著者
安藤 和弘
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.77-111, 2017-09-30

本稿の主たる関心は,『日の名残り』においてカズオ・イシグロが読者の読みかたを操作するために駆使しているいくつかの語りの技法を考察することにある。それに類した考察を行っている研究には,主人公かつ語り手であるスティーブンスが,心的抑圧のために真実を語ることができず,真実を隠蔽するためにみずからの語りに技法を凝らしていると前提を立てた上で,心理的な角度から分析を行っているものが多い。語りに凝らされている様々な技法を考察するという点では本稿も同じだが,スティーブンスの心理が物語に反映されているという視点は,本稿では採用しない。本稿では,スティーブンスという人物とその心理をさぐるのではなく,彼が構成する物語のテクストそのものの組み立てられかた,特に読者の読みを操作する装置がどのような効果を生んでいるかを考察する。およそ作品の前半に相当する「プロローグ」から「二日目―朝」までを考察の対象とし,それ以後の章の考察は別稿において行う。
著者
新井 洋一
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.71-105, 2019-09-30

本稿では,英語の罵倒語の中で,強意語的機能を持つdamn, fucking, bloodyを取りあげる。まず,高増(2000),Hughes(2006),McEnery(2006),Ljung(2011)などを含む既存研究を前提に,これらの共通の特徴をまとめた後,OED3(Online)の初例を基に,これらの罵倒語の通時的な発達順序を辿ることにする。その結果,bloody ⇒ damn ⇒ fucking の順序で,ほぼ100年間隔で強意語的機能が発達していることを確認する。そして,取り上げた3種類の罵倒語の共通の機能的進化として,adj.( pre-noun: attributive) ⇒ adj.( pre-noun: intensifier)⇒ adv.( pre-adjective: intensifier) ⇒ adv.( pre-verb:intensifier),という機能転換(functional shift)の1つである品詞転換(conversion)が起きていることを明らかにする。また同時に,これらの罵倒語が修飾する共起構造として,どのような構造があるのかについて考察する。 後半では,新井(2011)に倣って,「快性」素性[±PLEASANT](略して[±P])を導入し,罵倒語が快素性[+P]を持つ語との共起が,かなり進んでいることを明らかにする。そして,約30年の間隔があるBNC とNOW corpus(https://corpus.byu.edu/now/)の2つの大規模コーパスから,罵倒語の共起語の頻度の高いものを抽出し,特に快素性[+P]を持つ共起語の広がり度を調査してまとめ,最近は特に,「damn と共起する[+P]形容詞の種類と動詞との共起の種類が格段に増えていること」を明らかにする。
著者
ヴィアール ブリュノ 永見 文雄 訳
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.201-224, 2015-10-30

心理学者ルソーの豊かな革新の数々を示したい。ルソーは原罪を退け人間の自己愛を正当化したが,自己愛の対極にある自尊心をも重視した。自尊心とは他者の視線に対する気遣いだ。自尊心の危険を示したのはルソーが最初でなく,十七世紀のモラリストがルソーの先駆者である。人間には性的欲求・物質的欲求・承認の欲求の三つの基本的欲求があるが,ルソーには承認の欲求にほかならない自尊心の正方形が見られる。虚栄心が他者への軽蔑を生み,羞恥心が羨望を生む。傷ついた自尊心にはこの四つの顔が認められ,四者は緊密に結びついている。ルソーの自伝作品には虚栄心と軽蔑,羞恥心と羨望の組み合わせがしばしば見られる。ルソーの延長上にヘーゲル,ジラール,アドラー,サルトルを置くことができる。ルソーの作品にはホリスムと個人主義の両極端が同居している。ルソーが提供する精神分析の道具によって,ルソーの敗北がすなわちルソーの勝利であることがよくわかる。
著者
小田 格
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.223-254, 2018-09-30

