著者
松沢 裕作
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.112, no.1, pp.1-33, 2003-01-20 (Released:2017-12-01)

In this paper the author analyses the structure of the administrative district system (daiku-shoku system) and local assemblies in early Meiji Japan, focusing especially on their relationship.His main findings are : 1.In the case of Kumagaya Prefecture, administrative districts did not have their own administrative tasks or financial resources.They were only village groups.2.The prefectural assembly consisted of district headmen(hukukucho, who did not represent the people of the prefecture comprehensively or directly.Each member of the assembly represented each district, and because districts were village groups, assembly members needed to return to their districts to hear the opinions of village headmen (kocho) in order to respond to consultations with the prefectural government.3.However, village headmen, who were under the control of village commoners, often resisted the policies of the prefectural government and the district headmen.4.In order to overcome such a functional disorder, disctrict headmen and the prefectural government tried to set up a publicly elected prefectural assembly.Until now, the research on the local administrative district system has held that prefectural governments deprived village headmen of their function as representatives that they had duraing the Tokugawa period.The functional disorder of local assemblies has been explainted by such a deprivation of representation.However, the results of the present inquiry indicate that prefectural governments expected them to be representatives.The problem was that they failed to function as such, in spite of expectations.
著者
中谷 惣
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.11, pp.1879-1914, 2008-11-20 (Released:2017-12-01)

This paper will examine the judicial system in late medieval Italy, focusing on the practices of parties involved in court cases. In Northern-Central Italian cities in the 13^<th> and 14^<th> centuries, communes became established as the governing institutions of cities. In judicial matters, they compiled statutes and established ordinary courts. In addition, various affairs were recorded and archived in an organized manner. Conventional scholarship has studied these problems from the perspective of understanding the roots of the modern state. However, recent studies have revealed that the judicial policy of communes did not exclude the practices of Fehde and private reconciliation, but rather incorporated them. The government of communes was not a top-down control of society but was exercised through a mutual relationship with the social practices of peoples. I will consider the practices of parties in the judicial system from the court records of Lucca. In Lucca in the first half of the 14^<th> century, under the rule of foreign lords, there were numerous courts used by many peoples in civil trials. In these trials, the parties were able to skillfully acquire money or land through judicial orders and agreement between parties. Arguments in the courts often centered not on the principle of entitlement but on exception based on statutes regarding the qualifications of the parties or procedural errors. An analysis of the defense reveals the following points. First, the statutes based on Roman procedures and a commune's administrative orders were utilized by parties as weapons in their litigation strategy. Secondly, information in the archive of a commune was diffused to people through fama and was used in court defense. However, judges were indifferent to the information in the archive. In this way, the judicial system and the documentary system were strategically used by disputing parties. Even though these systems aided the government of a commune, it is in fact through the practices of people within them that these systems were ultimately able to function.
著者
海野 大地
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.6, pp.39-62, 2021 (Released:2022-06-20)

党の正史である『立憲政友会史』は、政友会院外団の成立を一九〇三年一二月とした。しかし一九〇〇年の発会以来、すなわち初期政友会(伊藤博文総裁期)において院外団は活発に活動した。その背景には党組織の不安定があり、安定した政党組織の確立は政友会が桂園体制の一翼を担う前提となった。 本稿は、政治史・政党史研究の枠外におかれてきた院外の動向に着目し、政友会院外団の成立過程を検討することで、政友会の組織構造や党幹部との関係から院外団を位置づけなおすことを試みる。その目的は、第一に院外団の検討を通して政友会の組織強化過程を示すことで同党が統治主体化する前提を明らかにし、第二に院外団の意義と限界を示し従来の院外団イメージの再検討をはかることにある。 本稿の成果は以下のとおりである。初期政友会における院外団は、議会を中心に離合集散した代議士経験者と代議士予備軍・壮士の連帯であった。院外団は〈硬論による党幹部との一致〉を一貫して戦略とし、地域利害の先鋭化が招く代議士の統制困難に対峙することで、党本部と地方支部の間で地域利害を束ねる広域秩序であった地方団体とともに、党組織を支える中間団体として位置づく。 初期政友会の終点となった一八議会の妥協問題は、院外者を自由党再興路線(脱党)と官民調和受容路線(留党)に分けた。政友会院外団の成立は、後者が組織化した結果であり、硬派が逸脱行為を自重する体制内化傾向を伴った。すなわち政友会院外団は〈体制内硬派〉として成立をみる。 かかる成立過程から、院外団の意義は〈内向きの暴力〉をともなう組織維持志向が党組織の安定化を促す点にあり、それが党幹部による硬派利用に繋がったことが示される。ただしその反面、党組織の安定は組織維持の必要を減退させ、桂園体制下で院外団活動は停滞する。これは党の意思決定の外に位置づくがゆえに地方組織を統合できなかったこととともに院外団の限界となった。
著者
吉川 和希
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.6, pp.63-86, 2021 (Released:2022-06-20)

