著者
相知 敏行 山中 英生 北澗 弘康 神田 佑亮
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D3(土木計画学) (ISSN:21856540)
巻号頁・発行日
vol.68, no.5, pp.I_909-I_916, 2012 (Released:2013-12-25)
参考文献数
11
被引用文献数
5

自転車通行環境整備モデル地区等の整備が進む中で,自転車サインには多様な試みが見られるが,走行する自転車からの視認性への配慮が十分とは言えない状況にある.本研究では,走行中に計測が可能なアイマークレコーダーを用いて自転車運転中の多様なサインに対する注視特性を分析し,効果的な自転車通行空間でのサインの使い方を検討した.この結果,サイン種別毎の注視分析から,架空看板は注視している距離が長く,遠方からのみ注視されるため,交差点部での設置に適しており,看板柱は遠方で気づき,近くで内容を把握していることから文節部の設置に,路面表示は注視距離が近づくにつれて注視される割合が高くなり,視認性が比較的良好であり,路線内の連続設置が効果的であることが分かった.
著者
西村 元佑
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.12, no.5, pp.423-445, 1953-09-30
著者
重近 啓樹
出版者
東洋史研究會
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.49, no.3, pp.431-465, 1990-12-31
著者
岩崎 正吾
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.215-226, 316-317, 6-7, 2002-06-25

