著者
大塚 淳
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2006

1.スピノザ心理学における目的論の位置づけ;スピノザ『エチカ』における目的論の扱いを考察した。彼の目的原因論批判は目的論全般の否定とは区別されなければならないこと、また彼の体系において目的論は排除されているのではなく、むしろその心理学の根本をなしていることを、彼の目的論を個物について成立する法則的言明として解釈することにより示した。2.生物学的な機能に関する問題;生物学の哲学において議論が交わされている二つの機能解釈、すなわち起源論的機能と因果役割機能について、それぞれの批判を検討したうえで、それぞれは互いに相互背反な関係にあるのではなく、生物を理解するための二つの異なったアプローチを示していることを明らかにした。3.目的論全般に対する考察;現在主流である、目的論の因果的な由来による解釈(etiological view)に対し、目的論の本来的な役割は事物の因果的基盤に関するのではなく、むしろ対象を現象論的・統合的に説明する方式であるという、異なった目的論解釈を示した。4.古生物学での機能推定に関する考察;機能推定メソッドとして古生物学で用いられている「パラダイム法」を,3の考察に基づき形質を統合する目的論的な説明とみなした上で,その説明仮説の真偽を,その仮説がどの程度データを説明するか(尤度)に基づき,ベイズ的手法にのっとって判定する,というアイデアを示した。
著者
富山 豊
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.65, pp.242-256_L17, 2014-04-01 (Released:2016-06-30)
参考文献数
8

In the early Husserlʼs theory of intentionality, he established a sophisticated account for our mental actʼs relation toward its object. Later, some new elements were introduced into the middle Husserlʼs theory of intentionality, such as concepts of “phenomenological reduction”, “noesis-noema correlation”, and so on. His theory is famous for such concepts. But a question remains of what the significance of such changes consists in. To what extent do these two forms of Husserlʼs theory differ? Or,do they differ from each other merely terminologically? In order to answer these questions, the present paper concentrates on the concept of “noema”. More specifically, the central issue is : whether the meaning-object correlation in the early theory corresponds with the noesis-noema correlation in the middle theory.Husserl himself sometimes characterized the concept of noema as “the intended object as it is intended”. Therefore it is natural to interpret the concept of noema as somewhat modified concept of object, construing that noema is ontologically identical with object itself. Indeed, not a few writers think so, like Dan Zahavi, John Drummond and so on. But Husserl also calls noema “meaning”, hence a question arises. Which is noema, object or meaning? To answer this question correctly, the concept of “determinable X” in neoma is essential. I will argue that this concept is the key to understand the reason why the concept of noema had to be introduced, in addition to (noetic) meanings and objects. An essential point is identification of object, within temporal succession of our experiences.
著者
小池 誠
雑誌
研究報告音楽情報科学(MUS) (ISSN:21888752)
巻号頁・発行日
vol.2017-MUS-115, no.52, pp.1-5, 2017-06-10

本稿はテレパシー通信,即ち,マイクロ波聴覚刺激を応用して音声信号を頭部に直接,伝えるマイクロ波通信の起源を探求するものであり,クロード ・ シャノン等が発明者である米国特許 2801281 号を分析することにより,1948 年にクロード ・ シャノン等が公表した 「パルス符号変調の哲学」 は具体的な通信機,電子回路を秘匿しつつ,通信理論に抽象化してテレパシー通信を公表した旨を指摘する.
著者
金井Pak 雅子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.431, 2020-05-25

