著者
須田 理行 山本 浩史
出版者
公益社団法人 応用物理学会
雑誌
応用物理 (ISSN:03698009)
巻号頁・発行日
vol.89, no.4, pp.203-207, 2020-04-10 (Released:2020-04-10)
参考文献数
25

電子がカイラルな分子を通過すると,スピン偏極が生じるという現象(CISS)を利用して,新たなスピン偏極電流源を作製した.このデバイスで我々が用いたのは分子モータと呼ばれる可動性の分子で,光と熱によって1方向に内部回転を行う.この回転が4ステップに分割されたカイラリティ反転を伴うため,モータ分子の薄膜を内蔵したスピンバルブに対して光を照射したり熱を加えたりすることによって,電流のスピン偏極を反転させることに成功した.これは新たなタイプの再構成可能なスピン偏極デバイスであり,電子回路におけるスピン偏極源としての有機分子の可能性を示している.
著者
大熊 房太郎
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.49, 1970-12-01

インフルエンザはしばしば大流行をおこす伝染病なので,昔からその流行は記録されて後世に残されることが多く,すでにヒポクラテスも彼の著作にインフルエンザと思われる病気を記載しているくらいですが,『三代実録』(平安時代に書かれた官撰の国史書)によりますと,わが国では清和天皇の貞観4年(862年)に「咳逆」という病気が流行して多数の死亡者がでており,これが記録の上での日本最初のインフルエンザの流行であろう,といわれています。 ヨーロッパでの流行の確実な記録は6世紀ごろまでさかのぼることができますが,おもしろいことに西欧ではインフルエンザが流行すると,いつの時代でも,そのインフルエンザにはおどけた調子のニック・ネームがつけられることになっていました。
著者
田畑 泉
出版者
独立行政法人国立健康・栄養研究所
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

本研究では、まず身体トレーニングは低い強度でも高い強度でも疲労困憊に至るまで行えば、ミトコンドリアの新生の機序に関係のある核内蛋白質として注目されているPGC-1α(peroxisome proliferator-activated receptor γ coactivator-1)の骨格筋での発現には差がないこいことを明らかにした。しかし、この高強度・短時間トレーニング後のラット血中乳酸濃度は11mM以上に上昇し、疲労困憊に至るような運動であると考えられる。したがって、健康増進のための運動処方としては用いることができない。そのため高強度・短時間運動トレーニングを健康増進のための運動処方として用いるためには、より少ない運動セット回数でもある程度の効果が得られることを確認する必要がある。また、容量依存的に増加するか否かについても検討はなされていない。そこで、次に、SD系ラットに体重の18%の重りを負荷した、20秒間の水泳運動を3回,9回,14回、各セット感に10秒間休憩を挟み1日1回5日間行った場合の前肢筋epitrochlearisのPGC-1α発現を見た。その結果、疲労困憊に至らない3回の高強度間欠的運動トレーニング後のPGC-1αの発現量は、従来、運動トレーニングとしてPGC1α発現の最大刺激と考えられてきた疲労困懲に至る14回の間欠的トレーニング後のものと差はなかった。さらに、PGC-1αの発現の機序に関係していると考えられているAMPK活性は3回の間欠的運動後でも高い値であることが明らかとなり、PGC-1α発現は、AMPK活性が、それほど高くなくても、充分に高くなることが明らかとなり、さらにヒトを対象としても疲労困憊に至らないような最大下回数の高強度短時間間欠的運動トレーニングが効果的である可能性が示唆された。
著者
松浦 茂
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.176-208, 2003-03

