小林哲也 (@techan82)

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RT @machi82175302: 続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https…
RT @zasetsushirazu: 岩田みゆき「戸張伝右衛門『慶応日記帳』にみる御料兵の実態について-慶応四年四月脱走前の動向-」(『青山史学』36、2018年)は、幕領で御料兵として徴発された戸張伝右衛門の日記を分析。戊辰戦争で会津まで赴いて新政府軍と戦った人物で、ここで…
RT @zasetsushirazu: 大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の…
僕が中学生の時に読んだのこれだ!(^^) CiNii 論文 -  「大政奉還論」の系譜 (シリ-ズ人物検証-15-検証 坂本竜馬の全仕事) https://t.co/h7vzxPkD9f #CiNii
RT @kouteipengin14: ほら、これの、25ページ目に「慶喜はとにかく民衆の動向に、無頓着なんです」って。 CiNii 論文 -  敗者の側から幕末維新史を振り返る : 会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか https://t.co/3wYHDXK4nf #CiNii
CiNii 論文 -  特集論考 徳川慶喜の血脈と江戸帰還の関係性 (2013年3月号特集 幕末戊辰戦争全史) https://t.co/yKvCBOfnUr #CiNii

お気に入り一覧(最新100件)

拙稿「文久・元治年間における三条実美の歴史的位置」が機関リポジトリで公開されていました。よろしくお願いします。 https://t.co/pGSp8OEI74
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsUysz………
今からちょうど158年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsUysz……
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg……
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg……
拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b

3 0 0 0 土佐史談

松村巌のとさ史談68号「坂本龍馬」 近江屋の奥さんに取材してて「妻の談によれば、中岡は焚飯を食いたいというてこれを近江屋の妻に求め、近江屋の妻は為めに焚飯を拵えて進めたりと云う」に 奥様レシピ教えてください!の突撃したい。 https://t.co/6FM4LNmnwL

2 0 0 0 土佐史談

https://t.co/Z2siElvzZg 今年読んだ中で面白いな~と思った近江屋、 とさ史談「坂本龍馬先生事蹟余聞」の 「高知県人で土佐史談会員の市村梅太郎君が、少壮の時この今井信郎氏に面会し、親しく暗殺当時の物語を聞いたことがあった」の談話で 藤吉と龍馬が刺客に抗戦してるところ
https://t.co/5NVZI46ASp 『「坂本龍馬」の誕生』著者の博士論文 国会図書館に行かないと読めないかと思っていたらNDL経由でも公開されてたんですね
https://t.co/V1A0VemA5F 『画人河田小龍』読み終わった 知らなかった維新後や交流関係が多くてこんな面白い人なんだ~と今更びっくりした

4 0 0 0 OA 鉛筆だより

明治42年に徳川慶喜に拝謁した時のことを書いた横山健堂のエッセイがあった。健堂の老母は田舎侍の子が前将軍にお目にかかったということで帰りを待ち侘びて非常に喜んだ、と。横山健堂は山口県出身で、父は吉田松陰に学んで維新後は郡長になった横山幾太。 https://t.co/DDDgYY31mC
高橋秀慧「幕末京都の政治都市化と寺院の生存戦略―宗派横断的な視点から」(『宗教研究』95巻1輯、2021年)を読んでたら、拙稿「幕末期政治的主要人物の京都居所考」(御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』、岩波書店、2015年)が典拠(注23、25、38)に挙がってた。https://t.co/8TjSU9rfVO
PDFあり。 ⇒森 公章 「「武者の世」の到来と国衙の諸相」 『東洋大学大学院紀要』58 (2022/3) https://t.co/S1mcwlsynp
著者 上野智子氏の「『武市瑞山獄中書簡妻及び姉・妹あて』の中の高知方言」 https://t.co/n0zTWM60Za と、瑞山書簡中の方言や話しことばを取り上げた諸星美智直氏の「武市瑞山文書から見た土佐藩士の言語について」もネットで読むことができる。 https://t.co/W0puRo5NLz
大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の重要性について考察。 https://t.co/llVIzrnJpP
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4vv0S…
今日はあんまり凌雲先生に関する話は思いつかないのですが。強いていえば凌雲先生は本格的に医術を学ぶため、昭武公のお傍を離れて木村宗三とともに下宿生活に入ります。地名がわからないのですが、リウサンはル・サンでしょうか… 『巴里御在館日記』 https://t.co/ThYC8DvGvD https://t.co/zsffkDjN56

