著者
吉川 虎雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.10, pp.691-702, 1984-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
32
被引用文献数
7 9

Landforms are shaped by tectonic movement and sculptured by denudational processes. Davis (1899) deduced landform development by denudational processes, postulating prolonged stillstand of a landmass following rapid uplift, but W. Penck (1924) emphasized that land forms were formed by tectonic and denudational processes proceeding concurrently at different rates. These two distinctive views of tectonics and denudation in geomorphology have been discussed many times, but actual conditions of these processes have rarely been assessed quantitatively. Schumm (1963) and Bloom (1978) estimated modern rates of uplift to be much greater than those of denudation, and supported to some extent the Davisian assumption of rapid uplift of a landmass, which allowed little denudational modification of the area during the period of uplift. Recent geomorphological study has achieved many excellent results concerning tectonic and denudational processes and their products, but landform development by concurrent tectonics and denudation has scarcely been investigated intensively. As a result of the author's estimate in Japan (Yoshikawa, 1974), modern rates of uplift are generally greater than those of denudation, but denudation rates are greater than or approximately equal to uplift rates in high mountains of Central Japan and on the Pacific slope of Southwest Japan; in these mountains both rates are usually of the order of 1mm/yr. These mountains have been rapidly uplifted and intensely denuded in the Quaternary. Landform development of these mountains, therefore, should be explained not by the Davisian scheme, but by the Penckian. When a landmass is uplifted at a constant rate, the area increases its relief with uplift, being sculptured by rivers. Denudation rates become greater and approach uplift rates. Ultimately both rates become equal, and steady-state landforms in dynamic equilibrium of uplift and denudation are accomplished, as far as the landmass is continuously uplifted at the constant rate (Plirano, 1972, 1976; Ohmori, 1978). Landform evolution by uplift and denudation, therefore, can be divided into the following three stages; (1) the developing stage that landforms approach steady state by concurrently proceeding uplift and denudation, (2) the culminating stage that steady-state landforms are maintained in dynamic equilibrium of uplift and denudation, and (3) the declining stage that landforms are reduced down to sea level by denudation when uplift ceases. Landform evolution passes through these three stages in different duration periods according to various rates of uplift and denudation as well as duration periods of uplift. Supported by the interpretation that erosion surfaces fragmentarily distributed in Japanese mountains are remnants of peneplains in previous cycles, the Davisian scheme of landform development has survived in Japan, where active uplift and intense denudation have proceeded concurrently in recent geologic time. It was, however, clarified in the upper drainage basin of the Waiapu River, northeastern North Island, New Zealand, that erosion surfaces in the hills, about 500 to 700m above sea level, were formed nearly at the present height probably by periglacial processes and fluvial transportation of debris in the last glacial age (Yoshikawa et at., in preparation). This suggests that there is a possibility that a considerable part of erosion surfaces in Japanese high mountains is also of the similar origin. Geomorphological study in tectonically active and intensely denuded regions, such as Japan, will produce invaluable information of landform evolution by concurrent tectonics and denudation. This will contribute to further development of geomorphology.
著者
平井 幸弘
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.56, no.10, pp.679-694, 1983-10-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
27
被引用文献数
19 14

関東平野中,部の加須低地と中川低地とでは,沖積層の層序・層相や低地の微地形に違いが見られる.この違いをもたらした要因を明らかにするために,沖積層の堆積環境の地域的差異と時間的変化を,沖積層堆積直前の地形(前地形)の変化という視点から考察した. 中川低地では,最終氷期極相期に渡良瀬川・思川によって,深い谷(中川埋没谷)が形成された.後氷期の海進はその谷の全域に及び,海成層が堆積した.その後,河川は勾配の緩やかな幅広い谷底を自由蛇行し,それに沿って自然堤防を発達させてきた. 加須低地では,沖積層に薄く被覆された洪積台地(埋没小原台~武蔵野面)が存在している.後氷期の海進は,この台地を開析した複数の小さな谷(加須埋没谷)の下流部にのみ及んだ.その後,河川による堆積は,最初谷中に限られていたが,谷が埋積されると,沖積層の堆積域は台地面上へと拡大し,地域全体が「低地」化した.しかし,台地を覆っている沖積層は薄いため,沖積面下の台地の凸部が微高地(台地性微高地)として島状に残っている.河道は,埋没谷の位置とほぼ一致し,蛇行帯の幅が狭く,自然堤防も直線的な形態を示す.
著者
今里 悟之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.72, no.5, pp.310-334, 1999-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
69