本稿は,中華人民共和国上海市の上海語テレビ放送をめぐる政策の実態を明らかにし,その今後を展望するものである。そして,こうした目的の下,同市における言語政策の枠組みや言語の使用状況,上海語放送の歴史及び現状などを確認したうえで,これらの情報に検討を加え,もって次のような結論を導き出した。すなわち,同市では1980年代から上海語テレビ放送が実施されており,1990年代中盤には上海語のドラマが一世を風靡したが,しかしそれゆえ当局が規制に乗り出し,その後は不安定な状況が続いてきた。一方,ポスト標準中国語普及時代に入った同市にあっては,言語政策に関する新たなコンセプトが掲げられ,これに関連する各種施策も認められるものの,諸般の事情に鑑みるならば,上海語テレビ放送の拡大は想定しがたいところである。ただし,同国の言語政策の今後を占う意味においても,時代の先端を行く同市の動向には,引き続き注視すべきである。
著者
前島 佳孝
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.91, pp.235-260, 2018

政権がその統治領域をどのように区分し、どの地域・都市を重要視していたのかは、政治・経済・国際関係の状況と密接に関わるものであり、相互に検討を深めていくことができる。その際には地図を描き起こすことが重要である。西魏政権については、かつて毛漢光氏が府兵制に基づく地域区分がなされていたという主張に基づいて地図を作成されたが、本稿はその所説に若干の批判を加えるものである。主な問題点として、仮説のベースとなった根本史料たる『周書』巻一六・末尾部分の信憑性が、史料批判の結果、大いに揺らいでいること、地域区分が地理的に不自然なこと、検討対象者に付与する属性の項目に問題があること、判断材料とするデータの採否に恣意的な例が見られること、検討対象者が少ないことなどが挙げられる。
著者
小嶋 洋介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.263-291, 2013-10-10

本論稿は、その目的の大前提に、副題に示した「自然の存在学」というテーマがあり、このテーマの展開上に位置づけられている。その中の一主題である絵画をめぐる問題に即して、ファン・ゴッホは取り上げられている。ただ、この論稿は純粋なファン・ゴッホ論として立てられているのではない。軸はハイデガーの思想の方にある。何故ハイデガーなのか。それはハイデガーが、ファン・ゴッホの絵を梃子にして独自の思索へと発展させた重要な一論を出しており、そこで論じられている内容を無視してファン・ゴッホを論究することはできないからである。そこで第一節では、その著名な論文『芸術作品の根源』において、何が論じられているかを解明することに努めている。第二節では、今度はファン・ゴッホの側から見て、ハイデガーの思想との連関性を探る。ここで両者に響きあう主要概念が「大地」と「自然」である。ただ最終節で、我々はこの論題をファン・ゴッホとハイデガーの問題領域の内部に収斂させて終えるわけではない。「大地と自然」の問題の元型性を探求するために、東洋思想との接点を模索する。この論稿をステップに、「自然の存在学」をさらに展開させていくための道を呈示することが、根本的目的となっているからである。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.115-139, 2015

フェロー語によって今日まで伝承されている多数のバラッドの中に,Ívint Herintsson と呼ばれる,アーサー王伝説に題材を取ったと考えられる作品がある。この作品は18世紀後半から19世紀半ばにかけて,一般にA,B,C と呼ばれる3 つのヴァージョンが採録されており,これらはいずれも複数のバラッドから構成されるバラッド・サイクルである。本作品の先行研究ではしばしば物語の素材に焦点が当てられたが,本稿ではこの作品の3 ヴァージョン間の異同に着目し,個々のヴァージョンの形が生成・伝承された過程を浮き彫りにすることを目指し,バラッド・サイクルとしての本作品を構成する複数のバラッドのうち,まずはKvikilsprang と題されたバラッドに対象を絞り,Kvikilsprang の3 ヴァージョン間の比較を行い, 3 ヴァージョン間で見られた主な異同箇所について,Kvikilsprang と同じ題材を扱ったノルウェー語バラッドKvikkjesprakkの該当箇所とも比較を行う。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.90, pp.261-288, 2018