43 0 0 0 OA 猪飼勝三郎届書

国会図書館憲政資料室所蔵「川村正平(恵十郎)関係文書」の「猪飼勝三郎届書」。 平岡円四郎が刺客に襲われたことを知らせる史料。 渡辺甲斐守の旅籠よりの帰路に襲われ、深手を負ったとある。 https://t.co/jPxUBSIutI #青天を衝け
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、武市瑞山(武市半平太)と岡田以蔵が死去。笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)は、武市ら「土佐勤王党による藩外交主導の状況」に対する土佐藩当局の対応などを分析。 https://t.co/WvTSa3GYHr
川村正平関係文書の中に半井澄の名前を発見。明治8年だと澄さんは療病院にいる頃だと思うけど、二條斎敬を診たのは高階経支の関係かな。高階経支はおそらく典医高階経徳の父、経由の兄弟。 二條斎敬殿容體書 https://t.co/I5R0wvpPeh
明治40年5月13日、金井之恭が死去。幕末期に、新田義貞の後裔・新田満次郎(岩松俊純)を擁して挙兵を企図した。明治7年、台湾出兵の問題解決などのため清国に赴いた大久保利通に随従(後藤新「台湾出兵の終幕」『武蔵野法学』7)。高山彦九郎の伝記『高山操志』を編纂。 https://t.co/93dSWCWGQR
安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷土研究所紀要』62、2017年)。 https://t.co/4Oi2rr1nFQ
今からちょうど156年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsCper

31 0 0 0 OA 阪下義挙録

田中光顕が坂下門外の変を語っていて、田中同様長生きした渋沢栄一の話も出てきます。田中は安藤信正を襲った浪士側を顕彰するわけですが、この本のインタビューで、安藤信正をある部分だけ褒めていて、それが田中の勝手な理屈で面白いです(笑) #青天を衝け https://t.co/iW71AAdOfl
柳田直美「学習院大学所蔵「徳川宗家旧蔵書」について(其の一)」(『書物・出版と社会変容』26、2021年)は、明治8年に徳川家達が勝海舟を介して華族会館に寄贈した、徳川宗家の旧蔵書を考察。その中で、第14代将軍・徳川家茂が創設した学問所の蔵書印などに着目。 https://t.co/Vs0MMmj4NB

236 0 0 0 OA 維新史料綱要

『維新史料綱要』巻7 p54 幕府、征夷大将軍徳川慶喜の音称「よしひさ」を布告す https://t.co/rsDm1pDemz

11 0 0 0 OA 水府名家手簡

烈公の書は品がある隷書が多いですけれど、躍動感溢れる書翰の文字はアートと言っても過言ではないと思います。 https://t.co/HJIhpEasrw https://t.co/vjVhVkmIAe