本研究では,九州玄界灘の離島,佐賀県鎮西町馬渡島の空間の意味を社会的コンテクストと関連させて解釈し,主体による立場の差異と時系列変化を考慮した動態的な記号論を展開することを試みた.理論的基礎として社会記号論的アプローチを採用し,村落空間を物的記号とみなした上で,その記号の内容実質を空間に関するイデオロギーやイメージと措定した.解釈したテクストは村落空間に関する住民と外部者の言説であり,そのコンテクストは村落内部の歴史的な社会過程および日常生活である.はじめに,馬渡島住民と外部者の空間認識を島スケールと村スケールに分け,各空間に関する言説を解釈し,空間の意味を抽出した.次に,馬渡島の江戸末期から現在までの社会過程を四つの時期に分けて記述し,言説との相関を分析した.最後に,馬渡島で得られた知見と社会記号論の理論的枠組を照合した.従来,理論が先行していた社会記号論の枠組は,馬渡島で得られた知見から村落空間研究におけるその妥当性・有効性がほぼ検証された.
著者
仁科 淳司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.5, pp.329-348, 1984-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
31
被引用文献数
2 2

冬季季節風下における中部日本周辺の雲分布について,地形が原因で生じる気象票素分布の特徴によって受ける影響(地形効果)を考察した.その結果,地形効果は, 800~850mbの風がほぼ西から吹く場合と,ほぼ北西から吹く場合の,二つに集約して説明される.前者の場合,地形性の高山高気圧が閉曲線に囲まれた形で解析されず,日本海側の帯状雲は福井平野から金沢平野にかけて分布し,太平洋側の雲バンドは冷気の吹き出しによって発生する.後者の場合,中部山岳の風上に高山高気圧が閉曲線に囲まれた形で発生する.敦賀には低気圧が解析され,この低気圧の位置に日本海の帯状雲がかかる.太平洋側でも,中部山岳の風下に四日市低気圧や三宅島低気圧が発生し,これらを伴う風の不連続線に沿って雲バンドが発生する.
著者
大庭 正八
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.67, no.12, pp.833-857, 1994-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
52
被引用文献数
1 1

1886年から1889年にかけての東海道鉄道(現JR東海道本線)建設のとき,静岡県内の宿場町や農漁村では鉄道反対運動があったと伝えられるが,それは鉄道忌避伝説と称すべきもので,県内ではむしろ鉄道線路と停車場の誘致運動の方が盛んであった.鉄道に対する真の運動と称すべきものは,農業用排水,地域交通路の確保,治水,用地買収等の関係から提起された工事改善要求運動であった. 東海道鉄道は日本の東西を貫く幹線として建設されたもので,その線路は,1890年第1回帝国議会召集までの期間内に,限られた予算内で完成させることが求められた.したがって線路の選定は,いちいち住民の忌避iや誘致について配慮することはなく,地形的に建設しやすく,あるいは勾配が緩やかで列車運転に適したルートが選定された.住民の反対のために線路が曲げられるようなことはほとんどなかったと考えてよい.しかし,停車場は,誘致運動のあった旧城下町・宿場町・港町や地の利を得た場所に多く設置された.
著者
伊藤 久雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.40, no.7, pp.369-372, 1967-07-01 (Released:2008-12-24)

