著者
安藤 りか
出版者
名古屋学院大学総合研究所
雑誌
名古屋学院大学論集 社会科学篇 = THE NAGOYA GAKUIN DAIGAKU RONSYU; Journal of Nagoya Gakuin University; SOCIAL SCIENCES (ISSN:03850048)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.133-147, 2015-07-31

本論では,取り組み開始から十数年となった大学におけるキャリア教育に対して,近年提出されている種々の批判を整理し,それらの批判の対象となっているキャリア教育の現実との照合・確認をおこない,そこに見られる課題の検討を試みた。その結果,第1に,批判の中核である「心理主義的傾向」と「対象と範囲の無限定性」については,批判が妥当であることを確認した。第2に,「対象と範囲の無限定性」の問題が,キャリアcareerの語義に起因する教育内容の無限定性の問題にとどまらず,教員の専門性の問題とも深く関わっていることを見出した。最後に今後のキャリア研究の課題を示した。
著者
工藤 真也 長岡 鼓太朗 梶並 知記
雑誌
研究報告デジタルコンテンツクリエーション(DCC) (ISSN:21888868)
巻号頁・発行日
vol.2020-DCC-24, no.10, pp.1-4, 2020-01-16

本稿では,サバイバルゲームにおける少人数でのフラッグ戦を対象とした,試合後の振り返り支援を行う可視化インタフェースを試作する.サバイバルゲームは,エアソフトガンを用いて行う,実際の銃撃戦を模したゲームで,実世界のフィールド上で試合する.試合後,口頭またはメモ用紙などを用いて振り返りを行う場合がある.本稿では,振り返りの際の議論活性化のために,プレイヤーのフィールド上の移動軌跡や警戒,射撃状態を可視化するインタフェースを構築する.
著者
上野 祥史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.349-367, 2014-02-28

中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡3期鏡が流入する段階から漢鏡5期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続しており,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。なお,漢鏡3期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡4期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半から後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前1世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではないことを指摘したのである。近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会における漢鏡6・7期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡6・7期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワークが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させる状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。漢鏡6・7期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルートの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02-28

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.109-153, 2006-12-20

神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落が認められる。これらは,縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集落が小規模分散化していった延長線上にある。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓であった。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落である可能性がきわめて高い。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったのだろう。結集の原点である大型建物に再葬墓に通じる祖先祭祀の役割を推測する説があるが,その蓋然性も高い。水田稲作という技術的な関与はもちろんのこと,それを遂行するための集団編成のありかたや,それに伴う集落設計などに近畿系集団の関与がうかがえるが,在来小集団の共生が円滑に進んだ背景には,中里集落出現以前,あるいは縄文時代にさかのぼる血縁関係を基軸とした居住原理の継承が想定できる。関東地方の本格的な農耕集落の形成は,このように西日本からの技術の関与と同時に,在来の同族小集団-単位集団-が結集した結果達成された。同族小集団の集合によって規模の大きな農耕集落が編成されているが,それは大阪湾岸の弥生集落あるいは東北地方北部の初期農耕集落など,各地で捉えることができる現象である。
著者
小林 謙一 春成 秀爾 坂本 稔 秋山 浩三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.17-51, 2008-03-31

近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
著者
加藤 春恵子
雑誌
東京女子大学紀要論集
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.91-117, 1989-03-10

This essay is written from three points of view-women's study, the theory of communication, and the sociology of social change. It tries to investigate the meaning of discommunication in recent Japanese society, and to offer analytical tools to those who are in search of a deeper understanding of situation and self in the historical context. Table of contents is as follows: I. The Directions and Mechanisms in Social Change 1. The Inevitability of Social Change 2. The directions of Social Change 3. The Patterns of Social Change 4. Society and the Individual in the Process of Social Change 5. The Mechanisms of Social-Individual Change II. Gender Change as a Post-patriarchalization Process 1. Gender 2. Patriarchy 3. Changes in the Gender Role System 4. Changes in the Gender Personality System 5. Types of Processes in Post-patriarchalization III. The 'Patriarchy Complex' and Communication 1. The 'Patriarchy Complex' 2. Multiplying Relationships between Inter-personal and Extra-personal Discommunication 3. Nonverbal Communication and the Double-bind 4. Patriarchic Structure in Inter-personal Communication
著者
堀 まどか ホリ マドカ Madoka HORI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2009-09-30

