ちか (@lalan1858)

投稿一覧(最新100件)

「江戸藩邸毎日記」が、去年、家からでも閲覧できるようになっていたのか。 関連してメモのため、↓これも貼っておきます。 「対⾺宗家文書の可能性」 https://t.co/8jt1Z0te3g https://t.co/2oFlEp1Yuc
RT @zasetsushirazu: 慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍…

1 0 0 0 OA 景蘇軒詩鈔

井上勲先生は向山黄村の漢詩集『景蘇軒詩鈔』をまくらもとに置くこともあったようですが、その景蘇軒詩鈔をネットで確認できます。 その中の「水野痴雲翁に呈す」(デジコレの7コマ目)が気になっている。多分文久2年秋に水野忠徳が隠居しちゃった時のことだと思うけれど。 https://t.co/mw3KetLz7O
RT @zasetsushirazu: 明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢と…
RT @zasetsushirazu: 笠谷和比古「幕末の「不平等条約」問題に関する一考察」(『大阪学院大学法学研究』47-1・2、2021年)によれば、「日米修好通商条約をはじめとする一連の国際条約は、その締結当初は決して不平等条約ではなかった。それが明治の時代に移行するなか…
RT @zasetsushirazu: 樋口雄彦「旧幕臣洋学系知識人の茶園開拓-赤松則良・林洞海文書から-」(『国立歴史民俗博物館研究報告』108、2003年)は、赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻ら静岡藩の旧幕臣たちの、洋学知識を活かした茶園開拓の意義を分析。 ht…
RT @zasetsushirazu: 明治30年7月29日、鄭永寧が死去。幕末の唐通詞で、明治期にも外交官として伊達宗城・副島種臣・大久保利通・伊藤博文らの清国行きに随行。日清修好条規などに関わった。幕末の唐通詞について、許海華「幕末における長崎唐通事の体制」(『東アジア文化…
RT @zasetsushirazu: 平成28年(2016年)7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。講演「明治日本と万国」(『法政史学』50、1998年)で、朝鮮に使節を派遣しようとした将軍・徳川慶喜の外交について、「鎖国から開国した幕府が、今度は逆に外国のことを第三国として調…

25 0 0 0 OA 航西日記

RT @rekishi_info: 渋沢栄一と杉浦愛蔵が残した旅行記『航西日記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます! https://t.co/UCtBRsFemZ #青天を衝け
RT @zasetsushirazu: 明治10年6月26日、儒学者・山田方谷が死去。幕末の老中・板倉勝静(備中松山藩主)のブレーンで、対馬藩の大島友之允が財政援助要求を幕府に建白する際、全面的に協力した。木村直也「元治元年大島友之允の朝鮮進出建白書について(上)」(『史学』5…

10 0 0 0 OA 幕末外交談

RT @rekishi_info: 田辺太一の『幕末外交談』も国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますよ! https://t.co/sZoVjgMOME #英雄たちの選択
RT @ronbuntter: こんな論文どうですか? 坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩 (2010年度萌芽的プロジェクト研究B6「後期水戸学史料研究会」 研究報告 水戸藩と幕末の政治情報)(田中 有美),2012 https://t.co/F1xrdaFtaN

31 0 0 0 OA 阪下義挙録

RT @TatsuUwa: 田中光顕が坂下門外の変を語っていて、田中同様長生きした渋沢栄一の話も出てきます。田中は安藤信正を襲った浪士側を顕彰するわけですが、この本のインタビューで、安藤信正をある部分だけ褒めていて、それが田中の勝手な理屈で面白いです(笑) #青天を衝け htt…

3 0 0 0 OA 幕末政治家

参考文献 福地源一郎著『懐往事談』の中から、  第五 井伊大老の不人気、井伊大老の横死 小山文雄著『明治の異才 福地桜痴』中央公論社 1984年 福地桜痴著 佐々木潤之介校注『幕末政治家』岩波書店 2003年 https://t.co/ytCdfYYSPr
#青天を衝け 9話、桜田門外の変により井伊大老が横死しました。 今回は、旧幕臣・福地源一郎の著書『懐往事談』から、#水野忠徳 #水野筑後守 が井伊直弼と桜田門外の変をどうとらえたか、を追ってみたいと思います。 https://t.co/lAz11AwcXE

115 0 0 0 OA 徳川慶喜公伝

#青天を衝け の主人公がのちに、『徳川慶喜公伝』でここらのことも、きちんと載せていますね(^^)v 安政5年6月22日の出来事です。 https://t.co/dnbeMdQ1gk https://t.co/VkcNtBCTbq

1 0 0 0 OA 昨夢紀事

水野忠徳は、田安家家老になったのにも関わらず、ここから一橋派として慶喜公擁立に向けて、各方面へ工作活動を始めます。(笑) 安政5年1月14日、水野忠徳が福井藩主松平慶永に招かれた時の出来事はここからです。 『昨夢紀事2』 https://t.co/XMDyexRd3W

16 0 0 0 OA 江戸城本丸絵図

RT @kokeshinookimon: 江戸城の図面もあるので、青天を見る楽しみとして参考にすると良いかも。 https://t.co/dNed5lwKB8
RT @zasetsushirazu: 大正5年3月30日、中牟田倉之助が死去。幕末の佐賀藩出身で、明治の海軍中将。英語を学んでいたため、高杉晋作や五代友厚と同じ船で上海に渡航した際、高杉に頼られた。藤田佳久「幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間」(『同文書院記念報…

5 0 0 0 OA 昨夢紀事

賄賂の甲斐もあってか、嘉永2(1849)年には火附盗賊改となりました。 水野はのちに慶喜公の将軍継嗣擁立に暗躍するのですが、その頃に福井藩士の中根雪江に語った話です。 https://t.co/gvcbIMMRUD 水野の名誉のために書いておくと、出世してからは、多分賄賂はやってないです(^-^;;
RT @zasetsushirazu: 明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本…
RT @zasetsushirazu: 明治20年12月18日、矢田堀鴻(矢田堀景蔵)が死去(死去日は異説あり)。幕府の軍艦操練所教授方頭取や海軍総裁などを歴任。安藤洋美「明治数学史の基礎工事」(『桃山学院大学人間科学』19、2000年)は、甥の荒井郁之助、甲賀源吾、新島襄など…
RT @zasetsushirazu: 大正9年9月23日、赤松則良が死去。幕末期に咸臨丸で渡米した1人で、榎本武揚らと共にオランダ留学。明治期に横須賀造船所所長などを務めた。樋口雄彦「旧幕臣洋学系知識人の茶園開拓」(『国立歴史民俗博物館研究報告』108)は、「個人の生活を重視…
RT @zasetsushirazu: 平成28年(2016年)7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。主要著書に『幕末維新の領土と外交』(清文堂出版)、『副島種臣』(吉川弘文館)、『陸奥宗光』(清水書院)など。「安岡昭男先生を送る」(『法政史学』50)に、年譜と著作目録あり。学生…

10 0 0 0 OA 幕末外交談

@09Kumano @komusai06311 @kitakaji2014 国立国会図書館デジタルコレクションからですと、これですね。 https://t.co/cALAkUP8io この話、個人的に注目してしまいました。幕府と明治政府と、両方で外交を担当した人物による見方って、新鮮だなと思いまして。尊攘派出身者とは、また何か違うな、と。(うまく表現できない^^;;)