ペレストロイカ以降、教育分野へのグラースノスチの進展とともに、従来閉鎖されてきた多くの情報が開示されるようになった。マカーレンコについても、これまで知られなかった情報が明らかにされつつあり、活発な議論が展開されている。当論文は、これまで日本において、マカーレンコの教育実践を映画化したものとして紹介されてきた『人生案内』と『教育詩』及びマカーレンコとの関係について、最近明らかになってきた諸資料に基づき解明することを課題としている。これまで映画『人生案内』は、ア・エス・マカーレンコの教育実践、とりわけ、彼の著『教育詩』をモデルとして撮影されたものと見なされてきた。映画『人生案内』は、1931年にソビエト最初のトーキー映画として制作され、第1回ベネチア国際映画祭の監督賞を受賞した。この映画は、興行的にも成功し、1932年には日本でも上映された。この映画は、1920年代の法律違反児童や浮浪児の再教育をテーマとしていたこと、また、エフ・ジェルジンスキーを記念して制作されたことから、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された。映画では、法律違反児童や浮浪児がコムーナでの労働教育を通して再生されていく過程が生き生きと描かれており、この点でも、ア・エス・マカーレンコの『教育詩』における教育実践と二重写しとなった。この映画が、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された別の理由は、『教育詩』が英語やドイツ語で『人生案内』と翻訳されて出版されたことにあった。とりわけ、イギリスでは、『教育詩』の販売部数を増やすために、興行的に成功した映画『人生案内』の表題をつけて『教育詩』が出版された。また、ヘルマン・ノールをはじめとするドイツのマカーレンコ研究者達も、『人生案内』を『教育詩』と同一視していた。ソビエトだけでなく、ドイツを経由してマカーレンコ情報を入手していた日本では、これらの理由が重なり、『人生案内』と『教育詩』とが同一視された。『人生案内』と『教育詩』とが同一視されたもう一つの重要な理由は、映画のモデルとされたこのコムーナの創設者達が、スターリン体制下で粛清され、このコムーナについての情報が隠蔽されたことにあった。このコムーナの創設には、ゲ・ゲ・ヤゴーダとエム・ア・ポグレビンスキーが重要な役割を果たした。このコムーナはゲ・ゲ・ヤゴーダを記念してつくられたものであり、彼の下でエム・ア・ポグレビンスキーが総括責任者となり、エフ・ゲ・メリホフが所長となって、このコムーナが設置され、運営された。コムーナの正式名称は、「内務人民委員部付設ゲ・ゲ・ヤゴーダ記念ボルシェフ労働コムーナ」である。ボルシェフ・コムーナは、ポグレビンスキーの書いた2つの本、即ち『合同国家政治安部労働コムーナ』(1928年)と『人々の工場』(1929年)により、世間に知られるようになる。また、このコムーナをいっそう有名にしたは、エム・ゴーリキー編集のルポタージュ集『ボルシェフ人』(1936年)であった。彼はこのルポタージュ集の中で、このコムーナの活動と指導者としてのポグレビンスキーを高く評価した。しかしながら、スターリン体制の下で、1937年4月3日、ヤゴーダはゴーリキー等の毒殺嫌疑で逮捕され、1938年3月に銃殺さた。かっての上司が逮捕されたことを聞いたポグレビンスキーは、1937年4月4日に自殺する。このような一連の事件の後、雑誌『赤い処女地』(1937年7月、第7号)に、編集部による『ボルシェフ人』の書評が掲載された。この書評は、ボルシェフ・コムーナに関わるヤゴーダの事業とその活動を厳しく弾劾するものであった。これ以後、『ボルシェフ人』だけでなく、ポグレビンスキーの本も書店や図書館から撤収された。マカーレンコも、それらについて言及することを用心した。また、マカーレンコがかつてそれらについて発言した書評や記事は、彼の死後、編集者達によって削除され、出版された。こうして、マカーレンコとボルシェフ・コムーナの関わりは、後生のマカーレンコ研究家達の眼から隠された。隠された書評や記事から判ることは、マカーレンコがボルシェフ・コムーナについて、大きな関心を抱いていたことである。彼は、書物からだけでなく、実際にこのコムーナを訪問して、その活動の意義や長所について学ぶとともに、その短所や自分の教育方法との相違についても研究していた。マカーレンコのゴーリキー・コローニヤやジェルジンスキー・コムーナの教育実践には、子どもへの信頼、労働教育を通した人格形成、集団の組織方法など、少なからずその影響を認めることができる。1932年に上映された映画『人生案内』は、1970年代にもリバイバル上映された。当時の浮浪児の状況や彼らの労働を通しての再教育の過程が見事に形象化されており、多くの聴衆に大きな感動を与えた。そして、それはマカーレンコの教育実践として受け止められ⌒/textarea></td></tr><tr><td width="50%"><a href="help_create_kiji.html#abse" target="help">ABSE [抄録(欧)]</a></td><td width="50%" colspan="2"><textarea name="abse" cols="45" rows="5" tabindex="18">Since perestroika, as a consequence of the concomitant glasnost (dissemination of information) for the field of education, we have begun to gain free access to a great deal of the information that had remained closed to the public until now. With this trend, we are also provided with the information about Makarenko that had been unknown to us, and lively discussions have followed from it. The aim of this paper is to investigate, in light of the documents that have become available in recent years, the relation between A. S. Makarenko and his "Pedagogical Poem," on one hand, and the film "Road to Life", on the other. This has been known in Japan as a cinematic interpretation of Makarenko's pedagogical practices. "Road to Life" has long been regarded as a film based on the model of Makarenko's pedagogical practices, especially on that of his work "Pedagogical Poem." It was produced as the first Soviet talkie film in 1931, and received the Best Director award in the first Venice Film Festival. The film was also a commercial success and went on to be shown in Japan in 1932. Because the subject of the film was the reeducation of juvenile delinquents and orphans, and also because it commemorated F. Dzerzhi-nsky, "Road to Life" has been identified with Makarenko's pedagogical practices. It vividly depicts the process in which the juvenile delinquents and orphans are reborn through labor education at the commune, and this too made the film, as it were, a double-image of Makarenko's "Pedagogical Poem." Another reason this film was identified with his practices is that the English and the German translations of the "Pedagogical Poem" were published with the title "Road to Life". In Britain in particular, the publisher gave the book the same title as the commercially successful film in order to increase its sales. Moreover, German researchers of Makarenko such as Herman Nohl also associated "Road to Life" with the "Pedagogical Poem." In Japan, where the knowledge about Makarenko came not only from the Soviet Union but also by way of Germany, "Road to Life" was identified with the "Pedagogical Poem" for a combination of these reasons. Still another reason these two works were seen in the same light is that the founders of the commune after which the film "Road to Life" was modeled were purged under the Stalinist regime, and that the information about the commune became concealed from the public. G. G. Jagoda and M. A Pogrebinsky played important roles in the founding of this commune. It was conceived to commemorate Jagoda, and established and operated by Pogrebinsky as the general president under Jagoda, and by F. G. Melihov as the manager. The official name of the commune is "Bolshev Labor Commune Named in Honor of G. G. Jagoda, Attached to the National Commissariat of Internal Affairs." Bolshev Commune became known to a wide public through the two books written by Pogrebinsky, Labor Commune Attached to the United State Political Admission (1928) and People's Factory (1929). Furthermore, it was The Bolshevians (1936), a collection of documentaries edited by M. Gorky, that made the Commune even more famous. In this book, Gorky gave high praise to the activities of the Commune and Pogrebinsky as its leader. However, under the Stalinist regime, Jagoda was arrested on April 3, 1937 on suspicion of killing Gorky and others by poisoning, and executed by shooting in March 1938. Hearing the arrest of his former superior, Pogrebinsky committed suicide on April 4, 1937. After this series of incidents, the journal Red Virgin Soil (Issue 7, July 1937) published a book review of The Bolshevians signed by its editorial department. The review severely denounced Jagoda's enterprise and activities related to Bolshev Commune. Thereafter, not only The Bolshevians but also the books by Pogrebinsky were removed from bookstores and libraries. Makarenko also became cautious about referring to these books. And, after Makarenko's death, editors of his books cens

1 0 0 0 OA 小山健三伝

著者
三十四銀行 編
出版者
三十四銀行
巻号頁・発行日
1930
著者
杉山 和雄
出版者
成蹊大学経済学部学会
雑誌
成蹊大学経済学部論集 (ISSN:03888843)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.77-107, 1972-10
著者
鷲﨑 郁之 大城 義竹 六角 高祥 勢理客 久 金城 英雄 金谷 文則
出版者
西日本整形・災害外科学会
雑誌
整形外科と災害外科 (ISSN:00371033)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.791-795, 2016-09-25 (Released:2016-12-06)
参考文献数
11