野口米次郎(1874-1947)は、英語・日本語で多彩な言論活動をくりひろげ、二〇世紀前半期には国際的に広く知られた日本詩人であった。従来、英文学分野での野口の英米文壇との関わりを論じる研究は行われてきたものの、日本文学の側からは研究がほとんどなされていない。野口の生涯を基礎資料や出典文献の吟味を経て通観した著述や、それをふまえた研究も行われてこなかった。野口が日本文学史の主流から排除された理由は、彼が戦時期に「帝国メガフォン」として活動した為、敗戦後、長く忌避されたことにある。こうした研究上の欠落を是正するため、本論は野口の戦時期活動を含め、従来の研究の欠落部分であった日本文壇における活躍を検証し、国際的文化思想潮流の中における野口の生涯を捉え直そうとするものである。<br /> それゆえ、本論は第一に、明治・大正・昭和の敗戦時にまで及ぶ野口の生涯を通じて、その活動の全容を明らかにし、これによって従来の研究の克服をめざす。第二に、野口の文学世界の本格的な探究を基盤づけるために、野口を取り巻き、変動を重ねた同時代の国内外の諸文学の動向を明らかにし、それらとの関係の再考を試みる。第三に、野口米次郎は、文芸にとどまることなく、日本美術や浮世絵、能・狂言の海外への紹介者として活躍した。このことが海外のジャポニスムにどのように働きかけ、どのような役割を担ったのかを考察する。総じていえば、野口という人物とその作品の再評価を課題の中心に据えるが、そのために、従来の日本文学・英文学という個々の領域を超え、文化全般さらには思想全般の国際的、国内的な動向とを関連づけて野口米次郎の足跡を考察する。<br /> 本論は大きくわけて、三部構成をとる。第一部「出発期―様々な〈東と西〉、混沌からの出現」では、詩人野口米次郎がどのように自己形成を遂げていったかを明らかにする。第一章で野口の渡米までの成長過程における英語学習の様子や、早くから芭蕉俳諧に親しんでいたこと、渡米の動機などを考察する。第二章では、アメリカ西海岸のボヘミアニズムの潮流下で、ポーやホイットマンを尊敬しそれらを芭蕉俳諧と重ねて理解した野口が、詩人としていかにデビューしたかを、その周辺の詩人たちの理解や当時の国際的な文化潮流とあわせて、伝記的に再確認する。第三章は、ジャポニズム小説の隆盛期の流れに棹さして執筆した日記風小説に焦点を当て、野口の視点の独自性と問題意識の原点を探る。第四章は、英国詩壇で一躍人気を博したことについて、一九〇三年当時の野口が翻訳や英詩作に対していかなる自覚や意図を持っていたのかを探る。また英国詩壇で野口の英詩の方法や表現がいかに受容されたかを検討する。<br /> 野口の人生中期を捉える第二部「東洋詩学の探求と融合―〈象徴主義〉という名のパンドラの箱」では、東洋の伝統と西洋のモダニズム詩論との交差の中で、野口の詩学や詩作がどう展開したかの分析を試みる。第五章では、野口の一九〇四年の帰国が、日本の詩人たちによる象徴主義詩の移入時期と重なっていたこと、野口が象徴主義を芭蕉と比較して説明したその先に、日本国内での芭蕉再評価の気運を認めうることを明らかにする。第六章では、日本帰国後の野口が積極的に英文執筆に取り組み、国外の様々な新聞雑誌に、舞台芸術や美術そして政治状況などの多岐多彩な著述を書き送り、日本文化の海外発信に努めていた点を分析する。また帰国後に刊行した詩集や評論集が、海外では不可解と思われていた「日本」の本質や日本人の精神構造を伝えるために書かれていることを考察する。第七章では、日本文化の解説者として重要な役割を演じた一九一四年の英国講演をとりあげる。野口が芭蕉俳諧の精神哲学と詩学を論じたことは、国内外に多大なインパクトを与えた。第八章では、欧米モダニズム思潮の中での野口の位置と評価、その時代背景について考察する。英詩改革を試みた英詩壇が東洋への指向性を深めてゆく様子を、インドの詩人たちとの関係などをも含めて明らかにする。第九章では、従来ほとんど研究がなされてこなかった、大正期詩壇の中で野口が果たした役割と存在意義を、幾つかの詩誌から解明する。大正から昭和への転換期には、様々な思潮が混沌として渦巻いた。野口はこの時期、文化相対主義的な観点から国内外に向けて伝統意識と前衛意識について語っている。