8 0 0 0 IR 橘耕斎伝

RT @zasetsushirazu: 明治18年5月31日、橘耕斎が死去。幕末期にロシア使節プチャーチンが来日した際、密出国してロシア政府に仕えた。福沢諭吉が参加した文久遣欧使節団など、日本使節がロシアを訪問した際には、影で接待を取り仕切った。中村喜和「橘耕斎伝」(『一橋論叢…
<ちょっと自分用のメモ> 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/xhCt66lkkC 維新前後の政争と小栗上野 続 蜷川新 著  日本書院出版部  昭和6 二八 水野筑後守と佐賀鍋島侯との應接/185
RT @zasetsushirazu: @lalan1858 多分、人によって定義や使い方が異なると思います。 ちなみに有志舎では、有志舎の「学術書」を、次の2つに分けて刊行しているそうです。 ●「専門研究者を主な読者と考える「専門書(専門研究書)」 ●「一般社会の読者にも…
RT @zasetsushirazu: 水上たかね「幕府海軍における「業前」と身分」(『史学雑誌』122-11、2013年)曰く、幕末の幕府海軍では職務に必要な能力を「業前」と呼んで重視し、人材を登用した。だが、「家」の枠組は強固で、家督相続で別の役職に就いて海軍を離れる人材流…
RT @zasetsushirazu: 昭和2年7月30日、市川文吉が死去。慶応元年に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に帰国。その後、再渡航して榎本武揚の樺太・千島交換条約交渉を通訳。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』39-4)は、父・市川…
RT @zasetsushirazu: 明治2年6月6日(1869年7月14日)、鵜殿鳩翁(長鋭)が死去。幕臣で、日米和親条約交渉に携わり、文久3年に浪士組取扱。永井尚志は、「人材登庸を重んし、職掌を辱めす」と評した(河内八郎「伊達宗城とその周辺(続)」『茨城大学人文学部紀要…
RT @zasetsushirazu: 明治22年5月12日、塩田三郎が死去。幕末の幕臣で、英語やフランス語を学び、通訳として池田長発の横浜鎖港談判使節に随行。明治期には、外務卿・井上馨の下で条約改正交渉に従事した。石原千里「塩田三郎とその旧蔵洋書をめぐって」(『英学史研究』1…
RT @zasetsushirazu: 岩淵令治「明治・大正期における「江戸」の商品化」(『国立歴史民俗博物館研究報告』197、2016年)は、伝統の創出という観点から近代の「江戸」の発見を分析。旧幕臣復権に尽力した戸川残花は元禄会を結成し、福地源一郎や本多晋(彰義隊の生き残り…
RT @zasetsushirazu: 井上泰至「文禄・慶長の役を記憶する-「復古」/「維新」の前提としての武家説話-」(『日本文学』59-10、2010年)は、同氏の著書『秀吉の対外戦争』(笠間書院、2015年)第9章の元論文。幕末期に洋学者や幕府の外交担当者を含めて、秀吉を…
RT @zasetsushirazu: 昭和20年4月10日、文倉平次郎が死去。幕末期に太平洋を横断した咸臨丸に関する調査を行い、昭和13年に『幕末軍艦咸臨丸』を著した。中公文庫の上下巻などの形で何度か復刊された。『史学』17-2(1938年)所収の會田倉吉の書評は、文倉が咸臨…
RT @zasetsushirazu: 明治21年2月10日、松浦武四郎が死去。何度も蝦夷地探検を行い、幕末期には蝦夷地通として有名だった。北海道の名付け親でもある。三浦泰之「松浦武四郎研究の現状と課題」(『北海学園大学人文論集』65、2018年)は、松浦が置かれた時代状況や立…
RT @zasetsushirazu: 明治18年2月5日、塚本明毅が死去。幕末の幕臣で、矢田堀鴻・田辺太一と共に、「昌平黌の三才子」と称された(安藤洋美「明治数学史の基礎工事」『桃山学院大学人間科学』19)。長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府海軍の一員として活躍。明治政府の改暦事…
RT @zasetsushirazu: 明治32年1月19日、勝海舟が死去。金澤裕之「咸臨丸米国派遣の軍事史的意義」(『近代日本研究』26)は、海舟の目指した海軍像がサンフランシスコで見た米国海軍で、そのイメージは木村芥舟も共通だったとする。金澤氏の著書『幕府海軍の興亡』(慶應…
RT @zasetsushirazu: 大林隆司「小笠原諸島における最初のセミの記録はいつか?」(『小笠原研究年報』38、2014年)は、幕末期に外国奉行・水野忠徳が小笠原諸島の回収を推進した際、父島に滞在した本草学者の阿部櫟斎の日記が、小笠原における蝉の記録の初出とする。下記…
RT @zasetsushirazu: 安政4年11月6日(1857年12月21日)、岩瀬忠震が横浜開港を主張する意見書を書いた。長崎から江戸に戻る途中、江戸でのハリスの演説内容を知って執筆。岩瀬は横浜開港の恩人と見なされている(阿部安成「直弼/象山/忠震(2)-競争する記念碑…
屏風水野のことで、あれこれ検索をかけていたら、この部分の出典をみつけました。『偉人豪傑言行録』にあるようで、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できました。出典が分かって嬉しいです。 コマ番号167/175 https://t.co/WiIDgyVpQi https://t.co/GScUcEVM3Y
RT @zasetsushirazu: 明治4年10月8日(1871年11月20日)、安藤信正(信睦)が死去。井伊直弼の横死後、久世広周と共に幕政を切り盛り。坂下門外の変で襲撃された。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜(4)」(『北大法学論集』31-2)曰く、「外交に関しては、歴代…

