著者
柳沢 英輔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.197-216, 2021-09-30 (Released:2021-12-26)
参考文献数
88

本論の目的は、フィールドレコーディングを主体とする実践的な研究手法としての音響民族誌(sonic ethnography)について、その意義を論じることにある。音響民族誌とは、人類学的なフィールドワークの成果物としてのフィールド録音作品のことを指す。人々の営みを経験的に記述する民族誌において、聴覚的な経験よりも視覚的な経験が重視されてきたため、音や録音メディアの持つ可能性はこれまで十分に検討されてこなかった。近年、音響民族誌が注目されるようになった技術的、理論的な背景として、機材のデジタル化により録音・編集環境が一般化したこと、そして、1980年代以降の「音の人類学」、「感覚の人類学」、「感覚民族誌」など、ロゴス中心主義、画像中心主義に対抗し、視覚以外の諸感覚や身体経験に着目した研究の潮流がある。 本論では『うみなりとなり』という筆者らが制作した音響民族誌を事例として取り上げる。結論として以下のことが言える。第1に、音響民族誌は、音を通して、ヒト、モノ、自然が響きあう相互的で、流動的な世界の在り様を描くことで、我々のモノや世界の捉え方を転換させうる。第2に、録音という行為を通した人やモノ、場所との感覚的な繋がり、調査手法やプロセスへの省察的な考察と循環に、その意義や可能性がある。
著者
濱谷 真理子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.180-198, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
29
被引用文献数
2

本論文の目的は、北インド巡礼地ハリドワールで暮らすヒンドゥー女性行者を対象とし、招宴に 参加するための情報や、招待券、招宴後の施しなど一連の贈与の分析を通じて、女性行者たちの社 会関係について明らかにすることである。 これまでのインド行者研究では、男性行者が出家制度に依拠した共同体を形成していることが明 らかにされた一方、正式な出家を認められない女性行者は、むしろ世俗社会とのつながりに依拠し ていることが指摘されてきた。本論文では、これまで十分に考慮されてこなかった「家住行者」と 呼ばれる女性たちに着目し、彼女たちが日々の乞食実践を通じて、出家制度にも世俗社会にも依ら ない社会的ネットワークを築いていることを明らかにする。具体的にとりあげるのは、行者を対象 とする招宴である。行者社会の序列に従う男性行者に対し、女性行者たちはさまざまな人間関係の ネットワークを活用して、招待券を得て宴に招かれようと試行錯誤する。男性行者が社会的威信や 地位を重視するのに対し、女性行者たちにとって重要なのは、招宴の情報や招待券、施しを独占せ ずに分け与えるべきだという贈与のモラルであった。なぜなら、女性行者は与えることを愛や配慮 の表れとしてとらえ、贈与を通じてそれが霊的な慈愛か世俗的な愛着か、愛の質を吟味するからで ある。それによって、女性行者たちのあいだには、互酬性(世俗)と純粋贈与(出家)の側面を併 せ持つ、越境的ネットワークが形成されることがわかった。
著者
伊藤 清司
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.185-202, 1959-07-25 (Released:2018-03-27)