37 0 0 0 OA 徳川慶喜公伝

おおお、一橋慶喜公と平岡円四郎の「おしゃもじ逸話」に関する史料がやっぱりありましたのですね。 https://t.co/W2xRB20tWD ていうかこれ渋沢栄一が書いた史料やないすか!!w #青天を衝け 『徳川慶喜公伝 巻4』渋沢栄一 著 - 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/fT3EVA1z9Y https://t.co/IVrefFPxyg
慶応4年1月14日(1868年2月7日)、鳥羽・伏見の戦いの情報を得た長崎奉行・河津祐邦が長崎を退去。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、その後1ヶ月、松方正義・佐佐木高行らによる長崎会議所が暫定統治。 https://t.co/FCiMiYm2NR
濱口裕介「幕末期カラフトを踏査した佐倉藩士たち」(『佐倉市史研究』31)は講演録。 関連の深いほかの論文に、「安政年間における老中家臣の蝦夷地調査」(『史友』35)、「幕末期アイヌ風俗改変政策に関する地理的考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』64)などがある。 https://t.co/xJkptvdFep
明治26年12月5日、松平容保が死去。幕末期、京都守護職を務めた。中西達治「孝明天皇の松平容保宛て宸翰」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-2、2020年)は、孝明天皇が容保に与えた宸翰を明治天皇が把握していたかもしれないという、白石烈氏の近年の見解などを考察。 https://t.co/HLGKVvJKbb
会津の図書館、土日でも19時までやっててありがたい〜!郷土史の本棚もすごい!! 大好きな土佐勤本『近藤勇ト土佐勤王党』の実物が見られた〜!
元治元年10月24日(1864年11月23日)、徳川慶勝(第1次長州征伐の総督)が西郷隆盛に意見を諮問した。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)曰く、慶勝は西郷を信頼し、西郷は「事実上の総督府の参謀」として遇されるようになった。 https://t.co/xUZx0nyPvK
『原市之進暗殺事件の高橋泥舟・山岡鉄舟黒幕説を否定する』がciniiに投稿されていました。この事件に関しては画期的な論考になりました。 https://t.co/VpAa3pCoba
慶応3年7月29日(1867年8月28日)、中岡慎太郎らが土佐藩の白川邸に入った(現在の京都大学北部構内)。陸援隊の屯所とされる。笹川尚紀「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」(『京都大学構内遺跡調査研究年報 2016年度』、2018年)は、白川邸の沿革などを分析。 https://t.co/yc9PEH3vaJ
塚越俊志「幕末の条約について」(『弘前大学国史研究』141、2016年)は、岩下哲典編『江戸時代 来日外国人人名辞典』(東京堂出版、2011年)に掲載した文章を改稿したもので、幕末期に幕府が諸外国と結んだ条約を解説。「幕末期条約内容比較(条項別)」という表も掲載。 https://t.co/iBlWTtRz7V

5 0 0 0 OA 維新史談

「維新史談」によると、容堂公は口を漱ぐのにポン酢を用い、蚊を燻すときには蒼朮を焚いていたようですが、容堂公を気に入らない人は「公は口を漱ぐのに味醂を使い、蚊を燻すのに沈香を使う」と言ったとか。それを聞いた容堂公の言葉が、いかにも酒好きのら容堂公らしい。 https://t.co/EnZJxi54gT https://t.co/1iU04riLMf
別所興一「書評 羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』(風媒社)、秦達之著『尾張藩草莽隊 戊辰戦争と尾張藩の明治維新』(風媒社)」(『愛知県史研究』24、2020年)は、明治維新150年として2018年に風媒社から刊行された2冊の書籍の書評。 https://t.co/Nu4JMosO20
『日本研究所紀要』第12号はKUIS学術情報リポジトリで公開しました。拙稿「慶応二年前半の政局と薩摩藩―「小松・木戸覚書」以降の動向を中心に」もダウンロードが可能です。https://t.co/jW0JUjCOHp
明治20年3月7日、黒田長溥が死去。薩摩藩主・島津重豪の子で、幕末の筑前福岡藩主。蘭癖と呼ばれた大名の1人。慶応元年に加藤司書や月形洗蔵らを弾圧した「乙丑の獄」について、西尾陽太郎「黒田長溥と筑前勤王派」(『史淵』98、1967年)をネット上で読むことができる。 https://t.co/fYc8wN3o4w
森谷秀亮「王政復古の大号令について」(『駒澤大学文学部研究紀要』26、1968年)は、慶応3年の王政復古について武家政治のみならず、摂政・関白の廃絶を宣言した意義を強調。森谷氏は、日本史籍協会叢書『伊達宗城在京日記』(東京大学出版会)の解題などを担当した研究者。 https://t.co/FVerejI5rk
水上たかね「幕府海軍における「業前」と身分」(『史学雑誌』122-11、2013年)曰く、幕末の幕府海軍では職務に必要な能力を「業前」と呼んで重視し、人材を登用した。だが、「家」の枠組は強固で、家督相続で別の役職に就いて海軍を離れる人材流出の問題などがあった。 https://t.co/yhNhvRbhtb
明治42年11月14日、山川二葉が死去。会津藩士・山川尚江の娘で、兄弟姉妹に山川浩と健次郎、大山捨松がいる。会津藩家老の梶原平馬と結婚。東京女子高等師範学校で教育に携わった。文献に、遠藤由紀子「会津藩家老梶原平馬をめぐる女性」(『女性文化研究所紀要』35)など。 https://t.co/TFwKYZ5uvJ
安政6年10月6日(1859年10月31日)、三条実万(三条実美の父親)が死去。安政期の朝廷内で影響力があった。笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回」(『仏教大学総合研究所紀要』8)曰く、息子の三条実美は実万の「体制改革意識の影響を受けて」政治意識を形成した。 https://t.co/ZE9L8zItRK