7 0 0 0 OA 幕末外交談

@09Kumano 国立国会図書館デジタルコレクションから該当部分を探してきました。 読みにくいけれど、うまく見れるかしら? https://t.co/lsEVMG9eGH 水野が隠居を考えるきっかけの出来事です。
RT @hakuboku0810: RT/なるほど岩下哲典「一八世紀~一九世紀初頭における露・英の接近と近世日本の変容」(笠谷和比古編『一八世紀日本の文化状況と国際環境』)が元なのね
RT @zasetsushirazu: 添田仁「神戸外国人居留地と福原遊女・新撰組」(『海港都市研究』5、2010年)は、神戸大学が所蔵する「神戸開港文書」の内容の一部を紹介。慶応4年の神戸外国人居留地で、元新選組隊士が雇われていたという。そのことは、兵庫県権知事だった伊藤博文…
RT @zasetsushirazu: 万延元年7月26日(1860年9月11日)、英国公使オールコックが富士山に登頂した。この行為は攘夷論者を刺激し、後に英国公使館の東禅寺が襲撃される一因となった。詳しくは、宮永孝「富士山に登ったヨーロッパ人第一号 オールコック英公使」(『社…
RT @zasetsushirazu: 森田朋子「「不平等」条約と領事裁判権-開港直後の日英交渉を中心として-」(『史学雑誌』105-4)は、万延元年、英国商人モスが禁止の遊猟を行い、逮捕しようとした役人を銃で撃った事件を題材に、領事裁判権を分析。森田氏の著書『開国と治外法権』…
RT @zasetsushirazu: 明治10年8月24日、柴田剛中が死去。幕末の幕臣として外国奉行を務め、海外渡航も経験するなど外交畑を歩んだ。上安祥子「幕末維新期におけるパブリックなるものの受容」(『白鴎大学論集』31-1)は、柴田と福沢諭吉に関して、日本になかったものを…
RT @zasetsushirazu: 平成28年7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。明治維新の外交史を得意とし、著書に吉川弘文館の人物叢書『副島種臣』や、『陸奥宗光』、『幕末維新の領土と外交』、『明治維新と領土問題』など。下記は、『法政史学』80号に掲載された『副島種臣』の書…
RT @zasetsushirazu: 『小笠原壱岐守長行』は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。同書について、奈良勝司「小笠原長行と「公議」」(『立命館大学人文科学研究所紀要』105)は、長行の手記や日記と照合した結果、概ね信頼できる内容だと評価している。 ht…
RT @zasetsushirazu: 昭和33年7月9日、歴史家の藤井甚太郎が死去。渋沢栄一の知遇を得て、『徳川慶喜公伝』の編纂に従事し、吉野作造や尾佐竹猛らと明治文化研究会を創設。単著に、『明治維新史講話』などがある。安岡昭男ほか「藤井甚太郎先生追悼・略年譜・著作目録」(『…
RT @zasetsushirazu: 後藤乾一「ジョン万次郎・平野廉蔵と小笠原諸島」(『アジア太平洋討究』29、2017年)は、幕末の水野忠徳らによる小笠原の調査について、幕府が「回収」と同時に領有権の裏付けとなる「開拓」を重視したと指摘。「開拓」の重要な柱となったジョン万次…
この論文も紹介。 「むしろ海軍力を沿岸海軍の枠外で活用しようとする動きは軍艦方以外から起きる。」と、小笠原島回収の話が登場。 CiNii 論文 -  文久期における幕府の海軍運用構想 (『史学』文学部創設一二五年記念号第一分冊(第八四巻第一-四号)) -- (日本史) https://t.co/4imGoSAst5 #CiNii
(続き)論文 安岡昭男『幕末の小笠原諸島をめぐる国際関係』 #どん頃 #水野忠徳 フォロワーさんが以前ツイートでこの論文を紹介されていて、それでこの論文の存在を知りました(^^) CiNii 論文 -  幕末の小笠原諸島をめぐる国際関係:日本外交史研究 幕末・維新時代 https://t.co/nmnia1NxBH #CiNii
国立国会図書館デジタルコレクションから 小笠原島真景図1(父島、母島の測量図の画像はここから) https://t.co/hvEyEgVwPH #どん頃
RT @hakuboku0810: 中牟田倉之助の上海での行動が詳しく論じられてるのが、こちらの論文。行動範囲が視覚的にわかります。 https://t.co/Om06QhJ7RT #どん頃 #佐賀藩
RT @zasetsushirazu: 田中弘之校訂・解説『幕末小笠原島日記-菊池作次郎御用私用留-』(緑地社、1983年)という史料集がある。文久元年、外国奉行の水野忠徳が小笠原に赴いた際、随行した八丈島役人の記録だ。田中氏には『幕末の小笠原』(中公新書)という著書も。 ht…
RT @zasetsushirazu: 木村直也「日朝関係の近代的変容と境界領域」(『史苑』77-2、2017年)は、明治維新の対馬を分析。「ポサドニック号事件により、日本国の周縁にある対馬の防衛問題は全国的な関心となった」と指摘。大島友之允らの朝鮮進出論なども分析。 htt…
RT @zasetsushirazu: 明治35年5月25日、宗義達(宗重正)が死去。幕末の対馬藩主で、明治期に外務大丞を務めた。勝田政治「大久保政権の朝鮮政策」(『国士舘史学』18、2014年)は、征韓論争後の大久保利通や外務卿の寺島宗則が、日朝交渉の打開策として、宗重正の派…
RT @kouteipengin14: ほら、これの、25ページ目に「慶喜はとにかく民衆の動向に、無頓着なんです」って。 CiNii 論文 -  敗者の側から幕末維新史を振り返る : 会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか https://t.co/3wYHDXK4nf #CiNii
RT @zasetsushirazu: 秋月俊幸「嘉永年間ロシヤの久春古丹占拠」(『スラヴ研究』19、1974年)は、嘉永6年のロシア人による樺太南岸の占拠事件を分析。同時期にペリーやプチャーチンが来航していたから、樺太の問題は当時の日本で重大視されなかったが、実は重要な意味が…
RT @zasetsushirazu: 井上勲「川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学文学部史料館紀要』13、2005年)は、幕末の幕臣・川路聖謨が一時期、小大名を超える威厳を持つほど幕府内で出世したことを紹介し、その妻・高子の立場を説明。夫の聖謨が自害した後を生き続ける高子…
RT @zasetsushirazu: 慶応4年3月15日(1868年4月7日)、日露交渉などを担当した幕臣・川路聖謨が自刃。藤實久美子・渋谷葉子「『上総日記』翻刻-付 川路聖謨・高子史料目録-」(『学習院大学史料館紀要』13、2005年)は、聖謨の妻・高子の日記を翻刻。同日記…
RT @zasetsushirazu: 黄 逸「岩倉使節団とバーリンゲーム使節団に関する先行研究についての考察」(『文化交渉 東アジア文化研究科院生論集』7、2017年)は、岩倉使節団と、その3年前に清国から欧米諸国に派遣された使節団(北京駐在の米国公使バーリンゲームが率いた)…
RT @zasetsushirazu: 昭和2年2月5日、川路寛堂が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幼少期は井上清直の家で育てられた。慶応2年に中村正直らと共に英国留学。『川路聖謨之生涯』を編述。宮永孝「元幕臣の英語教師 川路寛堂のこと」(『社会労働研究』37-3、1990年…
RT @zasetsushirazu: 明治28年2月2日、林洞海が死去。幕末の蘭方医で、幕府奥医師。明治政府にも出仕。同門の先輩・佐藤泰然(順天堂創始者)の娘と結婚。樋口雄彦「静岡藩の医療と医学教育」(『国立歴史民俗博物館研究報告』153、2009年)は、林の静岡藩時代の日記…
RT @lotusxx61: 国立国会図書館デジタルコレクションで『小笠原壱岐守長行』が読めるようになってますので、こちらもあわせて。これずっと欲しかったんですよ〜〜ありがたいよ〜〜 https://t.co/bsfAuHzK9l

10 0 0 0 OA 諸名家手簡

RT @osho184064: 久坂玄瑞のポサドニック号事件に関すると見られる記述がある根岸友山宛書簡(5月25日付)は、こちらから見られます。以前フォロワーさんから教えていただきました。 https://t.co/g9yHsrm5qY この書簡は、以前、早稲田大学図書館の企…
そして遣米使節としてアメリカへ行く村垣淡路守にこのような和歌も送っています。 四方の海 なみたゝぬ世は なみならぬ 君が舟出も 浦安の國 梅さくら 花かざしゝて こと國に わが日本の 春をしらせよ https://t.co/DQYZTxACwU この時もこの方ってもしかして・・とびっくりしましたもの。
この方は、小笠原諸島父島にある石碑建立に携わっています。 大久保忠寛が塙次郎忠宝に撰者を選ばせ、忠宝が黒川主水春村を推挙したようです。初めてこの部分を読んだ時、この人ってひょっとしてあの殺された人?ってびっくりしましたもの。 小笠原紀事 巻之11 https://t.co/H3i3EoByn6 https://t.co/vXcZoOpL5f