フェロー諸島においてフェロー語で伝承されているバラッドの中に,アーサー王伝説等を題材にしたと考えられる作品Ívint Herintsson(『ヘリントの息子ウィヴィント』)がある。この作品の物語には,中世のアイスランドで著されたサガ(saga)と呼ばれる散文の書物の一つで,アーサー王伝説に題材を取った作品Ívens saga(『イーヴェンのサガ』)の物語の影響が色濃く見られるが,このバラッドの物語中,Ívens saga とは相違が見られる箇所の中に,グラスゴーの司教Kentigern(ケンティゲルン)を扱った聖人伝Vita Kentigerni(『聖ケンティゲルン伝』)のHerbert(ハーバート)版の内容と類似が見られる箇所が存在する。本稿ではフェロー語バラッドÍvint Herintsson の物語とHerbert 版Vita Kentigerniの内容の類似点と相違点,および関連他作品との関係のありよう等を手掛かりに,上記フェロー語作品の物語とHerbert 版Vita Kentigerni の内容との関連性の有無を明らかにすることを試みる。
著者
榎本 恵子
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.61-87, 2013-10-10

「喜劇の父」と評価され,フランス演劇に大いなる影響を与えた古典ラテン喜劇作家テレンティウスの作品の翻案が初めて17世紀フランスの舞台で上演されたのは1691年である。同じように「喜劇の父」と称されていたプラウトゥスの喜劇の翻案が上演されてから,約60年後のことである。ブリュエスはパラプラと共同でテレンティウスの『宦官』を『口の利けない男』として翻案し上演した。彼らの前には,ラ・フォンテーヌが翻訳し出版されているが,上演された記録はない。 テレンティウス原作『宦官』が如何に劇作家や観客の興味を引く作品であったかを考察し,この作品が17世紀のフランスの風習と,演劇の規則にそぐわない側面があることを浮き彫りにする。それにもかかわらず,時代の流れに適応させていったラ・フォンテーヌ,ブリュエスとパラプラの視点を検討する。そしてそこから17世紀フランスの劇作家にとって古典喜劇作家「テレンティウス」が意味するものを改めて確認していく。
著者
齋藤 道彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.91, pp.37-66, 2018

現在に至るまで中国地域史上もっとも民主的な憲法である「中華民国憲法」を決定したのは、国民大会であった。国民大会は、一九二四年一月の孫文の『建国大綱』に基づく構想であり、民主的な性格を持つとともに、訓政下での政治的実践であった。 国民政府は一九三六年五月五日に憲法草案を公布し、「中華民国憲法草案」と名づけた。 制憲国民大会は当初、一九三五年三月に開催される予定であったが、六回延期された。日中戦争中、いわゆる国共合作に乗っていた中国共産党といわゆる民主党派は、一九四六年一月の政治協商会議までは国民大会の議論に参加していたが、その後、この国民大会にボイコットを表明した。 国民大会予備会議は、一九四六年十一月十八日から十一月二十二日まで開催され、「中華民国憲法草案」が確定された。
著者
森松 健介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.82, pp.1-28, 2015

ジョン・クレア(1793-1864)とトマス・ハーディ(1840-1928)には明らかな共通性がある。両者とも社会派作家として社会悪の《真実》を暴いた。クレアに上位階級批判が多いと同じく,ハーディは初期小説から社会派的批判を濃厚に示し,中期,また特に後期小説では上位階級批判を主題とした。詩においてもハーディのギボン(Edward Gibbon, 1737-94)礼賛も社会悪の直視だ。《真実》を語れば文筆家は弾圧されるという感覚は両者に顕著である。それでも二人共,農村労働者の勤勉と優しさを描き,具体例としてはクレアの農耕馬,ハーディの馬車馬描写が酷似し,また荒れ地の植物ヘザーと針エニシダも二人の共通の愛を受けている。クレアは旧式のパストラルを批判したが,これはハーディが『緑の木陰』で実践した。その小説の最終章冒頭の緑の木の蔭とクレアの詩の類似は驚くべきだ。クレアの荒地変貌への嘆きもハーディに受け継がれた。最後に,クレアの「原野」と「恋と記憶」を読み,二人の郷土愛・恋愛観の類似を示した。
著者
高橋 大樹
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.78, pp.67-85, 2014