Among the materials of ancient China, especiary among the Inscriptions of Bronze Vessels (金文) of Western Chou Dynasty (西周), we have found a number of records that tell us that the Emperor of China (天子) often shot water-birds and fishes personally at the Holy Pond (辟雍) in the suburbs of the capital. (〓〓Yu-Kuei;麦尊Mai-Tsun;礼記・月令Li-Chi・Yueh-Ling etc.) This custom originally came from the religious belief that spring would come earlier if game were offered af the end of winter. In国語・魯語(Kuo-Yu・Lu-Kuo) it states, "In the end of the coldest season, the officers of fushery hunted big fishes and water-birds and prayed to gods sacrificing them for easier coming of spirng". People thought water-birds and fishes were spirits of spring, as they would appear with the coming of spring. And this belief was connected with the divination which foretold whether the year would be abundant or meager by the amount of game. In Shih-Chin (詩経) people sang, "Men divine by fishing to see whether they will have an abundant harvest or not." (小雅・無羊; Hsiao-Ya・Wu-Yang) By the Inscriptions of Bronze Vessels of Western Chou Dynasty, we know that the rites of the personal cultivation (籍田) and of shooting were performed together by the Emperor. (令鼎, Ling Ting) And when the Emperor, the supreme ruler of the whole country, performed this shooting ritual, the year's crop for the whole country was forecast at the same time. So, the ritual was a very responsible business for him, and was performed very impressively. Hence we know that the shooting ritual as an annual act of divination came to be related with the agricultural ritual. But later it was celebrated not only with the agricultural ceremony but also with various kinds of rituals and the game which had been shot down then were dedicated to gods. The shooting ritual had gradually lost its original meaning and changed into a kind of symposium for praying gods with offering game. Often there people ate the offerings and swore each other by gods. On the other hand, people also prayed to the gods by shooting wild beasts, such as bears, deers and tigers etc., above the ground. We have already noted that there was such a ceremony in Yin Dynasty (殷代) on the Inscriptions of Bone (甲骨文) and I think that its significance was similar to the above-mentioned. Keeping step with the change in the meaning, the shooting ritual had changed greatly in its form. In the later half of Western Chou Dynasty, it became obsolete for the Emperor to shoot personally at the Holy-Pond. It was performed at some shooting range (〓,〓,序) which was set near by the Pond. And there the Emperor himself did not shoot game any longer, but his subjects competed in the shooting with each other for the prize which would be given by His Majesty. (〓曹鼎,Hsi-Ts'ao-Ting;師湯父鼎, Shih-T'ang-Fu- Ting;礼記・射義, Li-Chi・She-I) In this competition, however, we heve found some traces of the old custom. They used the target of canvas with the hide or the picture of a bear, deer or tiger on it. In some cases, people called the target by the name of Hu (鵠) or Hou (候). Hu (鵠) is the name of a water-bird. But Hou (候) means usually a feudal lord (候). Therefore some people have said that the purpose of the Shooting ritual was to punish the bad feudal lord and that the Emperor made his subjects shoot the target which represented the evil lord and therefore the target was named after候(Hou). (cf.陳槃"候与射候"; Ch'en-P'an "Hou and Shooting the Target") But I believe候was originally the name of a bird 鴻(Hung) and then the target (Hou) itself was modelled after the bird that was a object to be shot in the early period.
著者
飯嶋 秀治
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第55回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.E14, 2021 (Released:2021-10-01)

人類学的先行研究は感覚機能障害のサーヴェイがされている[Keating&Hadder2010]が日本の「視覚障害」の先行研究[廣瀬2005;泉水2017cf.亀井2008;戸田2016等]では、諸学問の間に分散し、①教育学のような今ここの「視覚障害」、②宗教民俗学のような異文化・異時代での異なった生の在り方、③美学や障害学のような今後の生を切り開く研究がある。2019年に27名の聞書きや参与観察を通じて得た人びとのあり方がどのような研究を開きうるのかを考える。
著者
澤野 美智子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.437-456, 2021-12-31 (Released:2022-04-14)
参考文献数
35

本稿の目的は、アフェクト論の観点からパンデミック下の医療現場で起きたアクター間の相互作用について検討することである。特に韓国の「コロナ19」病棟における防護服と看護師に注目する。本稿では防護服を病棟内で相互作用しあうアクターのひとつとして捉え、看護師側だけでなく防護服側の視点も交えながらアクターの動きを描き出す。感染症対策マニュアル上では単純に人間をウイルスから防護するだけのはずだった防護服であるが、現場ではそれぞれに物質性と文脈を持つ防護服と看護師、その他のアクターが出会うことで新たな作用が生じ、アフェクトの秩序が乱されたり連続性が失われたりする。これを本稿ではアフェクトの攪乱と呼ぶ。防護服は独特の環境における多様なアクターとの相互作用によって、防護服に合った身体操作をするよう看護師たちを飼いならそうとする。一方で看護師たちは業務を遂行するため、防護服が遮断しようとする防護服外部の刺激を拾い上げようとするとともに、自らの身体と防護服の間に「第3者」を介在させることで防護服を飼いならそうとする。防護服と看護師が接触を継続せざるを得ない状況下、攻防自体は継続して繰り広げられつつも、アフェクトの秩序が再編されてゆく。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-25, 2013