3 0 0 0 OA 幕府衰亡論

福地桜痴の『幕府衰亡論』が急に思い浮んできた。 条約勅許、兵庫開港、将軍職辞任の辺りって、ここだ。 https://t.co/yS2VGhkxiY ただ、福地くんの文章は好きだけれど、けっこう記憶違いの部分も多いから、本当かどうかは、ちゃんと確認する必要はあります (;^_^A https://t.co/vqTVEJCKHX
RT @zasetsushirazu: 幕末の幕臣で明治のジャーナリスト・栗本鋤雲は、安政5年から数年間、函館(箱館)にいた。井田進也「栗本鋤雲の函館」(『大妻比較文化:大妻女子大学比較文化学部紀要』12)は、井田氏自身が鋤雲の足跡を求めて函館を歩いたときのことを語る。 ht…
という訳で探しました。旭山に国旗を掲げる話。 山を登るのに苦労しています。 小笠原島記事 巻之8 https://t.co/OjvLv1HyFA こっちの写本の方が詠みやすかも。 https://t.co/FwwX2Xm1EU
RT @zasetsushirazu: 金澤裕之「文久期における幕府の海軍運用構想」(『史学』84)によれば、小野友五郎や勝海舟ら軍艦方は、海軍を台場の補助戦力と見なす傾向が強かった。むしろ、軍艦の外洋への積極的展開を求めたのは、水野忠徳など外国奉行や大小目付だった。 htt…
『小笠原壱岐守長行』という本に、水野痴雲が同行していたこと、 しっかり載ってた (;^_^A 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/YxHXKGS86w https://t.co/oUjSLSJhsw
RT @zasetsushirazu: 加藤僚「「鎖国」制下の海の関所」(『交通史研究』74、2011年)は、当初は長崎の番所が異国船監視システムだったが、国際環境の激変で、やがて浦賀奉行が江戸城の座順で長崎奉行と同格となり、ペリー来航後には両者の地位が逆転したと指摘。 htt…

30 0 0 0 OA 勲章・褒章制度

RT @zasetsushirazu: 明治30年8月12日、幕末の幕臣だった向山黄村が死去。井田敦彦「勲章・褒章制度」(『調査と情報』829、2014年)は、慶応3年のパリ万博の際、薩摩藩が幕府に先駆けて「薩摩琉球国勲章」を作っていたことに、向山が危機感を抱いたと指摘。 ht…
RT @zasetsushirazu: 木村直也「元治元年大島友之允の朝鮮進出建白書について(上)」(『史学』57-4)は、対馬藩士の大島友之允が幕府目付の向山黄村(栄五郎)に出した朝鮮進出論の建白を紹介。『山田方谷全集』第三冊に掲載されているが、誤記が多いとのこと。 http…
RT @zasetsushirazu: 黄 逸「江戸時代の日独交渉に関する一考察」(『文化交渉 東アジア文化研究科院生論集』6)によれば、幕末の幕府はプロイセンとの条約で、5年後はオランダ語訳文なしで外交文書をやり取りするルールにしたが、ドイツ語学習が間に合わなかった。 htt…
RT @zasetsushirazu: 榎森進「「日露和親条約」がカラフト島を両国の雑居地としたとする説は正しいか?」(『東北学院大学東北文化研究所紀要』45、2013年)は、樺太が日露雑居地と正式に決まったのは日露和親条約ではなく、慶応3年のカラフト島仮規則だと指摘。 ht…
RT @zasetsushirazu: 杉谷昭「安政年間における箱館奉行支配上役衆の廻浦について」(『法制史研究』22、1972年)は、堀利煕と村垣範正の両箱館奉行が蝦夷地調査を始めた頃、幕府の蝦夷地政策が安定してきたと指摘。その頃、箱館奉行支配上役衆が担った役割を分析。 ht…
RT @zasetsushirazu: 大岡玲「明治維新期「国語」創生への歩み」(『東京経済大学人文自然科学論集』137)は、明治までの日本の言語状況は話し言葉と書き言葉の乖離が激しいと指摘。その状況を何とかしようとする幕末の代表例として、慶応2年の前島密の建白を紹介。 ht…
RT @zasetsushirazu: 秋月俊幸「明治初年の樺太」(『スラヴ研究』40、1993年)は、「明治新政府が旧幕府から引継いだ外交諸懸案のうち、その解決がもっとも急を要し、また危機をはらんでいたのは樺太問題であった」として、日露雑居による問題を分析する。 https…
秋月俊幸「明治初年の樺太」(『スラヴ研究』40、1993年)を書かれた方は 『嘉永年間ロシヤの久春古丹占拠』も執筆されている。 プチャーチンが長崎で交渉している時に、一方で樺太で何してるんだ!と思ったもの。ややこしい。 https://t.co/9agsFbbwNm #CiNii
↓小笠原島紀事 巻十二より https://t.co/Hl0FiHq6yO この書類が現在まで残っていたら、文久年間の水野忠徳らによる小笠原島開拓について、もっと詳細に知ることができただろうに。 ある資料が今は無益と判断されても、後世、重要な意味をもつ史料となるかもしれない。
国立国会図書館デジタルコレクションで小笠原島紀事をながめている。 で、びっくりしたことが・・ ジョン万次郎、文久3年3月24日に鳥島に上陸して「大日本属島 鳥島」の札を建てているんだ! ↓イラスト付 https://t.co/8nBu1QaT1t 22年前に漂着した島に再上陸。
RT @zasetsushirazu: 金澤裕之「咸臨丸米国派遣の軍事史的意義」(『近代日本研究』26、2009年)は、海軍建設に関する勝海舟と木村喜毅の政治スタンスは正反対だが、2人ともサンフランシスコで見た米国海軍を目指すべき海軍像としていた点が共通していると指摘。 htt…
RT @zasetsushirazu: 田中由貴乃「板垣洋行問題と新聞論争」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』40、2012年)は、自由党総理の板垣退助が明治15〜16年にかけてヨーロッパを視察した問題について、その是非や資金源などをめぐる党内外の紛糾・論争を分析。 htt…
RT @zasetsushirazu: 大正12年3月2日、何礼之が死去。長崎の唐通詞の出身で、明治期に外務省の官僚や貴族院議員などを務めた。また、モンテスキューの『法の精神』を翻訳。許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」(『関西大学東西学術研究所紀要』44)が履歴を紹介。 ht…
RT @zasetsushirazu: 小風秀雅「十九世紀における交通革命と日本の開国・開港」(『交通史研究』78)は、幕末日本の開国が、太平洋横断航路開設条件の整備と日本炭の東アジアへの供給開始の点で汽船・鉄道・電信による交通革命の進展という世界史的意義があったと指摘。 ht…
RT @zasetsushirazu: 明治2年1月1日(1869年2月11日)、日本最初の様式灯台である観音埼灯台が完成し、初めて点灯した。手がけたのは、フランス人技師のヴェルニー。宮永孝「ヴェルニーと横須賀造船所」(『社会労働研究』45-2)がヴェルニーの生涯を紹介。 ht…
RT @zasetsushirazu: 三上昭美「外務省設置の経緯」(『国際政治』26、1964年)は、明治2年7月の外務省創設に至る経緯を分析。「外務省の設置は、従来太政官の内部部局であった外政機関が、はじめて独立したことを意味し、その意義は大きい」と指摘する。 https…
RT @zasetsushirazu: 安岡昭男「幕末の小笠原諸島をめぐる国際関係」(『国際政治』14、1960年)は、幕末期の重要案件の1つである小笠原の領有問題を分析。安岡氏は昨年亡くなられた研究者で、同論文は著書『幕末維新の領土と外交』(清文堂、2002年)に再録。 ht…
RT @zasetsushirazu: 『小笠原壱岐守長行』は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。同書について、奈良勝司「小笠原長行と「公議」」(『立命館大学人文科学研究所紀要』105)は、長行の手記や日記と照合した結果、概ね信頼できる内容だと評価している。 ht…
RT @zasetsushirazu: CiNii 論文 -  わが幕末諸条約の歴史的地位:日本外交史研究 幕末・維新時代 https://t.co/1er08AZRxt #CiNii
RT @zasetsushirazu: 慶応2年12月7日(1867年1月12日)、日本とデンマークが条約を締結。両国の最初の関係は、デンマーク船が弘化3年(1846年)の浦賀に来たことに始まる。長島要一「弘化3年浦賀沖 ビレ提督の日本訪問」(『日本研究』28)が詳しい。 ht…
RT @zasetsushirazu: 樋口雄彦「旧幕臣洋学系知識人の茶園開拓-赤松則良・林洞海文書から-」(『国立歴史民俗博物館研究報告』108、2003年)は、赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻ら静岡藩の旧幕臣たちの、洋学知識を活かした茶園開拓の意義を分析。 ht…
RT @zasetsushirazu: 小暮実徳「国家的名声と実益」(『駿台史学』114、2002年)は日米修好通商条約頃までのオランダ対日政策を分析。当時のオランダにとって日本との関係は国家的名声を高め、領土的小国性を克服するという、商業的実益以外の意味もあったと指摘。 ht…
RT @zasetsushirazu: 藤野保『近世国家解体過程の研究-幕藩制と明治維新-』前編と後編(どちらも吉川弘文館)という研究書がある。合計で1500ページを超える大著で、近世全般を見通す。下記リンクから、家近良樹氏による、幕末維新期を中心とする書評を読める。 htt…
RT @zasetsushirazu: 樋口雄彦「箱館戦争降伏人と静岡藩」(『国立歴史民俗博物館研究報告』109、2004年)は、後に樋口氏の著書『沼津兵学校の研究』(吉川弘文館、2007年)に再録された論文。箱館の榎本武揚軍に参加した旧幕臣の、戦後の身の処し方を分析。 ht…