本論文では,ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の『ユリシーズ』(Ulysses, 1922)の第6 挿話「ハデス」("Hades")を取り上げ,そこに描かれる都市と死者の関係性について考察する。本挿話「ハデス」では,レオポルド・ブルームが友人ディグナムの葬儀に出席するため,他の出席者とともに馬車に乗り込む場面から描かれる。その馬車はダブリン市内を移動し,埋葬が行われるプロスペクト墓地へと向かう。墓地へ向かう車窓からブルームが目にするものは,ダブリンの街に住む顔見知りやさまざまなダブリンの様子である。さらに墓地ではこれまで多くのジョイス研究者がその正体を論じてきた「マッキントッシュの男」(Macintosh)として知られる謎の男をも目撃する。第6 挿話「ハデス」を死者と都市を描く文学作品の系譜において考えたとき,それまでの作品との差異はどこにあるのか,さらにブルームがどのように表象されるのか,そして読者はそれによってブルームと共同体との関係性についてどのような解釈が可能となるのかに関して考察を試みる。
著者
深澤 俊
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.77, pp.109-130, 2013-10-10

デイヴィッド・ロッジの『作者だ、作者』は、文学史上の大人物であるヘンリー・ジェイムズを素材に、伝記ではなく小説として作りあげたものである。ジェイムズは一時期、劇作家として表舞台に出ることを望んでいたが、戯曲『ガイ・ドンヴィル』公演初日に「作者だ! 作者!」の歓声に応えて舞台に立つと、ひどいブーイングにさらされて衝撃を受け、以後劇作家の道を断念する。そしてジェイムズは、後期の偉大な小説群を生み出すことになる。ロッジはこの事実に焦点を当て、当時の売れっ子であったデュ・モーリェとジェイムズとの交流に比重をかけて小説化した。この小説の背景となるヴィクトリア朝の演劇事情、大当たりをとったデュ・モーリェの小説『トリルビー』に言及しながら、ロッジの小説に込めたメッセージを解きほぐす。
著者
齋藤 道彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.85, pp.1-52, 2016

南シナ海の領有権をめぐる歴史としては、第一期、領有権は問題にならなかったはずであるが、現在、中華人民共和国が漢代から中国の固有の領土だったなどと主張している前近代、第二期、清朝・中華民国が領有を主張した時期、第三にフランスが一九-二〇世紀にインドシナ地域を植民地化した時期、第四に日本が二〇世紀前半に統治した時期、第五に日本の敗戦後、中華民国が領有権を主張し、一九五〇年代以降、中華人民共和国がそれを引き継いで領有権を主張しているが、フィリピン・ベトナム・マレーシアなども領有権を主張し、対立して今日に至っている時期、そして第六に中華人民共和国が礁を埋め立てて建設した人工島によって領土・領海を主張しているが、アメリカなどが人工島建設による領土・領海主張は国際法違反と指摘している現在の時期などに分けられる。それらについて主として浦野起央の資料集によって整理を行なった。
著者
岩本 剛
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.87, pp.225-253, 2017

ベンヤミンのアナーキズムは,個人にのみ暴力行使の権利をみとめ,個人の暴力を神からの贈与=負託として擁護するものだが,暴力批判論は,そのような特異なアナーキズムを詳述した論考として解釈することができる。法的暴力の作動/機能の批判的究明を基調とする同論は,法と暴力の共依存的結合を発生させる神話的=運命的な「法措定」のうちに,法的暴力(神話的暴力)の根源を発見した。ただし,同論に提示された法的暴力の「解任」の理念を,一般的なアナーキズムにいわれる意味での法(国家)の廃絶として一義的に理解することは,解釈としてはいまだ不十分である。隠微な両義性を孕んだ暴力批判論の考察は,法的暴力の「解任」がもたらすやもしれぬアナーキー/未開状態の到来に対するベンヤミンの危倶を明かすとともに,法的暴力の「救出」の理念をはからずも提示している。ベンヤミンは,神の正義が個人に贈与=負託した暴力(神的暴力)を,法における「法措定」の契機を未然に阻止することで,法的暴力の自己目的化した作動/機能を抑止し,法を凋落から救出する暴力として擁護する。
著者
曾 文莉
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.86, pp.165-189, 2017

