般ではなく、日常生活を支える互助的な親族関係を指す。従来のチベット系社会の親族研究で重視されてきた父系出自の観念とは別に、ニリンと呼ばれる親族範疇が日常生活を支えるものとして住民に重視されてきた。ニリンとは個人の親密な血縁、姻戚関係の認識の範囲である。それと同時に、選挙活動において、このニリンは訴求力をもつものとして政党員に資源として活用される。特に、票を獲得しようと試みる政党員によって普段ニリンとは呼ばれない人までニリンに含められ、一時的なニリンの関係がつくりだされる。そのため、選挙ではその枠が拡大、縮小される。その過程で、人によっては複数のニリンに含められ、複数の立候補者に投票するよう要請され、投票行動の決定困難に陥る状況も生じている。そこでは親族の道義性と個人の戦術が入り乱れ、決定困難となっている。また、中には政治的利益のために団体化したニリンも存在する。つまり、政治的な関係が日常化したのである。ただし、政治的利益を得るための団体化は個人の選択を制限することにもなり、矛盾が存在する。ここには、親族研究において議論されてきた道義性と戦術をめぐるより複雑な問題が示されている。
著者
小松 和彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.130-158, 1974

Manokusa Taro (A Lazy Boy) is one of the most famous tales in Otogi-Zoshi, a collection of short popular tales formed through Muromachi Era and early Edo Era. For an analysis of the tale, the following procedures are taken in this paper . First, its sequential structure obtained through morphological analysis is presented. Second, its component elements are extracted and re-arranged into various schemes of binary oppositions. Third, the relations between the sequential structure and the schemes of binary oppositions are considered on the assumption that the whole text forms a system of paragrammatical network. Many features of analytical interest have emerged as a result of these procedures, but in this paper only two problems are taken up. The first is concerned with the validity of the strongly supported theory that the tale should be included in the category of Honji tales. The second is an old problem as to why the protagonist Taro changes his character or role so often in accordance with different situations ; lazy beggar→faithful servant→reckless bandit→good poet→handsome nobleman→deity of love. The morphologcal structure common to Honji tales is generally as follows ; protagonist of noble or sacred origin degrades himself by some misfortunes and after a long wandering in exile filled with much suffering somehow re-establishes himself in his former status. Tales of this type usually account for the origins of certain Buddhism and/or Shinto deities. Adopting Bremond's morphological models, it is possible to say that Honji tales consist morhologically of "processus de degradation" and of "processus d'amelioration". In the tale in question, however, Taro is a lazy beggar apparently humble origin in the beginning, his noble descent being disclosed only at the end of the story. Thus we find in it only the "processus d'amelioration". For this reason, it is not appropriate to regard it as a Hanji tale. It could even be argued that the tale is a parody of Honji tales, a subject not discussed in this paper.
著者
杉本 良男
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.39-62, 1978

This paper is an attempt to present a structural analysis of the religious system of the Sinhalese of Sri Lanka (Ceylon). Anthropological study of the religion and society in South Asia has made great progress since SRINIVAS'S classic "Religion and Society among the Coorgs of South India" first published (1952). SRINIVAS pointed out two major problems in his monograph. On the one hand, he introduces the concept of 'spread' in Hinduism (All-India, Peninsular, Regional and Local). He emphasized the relation between all-Indian and Local Hinduism, or the sanskritic and the non-sanskritic Hinduism. The idea of this separation has been developed by some investigators, e. g. REDIFIELD(Great Tradition/Little Tradition), MARRIOTT (Universalization/Parochialization), and MANDELBAUM (Transcendental/Pragmatic) , in the studies of peasent society. On the other hand, SRINIVAS demonstrates how the religious notions of good-sacred (pure) and bad-sacred (impure) determine Hindu caste hierarchy and caste behaviours. The 'pure-impure concept' (or 'pollution concept') correlating religion with social structure has been assumed to be the basis of the Indian caste system. Especially, HARPER demonstrates how there is a broad reflex of three-class-caste system (high-middle-low) in three grades (gods, deities, spirits) and of ritual status (pure, pure/impure, impure) . HARPER'S idea is a knot of SRINIVAS'S two problems. First, I examine the utility of the hypotheses of SRINIVAS and HARPER critically, and then outline the total religious system of the Sinhalese through the structural analysis of rituals. The doctorine of Theravada Buddhism and primitive religion has been fused in Sri Lanka since 3c B. C., but people's religious behaviour now is that of a single religious tradition that is Sinhalese Buddhism, which is closely linked with the great tradition (Theravada Buddhism) . Sihhalese Buddhism includes various levels of Supernatural beings. This 'Pantheon' is neither Theravada Buddhist nor a magical animist one, but a 'Sinhalese Buddhist Pantheon'. The 'Pantheon' is hierarchically structured as follows. (1) The Buddha : the repository of power and divine authority, (2) Gods (deviyas) : Guardian deities and local gods who have power and divine authority over a certain area, and subordinate to the Buddha as a super deity, (8) Demons (yakas) : demons, dead relatives, goblins, and ghosts who are completely malevolent, punitive, and causing fear in men's hearts. Besides these Supernatural beings, there are some mediators who mediate between men and the supernatural beings. (1) The Buddhist monks (bbikkhu) : Mediators between men and the Buddha who is an other worldly being, (2) The astrologers (sastra kariyas) : Mediators between this world and the other world. Buddhism is connected with other-worldly oriented things (lokottara), while Magical-animism (god worship and demon worship) is connected with things of this world (laukika). Both systems are not contradictory but complementary. So, Buddhist monks may visit an exorcist to obtain cures in the case of irrational illness. This self-contradiction can be solved by the clear distinction between lokottara and laukika. The binary opposition between Buddhism and Magical-animism may be seen in the opposition between Buddhism and god worship as well. The Buddhist temple (vihara) and the shrines for the gods (devale) are often housed under one roof or at the same site. There are regular rituals in the vihara (Buddha pujava) and the devale (devapujava).
著者
西村 朝日太郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.223-259, 1979