お気に入り一覧(最新100件)

拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。手前みそだが、幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0……
知野文哉氏の博士論文「土佐明治維新史とその歴史意識の形成-坂本龍馬を中心に-」。読み応えがある。 なお知野氏には、著書『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)や、論文「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)、「瑞山会考」(『土佐史談』274)などがある。 https://t.co/zfid4b1L5f
慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍官僚を代表する能吏」と評価。 https://t.co/nngY1WwrS8
文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺したことは「ほぼ確実」とする。 https://t.co/WwIBcyl1u9
大正9年2月4日、尾高次郎が死去。富岡製糸場の初代場長・尾高惇忠の子で、渋沢栄一の娘婿。東洋生命社長や武州銀行(現・埼玉りそな銀行)初代頭取などを歴任。秋谷紀男「埼玉県銀行合同史料(1)-武州銀行の創設過程-」(『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』24)など参照。 https://t.co/IDRxmnzYai
昭和7年1月31日、穂積歌子が死去。渋沢栄一の長女で、法学者の穂積陳重と結婚。穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房)がある。同書に関する書評(『史学雑誌』101-4)の中で佐々木隆氏は、歌子が政治に対する豊富な知識と理解力を有していたであろうことを指摘。 https://t.co/1eR6Jeor6h
明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に加盟(大隈重信、江藤新平らも一緒)。大隈と共に原市之進への大政奉還提案を試みたことがある。後藤新「台湾出兵の一考察」(『武蔵野法学』12)は、外務卿時代の副島の動向を分析。 https://t.co/6i9x1aTzGL

12 0 0 0 OA 維新史八講

「全体幕府衰亡といふ意義は武家の全滅である、江戸のみが亡びて諸藩が残る道理は無い、倒幕論者は当時何と考へて誤解して居たか知らぬが、薩長が之に代ると云ふことも誤解である、維新史は幕府と諸藩の共倒れを物語るのです」 吉田東伍 述『維新史八講』p81 https://t.co/Qb4xd0PjLY
坂本弘毅「安政期の老中家臣による蝦夷地調査の背景」(『駿台史学』171、2021年)は、安政2年〜3年にかけて幕府による蝦夷地直轄の決定→松前藩の引き渡し完了後、老中の堀田正睦が家臣たち(佐倉藩士)を蝦夷地に派遣したことの意義を分析。その後の幕政への影響にも言及。 https://t.co/V3HI2RVrFr
昭和21年(1946年)12月5日、歴史家の大塚武松が死去。遺稿集『幕末外交史の研究』(宝文館)がある。時野谷勝が同書の書評(『史林』35-4)で「殆ど全生涯を地味な史料編纂事業に打込み」云々と評したように、日本史籍協会の『渋沢栄一滞仏日記』など多くの史料集を編纂。 https://t.co/XB4ZNnAI0h
画像は国会図書館デジコレ https://t.co/Dx8PpiA6iS 『東京開市三百年祭記事』 大槻如電編 明治23.5 から引用しました。 https://t.co/1JmN8myRsB
元治元年10月17日(1864年11月16日)、真田範之助が死去。北辰一刀流の剣客で、渋沢栄一と交流があった。天狗党に参加して戦死。『武術英名録』の編者。死去日は前村晃「豊田芙雄と草創期の幼稚園教育に関する研究(8)」(『佐賀大学文化教育学部研究論文集』15-2)に依拠。 https://t.co/k7fKxYhrau
平野隆「明治前期東京における財界の形成とその性格」(『近代日本研究』6)曰く、東京商法会議所は明治10年、渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平により、東京府知事・楠本正隆に願書が提出され、翌年に認可。 #青天を衝け https://t.co/00rFIwzrLB
明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢との対立にまつわる疑惑の研究。 https://t.co/TirYg23gSe
笠谷和比古「幕末の「不平等条約」問題に関する一考察」(『大阪学院大学法学研究』47-1・2、2021年)によれば、「日米修好通商条約をはじめとする一連の国際条約は、その締結当初は決して不平等条約ではなかった。それが明治の時代に移行するなかで不平等条約化」した。 https://t.co/Q4um91vNEU
明治10年10月22日、佐野鼎が死去。万延元年の遣米使節団と文久の遣欧使節団に参加した砲術家。共立学校(開成学園の前身)の創設者でもあり、今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(『英学史研究』15)曰く、「英学史上にその名を逸することのできない」人物。 https://t.co/mIYzKy0R2z
大正5年10月16日、宮本小一が死去。幕末期に神奈川奉行所で働いた旧幕臣で、明治期に外交官として江華島事件の処理や日朝修好条規などに関与した。諸洪一「明治初期の朝鮮政策と江華島条約」(『札幌学院大学人文学会紀要』81、2007年)は、従来の研究における評価を再検討。 https://t.co/xKHhYRCVdg
文久3年9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍軍人カミュが、横浜で殺害された(井土ヶ谷事件)。沢護「井土ヶ谷事件と遺仏使節池田筑後守」(『千葉敬愛経済大学研究論集』29)曰く、事件はフランスに対して、横浜居留地防衛のための軍隊を常時駐屯させる口実を与えた。 https://t.co/c1B7vDDuHO