日高山地はかつて密林におおわれた未開の頃,狩猟土人は鹿の通路と河谷と峠の自然通路を利用したが,これを辿って先づ砂金採取の和人が入り,次いでクルミ材を求める人々が入った.開拓者入植後は地域開拓の必要上自然通路を基にして漸次技術を加え南北縦貫の道路が整備された.これが近年は国道に昇格し日高町から金山・富川の各地にバスを通じ鉄道と接続している 山地横断道路としての日高・清水線は既に完成し,日高・夕張線は1966年着工した. 鉄道は南から北に向つて日高町まで縦貫線が延び,将来は金山で根室本線に接続が予定され,東西横断路線の建設も決定している. このように道路・鉄道共に縦貫横断路線の発達は道央と道東,道北と道南の距離を短縮し結合を深め北海道の開発に寄与する所大である.

5 0 0 0 OA 書評等

出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.707-720, 1999-10-01 (Released:2008-12-25)
著者
内田 順文
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.62, no.7, pp.495-512, 1989
被引用文献数
10

わが国の著名な避暑地・別荘地である軽井沢を事例として取り上げ,場所イメージの成立とその変化の過程を具体的に示すことによって,どのように「高級別荘地・避暑地」としての軽井沢のイメージが定着し,より多くの人々の問に浸透していったかを明らかにする.方法として,まず軽井沢を扱った文学作品や新聞・雑誌の記事などをもとに,過去の人々が抱いていた軽井沢のイメージを復元し,それを軽井沢の開発史と重ね合わせながら,軽井沢のイメージ,とくに「高級避暑地・別荘地」としてのイメージが歴史的にどのように形成され,定着していったかを記述した.次にそのイメージの定着の結果として引き起こされた地名の改変とくに「軽井沢」の名を冠した地名の分布の拡大という現象を解釈した.これらの結果は,ある一定の社会集団のレベルで,ある種の場所イメージが定着することを記号関係の形成(場所イメージの記号化)として捉えることにより,よりよく理解することができる.
著者
松尾 英輔
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.151-164, 1982

本稿は,奄美大島における在来ネギ属野菜の伝統的な識別と呼称,ならびにそれらの変容の実態を明らかにし,主として九州本土からの文化の流入とその影響について検討した.在来ネギ属野菜は,'ビラ'(ニラ),'ガッキョ'(ラッキョウ),'フィル'(ニンニク),'ヌィビル'(ノビル),'キビラ'(ネギとワケギを一括)などの代表的呼称により,古くから識別されていた.江戸時代末期から明治時代にかけて,'フィル'を'ニンニク'と称し,'キビラ'を'ヌィフカ'(ネギ)と'センモト'(ワケギ)とに呼び分ける様式が九州本土から伝播して北部に定着し,徐々に島内に浸透した.やや遅れて,本土系葉ネギが導入され,冬作ネギとして普及するにつれて,その呼称'ヌィフカ'はいち早く島内全域に定着した.この結果,ネギとワケギについて,北部では本土型の識別を行なって両者を区別するが,南部では区別しない.呼称'ヌィフカ'は島内全域に普及しているが,北部ではネギを指し,南部では主に本土系葉ネギを指す。'センモト'は北部を中心に使われ,ワケギを指すが,'キビラ'は南部を中心に使われ,在来系葉ネギとワケギを指す.
著者
二瓶 直子 浅海 重夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.45, no.6, pp.391-410, 1972-06-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
20
被引用文献数
3 3

日本に現存する所謂風土病の1つである日本住血吸虫症は,医的事象を通じての地域研究の対象として,ふさわしい性格をもっている.本論では,日本住血吸虫症の医学地理学的研究の第1段階として,その分布の偏在性を明らかにしたのち,ミヤイリガイの生態を考慮しながら分布規定要因を,生息地の自然環境条件,特に地形,土壌条件から検討した. 生息地の洪水地形分類の結果,3種に類型化されたが,多くの生息地は,そのうちの1つすなわち洪水時に湛水し,而も湛水深が深く,湛水期間の長い低所である.この場合には洪水地形分類が分布状態をうまく説明することがわかったが,母も大きな分布範囲をもつ甲府盆地の生息地の場合は扇状地性の地形面に属するものが多く,洪水地形では説明できない.また同一地形区内でもミヤイリガイの分布は偏在している・そこでカイの分布を説明する他の要因すなわち土壌条件をとりあげることにし,採集地別,母材別,粒径別,腐植含量別等の土壌の比較をするために調整した実験土壌によって,ミヤイリガイの飼育実験を試みた結果,土壌が分布規定要因の1つであることを確かめた.
著者
松沢 光雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.260-269, 1965-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
5
被引用文献数
2