ヘルスケアにかかわるすべての人にお勧めしたい 本書を開いて最初に目を引くのは、第1章として「医療は誰のものか」で始まることである。“まずヒポクラテスから始まる”というイメージがある一般的な医学・医療概論とは違うという印象をもった。そこでは、人道主義、患者の権利、倫理などに続いて、「人の気持ちを慮ることの大切さ」について著者らのユニークかつ重みのある体験が語られている。たとえば、産婦人科医である著者の1人(男性)が、若いときに患者の気持ちになってみようと、分娩台に上がってみた(下着をつけずに!)という記述がある。このように、医療職にとって最も大事なものはなにかを理解するための哲学的な問いが、頭でだけ考えたものではない描写で随所にあらわれている。同様に、第2章は「健康とは何だろうか」をテーマに、well-being について身体的・社会的・精神的な視点から、地に足の着いた解説がされている。 第3章は、医療の誕生から現在そして未来への展望が、最先端の医療技術の課題などについて「全人的医療」をキーワードに解説されている。環境汚染による健康被害(水俣病、四日市喘息など)の歴史は、医療者としてしっかりと認識しておくべき課題であるが、その記述も充実している。さらに近代社会における人類最大の健康課題とされてきた感染症対策として、ペストやコレラそして天然痘、結核についてその発生から終息に至る経緯がわかりやすくまとめられ、エイズ(薬害エイズ問題を含む)や重症急性呼吸器症候群(SARS)に関しては、グローバル感染症として国際協調体制の構築が強調されている。この書評を書いている今、新型コロナウイルスによる感染がパンデミックとなり、日本でも感染者が出てさまざまなイベントが中止となっている。「見えない敵」との闘いは、人々を不安に陥れるのみならず、生活の基盤である経済に大打撃を与える。感染症対策の国際的強化のみならず、社会や経済への影響を最小限にする努力が求められていることを、学んでおく必要がある。
著者
加藤 節
出版者
岩波書店
雑誌
思想 (ISSN:03862755)
巻号頁・発行日
no.770, pp.p42-55, 1988-08
著者
小手川 正二郎
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.25-39, 2014-03-01

「他人を理解する」とは、どのようなことか。自分の理解の枠組みに他人を切り縮めることなく、いかにして他人を理解することができるのか。フランスの哲学者レヴィナスが答えようとしたのは、このような問いであったと思われる。本論文は、レヴィナスの特異な理性概念に着目して、レヴィナスが主著『全体性と無限』(1961 年)で「他人を理解すること」をどのような事態として捉えるに至ったかを考察・吟味することを目的とする。\ まずレヴィナスの理性概念が孕む問題点を瞥見した後で、「理性」が一貫して他人との関係の担い手とみなされる理由を、『全体性と無限』に先行するテクストに遡って究明する。次に『全体性と無限』の読解を通じて、〈他人によって自我の理解が問い直されることから出発して他人を理解する可能性〉について考察する。最終的には、レヴィナスの理性論が、しばしばレヴィナスに帰される〈他者〉(l’Autre)論ではなく、〈他人〉(Autrui)論を基盤に据えていることを明らかにすることを試みる。\What does ‘an understanding of others’ consist of? How can we understand others without reducing them to those that we do understand? is is the question that Emmanuel Levinas, a French philosopher, struggled to answer throughout his life. Focusing on his unusual notion of ‘reason’ in Totality and Infinity (1961), I try to clarify Levinas’ thinking of ‘an understanding of others’. To start with, having taken a look at some implications of his notion of ‘reason’, I examine why Levinas holds that ‘reason’ is the bearer of a relationship to others. Secondly, analyzing Totality and Infinity, I consider the possibility of understanding the other person without reducing them to those as we understand them. Finally, I try to demonstrate that Levinas’ theory of reason is based on his theory of the other person (Autrui), but not that of the Other (l’Autre) which has been until nowattributed to him.
著者
加藤 幸信 カトウ ユキノブ Yukinobu Kato
雑誌
宮崎県立看護大学研究紀要 = Journal of Miyazaki Prefectural Nursing University
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.6-17, 2005-03

人権思想の確立にあたっては,ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーといった哲学者が大きく貢献した。しかし,彼らの基盤となる自然法思想は,社会的存在である人間を個人に還元してしまうものであり,当時の社会的状況に対するアンチ・テーゼの面が強いと言える。したがって,その時代的社会における大きな有効性を有した反面,理論的には必ずしも正しいとは言えないのである。人権論の基盤となるべきものは,彼らよりも,むしろドイツの哲学者ヘーゲルに存在する。ヘーゲルはかつて国家主義者として語られることが多く,人権と結びつけて説かれることは少なかった。しかし,彼の説いたことを理論的に読み返せばそうではないことがわかる。彼は,観念論者であり,精神の本質を自由だとして『歴史哲学』において,世界史は自由の意識の発展だと説いた。これは,人間の本質は自由だということである。ここに我々は人権論の基盤を求めることができる。ただ,ヘーゲルは東洋の世界から歴史を説き,ルソーやヘーゲルに先行するドイツの哲学者カントが説こうとした人類の原始状態,人類の起源に関しては説いていない。この点を補い,唯物論の立場から読み返せば,ヘーゲルの理論は人権論の基盤となりうるものである。
著者
伊藤 邦武
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.16-31, 2006