10 0 0 0 OA 関西巡回記

前月には病気を理由に藩に辞表出して、でも受け入れられず、更には2月には参政に任命されてた。年譜を見る限り、この年(明治2年)は村田さん結構病気がち。 https://t.co/0SiMaNa66Y
慶応4年6月27日(1868年8月15日)、英学者・嵯峨根良吉が死去。幕末の宮津藩出身で、薩摩藩の開成所に雇用された。竹内力雄「山本覚馬覚え書(5)「管見」を中心に」(『同志社談叢』34)は、慶応3年に、赤松小三郎と同一内容の政体改革意見書を島津久光に提出したことを言及。 https://t.co/UHsSFHSX1v
竹ヶ原康佑「長州処分問題をめぐる仙台藩の動向」(『駿台史学』159、2017年)は、元治元年〜慶応期の仙台藩を分析。西国情勢の探索を通じて、中下級藩士層の中に長州藩への同情的意見が目立ってきたことを指摘。また、単独での行動よりも外部との連携を重視する志向を指摘。 https://t.co/IChCiITVn1
遅ればせながら、史学雑誌「回顧と展望」を拝読。「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学紀要11号)を紹介いただいていた。以下で、ダウンロード可能です。https://t.co/wcj78NFn9Z
明治22年5月12日、塩田三郎が死去。幕末の幕臣で、英語やフランス語を学び、通訳として池田長発の横浜鎖港談判使節に随行。明治期には、外務卿・井上馨の下で条約改正交渉に従事した。石原千里「塩田三郎とその旧蔵洋書をめぐって」(『英学史研究』16)などを参照。 https://t.co/n0MISfn6SR
岩田みゆき「戸張伝右衛門『慶応日記帳』にみる御料兵の実態について-慶応四年四月脱走前の動向-」(『青山史学』36、2018年)は、幕領で御料兵として徴発された戸張伝右衛門の日記を分析。戊辰戦争で会津まで赴いて新政府軍と戦った人物で、ここでは江戸開城頃までを扱う。 https://t.co/Jomyh3i1q8
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLv6NI
昭和20年4月10日、文倉平次郎が死去。幕末期に太平洋を横断した咸臨丸に関する調査を行い、昭和13年に『幕末軍艦咸臨丸』を著した。中公文庫の上下巻などの形で何度か復刊された。『史学』17-2(1938年)所収の會田倉吉の書評は、文倉が咸臨丸研究に一生を捧げたことを強調。 https://t.co/DtnHQKR9Np
明治32年1月19日、勝海舟が死去。金澤裕之「咸臨丸米国派遣の軍事史的意義」(『近代日本研究』26)は、海舟の目指した海軍像がサンフランシスコで見た米国海軍で、そのイメージは木村芥舟も共通だったとする。金澤氏の著書『幕府海軍の興亡』(慶應義塾大学出版会)に再録。 https://t.co/BX5MksxC8P
渡邊忠司「王政復古期の京都警固体制」(『鷹陵史学』40、2014年)は、慶応3年12月の王政復古で旧幕府の京都市中の治安維持組織が解体し、早急な対応を必要とした新政府の思惑と、「主君」を失った元与力・同心たちの求職意識が合致したことによる警察機構の整備過程を分析。 https://t.co/RnoaLMdZhO
その後、「三月二日御沙汰書」(薩摩藩が企図した参勤交代・諸侯妻子在府の復旧および毛利父子・五卿の東行の中止)が幕府側に渡された。拙稿「慶応元年中央政局における薩摩藩の動向―将軍進発と条約勅許を中心に―」参照。https://t.co/e1wRWgUnqy  #西郷どん
須賀忠芳「ストーリー化された歴史観光素材の功罪をめぐって-「幕末会津」をめぐる言説を中心に-」(『観光学研究』17、2018年)は、白虎隊像などの「定番化された「幕末会津」をめぐるストーリー」に関する問題点を、大河ドラマ『八重の桜』の話も交えながら分析する。 https://t.co/HaVdMdT50H