新宿繁華街は,国電線路の東側に発達している.西側にも,線路添の道路と線略の間に飲食店街1)があるが,本研究では,線路の東側だけを対象にした。新宿における線路の東側と西側との関係については,別な機会に論ずることにする. 新宿繁華街に関係のある研究には,副都心研究会の研究,今朝洞重美氏の研究2),杉村暢二氏の研究3),服部〓二郎氏の研究4)等がある.本研究は,これらの研究との重複を避け,実地調査の結果を整理し,それをもとに繁華街の構造を考察した. 一っの繁華街を他の繁華街と比較検討したり,繁華街と他の地域の関係を観るのでなく,新宿繁華街の内部の状態を観察して,その実態を把握し,都市生活において,繁華街が,いかなる役割を果しているかを知る手がかりをつくろうとしたものである. 本研究で新宿繁華街を選択した理由は,新宿繁華街では。北部に広い住宅地域をもっていて,繁華街浸蝕5)が極めてスムーズに進行し,繁華街としては,比較的自然な形をもっているものと思われるためである.
著者
榊原 保志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.287-296, 1993-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
6

The air temperature distributions along the Hibiya Line were observed 86 times by the train traverse observation method with a thermister thermometer from 26 April 1987 to 1 January 1991. Two observation methods were used. One was to observe air temperatures every 10 seconds to determine the temperature distribution along the subway line. The other was to read the air temperature when the train reached the platform, and use that value to represent the air temperature on the platform. The results obtained are summarized as follows; (1) Air temperatures on the platforms are higher than those in tunnels. (2) Air temperatures at Hibiya station and Ginza station are higher than at other stations in seasons when air-conditioning is not required. Air temperatures on air-conditioned platforms and tunnels are relatively low in the season when air-conditioning is required. (3) The air temperatures around the subway platforms have smaller diurnal variation than outside air temperatures. (4) Air temperatures rise in proportion to the outside air temperatures, with small gradients. (5) The gradients of regression of air temperatures on the platform to outside air temperatures range from 0.35 to 0.55. (6) In most stations the equilibrium temperature T*, at which air temperatures on platforms are equal to the outside air temperatures, is higher than the warmest monthly average normal air temperature (26.7°C) at Otemachi, Tokyo.
著者
伊藤 修一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.10, pp.585-598, 2001-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
33
被引用文献数
2 5

本稿では,千葉ニュータウンの戸建住宅に転入した世帯の,夫婦の居住地選択への関わり方の解明を試みた.対象世帯の多くは,「夫が外で働き,妻が家庭で家事や育児」を行う,典型的な郊外居住の核家族世帯である.これらの世帯は,住宅取得が困難な1990年代前後に転居を決定し,住宅の質や価格の面で公的分譲主を信頼していた.用いた住宅情報は,公的物件の情報が得やすい媒体に偏り,公的物件供給の地域的な偏りも住宅探索範囲を限定している.また,夫婦それぞれの居住地選択の基準は性別役割分業に影響を受けており,転居後も継続就業する妻のいる世帯では,妻の就業地の近くに候補地を設定するなど,住宅探索範囲が就業状況によって異なる.ただし,現住地の選択には抽選が制約となっており,選択結果に対する不満は予算の都合により生じている場合が多い.
著者
東浦 将夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.45, no.2, pp.135-142, 1972-02-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
3

