著者
石川 洋行
出版者
東京大学大学院教育学研究科
雑誌
東京大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13421050)
巻号頁・発行日
no.59, pp.541-551, 2020-03-30

This paper pursues socio-philosophical approach for violence around education such as school bullying, child abuse and campus harassment. In the mainstream of French sociology, social violence tends to be connected directly with "the sacred" and its effect like Durkheim and former Mauss. But after the death of Durkheim, Mauss suggested the ambivalence of gift between goodwill and poison on the "totality" of primitive society, which lead to theoretical roads both total symbolic interactionism and general structuralism. Lévi-Strauss resolved it into monolithic general exchange, on the other hand Baudrillard and Clastre described primitive society in the aspect of genetics of elemental power and violence with some examples of counter-violence. Their perspectives regard the gift and its violence as the result of fundamental human interaction, which are brought about our feeling of indebtedness based on social desire for admission. Then, how can we justify any violence against the power? Derrida answered this question reading Benjamin's criticism deconstructively, expressing Benjamin's mythic violence as "violence against violence." From the empirical point of view, we find mythic violence means the self-sacrifice of "accusation" against compulsory violence. That counter-violence has ontological foundation in materiality of the language, therefore we can avoid structural ignorance on the worst violence of silence.

1 0 0 0 OA 哲学ノート

著者
三木清 著
出版者
河出書房
巻号頁・発行日
vol.第1, 1946
著者
芝原 隆
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.80, pp.p57-84, 1985-05

I. デカルトにおける自然と経験 1. 自然的傾向による心身合一 2. 経験による心身合一の認識II. マルブランシュにおける自然的判断の変貌 1. 内的感覚 2. 自然的判断III. コンディヤックにおける全面的経験論の挫折 1. 外的経験からの出発 2. 本性の出現と全面的経験論の挫折IV. ロックにおける感覚の単純観念 1. 単純感覚か複合感覚か 2. 感覚の観念の単純性と「直接的覚知」V. カバニスにおける内的感覚VI. デストゥット・ド・トラシーにおける運動感覚 1. 運動感覚 2. 意志と本能
著者
畑中 敏夫
出版者
明治大学大学院
雑誌
明治大学大学院紀要 文学篇 (ISSN:03896072)
巻号頁・発行日
no.19, pp.39-47, 1982-02-10

マクシム・ルロワはその『サント・ブーヴの思想』の中でコンディヤックを始祖とする感覚論哲学がサント・ブーヴに及ぼした影響について述べているが、特に18世紀後半のパリ大学医学部教授であり、生理学的心理学の創始者カバニスの影響を重視している。このカバニスは、サント・ブーヴの心理的自伝とも言い得る『快楽』の中でその名を挙げ、主人公アモリーがその哲学的見解に強い印象を受ける場面がある。サント・ブーヴがその文学活動を始める以前医学の勉強を続けていたことは衆知の事実である。1818年パリに出てきたサント・ブーヴはコレージュに通うかたわら、ほぼ19歳頃より毎晩アテネ学校に、生理学、博物学の講義を聞きにいっていたのであるが、この学校に通学したことが、彼の批評の形成に大きな役割りを与えることになった。
著者
村松 正隆
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 (ISSN:13481118)
巻号頁・発行日
no.2, pp.115-131, 2004-03

18世紀後半から19世紀前半にかけてのフランスの哲学者、生理学者たちの課題の一つは、人間が行う「生命的活動」と「精神的活動」との割り振りをいかに行うか、また両者の関係をいかに理解するかにあったといえる。生理学の発展によって、「精神」と「物質」という伝統的な秩序の間を占める新たな秩序として「生命」が立ち上がった時期において、カバニス、あるいはビシャといった生理学者たちは、コンディヤックの感覚論を受けつつ、生命現象の秩序を通じて思惟の現象を理解するという道筋を経て、思惟の現象を理解しようとした。これは、生理学において対象的な形で取り出された概念図式を、思惟の理解のためにアナロジカルに転用したものと言える。他方、メーヌ・ド・ビランは、コンディヤックやカバニスの思想を受け継ぎつつ、「生命」と「思惟」との関係性を論じる道筋を、別途に開発しようとした。その道筋とは、両者に共通する現象である「習慣」を媒介とすることで、「生命」と「思惟」とに共通する特徴を見出しつつ、両者の区分を引くというものであった。その結果見出されるのは、「生命」と「思惟」とが単純に対立するものではなく、「思惟」がときに「生命」のもたらす効果に対立しつつも、思惟としての取り分を確立するために、何かしら「生命」に似ていく部分がある、そうした両者の錯綜した関係であった。
著者
田中 敦
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.40, pp.1-29, 2009-03-31