明治41年7月21日、松平定敬が死去。幕末の桑名藩主で、京都所司代を務めた。2008年に桑名市博物館が発行した図録に、『京都所司代松平定敬』がある。同図録に論文「幕末政局と桑名藩」を寄せた奈良勝司氏が、翌年の『史学雑誌』118巻5号「回顧と展望」で図録を紹介した。 https://t.co/0zNALfJ5Rq
この論文も紹介。 「むしろ海軍力を沿岸海軍の枠外で活用しようとする動きは軍艦方以外から起きる。」と、小笠原島回収の話が登場。 CiNii 論文 -  文久期における幕府の海軍運用構想 (『史学』文学部創設一二五年記念号第一分冊(第八四巻第一-四号)) -- (日本史) https://t.co/4imGoSAst5 #CiNii
濱口裕介「榎本武揚「共和国」言説に関する一考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』65、2018年)は、歴史家たちの榎本武揚政権への言動を紹介。例えば、日本とは別の「共和国」が北海道に存在していたと認めたら、北方領土問題で日本に不利になると考えた井黒弥太郎など。 https://t.co/Z5j7Jk8x7d
これですね!> RT CiNii 論文 -  平岡円四郎の「慶喜公言行私記」について--安政4年の将軍継嗣問題と慶喜神話をめぐる一史料 https://t.co/CSjcqVhWoL #CiNii
明治43年3月17日、いわゆる草莽の志士・佐藤清臣が死去。大垣新田藩出身で、佐藤信淵や平田銕胤に師事。相楽総三らと交流し、赤報隊に参加した。明治期には地方教育に携わった。大濱徹也「佐藤清臣小伝-ある草莽の生涯をめぐって-」(『中京法学』11-1、1976年)がある。 https://t.co/ZBi8P0ystT
明治36年2月21日、市来四郎が死去。幕末の薩摩藩士で、明治期は島津家の修史事業に尽力。また、西郷隆盛と互いに批判し合っていた。大久保利謙「王政復古史観と旧藩史観・藩閥史観」(『法政史学』12、1959年)は、市来が奔走して史談会を創設させた経緯などを紹介。 https://t.co/9snKTIOUDN
昭和2年2月5日、川路寛堂が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幼少期は井上清直の家で育てられた。慶応2年に中村正直らと共に英国留学。『川路聖謨之生涯』を編述。宮永孝「元幕臣の英語教師 川路寛堂のこと」(『社会労働研究』37-3、1990年)が、その履歴を詳述。 https://t.co/JffbezBuGC
CiNii 論文 -  敗者の側から幕末維新史を振り返る : 会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか https://t.co/3wYHDY1FLP #CiNii 家近先生の講演の記録…。数日前これに関するツイートが流れてきて、久しぶりに読み返してみた。
今からちょうど152年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照下さい。https://t.co/pTir7GrDnX
後藤乾一「ジョン万次郎・平野廉蔵と小笠原諸島」(『アジア太平洋討究』29、2017年)は、幕末の水野忠徳らによる小笠原の調査について、幕府が「回収」と同時に領有権の裏付けとなる「開拓」を重視したと指摘。「開拓」の重要な柱となったジョン万次郎らの洋式捕鯨を考察。 https://t.co/1nrIHI42av
そして遣米使節としてアメリカへ行く村垣淡路守にこのような和歌も送っています。 四方の海 なみたゝぬ世は なみならぬ 君が舟出も 浦安の國 梅さくら 花かざしゝて こと國に わが日本の 春をしらせよ https://t.co/DQYZTxACwU この時もこの方ってもしかして・・とびっくりしましたもの。