現代世界が経験している激動は、人類学者のフィールドとそのフィールドで暮らしている人々に直接的な影響を与えている。内戦と殺戮、開発と環境破壊、移民と排除、貧困と感染症の蔓延、といった「問題」は、たんなるローカルな「問題」にとどまらず、グローバルな依存関係のなかで「地続き」に現象する。また人類学者自身が、暴力的衝突や内戦に巻き込まれたり、環境破壊や大規模開発、あるいは環境保全や開発反対運動に関わったりすることは、今やフィールドの日常となりつつある。こうした状況に直面した人類学は、これまでのフィールドにおける中立性と客観性を(建前上)強調する立場から、対象への関与と価値判断を積極的に承認する立場へと移行していくことになる。現代人類学は「人権尊重」「地球環境保全」「民主的統治」などをグローバル化時代の普遍的価値基準として承認し、異文化への介入を試みてきた。だがこのような普遍主義的傾向の肥大化は、さまざまな疑問や反作用を生み出している。その核心は、フィールドへの「関与」「介入」を正当化する論理の根本は何かという問題だろう。本論は、この「普遍主義」の勃興の様相を明らかにした上で、それがもつ必然性と危険性を検討し、相対主義的な世界と新たに登場した普遍主義的な世界認識をこれからの人類学はどのように位置づけ関係させるかについて考察を試みる。ただしその試みは、普遍主義的思考を拒否して、相対主義を復活させるという単純なものでも、その逆に相対主義的思考を放逐し普遍主義的価値基準を学的核心にしようというものでもない。本論文の目的は、この二つの世界認識を現代人類学はいかにして接合し、錯綜する現実に対処する方向性を定めるのかについて日常人類学の生活論に基づいた一つの回答を提出することにある。
著者
関 恒樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.367-398, 2013-12-31 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
1

移民の子どもたちに注目する近年の諸研究では、子どもたちの経験は主に移民第1世代である親の経験との関係で考察され、子どもたち自身の主観的移住経験が焦点化されることは少なかった。しかし、今日主要な移民受入れ諸国において、移民の家族呼び寄せ制度が整備されるとともに、越境する子どもたちが増加しつつあり、特に母国の文化を濃厚に保持しつつ移住した子どもたちが、ホスト社会にて経験する様々な周辺化や排除の経験は、受入れ諸国において近年社会問題化する傾向にある。このような状況は、子どもたち自身を移住に関る主体的アクターとして捉えることの必要性を示している。本研究では学齢期に親に連れられてアメリカへの移住を経験し、その後もしばしば移住先と母国の間を行き来する子どもたちであるフィリピン系移民1.5世代に注目する。彼らの経験の特徴は、母国と移住先の双方で、二重の社会化とアイデンティティ形成を経ざるを得なかったという点である。そのような子どもたちの越境に対する主観的経験の焦点化は、今日のトランスナショナルな社会的場における、移動にともなう微細な差異を内包する主体形成とアイデンティティ構築の理解へとつながるであろう。本研究の議論は、一回きりの出来事として完結する移動ではなく、移住後も繰り返されるプロセスとして移動を捉える視点へとつながるであろう。それは、実際の移動が終了した後も継続的に更新される主観的解釈のプロセスや、移動をめぐって揺れ動く感情の変遷を焦点化する。そのような子どもたちの解釈や感情は、取り留めの無く移ろいやすいものとして周辺化されるべきではなく、むしろそこには、今日のトランスナショナルな社会的場に作用する権力作用と、それによって構造化される社会関係の網の目に絡め取られつつ拘束されながらも、他者との微細な差異の認識とともに表出される主体とアイデンティティが鮮明に示されているといえよう。
著者
うりやんはい なちんしょんほる 額爾 徳尼 るぶさんどるじ じゃるがるさいはん 藤田 昇 山村 則男 小長谷 有紀 吉川 賢
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本研究は,モンゴル国の草原にて,遊牧民に携帯させたGPSで季節移動,群れの中で放牧されているヒツジに設置したGPSロガーで日帰り放牧の経路を記録した.また、植生調査と遊牧民対象に聞き取り調査を実施した.その結果,季節移動の回数と距離が気候条件によって異なり,日帰り放牧が暖季に水と草原の生産力,寒季に気温に影響されていた.変動する環境条件に対する遊牧の適応が、草原生態系の持続性に寄与していると示唆された。
著者
友松 夕香
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本研究では、ガーナ北部の西ダゴンバ地域を事例に、物理的空間としての一つの「家」に住まう、夫婦をはじめとした様々な関係にある人々が、労働や財のプーリングを通じ、どのように経済的共同性を生みだし、「家族」を可視化させているのかをみていく。これを通じて、家族を一つの経済単位として仮定してきた1970年代までの構造人類学と、それ以降の家族の間の競合関係を強調してきたフェミニスト人類学における家計論を再考する。
著者
朝水 宗彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