第十章ではこれら両者の重なりが、昭和初期に日本主義が立ちあがってくる兆しと如何なる関係にあったかを浮き彫りにする。第十一章では、野口がL・ハーンについて残した著述とその内容を明確にし、日本主義の潮流に巻き込まれる「境界人」としての二人の位置について考える。 第三部は「「二重国籍」性をめぐって―境界者としての立場と祖国日本への忠誠」と題して、文明批評家としての国内外の評価も確立していた野口の、後半生における屈折を、国際関係論、東西文明交渉史、植民地主義批判に目配りしつつ論じる。第十二章では、野口の〈境界〉性や自己存在の不安定さについて、従来指摘されてこなかった幾つかの局面から論究する。野口は人類の普遍主義に立つ文化相対主義の立場から、自国の文化を創出することを考えていた。時代は彼に政治問題や民族・国家の独立問題と関わることを要請し、かつ野口自身もそれを当然のことだと考えていた。しかし、二〇世紀の国際関係は、その立場に亀裂や動揺を生みだしてゆく。その実態を捉える。第十三章では、早くからインドとアイルランド文学の共通性を意識していた野口のアジア認識を、インドとの関わりを中心に論じる。野口のインドに対する発言や論述といえば、従来はもっぱらR・タゴールとの論争ばかり注目されてきたが、それは野口と「インド」との関係の一頁に過ぎないことを、インドで発掘した資料などをもとに明らかにする。第十四章は、野口の戦時期の詩について、従来知られていなかった作品にも照明を当て、野口米次郎の詩想の全容の解明に努め、その内部にかかえた亀裂の様をあきらかにする。第十五章は、敗戦後の野口と没後の評価を扱い、野口の遺志が受けつがれてきたことを示す。<br /> 野口は、国際的な象徴詩運動が様々なモダニズムへと分化してゆく中で、前衛性と庶民性、国際性と地方性、そして民族の魂といった要素の融合する二〇世紀の詩精神を守り育てることに腐心し、大正期の詩壇で尊敬を受け、また海外に自分なりの日本文化の神髄を紹介することに邁進して国際的に活躍の場を拡げた。象徴性、暗示性、幽玄の世界、精神性を表現することが、野口の「詩一つに生きる」ことであり、文化相対主義の立場から日本文化の普遍性を敷衍することを、野口は自らの使命とした。しかしそのことが、戦争の時代には、野口の中に自分自身では処理しきれない問題を抱かせることになった。<br /> 野口が自らを「二重国籍者」と述べたとき、それは自嘲であっただけではなく、精神的複合性をもった詩人としての自覚であり、「近代」的視野を持つ国際人としての自負でもあった。本論は、蹉跌の思いと痛みを抱えて、激動の時代を生きぬいた野口米次郎というひとりの詩人の軌跡を、二〇世紀における国際詩想潮流の動きと文化交流の実態とに重ね合わせながら、解明することをめざした。この詩人の達成と挫折とが共に、日本近代のたどった思想史や文化史の展開を照らし出している。
著者
高田 夏子
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 心理学篇 (ISSN:21858276)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.27-38, 2014-03-15

作家森茉莉について,まずその気質を,てんかん気質,中心気質,内向的感覚タイプという観点から考察した。次に,森茉莉と父親鴎外との関係について述べ,父親元型と密着しすぎている「父の娘」という観点から見たとき,「父親の輝きを背後にもった少女」ということができ,生涯その父子のナルシシズムに守られていたということが言えた。また彼女は,「少年愛もの」から本格的な小説を書き始めているが,この「少年愛もの」は現代の「腐女子文化」に通じるものがあることを論じた。そして,長編小説『甘い蜜の部屋』を創造し書ききることで,父の庇護を必要としない「絶対少女」となり,それは父からの自立を意味していたということを明らかにした。
著者
入江 英弥
出版者
弘前学院大学文学部
雑誌
紀要 (ISSN:13479709)
巻号頁・発行日
no.52, pp.13-25, 2016-03-18