個人情報保護のため削除部分あり雍正四年(一七二六) から五年にかけて、清とロシアは北京で国境交渉を行ない、モンゴル地方と並んで、ネルチンスク条約で先送りされたウダ川地方の帰属に関しても、協議を行なった。その際に両国は、それぞれの地図を交換して検討することにし、ロシアは清にホマンの地図帳などを提供した。その中には巨大なカムチャツカ半島が描かれていて、幻の土地エゾはその南端にあると記されていた。清はエゾ問題に関心をもち、エゾの地を探して沿海地方やサハリン北部を調査したこともあったが、サハリン中部以南については、一度も調査を行なったことはなかった。北京会議では結局ウダ川地方の帰属を決定することはできなかったが、清はエゾをロシア領とするロシアの見解に衝撃を受けた。そこで会議の終了直後から、サハリン中・南部とエゾとの関係を明らかにするために、サハリン中・南部の調査を開始し、同年には早くも上京していたアムール川下流のホジホン、ダイジュをサハリン中部の東海岸を派遣した。さらに雍正七年にはシサ国(日本) との関係を解明するために、イランハラの驕騎校イブゲネらを同地方に送ったが、このときイブゲネらは、日本本土製のよろい・刀・漆器などをもち帰っている。それから雍正十年にはイブゲネらを再度サハリンに送り、中・南部のアイヌを始めとする、全部で百四十六戸の住民を従属させた。この結果清の勢力は、サハリンの南端に達して、サハリンのほぼ全島がその勢力下に置かれたのである。In 1690 (the twenty-ninth year of the Kangxi reign) the Qing government dispatched nine investigative parties to the regions on the left bank of the Amur River in order to certify the border with Russia, which had been determined by the Treaty of Nerchinsk the previous year. One of the parties reached the northern part of the Sakhalin. Then, in 1709 (296) and 1711 the Qing again dispatched parties to the Maritime Province and the northern part of Sakhalin in order to create a new map of East Asia, ''she Map of a Comprehensive View of Imperial Territory" 皇輿全覧図. But the parties were unable to investigate the central and southern parts of Sakhalin. In 1726 (the fourth year of Yongzheng reign) and 1727, the Qing and Russian governments entered diplomatic negotiations in Peking concerning the border between the two countries. They discussed the demarcation lines of not only the Mongol district but also the Uda River district, which had not been settled during the negotiations for the Treaty of Nerchinsk. On this occasion the two countries exchanged and examined each other's maps. The Russian ambassador provided the Qing ambassadors Homann's atlas, in which there was depicted an enormous Kamchatka peninsula to which the legendary land of Yezo had been appended in the south. Ultimately, the two countries were unable to decide on the border in the Uda River district at the Peking conference, and the Russian view that Yezo was the territory of Russia caused alarm within the Qing government. Therefore immediately after the conference, the Qing government began to investigate the central and southern parts of Sakhalin in order to clarify the geographical relationship between Sakhalin and Yezo. In 1727 the Qing government sent Daiju, who lived in the lower reaches of the Amur River but happened to have been in Peking, to the eastern coast of central Sakhalin. In 1729 it dispatched bannermen such as Ibgene, a Lieutenant in Ilan hala, to the same district in order to clarify the relationship with Sisa gurun (Japan). They collected and brought back Japanese armor, swords, and lacquer ware. Then in 1732, the Qing again dispatched Ibgene and others to Sakhalin. They subordinated three clans of the Ainu people in the central and southern areas as well as three clans of the Nivkhi people in the northern part of the island, totaling 146 households in all. As a result of these efforts, the Qing advanced to the southern end of the Sakhalin, and obtained control of almost all the island.
著者
平井 陽一
出版者
明治大学商学研究所
雑誌
明大商學論叢 (ISSN:03895955)
巻号頁・発行日
vol.100, no.4, pp.29-43, 2018-03-15
著者
山田 清市
出版者
亜細亜大学
雑誌
亜細亜大学教養部紀要 (ISSN:03886603)
巻号頁・発行日
no.39, pp.p1-22, 1989
著者
中田 武司
出版者
早稲田大学国文学会
雑誌
国文学研究 (ISSN:03898636)
巻号頁・発行日
no.66, pp.p97-100, 1978-10
著者
山田 清市
出版者
早稲田大学国文学会
雑誌
国文学研究 (ISSN:03898636)
巻号頁・発行日
no.100, pp.p192-203, 1990-03