降雨が地下水位の上昇に関係していることは明らかであるが,地下水位上昇の割合は土性が同じでも降雨特性・先行降雨条件・蒸発散量などに左右されて変る.筆者は自然状態の砂質地において地表に降った雨が地下水位の変化にどのような影響を与えるかを,降雨特性と地層の性質から調べた.調査地域としては,地下水面が地表に近く,地下水の水平的な補給の影響がほとんどなく,潮汐の影響もみられない等の諸条件を考慮し,鹿島南部砂丘地を選定した.測器は地下水位に自記水位計,雨量に自記雨量計,浸透量に自作の浸透計を使用し,土湿の測定は炉乾燥法で行なった. 1967年6月27日から9月25日の3ヵ月間の連続観測から次の結果を得た.降雨前の土湿不足が地下水位上昇に影響を及ぼす.ほぼ同量の降水量であっても,降雨期間,先行降雨の状態により地下水位の上昇量や浸透量が違う.期間が長くなるととくに蒸発散量の影響が無視できなくなる.
著者
古田 悦造
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.58, no.10, pp.663-673, 1985-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
29

Japanese agriculture in the Edo period substantially depended on the fish fertilizer. In every agrarian village in those days land was continuously cultivated without fallow and fertilizer application was necessary to maintain the soil fertility. As the grass fertilizer from woodlands was limited, a demand for fish fertilizer expanded. Sardine fisheries developed along the south and east coast of the Kanto District, where existed many wholesalers specialized in sardine fertilizers. Particularly such wholesalers in Edo and Uraga played a very important role in the distribution of the fish fertilizer. Uraga, located on a small bay of Miura Peninsula just across from Boso Peninsula, was an important port of transit, where wholesalers played a crucial role transferring dried sardines for Kamigata (Kyoto and its vicinities). Their activities, however, were subject to the influence of the larger wholesalers in Edo. The anther analized the transformation of trade areas of fish fertilizer wholesalers in Uraga during the latter half of the Edo period. The results obtained are summarized as follows. 1. In the early Edo period Uraga wholesaler's collection area of sardines spread widely along the Pacific coast from the northernmost province of Mutsu to Izu Peninsula. In the mid-Edo period, however, it became restricted to some villages in Boso Peninsula. In the late Edo period a small fishing village of Katsuura in Kazusa Province of the Peninsula was the only place to supply Uraga wholesalers with sardines. 2. Competition with wholesalers in Edo was the main cause of the decline. When the new fishing gears (beach seine) appeared in Boso Peninsula, wholesalers in Edo were easily able to supply fishermen with fund reguired to materialize such advancement, thus expanding their control over the fishery. Uraga wholesalers being unable to compete with the Edo wholesalers in extending fund, their sphere of collection became restricted to minor fishing areas where primitive fishing gears such as pair boat lift net were still used. Furthermore, some feudal lords began to buy fish fertilizers for their peasants directly from producers. 3. While Uraga wholesaler's major market was Kamigata in the early Edo period, it shifted in the later period to the nearer districts such as Sagami and Owari Provinces (the present-day Kanagawa and Aichi Prefectures, respectvely). The central part of Sagami, where the fish fertilizer began to be used in the 1730s, became the market of Uraga because of its accessibility. As for the Province of Owari, the feudal lord preferred to use his ships carrying fish fertilizers on their return trips.
著者
内藤 博夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.43, no.10, pp.594-606, 1970-10-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
9

秋田県北部の花輪盆地と大館盆地の地形発達史を考察し,次のような結果を得た(第四紀末の火山砕屑物については省略). 花輪盆地:鮮新世の中頃ないしそれ以降に,それまで山地であった盆地域が陥没して堆積地域となった.陥没は東縁と西縁を断層で切られた北に開く襖状ブロックの南への傾動による.更新世の中~後期に入ってから隆起に転じ,盆地堆積物の堆積面は段丘化した.盆地南部は隆起の速さがより大きく,新しい段丘の発達がよい. 大館盆地:盆地内での堆積の進行に先立って,盆地域は隆起の速さが周辺より小さかったため,河川の侵蝕が進み,小起伏化した.その後陥没して堆積地域となったが,その時期は鷹巣盆地の湯車層(下部更新統)の下部よりも新しい.陥没は東縁と南西縁を断層で切られた北に開く襖状ブロックの南への傾動による.現在まだ沈降を続けている. 両盆地ともその形成に与った運動はよく似ており周辺の地質構造を反映しているが,時期的にはつれている.
著者
三冨 正隆
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.8, pp.439-459, 1993
被引用文献数
8

