- 著者
-
五十川 伸矢
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.68, pp.51-76, 1996-03-29
古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。平安京では,その京域内に墓を作らせなかったため,その周辺の山野に葬地が次第に形成されていった。古代には天皇や貴族などの人々の墓がみとめられるが,当初は墓参のないものであった。一般庶民は,その遺体を河原に遺棄されるものであったといわれており,墓が作られたとしても簡単なものであったらしい。12世紀にはいって,都市の外周部の葬地には,集団的な墓地が顕在化し,中世的墓制が確立していったとみられる。木棺に伸展葬される形態が主流であり,古代の墓の伝統が続いていた。13世紀にはいると,都市の内部にも墓が作られて,そのなかには,都市が解体して墓地が形成されるのではなく,都市空間を前提として墓地が営まれるものもあった。ここに京域内に墓を作ることを禁じた古代からの伝統はついえた。墓の形態には,土葬では屈葬の木棺があらわれ,火葬骨は各種の蔵骨器に納入された。15世紀には,さらに墓の遺跡が増加し,墓を作りえた人々が増したことがうかがえ,直葬の形態をもつ土壙墓が,ややめだつようである。その背後には葬式仏教化した寺院があり,庶民のあいだにも累代の墓をもち,墓参をおこなう風が成立しつつあったとみてよい。16世紀には政治的に都市再編がおこなわれ,都市の空間設定に変化が生じると,その墓地や火葬場も運命をともにし,移動をよぎなくされるものもあった。こうして,近世・近代へとつながる墓のありかたが定着していった。