While researching the aquatic cultures along the coast of the Ariake Sea, the author's attention was drawn to two cultural traits in the realm of overt fishermen's culture. One is the mud sled, widely distributed along the muddy tidal zones throughout the world. The other is the stone tidal weir, built along reef coasts with conspicuous tidal ranges. The former is a leading cultural trait which represents the muddy tidal flat culture, and the latter, the reef culture. The latter in particular is quite archaic and presumably originated in the pre-sapiens phase of human history as pointed out by J. Desmond CLARK, although this is denied by R. A. DART. This paper deals with the stone tidal weirs and their relics found along the coast of Miyako Island and the adjacent Irabu Island. In 1957 the author set out to investigate a vast range of gigantic construction on the reef flat along the coast of Karimata in Miyako Island. The range comprised a fixed fishing gear known as a stone tidal weir. Stone tidal weirs at Karimata are mamma-shaped, while others, which are widely scattered in the area, including Iriomote, Kohama, Irabu. Ishigaki etc., vary in shape. Subsequent to several field researches on stone tidal weirs (called kaki or katsi etc. by the natives) in this region, the author sent several of his assistants there in 1972 with the aim of conducting an intensive investigation of the stone tidal weirs still in existence on those islands. This report brings out the results of our joint research, particularly on Miyako and Irabu Islands. A report will be presented later concerning the stone tidal weirs on Kohama Island. Stone tidal weirs, archaic primitive fixed fishing gear, have been under considerable oceanoographical influence due to their particular characteristics in location and function. The author describes in brief the oceanographic factors which have close relationships to stone tidal weirs. Along the northeatern coast of Miyako Island there were originally sixteen stone tidal weirs (photographically illustrated : fig. 5) but most of them were destroyed by the big typhoon named Sarah in 1959 and the subsequent Chilian tsunami (tidal waves caused by an earthquake) in 1960. As mentioned above, stone tidal weirs at Karimata, like those in other areas, are of ancient origin. A considerable number of poems referring to stone tidal weirs seem to be involved in "omorososhi", the oldest anthology of Okinawa. Genhichi SHIMABUKURO has pointed out several poems related to it, however, referring to the works of S. HOKAMA and K. TORIKOSHI, there is ample room for doubt. The author believes that an ancient poem handed down from one generation to another at Karimata, which is entitled "Upuja mabikirja nu fusa" is related to the stone tidal weir. This poem is found in the book "Alethology of Miyako Island" written by S. HOKAMA and K. SHINZATO. Stone tidal weirs of Okinawa can be classified into four types as far as the catching part is concerned, as indicated in figure 13. Type A is akin to a stone weir with its fishing method differentiated in principle from a stone tidal weir. This is the type which formerly existed in Henza Island. Type B is found at Karimata, and it consists of three parts : a) a 10w stone wall (kaki-nu-ti :) as long as 780m with mutu-gaki, b) a catching part (Bu-fuga) , and c) a flat stone-block seat (bi : si) set on both sides of the catching chamber. During ebbtide, water dashes into the catching chamber at the speed of 3/5 m/s on the water surface.