本発表は、観光を用いた地域おこしとして、地方におけるMICEの定着化について、ソフト面から検討する。対象である山口市は、「E」部門では2015年に世界スカウトジャンボリーが開催されるまで、何度かプレイベントを実施し、徐々にボランティアを含んだスタッフの育成に努めてきた。ただし、「C」部門の国際会議は継続性が不十分で、記念行事的な開催が続いているため、国内外の諸事例を経験的に学んでいくことが重要である。
著者
真崎 克彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.547-556, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
14

Bhutan has recently garnered international praise for its policy of Gross National Happiness (GNH), which seeks to strike a balance between the pursuit of economic growth and that of cultural and spiritual contentment. At the same time, GNH has been criticized by some anthropologists who say that it serves as an “anti-politics machine” that fabricates reality in such a manner as to privilege the standpoint of policy elites, while suppressing the voices of ordinary people. Those engaged in that anti-political critique propose to take the side of ordinary people and reconstruct reality from their hidden voices. That assertion, while potentially helping broaden the debate on GNH, is flawed in that it simplistically assumes that ordinary people merely resent elite control. The anti-political critique resultantly diverts attention from the multiplicity of realities that supersedes the anti-politics machine. One clue that allows us to redress that drawback can be traced to the ontological turn that problematizes our common-sense divide between human societies and non-human objects. Instead of lapsing into the human/nonhuman divide, which leads anthropologists to focus on representations of non-human objects by particular human groups (in this paper, the praise of GNH spearheaded by policy elites, or ordinary people’s alternative representations), the ontological turn focuses attention on the various connections among human and non-human entities. Both are positioned as agents to call into being the multiplicity of reality. This paper looks at the case of a village in central Bhutan, whose residents are immersed in close ties with nonhuman and divine beings, while practicing Buddhism on a daily basis. The anti-political nature of GNH praise surfaced when a businessperson called off a plan to build a golf course in the village, partly in response to a web-based campaign launched by a member of the urban-based elite. That elite member sought to stress, in a media interview, the role of his GNH-inspired campaign in warning against the possible negative environmental, cultural, and spiritual consequences of the plan, and urged the government not to approve it. On the other hand, the following initiative, made by the residents, was sidelined in his story: the residents had also said ‘no’ in a public hearing, despite the lucrative prospects of landing new jobs, on the grounds that the plan would disturb their domestic animals and local deities. The anti-political critique mistakenly posits a simplistic dichotomy of the ‘powerful’ elite versus the ‘powerless’ residents. The ontological turn, on the other hand, takes into account the latter’s active engagement with non-human and divine beings, which empowers them to assess the pros and cons of the plan in their own terms. In that way, the ontological turn enables us to engage in a more balanced debate on GNH than does the anti-political critique, which is plagued by its dwelling on the ‘powerful-powerless’ divide.
著者
中川 敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.262-279, 2003