20 0 0 0 OA 大隈伯昔日譚

大隈伯昔日譚にその時の話が載ってますね。 犯人は福岡藩士の金子。すでに自害していたがパークスが他に共謀者がいると納得せず。大隈は「断然、英公使の脅迫的追求を拒絶」と断固拒否。結局、金子に同道していた者を禁固刑にして落着。 パークスとは2回対決してますね。 https://t.co/i6Xw63MQJD https://t.co/A8KxvMgPXd https://t.co/l5yDBWlLe7

17 0 0 0 OA 鴻爪痕

前島密と飛脚問屋の佐々木荘助の話し合いについては前島自身が『鴻爪痕』で語ってるので興味ある人は読んでみて (画像はリンク先の63コマ目) https://t.co/i3LNkRbNVp https://t.co/LSoOTPjdTx

10 0 0 0 OA 佐賀藩海軍史

昨日の青天で登場した蓮池の吉武功成 。『佐賀藩海軍史』は国デジで見れました。 越前堀にあった第三十国立銀行の預金者として名前があった。 間違いなく、吉武氏が蓮池の人でしょうね。 https://t.co/ZyIoX9NCvb https://t.co/PgdwyPppsR https://t.co/SfELgwybMi
大正5年9月20日、志賀親朋が死去。日本初のロシア語通訳で、明治天皇の通訳も担当。幕末〜明治初期にロシアを訪問し、日露国境画定交渉にも関与。沢田和彦・畠山雄三郎「志賀親朋書翰集翻刻(1)」(『埼玉大学紀要 教養学部』56-2、2021年)は、文久元年の書簡11通を紹介。 https://t.co/svuQYeROYi

13 0 0 0 OA 伊藤博文公

伊藤博文没後20年に国民新聞主催で行われた講演の講演録『伊藤博文公』に収録されている渋沢栄一の講演が面白いです。伊藤と渋沢の関係を知る上でも有益かも。 https://t.co/Mi6kLJu62Y
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したのは、岩瀬忠震の祖父である林述斎。 https://t.co/SLwszYvhvH
明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊藤博文によって退けられた。 https://t.co/mA2cuga0ot
昭和2年7月30日、市川文吉が死去。幕末期に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に岩倉使節団がロシアを訪問した際に通訳として現地採用された(坂内知子「岩倉使節団とロシア宮廷の謁見儀礼」『異文化コミュニケ-ション研究』15)。樺太・千島交換条約の交渉にも参加。 https://t.co/gYphnSzBik
明治30年7月29日、鄭永寧が死去。幕末の唐通詞で、明治期にも外交官として伊達宗城・副島種臣・大久保利通・伊藤博文らの清国行きに随行。日清修好条規などに関わった。幕末の唐通詞について、許海華「幕末における長崎唐通事の体制」(『東アジア文化交渉研究』5)がある。 https://t.co/DYUOwBQs1b
平成28年(2016年)7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。講演「明治日本と万国」(『法政史学』50、1998年)で、朝鮮に使節を派遣しようとした将軍・徳川慶喜の外交について、「鎖国から開国した幕府が、今度は逆に外国のことを第三国として調停に乗り出そう」としたと評価。 https://t.co/01TqbmWgPk
今日はあんまり凌雲先生に関する話は思いつかないのですが。強いていえば凌雲先生は本格的に医術を学ぶため、昭武公のお傍を離れて木村宗三とともに下宿生活に入ります。地名がわからないのですが、リウサンはル・サンでしょうか… 『巴里御在館日記』 https://t.co/ThYC8DvGvD https://t.co/zsffkDjN56
文久期に横浜鎖港交渉のため渡仏した使節団とパリ万博視察の使節団の随員写真。なかには羽織にワイシャツを合わせるような格好の者もいる。 https://t.co/2zCfd1HKSm

7 0 0 0 OA 幕末外交談

幕府と薩摩のいざこざは、田辺太一の『幕末外交談』(247ページ)にも書いてありますよ! https://t.co/35reAbvC0P #青天を衝け

25 0 0 0 OA 航西日記

渋沢栄一と杉浦愛蔵が残した旅行記『航西日記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます! https://t.co/UCtBRsFemZ #青天を衝け

43 0 0 0 OA 猪飼勝三郎届書

国会図書館憲政資料室所蔵「川村正平(恵十郎)関係文書」の「猪飼勝三郎届書」。 平岡円四郎が刺客に襲われたことを知らせる史料。 渡辺甲斐守の旅籠よりの帰路に襲われ、深手を負ったとある。 https://t.co/jPxUBSIutI #青天を衝け
慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消」したが、兵庫のみ例外だった。 https://t.co/lV0aK3S2pd
明治10年6月26日、儒学者・山田方谷が死去。幕末の老中・板倉勝静(備中松山藩主)のブレーンで、対馬藩の大島友之允が財政援助要求を幕府に建白する際、全面的に協力した。木村直也「元治元年大島友之允の朝鮮進出建白書について(上)」(『史学』57-4)参照。 https://t.co/vq1KowVlAU
また、徳川昭武の資料『徳川昭武滞欧記録』も国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。 https://t.co/neR4dR80gY #英雄たちの選択
青天を衝けでも、紹介しますが、渋沢栄一の『渋沢栄一滞仏日記』(https://t.co/SiyiodX7ID)は参考になります。 #英雄たちの選択
1900年6月23日、レオン・ロッシュが死去(異説あり)。幕末の駐日フランス公使。略歴について、西堀昭「第2代日本駐箚フランス公使ミッシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Leon Roches, 1809-1900)について」(『横浜経営研究』19-1)参照。 https://t.co/pPWTn3w1Gm
明治39年6月17日、矢野二郎が死去。幕末期に英語の通訳を務めた幕臣で、幕府の横浜鎖港談判使節に随行。明治期に駐米公使や商法講習所(一橋大学の起源)の初代所長に就任。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜6」(『北大法学論集』32-3)は、旧幕臣の社会進出の例として言及。 https://t.co/5FJfyHB1ej

8 0 0 0 OA 東湖全集

平岡円四郎のことを調べるのであれば、実父岡本忠次郎(豊洲)のことから調べなければならない。藤田東湖の『見聞偶筆』に忠次郎のことが書いてある。 https://t.co/U0mQOxfuSf

11 0 0 0 OA 御届

平岡さん暗殺の件を記した川村さんの報告書。ここにも柏原学而の名前が出てくる。川村さんの字はあまり崩れてなくて私でもそこそこ読めるので、書かれている内容が分かってしまって尚更ツラい…
大正11年5月19日、江原素六が死去。幕末の幕臣で、戊辰戦争で新政府軍と戦った後、沼津兵学校設立の中心人物。麻布尋常中学校(麻布学園の前身)を創設。久木幸男「江原素六教育勅語変更演説事件」(『教育学部論集』4)は、「教育勅語を批判」した1人として江原を分析。 https://t.co/nQTqBCQKgE