台湾の蘭嶼に居住するヤミ族は,天上神を中心とした世界観と空間認識の体系を発達させており,人の霊魂は天界から蘭嶼に来りて誕生し,死ぬと死霊となり彼方の死霊の島に去ってここに永久に留まるという不可逆的な時間・空間の観念が卓越していて,他のオーストロネシア諸文化とは逆に外洋方向を良い方向,山岳方向を悪い方向として象徴化している.<br> しかし蘭嶼がバタン諸島と渡洋交易を営んでいたはるか過去の時代には,祖霊を中心とした体系が発達しており,霊魂は山岳方向から来りて誕生し,死とともに外洋方向より死霊の島に去り,いつかまた再生するという循環的な時間・空間の観念が卓越していて,山岳方向が良い方向,外洋方向が悪い方向となっていた.この変容は,バタン諸島がスペイン人に征服されて蘭嶼が孤立した小世界となり,父系的血縁集団が衰退し,個人主義と威信競争が卓越するようになった社会秩序の変化と大きくかかわっている.
著者
石川 百合子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.1-18, 2001-01-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
25

日本における過去の酸性雨の状況を調べるため,最も古くかっ長期間にわたって降水分析が行われていた鯨西ヶ原の農事試験場における1913~1940年の観測データを解析した.酸性雨問題の観点から,降水中繕難カロリー肖酸イオンと非海塩性硫酸イオンおよびアルカリの指標であるアンモニウムイオンの湿性沈着量を推定した. 観測方法に関する文献調査から,この降水分析データには乾性沈着の一部が含まれていたことが明らかに・なったたあ・各イオンのデータから乾性沈着の影響を取り除いた年間の湿性沈着量を求めた.その結果,観測された沈着量のうち湿性沈着の割合は,アンモニウムイオンが60%, 硝酸イオンが80%, 硫酸イオンが20%程度であったことが示された. さらに,本観測データから降水の酸性化にっいて考察するため,推定したアンモニウムイオン,硝酸イオン,非海塩性硫酸イオンの年平均濃度から,降水の年平均pHの指標となるものを定量的に求めた.現在は1913~1940年の降水のpHよりも約0.5~1.0低くなっていることが示唆された.
著者
川合 泰代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.6, pp.349-366, 2001-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
38
被引用文献数
4

本稿は,江戸・東京の富士講からみた富士山の風景を,富士講の信仰習俗を考慮しっっ,富士講が築造した富士塚の形態の解釈を通じて復元した.江戸末期の富士塚の形態から,「富士講員は,富士登拝の体験を,強く希望した」と風景を解釈した.この誘因として,富士講では,富士登拝が成年男子のみ可能であり,登拝が金銭的にも体力的にも困難であり,富士山は阿弥陀の住む西方極楽浄土と意味づけられ,山頂での御来迎によって阿弥陀の来迎が体験でき,登るほどに超人的な力を得ると信じられたことをあげた.さらに明治期から昭和前期の富士塚の形態からは,「富士講員は,富士登拝を希望したが,登拝体験の価値を明確には理解できなかった」と風景を解釈した.この誘因として,富士講では,老若男女の富士登拝が可能になり,登拝が金銭的にも体力的にも容易になり,富士山は木花咲耶姫などの聖地と意味づけられたが,それらを体験できる装置は創出されず,しかし登るほどに超人的な力を得ることは信じられたことをあげた.そして戦後の富士塚の形態からは,「富士講員は,富士登拝を希望したが,富士講の感覚を共有する人がほとんどいなくなった」と風景を解釈した.この誘因として,戦後に生まれた人が,富士講を継承しなかったことをあげた.