この論文の目的は密接に関連した二点からなる:(1)ギアーツの「文化システムとしての宗教」とそれに対するアサッドの批判をあたらしい光の中で再解釈すること、そして、(2)そうすることによって、このような論争から帰結するとされる理論的な袋小路から抜け出す道を探り、同時に、人類学的な比較というもののあたらしい可能性を探り出すことである。アサッドの批判は、端的に言えば、ギアーツの議論はエスノセントリックである、ということである。ギアーツの宗教の定義は、ギアーツ自身の文化に特徴的な宗教、すなわち宗教改革以降のキリスト教の考え方に、無意識にせよ、多大な影響を受けているのである、とアサッドは主張するのである。このような批判からギアーツの議論をすくい出すために、私が主張したいのは、ギアーツの議論をローティの反・反エスノセントリズムの議論の脈絡で読め、ということである。反・反エスノセントリズムとは、簡単に言えば、自らのエスノセントリズムに自覚的であるべきであり、そして、(エスノセントリズムを破棄せよというのではなく、)あくまでそれから出発し、他の立場を受け入れることができるようにそのエスノセントリズムを拡大していくべきである、という考え方である。この立場は、もちろん、単純なエスノセントリズムではない(ちょうど反・反相対主義が単純な相対主義ではないように)。それゆえ、あくまで思考実験の中だけにせよ、ギアーツの自称する立場、すなわち、反・反相対主義と相容れない立場ではないと考えることは可能であろう。反・反エスノセントリズムという光の中で、当該の論文の中でのギアーツの作業は、次のようにとらえられることになる-彼は自らのもつ「宗教」に対するステレオタイプ(パットナムの言葉であるが)をできるだけ解明(カルナップの言葉であるが)しようとしているのだ、と。このようにしてギアーツの作業をとらえると、論争それ白身がまったく異なった様相を呈してくることとなる-それはもはや論争ではなく、対話(あるいは、ローティのお気に入りの言葉をつかえば、会話)なのである。二人の対話は経験に近い概念(「痛み」「苦しみ」「訓練」などなど)と経験に遠い概念、すなわち「宗教」との間を振り子運動する。対話者はさまざまな時代、さまざまな場所から民族誌的事実を引用し、そうすることによって、自らのエスノセントリックなステレオタイプを解明していくのだ。この対話こそが、私は主張したい、人類学の比較の模範演技である、と。
著者
高倉 浩樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

2011年3月に発生した東日本大震災は、地震・津波・原発爆発による放射能被害の三つの被害をもたらした。本分科会は、このうち放射能被害に関わる人類学的取り組みについて現状報告を行い、知見を共有するとともに、このテーマでの研究の発展と方向性について、参加者とともに検討することを目的とする。3.11 Tohoku Earthquake ended in three disastrous impacts of earthquake, tsunami, and radioactive pollution from the explosion of Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant. This panel is to focus on the radiation disaster and societies. The purpose is to exchange the knowledge on the disaster case studies and to argue the way of development as an anthropological discipline with the participants.
著者
平野(野元) 美佐
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

沖縄・宮古島では、子供の人生儀礼として、小学校入学祝い、高校合格祝い、成人祝いが盛大に祝われる。100人以上の客を迎えることも珍しくない各家庭の玄関先では、祝儀としての貨幣と返礼品としての金券が交換される。没個性的で交換価値が明確な貨幣と金券が、それぞれどのように使用されているのかに注目し、その交換が経済的余裕のないなかでも大規模な祝儀を持続可能にしていることを論じる。
著者
小田 亮
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.272-292, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)

本論文で提示する「二重社会」という視点は、レヴィ=ストロースの「真正性の基準」の議論の帰結、つまり「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という、異なるあり方をした二つの社会を二重に生きている」というものである。本論文では、この「二重社会」という視点が、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する日常的な実践と、そうした実践を可能とする社会的連帯の基盤となる煩わしさと反復による社会関係の評価を可能とすることを示す。すべてを交換可能なものとして一般化するグローバリズムやネオリベラリズムに対抗するために、比較可能で置換可能な差異としての特殊性に依拠することとそれへの批判は「一般性-特殊性」の軸にそってなされる。また、それを批判するネグリ/ハートの議論も同じ対立軸上でなされている。ここで見落とされてきたのは、ドゥルーズが一般性と対比させる「単独性」と「反復」であり、それは「一般性-特殊性」の軸とは異なる「普遍性-単独性」の軸に位置する。これらの軸はレヴィ=ストロースの真正性の水準の議論における「非真正な社会」と「真正な社会」にそれぞれ対応する。「真正な社会」と「非真正な社会」とでは、同じ貨幣や行政機構などの媒体が、質的に異なったものとなる。それらの一般化された媒体は、真正な社会において、一般性を剥奪される。この一般化された媒体を変換する実践は、人類学では、J・パリーとM・ブロックらによる「貨幣を飼い慣らす」実践として議論されてきたが、それらも、「一般性-特殊性」の軸にそった議論にとどまっている。「二重社会」の視点から見直すことで、こうした実践が「普遍性-単独性」の軸にそって非真正な社会との境界を維持するものであるという点が明らかとなる。このように「二重社会」という視点は、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する多様な実践の意味解釈を可能とする。