115 0 0 0 OA 徳川慶喜公伝

【松平文庫でみる渋沢栄一 資料紹介その2】 今週の「青天を衝け」第14回では、いよいよ徳川慶喜との出会いが描かれます! 生涯、慶喜を尊敬し続けた栄一は、大正7年(1918)に『徳川慶喜公伝』全8巻を刊行。 本展示で一部紹介しています(画像は国立国会図書館HPより)。https://t.co/RaF7htpuMB https://t.co/yBGyNSxl2C
明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物でありながら、研究が少ないと指摘。 https://t.co/VRwmDsOHrf
@100nen_ 引用元の資料で 「国民美術館」 って書いてあって、しばらく考えたあと、 ロンドン・ナショナル・ギャラリーのことだと気づきました。 https://t.co/j5QOjU0PsP ↑これの58ページ。
安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷土研究所紀要』62、2017年)。 https://t.co/4Oi2rr1nFQ
平川新さんは出羽国(現・山形県高畠町)の道場主、武田軍太の自伝をもとに「出羽国の庶民剣士―武田軍太「武元流剣術実録」の世界―」を発表した。まさに出羽の近藤勇という感じです。PDFで読めます。 https://t.co/fWOIK9lXqn
大正10年5月4日、北畠治房(平岡鳩平)が死去。なお、死去日を5月2日とする文献もある。幕末期、天誅組に参加した。檜皮瑞樹「四つの大隈銅像と政治家大隈重信」(『早稲田大学史記要』47)は、大隈重信を暗殺しようとした北畠が、むしろ大隈と意気投合したという逸話を紹介。 https://t.co/6NKYYVB7GL

24 0 0 0 IR 尊攘論の時代

慶応4年4月5日(1868年4月27日)、水戸藩主・徳川慶篤が死去。徳川斉昭の子で、徳川慶喜の兄。文久3年に「生麦事件処理の責任者」(高橋秀直「尊攘論の時代」『京都大学文学部研究紀要』44)。慶篤の死で、パリにいた弟・徳川昭武が帰国し(渋沢栄一が同行)、水戸藩主に。 https://t.co/ynNtrigDya
明治41年4月24日、津田仙が死去(死去日に異説あり)。ペリー来航時、佐倉藩の一員として江戸湾警備に参加。慶応3年には通訳として、福沢諭吉らと共に渡米。津田梅子の父親で、嶋田順好「津田仙の信仰と生涯」(『キリスト教と文化』24)曰く、草創期のキリスト教界の指導者。 https://t.co/BiBbisqVl9
文久4年5月24日に中野方蔵の3回忌が大興寺で行われる。 大木・副島次・岡本・坂部・吉村謙・坂井辰が参列。 (⊃•̀ω•́)⊃✎⁾⁾メモメモ 私が知らんだけやけど岡本だけ不明。 https://t.co/xlNqXLLvfs

31 0 0 0 OA 阪下義挙録

田中光顕が坂下門外の変を語っていて、田中同様長生きした渋沢栄一の話も出てきます。田中は安藤信正を襲った浪士側を顕彰するわけですが、この本のインタビューで、安藤信正をある部分だけ褒めていて、それが田中の勝手な理屈で面白いです(笑) #青天を衝け https://t.co/iW71AAdOfl
こんな論文どうですか? 坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩 (2010年度萌芽的プロジェクト研究B6「後期水戸学史料研究会」 研究報告 水戸藩と幕末の政治情報)(田中 有美),2012 https://t.co/F1xrdaFtaN
河野については以下の伝記を参考にしています。 https://t.co/PYnbwWZht3

15 0 0 0 OA 茶湯一会集

ちなみに武家の茶の湯というと、「麒麟がくる」のO田N長さんのように名品コレクターのイメージがありますが、井伊は「(茶器は)珍物を誉れとするにあらず。尋常の品にて取合はすは殊勝の事なり」としており、珍物名器主義を批判しています。 https://t.co/1yC1siQUKS
大河ドラマ『青天を衝け』第8回、井伊直弼の描き方が良かった。徳川慶喜らの処分について、「家定が死去すれば、少年の慶福は一橋派の徳川一門に囲まれるように孤立してしまう」、それを避けるためという指摘がある(井上勲「大老井伊直弼」『学習院史学』35)。 #青天を衝け https://t.co/SaZ2sGjtnd
ではなく、水でもなく、お茶。 こういう論文を読むのである。 https://t.co/wM5KaVqp4R

16 0 0 0 OA 江戸城本丸絵図

江戸城の図面もあるので、青天を見る楽しみとして参考にすると良いかも。 https://t.co/dNed5lwKB8
大正5年3月30日、中牟田倉之助が死去。幕末の佐賀藩出身で、明治の海軍中将。英語を学んでいたため、高杉晋作や五代友厚と同じ船で上海に渡航した際、高杉に頼られた。藤田佳久「幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間」(『同文書院記念報』24)などを参照。 https://t.co/lIKrSue9aV
https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合もやはり本の方をお勧めしたい。
https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合もやはり本の方をお勧めしたい。