経過中に左右の環軸椎回旋位固定を生じたダウン症児の1例を経験したので報告する.斜頚,頚部痛が出現した2週後に当科を受診した.頚椎単純CTで環軸椎回旋位固定を認めたため,Glisson牽引を開始した.入院時は右回旋,左斜頚であったが,牽引7日後には左回旋,右斜頚と逆方向に回旋した.さらにGlisson牽引を3週間追加したが改善しなかったため,全身麻酔にて可及的整復後に中間位でhalo vest固定した.固定1週後の頚椎単純CTで左回旋の残存および後頭環椎関節での右回旋を認めたため,やや右に過矯正し固定した.固定3週後の頚椎単純CTで右回旋を認めたため,中間位に再固定した.固定8週後の頚椎単純CTで軽度右回旋が残存していたが,本人の不耐性のため9週でhalo vestを除去した.発症後6ヵ月の時点で,頚部痛,斜頚は改善し,頚椎の回旋可動域は正常である.
著者
又吉 修子 當銘 保則 前原 博樹 喜友名 翼 金谷 文則
出版者
西日本整形・災害外科学会
雑誌
整形外科と災害外科 (ISSN:00371033)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.641-644, 2016-09-25 (Released:2016-12-06)
参考文献数
11

傍骨性骨軟骨異形増生は,手足の短管骨に好発し傍骨性腫瘤を形成する疾患である.今回我々は,脛骨骨幹部に発生した傍骨性骨軟骨異形増生の稀な1例を経験したので報告する.症例は12歳,男児.1年前,サッカー中に右下腿前面を打撲した後より同部位に腫瘤を自覚した.腫瘤が徐々に増大し運動後の疼痛を認めるようになったため,近医を受診した.脛骨前面に発生した骨腫瘍を疑われ,精査目的に当科へ紹介された.右下腿中央内側に5 cm大の骨性隆起を認め,単純X線像で脛骨近位骨幹端から骨幹部にかけて辺縁整で台地状に隆起した骨腫瘍を認めた.MRIでは,T1強調像で低信号,T2強調像では腫瘍基部で低信号,隆起部では高信号を示す二層性の変化を認めた.腫瘍隆起部に造影効果を認めた.切開生検術を行い,傍骨性骨軟骨異形増生と診断された.腫瘍基部を含む切除術を施行し,現在術後1年2ヵ月で再発を認めず,切除部に骨形成を認める.
出版者
イザラ書房 (発売)
巻号頁・発行日
1982
著者
中島浩氣著
出版者
青潮社
巻号頁・発行日
1985
著者
川端 豪
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会論文誌. D-II, 情報・システム, II-情報処理 (ISSN:09151923)
巻号頁・発行日
vol.77, no.10, pp.1967-1972, 1994-10-25
被引用文献数
14

音声による会話は,人間と機械の情報交換の手段として最も快適なインタフェースと考えられ,その実現には,効率的な自然言語処理の技術が必要となる.本論文では,自然音声言語の複雑性を軽減する一手法として,統計的手法に基づく新しい話題制御の機構を提案する.入力音声は予測型CFGを用いて解析されるが,このとき生成される文法規則の系列を用いてHMMを駆動し,その状態分布の偏りとして話題を同定する.逆に,この分布の偏りを動的に文法規則の確率に反映させることによって認識探索空間を絞り込む.大規模対話テキストデータベースを用いて,テキストデータ入力に対するパープレキシティの削減効果を評価し,提案する手法が強力な探索空間の絞込み能力をもつことを確認した.
著者
糸井 重里
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネスassocie (ISSN:13472844)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.102-105, 2012-02

東京糸井重里事務所が運営する「ほぼ日刊イトイ新聞」(以下、ほぼ日)は、1日140万ページビューを超えるウェブサイトだ。コピーライターで代表の糸井重里さんが、13年間1日も欠かさずに更新してきたエッセイや、様々なコンテンツで構成。連載をまとめた本の出版や、「はらまき」や「タオル」といった生活雑貨の製作、販売で収入を得る。
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネス (ISSN:00290491)
巻号頁・発行日
no.899, pp.59-62, 1997-07-14

タンカーの船底に塗ると運航コストが1億円減る。新素材開発で、自動車にもはっ水ドアガラスが普及する。ただし、今後いっそうの応用には耐久性が課題だ。表面が水滴をはじいて濡れないようにするはっ水加工は、傘や衣服、バッグ、調理器具から、最近では化粧品まで、身近なところでたくさん使われている。

1 0 0 0 表皮は動く

著者
北村兼子著
出版者
平凡社
巻号頁・発行日
1930

1 0 0 0 ひげ

著者
北村兼子著
出版者
改善社
巻号頁・発行日
1926