Charles Peirce developed his cosmological system in the series of articles published in <i>The Monist</i> from 1891 to 1893. Peirce constructed his system on the foundation of the three doctrines of "Tychism", "Synechism" and "Agapism". Of these three doctrines the least known theory is "Agapism". In this paper, I try to present the material necessary for the understanding of this doctrine. Peirce's agapism or the theory of evolutionary love is a curious mixture of his criticism of Darwinism and his sympathy to Henry James, Sr.'s Swedenborgian theology. He contends that the evolution of the universe cannot be accounted for by means of Darwinian logic of chance. It is his contention that the process of cosmological evolution should be interpreted as the work of divine creative love, whose essence is to let the creatures be independent from, but at the same time, return to harmony with the creator. This doctrine of creation as evolution is adopted by Peirce and reinterpreted into a complex doctrine about the interactive relationship between mind and matter. The resultant picture of the evolution of the universe is that of getting more and more lawful but reasonable.
著者
遠藤 徹
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-21, 1995-09

「汝及び他のあらゆる人格における人間性を、単に手段としてのみ扱うことなく、常に同時に目的としても扱うように、行為せよ。」 カントは定言命法のこの定式(―第二定式と呼ぶことにする)をどこから、どう導き出したのか。―本稿が全体として掲げる主題はこれである。この問題に迫る一つの手だてとして、今回の稿で、我々はこの定式に含まれている、しかしカントによって表だって顕わにされていない「目的」に敢えて注目する。顕わにされている目的は言うまでもなく「目的としても扱うように」と命じられている、その目的であり、あらゆる人格の人間性がそれに当たる。これを「目的(1)」とすれば、この定式にはもう一つの目的―「目的(2)」―が伏在している。我々の見るところでは、「目的(2)」は通常の目的概念であるのに対して、「目的(1)」はそうではなく、カントが目的(2)を表立たせながら論述を行わなかったことは、その主張の理解にさまざまな困難を引き起こしている。 全体のこういう視点から、「目的」であり得るものは何か、「客観的目的」及び「自体的目的」とはそれぞれ何か、二つの異同・関係はどうか、等々を見、定式の基礎づけについて一通りの解釈を得る。我々の考察の基底に貫かれる一つの洞観は「人格」はそもそも「目的」たり得ないということである。また解釈が辿り着く重要な結論は、第二定式は基本定式を越え出ているということである。 我々の疑問・批判と関わるところの深いロスの解釈をも参考に取り上げ、カント、我々双方の主張に光を当てることを期する。
著者
斎藤 忍随
出版者
有斐閣
雑誌
哲学雑誌 (ISSN:03873366)
巻号頁・発行日
vol.68, no.719, pp.113-120, 1954-03
著者
星川 啓慈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.1-24, 2006-06-30 (Released:2017-07-14)

宗教学・宗教哲学の分野では、これまで「宗教の真理・奥義・核心などと呼ばれるもの-以下では<宗教の真理>として一括する-は言語でかたることができるか否か」という問題が頻繁に議論されてきた。本論文では、否定神学者としてのウィトゲンシュタイン(W)とナーガールジュナ(N)の思索をとりあげ、二人がいかにこの問題と格闘したかを跡づける。「語りうるもの」と「語りえないもの」を鋭く対置させ、自分の宗教体験をその区別に絡めながら思索した前期W。世俗諦と勝義諦からなる二諦説に立ち、勝義をかたる言語の可能性を見捨てることはなかったが、そうした言語の限界をふかく認識したN。宗教の真理をかたる言語をめぐる二人の見解には、驚くほどの共通点と根源的な相違点とが見られる。本論文は、二人の相違点ではなく共通点に焦点をあわせて、議論を展開する。二人の思索からいえることは、言語によっては宗教の真理について直接に「語る」ことはできないけれども、間接にそれを「示す」ことはできる、ということである。いわば、言語は宗教の真理を「示す」という目的のための「作用能力」をもつのである。