11 0 0 0 OA 水府名家手簡

烈公の書は品がある隷書が多いですけれど、躍動感溢れる書翰の文字はアートと言っても過言ではないと思います。 https://t.co/HJIhpEasrw https://t.co/vjVhVkmIAe
昨日の青天を衝けで出てきた狐憑きについての論考。 近世中後期から武蔵において尾裂き狐が社会問題化していったからこそ、栄一の家はあんな騒動になったわけで… https://t.co/JMeaFo5lmW
昭和6年2月20日、鮫島武之助が死去。薩摩藩出身で、鮫島尚信の弟。許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」(『関西大学東西学術研究所紀要』44)などによれば、幕末期に前田正名らと共に、何礼之の私塾に入った。明治期に、第三次・第四次伊藤博文内閣の書記官長などを務めた。 https://t.co/zWHyRibxFM
濱口裕介「幕末期カラフトを踏査した佐倉藩士たち」(『佐倉市史研究』31)は講演録。 関連の深いほかの論文に、「安政年間における老中家臣の蝦夷地調査」(『史友』35)、「幕末期アイヌ風俗改変政策に関する地理的考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』64)などがある。 https://t.co/xJkptvdFep
昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館)を読んでいた。 https://t.co/NyHHMOKJi5
明治43年1月20日、清水卯三郎が死去。慶応3年のパリ万博に、唯一の日本人商人として出品。薩英戦争後に五代友厚と寺島宗則を匿った。白山映子「清水卯三郎の政治観」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』49)は、「海外からの啓蒙思想を移入した人物」の1人として分析。 https://t.co/94lpM0o3v7
明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本研究』5、1988年)。 https://t.co/TeZDVRWhKd
明治25年12月20日、幕末の宇和島藩主だった伊達宗城が死去。明治期にも日清修好条規を調印するなど活躍したが、三好昌文「幕末期宇和島藩の動向(13)」(『松山大学論集』12-6)曰く、宗城の解任で宇和島出身の政府官僚の多くが帰郷し、藩閥は形成されなかった。 https://t.co/ErSjmJSIEO
明治20年12月18日、矢田堀鴻(矢田堀景蔵)が死去(死去日は異説あり)。幕府の軍艦操練所教授方頭取や海軍総裁などを歴任。安藤洋美「明治数学史の基礎工事」(『桃山学院大学人間科学』19、2000年)は、甥の荒井郁之助、甲賀源吾、新島襄などが矢田堀の教えを受けたとする。 https://t.co/fKkNDAF2yA
明治11年11月29日、柏木忠俊が死去。幕末期は江川英龍に仕えて伊豆七島の巡視に随行したほか、長崎でオランダ人に造船技術や航海術を学ぶ機会を得た。明治期には足柄県知事などを歴任。金原左門「福澤諭吉と柏木忠俊」(『近代日本研究』9)は、福沢諭吉に受けた影響を分析。 https://t.co/VMzLGR28QD
昭和15年11月24日、最後の元老・西園寺公望が死去。十河和貴「元老西園寺公望と「憲政の常道」」(『立命館 史資料センター紀要』3、2020年)が分析の主軸に据えた中川小十郎(公望の秘書)は、公望が戊辰戦争で山陰道鎮撫総督として配下に迎えた丹波の郷士・中川家の出身。 https://t.co/hXKwiuqbP6
呉永台「幕末政治と諸藩連合」(『アジア地域文化研究』16)は、幕末の諸藩間の外交を分析。文久3年の肥後藩政府は、「長州を中心とする尊攘急進派が朝命を楯に取って諸藩に「連衡」を持ち掛けている中,それに対抗するため,九州諸藩の「合従」を図ることにした」と指摘。 https://t.co/CFIRiujSfl
明治政府の参議・外務卿の寺島宗則。島津斉彬に重用され、幕府の蕃書調所に出仕し、幕府の文久遣欧使節に参加し、薩摩藩英国留学生の一員として渡英した際に英国政府との外交交渉を担い、大久保利通とも親しかった男。結構好きなので、もう少し人気が出てほしい。 https://t.co/yojiPdroL3 #CiNii
明治24年10月28日、幕末の対馬藩家老だった樋口鉄四郎が死去。明治元年、対馬藩が、日本の王政復古を朝鮮に通告するよう新政府から命じられた際、朝鮮に派遣された。牧野雅司「維新期の書契問題と朝鮮の対応」(『待兼山論叢』44、2010年)は、朝鮮側の対応を分析。 https://t.co/vsbxRnBZE9
明治40年10月4日、佐田白茅が死去。幕末の久留米藩出身で、真木和泉の影響を受けた。明治3年に朝鮮へ派遣された。沈箕載「版籍奉還前後の朝鮮政策と外務省(佐田)調査団の朝鮮派遣」(『史林』79-6)曰く、佐田の調査報告は後の明治政府における対朝鮮政策の根幹をなした。 https://t.co/HGSxm382SS
直正公は温泉好きで柄崎温泉(武雄)によくお出かけしてたのですが、明治になって上京してからは佐賀の温泉に行けなくなったので、熱海への湯治を願い出て熱海温泉を訪れてる。 その際に泊まったお宿が「一碧楼」どんなとこかと調べてたらこんな論文見つけた。 https://t.co/sqAwLT93ni
大正9年9月23日、赤松則良が死去。幕末期に咸臨丸で渡米した1人で、榎本武揚らと共にオランダ留学。明治期に横須賀造船所所長などを務めた。樋口雄彦「旧幕臣洋学系知識人の茶園開拓」(『国立歴史民俗博物館研究報告』108)は、「個人の生活を重視するドライな意識」を指摘。 https://t.co/utK0fZASo2

16 0 0 0 OA 鍋島直正公伝

一方で、長州侯については「直接会ったこともなく話たこともないが」と断りを入れつつも、「自国の藩士を統御できないのだから無理だろ」と辛辣です…( ̄∀︎ ̄;) それにしても斉彬公ってどこで見てもベタ褒めですよね。それだけ名君だったと言うことでしょうかね。 https://t.co/cHhuJifUQW https://t.co/W7Z8NVWhVp

16 0 0 0 OA 鍋島直正公伝

そして、間を取り持つ木戸さん。ありがとう。 直正公も「(自分も含めて)天下に人無し」と言いつつも、岩倉と木戸のことは認めている感がある。 https://t.co/KNgS0xNhWh https://t.co/xrI1kwUXdk https://t.co/SwtA2ijxiF

16 0 0 0 OA 鍋島直正公伝

公伝によるとですね… 直正公も「彼らは国の経済を知らず」って、ちょっと越前の人たちをディスってますね( ̄∀︎ ̄;) でも、「奥の兄」だからこのままにはしておけないって直正公は筆姫のこと大切に思ってたのね〜( ˘͈ ᵕ ˘͈ )
@100nen_ 意外ですが台湾は、1920年代ごろまで安全に旅行できませんでした。 (沿岸部は除く) 1920年代後半くらいに原住民征伐が進み、台湾人の日本への同化が進んだことから、安全な地域になります。 鉄道も引かれたことで、台湾の学校の修学旅行もおこなわれるようになりました。 https://t.co/U2xjSWm0ti
この前の桐野先生の講座でいまいち理解が及んでいなかった、幕末~明治初期~征韓論に至るまでの日朝関係。この論文を読んで、少し頭の中が整理できたかも。 明治初期日朝交渉における書契の問題 https://t.co/xHG210h9sT
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。将軍・徳川家慶の信任を得た儒学者で、『徳川実紀』を編纂した。家慶の日光参詣に随従した際の日記『晃山扈従私記』がある。成島柳北の祖父。具島美佐子「成島柳北研究」(筑波大学博士論文、2017年)が、司直に多く言及。 https://t.co/PDWQYa67kL

96 0 0 0 OA 震災美談

『震災美談』 https://t.co/Y4oPumficS 朝鮮人を虐殺から守った"美談"を集めたもの。たしかに美談なんだけど、裏返せば虐殺が行われていた事実をも伝えている。
塚越俊志「幕末の条約について」(『弘前大学国史研究』141、2016年)は、岩下哲典編『江戸時代 来日外国人人名辞典』(東京堂出版、2011年)に掲載した文章を改稿したもので、幕末期に幕府が諸外国と結んだ条約を解説。「幕末期条約内容比較(条項別)」という表も掲載。 https://t.co/iBlWTtRz7V
明治15年8月9日、大島友之允が死去。幕末の対馬藩士で、木戸孝允と親しかった。沈箕載「幕末期の幕府の朝鮮政策と機構の変化」(『史林』77-2)によれば、朝鮮進出(征韓)を主張し、対馬藩への財政援助を幕府に要求する運動に積極的で、幕閣に働きかけを行った。 https://t.co/i7A1xGyx34
北海道大学法学部、北海道近代政治史の清水昭典先生『 #井上毅 の「北海道意見」と #井上馨 の「北海道ニ関スル意見書」』(https://t.co/0bK8Kdz88Z) 元々 #金子堅太郎 の北海道意見の経緯が気になっていて、北海道の方針が金子君の意見だけでそんなに決まるかな? と気になって見つけたものです。
樋口雄彦「旧幕府陸軍の解体と静岡藩沼津兵学校の成立」(『国立歴史民俗博物館研究報告』121)は、明治初年の静岡藩が設立した沼津兵学校が、幕末の幕府による軍制改革の到達点でありながらも、切り捨てざるを得なかったものも多い点を論じ、非軍事面の先進性などを指摘。 https://t.co/IffcU3LL41
佐藤麻里「将軍の死と「自粛」する江戸社会」(『学校教育学研究論集』24、2011年)は、江戸時代後期の将軍死去による鳴物停止などをめぐる「自粛」と「強制」の問題を分析。特に、商売停止は町奉行の命令ではなく、町名主の「申合わせ」から始まった「自粛」だったとする。 https://t.co/CIzzLPddCe

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