3 0 0 0 OA 幕府衰亡論

福地桜痴の『幕府衰亡論』が急に思い浮んできた。 条約勅許、兵庫開港、将軍職辞任の辺りって、ここだ。 https://t.co/yS2VGhkxiY ただ、福地くんの文章は好きだけれど、けっこう記憶違いの部分も多いから、本当かどうかは、ちゃんと確認する必要はあります (;^_^A https://t.co/vqTVEJCKHX
『小笠原壱岐守長行』という本に、水野痴雲が同行していたこと、 しっかり載ってた (;^_^A 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/YxHXKGS86w https://t.co/oUjSLSJhsw
青山忠正「大政奉還後の政治状況と諸藩の動向」(『佛教大学歴史学部論集』7、2017年)は、大政奉還〜王政復古に至る政治動向を、主に新発田藩の史料から見る。大政奉還は薩摩、土佐、芸州、越前、尾張の朝廷工作の成果と見られていたらしい。 https://t.co/ZGwkSMmKdi
奈倉哲三「『復古記』不採録の諸記録から探る江戸情勢(3)-「薩摩藩邸焼き討ち事件」の史料的解明(その2)-」(『跡見学園女子大学文学部紀要』50、2015年)は、従来の研究で未活用だった史料も駆使して、慶応3年末の江戸を分析。 https://t.co/PftHWod9up
奈倉哲三「『復古記』不採録の諸記録から探る江戸情勢(3)-「薩摩藩邸焼き討ち事件」の史料的解明(その2)-」(『跡見学園女子大学文学部紀要』50、2015年)は、従来の研究で未活用だった史料も駆使して、慶応3年末の江戸を分析。 https://t.co/PftHWod9up
明治21年4月11日、上野景範が死去。上野は幕末の薩摩出身で、英学を学び、開成所に勤務。明治期は外交官として条約改正交渉などに尽力。門田明「日本近代化と上野景範」(『鹿児島県立短期大学研究年報』19)は、上野の事績についての講演録。 https://t.co/FbmXJMZiGL
小泉雅弘「史料紹介 戊辰内乱期の秋田藩と新政権」(『駒澤史学』86、2016年)は、戊辰戦争期の秋田藩が奥羽列藩同盟に加わりながらも新政府との関係性を保持しようとしたとして、その実態分析に役立つと思われる史料「公務控」の一部を紹介。 https://t.co/RedL6Z10Dy
【再掲】拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)が既にダウンロード可能となっていました(^^)https://t.co/A65OnLMHFg
高橋小百合「〈木戸孝允〉を支えた女」(『北海道大学大学院文学研究科研究論集』16、2016年)は、明治以降に木戸孝允の「偉大さ」を語る言説の中で、近代日本の男女交際論の流行を先取りする形で木戸と幾松の物語も歓迎されたと指摘。 https://t.co/bqEUSYS6hx
明治45年2月28日、高崎正風が死去。文久3年8月18日の政変の立役者。町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩』(岩田書院)第4章が詳しい。歌人としても活躍。松澤俊二「明治期日本の和歌と〈政治〉」『桃山学院大学社会学論集』45-2。 https://t.co/FYPZyoot6Q

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