台湾社会の発展と変化を論じる時,台湾ニューシネマが重要な研究対象になる理由は,台湾意識が見えるからである。台湾ニューシネマに台湾意識が現れる理由は,1977年の郷土文学論戦の影響だと思われる。本稿は台湾の文学思潮の流れに沿って,台湾人のアイデンティティーの変化を観察する。アイデンティティーによって映画に登場する日本の表象も違ってくるので,ニューシネマにおける日本の表象をまとめ,ニューシネマ以前および以降の映画と比較する資料にしたい。 台湾ニューシネマの日本の表象は七つの類型に分けられる:日本人,日本語が話せる台湾人,日本に行く設定,日本式建築,日本語の歌,文化面での日本の表象,そして日本と関係がある話題の登場である。 これらの表象をポストニューシネマと比べて見ると,いくつかのことに気付く。一,日本人役の人物設定。二,言語の使用状況。三,日本語が話せる台湾人の役割。四,「台湾人が日本に行く」目的の変化。五,時間を超えた文化面での日本の表象の登場である。最後に,もう一つ注目すべきことは,映画を撮る視点が中国中心史観から台湾中心史観に変わった点である。
著者
川越 泰博
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.77, pp.19-44, 2013-10-10

本論は遣明使節の一人として明代の中国に渡った五山派の僧侶笑雲の手になる入明記を主要な題材として,東アジアにおける疎通と交流の一端をいささか検討した,その結果報告である。『笑雲入明記』の撰者笑雲瑞訢は,臨済宗五山派の僧で,晩年は相国寺や南禅寺の住持を歴任した。笑雲が入明したのは,景泰4 年(享徳2 ・1453)のことで,東洋允澎を正使とする遣明使節団の1 号船に従僧として乗船し,翌年に帰朝した。このとき往還した京都-北京間での見聞を記した旅行記が,この『笑雲入明記』であるが,これは, 1 号天竜寺船に乗り込み,旅の様子や明側との対応の様子を記録した,帰朝後の復命報告書でもあった。『笑雲入明記』は,明側との交渉記録と笑雲自身の私的な交流記録のいずれにも偏奇していない良さをもっていて,笑雲自身,従僧として書記官的な役割を担ったこともきわめて剴切なことであったと評価できる。しかしながら,使節団という組織体と笑雲個人との狭間で,揺れ動き,黙して語らなかった事実もまた数多あった。たとえば,遣明使節が起こした諸々の事件や騒擾については全くふれていない。復命書としての性格を有したが故に記録にできなかったことも多々ある。ここに『笑雲入明記』の記録としての限界があった。
著者
落合 隆
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.84, pp.237-267, 2016

ルソーは,宗教を政治との関係においてどうとらえているであろうか。この考察を通して,彼の政治思想に宗教の側面から光を当て,彼の思想がもつ現代的意味を探りたい。『社会契約論』によれば,歴史的には,政治と一体化した「市民の宗教」,国家の中に国家をつくる「聖職者の宗教」,政治から切り離された「人間の宗教」ないし自然宗教があった。そして,ルソーは,市民の宗教と人間の宗教それぞれの利点を結びつける「市民宗教」を提起する。市民宗教は,政治体に参加する市民であるための神聖な宣誓として政治を支えるが,同時に政治体の中に人間の宗教への指向性を確保する。元来排他的な政治体が市民宗教を通して人間性に向けて開放され,祖国愛は人間愛へつながる。市民になることによってしか人間になれない。そして,市民宗教の教義の1つである不寛容の排除によって,個人の信教の自由は互いに尊重されて,さまざまな宗教・宗派を超えて人々が市民として共同体に結集し,社会的不平等のような人間自らが招いた悪に協力して立ち向かうことができるようになるのである。
著者
堀田 隆一
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.293-319, 2015

本稿の目的は,言語変化研究における多種多様な視点を5W1H の切り口で整理し,概観することである。近年の言語変化研究は,共時言語学と通時言語学の知見の蓄積を取り込みながら発展し,多様化してきたが,一方で多様性ゆえに全体像を概観することが困難となっている。本稿では,まず言語変化研究において基礎となる概念を導入した後,これまでに提案されてきた3 つの言語変化モデルを紹介する。続いて,言語変化の様々な視点を「いつ」「どこで」「だれ」「なに」「どのように」「なぜ」という切り口にしたがって整理し,それらを一望できる形で概括する。言語変化研究に体系的な着眼点を与えることにより,本稿が今後の研究の発展に資する一参照点となることを期待する。