人間に固有なものという課題は「人間の本質」とか「人間性」として理解できるが、それは任意の視点から人間独自の特性を分析し、解明するということ以上の何かを意味している。そうした問題をここでは事実性についての問いとして捉えたいと考える。 そのような場合、解明されるべき人間性は、現代においてどのようになっているかが問題となる。このように考えると、それは今日神に関する解明を目指すのと同じような困難さを孕んでいるように思われる。それが、「神は死んだ。ならば人間性は死んでいないのか?」という題が意味していることである。 ニーチェの言葉「神は死んだ」は、それが語られた当時とは比較にならないほど、今日その衝撃力を失っている。しかし、神はその概念からしても、更に神との関わりに立つ人間にとっても死に得ない存在である。そしてニーチェはまさにそのことを「神は死んだ」と述べた断片の中で明瞭に描き出している。更に、この断片が書かれたのとほぼ同時期に『このようにツァラトゥストラは語った』第一部が書かれたが、その冒頭で、ツァラトゥストラが市場の群集に超人の必要を説く場面は、そのまま死んだ神を探し回る狂った人の場面と同じである。このことはニーチェにとって「神が死んだ」ということは、同時に人間が人間としてはもはや生きていけないこと、人間であること(Menschlichkeit)、人間性も喪失されていることを雄弁に語っているのである。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」のである。 ニーチェにとって神の死は、したがって人間性の死滅は、単なる一つの可能な解釈ではなく、西洋の歴史を貫く出来事、その意味で避け難い問題として事実性の問題であったといえる。更にニーチェにとってこの問題の解決、欠乏している人間性を到来させるという課題も、言葉による解明という問題ではなく、ここでいう「事実性の問題」として理解されるべきものであった。しかしニーチェ自身はこの事実性の問いの解決を目差す中で、その問いを通常の問いから区別することなく追及しているように思われる。それは答えを求める問いであって、問いを問いとして存在せしめることをしていないのである。神の死の巨大な喪失を、その死が齎したニヒリズムを克服することがどうしても求められねばならないのである。 ところで、ハイデッガーの『ヒューマニズムについての書簡』は、ボーフレの質問「どのようにして『ヒューマニズム』という語にその意味を与え返すか」に答える形で書かれているが、そこでハイデッガーは真正面からこの問いに答えていない。その意味は、何らかの語にその意味を回復させるということは、知的な解明ではない事実性の問いに対しては不十分、不用意であるということであろう。フッサールが語の意味の回復可能性を直観に求めるのに対して、ハイデッガーはそれを存在にあるいは事象との出会いに求めている。事実性の問題は予め「何かとして」意味が既に何かが与えられていることを出発点にとることになる。 しかし、問題は死あるいは喪失という事態である。どのようにすれば「不在の」「喪失された」事象と出会いえるのかという問いである。まさにこの問題こそ、存在忘却という事態の只中で、改めて存在の意味を問うことを敢行したハイデッガーの哲学的探究がなしたことである。つまり、ハイデッガーはまさにそうした事態を形而上学との関係において「克服」ではなく「耐え抜き」と捉えているが、そうした問題こそ、事実性の問いが要求する問いの問い方であるだろう。
著者
野口 理恵
雑誌
哲学会誌 (ISSN:03886247)
巻号頁・発行日
no.29, pp.193-206, 2005-06-01