近年のベトナム史研究では、十七~十八世紀の紅河デルタにおける自律性の高い村落の形成過程が議論されている。しかしながら人口過剰、耕地開発の限界と相次ぐ天災で多くの農民が流亡した十八世紀に各村落がいかなる戦略を採ったのか、いまだ十分には解明されていない。そこで本稿では村落から人員を供出して祠廟・仏寺や地方官衙の維持管理に当たり、その代わりに公的負担を減免される皂隷や守隷に注目し、公的負担の減免という権益の維持・拡大を官に働きかける村落の動きに光を当てることで、村落住民の戦略を考察した。 十七~十八世紀には多数の村落が皂隷・守隷として公課を減免されたが、同一村落であっても時期によって免除される公的負担が変化しており、皂隷・守隷の権益は流動的かつ不安定だった。村落に対する税・役の賦課は地方官吏にとって自身の私腹を肥やす機会でもあったため、地方官の側が皂隷の村落に対して本来免除すべき負担を賦課する事例もあった。そのため村落側は、既に国家によって承認された公課免除の再承認を何度も要求していた。村落住民が自身の免除対象を維持・拡大しようとする際には、他村落と連名で上申文書を発出する、あるいは他村落の事例を援用して自身の主張を正当化するなどの戦略を採っていた。十八世紀半ば~後半に自然災害や動乱が多発する中で、困窮化を回避するために各村落は様々に努力していた筈であり、公的負担の減免を伴う皂隷もその一環だったに違いない。ただ中央政府は全村落の主張を認めると財源不足に陥るので、財政収入との兼ね合いを勘案しながら村落間の利害を調整していたと思われ、村落側の要求を拒絶する場合もあった。このように十八世紀における人口過剰、海上貿易の衰退、耕地開発の限界と相次ぐ天災という状況下で、限られた資源をめぐって中央政府・地方官・村落がせめぎ合っていた。
著者
塚目 孝紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.8, pp.37-61, 2021 (Released:2022-08-20)

1885年12月22日に創設された内閣制度は、その根拠法令たる内閣職権で首相に法令・命令(勅令)への副署義務を課すことを通して、「大宰相主義」と呼ばれる強い権限を与えていた。これは、内閣職権の後に制定された公文式でも確認されたが、公文式はこれに加えて法令の起案主体を内閣と規定したことで、執政における大臣責任制と君主無答責をより一層明確にしていた。 首相権限が強力な形で制度化されていた一方、内閣制度創設に際し軍備編成の規模をめぐって軍部大臣人事が問題となっており、内閣制度創設後も伊藤博文首相・井上馨外相・松方正義蔵相など文官閣僚と大山巌陸相ら陸軍主流派との間で軍備構想の相違が見られた。 かかる中で、大山陸相ら主流派が主導して進めた陸軍武官進級条例・陸軍検閲条例改正に対し、反主流派の四将軍派が定年進級の導入や検閲機関としての監軍部廃止を問題視し、主流派と四将軍派との間の陸軍紛議に発展する。軍備構想の点で四将軍派に近いと思われていた伊藤首相であったが、陸軍紛議に際しては中立的に振る舞い、大山陸相に対しては二条例の早期改正要請を副署権限を根拠に保留しつつ、陸軍主流派や文官閣僚の動向を待った上、主流派と四将軍派、及び四将軍派に親近感を有していた明治天皇の主張をそれぞれ容れた形で最終的な裁定を行った。 陸軍紛議によって伊藤首相ら文官閣僚は陸軍主流派の軍備構想を受容したが、伊藤首相はまた陸軍に対して優位性も示していた。これに加え、伊藤首相が内閣―陸軍省と明治天皇との間を調停し、明治天皇もその判断を裁可したことを通じ、大臣責任制と天皇の無答責の君主としての役割が明らかとなった。陸軍紛議の処理は内閣職権・公文式に規定された首相の法律・命令(勅令)の副署義務を課していたことに拠るものであり、同時にステークホルダーの選好の明確化を待って政治的決定を行う伊藤首相の政治指導の特徴を明瞭に示すものであった。
著者
湯浅 翔馬
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.8, pp.62-85, 2021 (Released:2022-08-20)

ボナパルティスムとブーランジスムの関係は、しばしば両者の政治文化的な類似性が指摘されてきた一方で、ブーランジェ事件下のボナパルト派に関する研究は少ない。本論文は、ヴィクトル派という当時のボナパルト派内の多数派集団に着目し、フランス右翼史の画期とされるブーランジェ事件に対峙した時期のボナパルト派の実態解明を試みた。 1880年代後半のヴィクトル派内では、王党派と帝政派の議会グループ「右翼連合」を支持するポール・ド・カサニャックと、これに反対するロベール・ミシェルの間で激しい対立が存在した。この対立により、セーヌ県では帝政派コミテという下部組織が乱立し、カサニャック派とミシェル派に分かれて激しく対立する事態に陥った。1888年春、ヴィクトル公と中央コミテが統制を図った結果、セーヌ県のヴィクトル派組織は、対立の一方で完全には分裂していないという状況で、ブーランジスムの高揚に対峙することになる。 1886年から、急進共和派の改革将軍・対独復讐将軍として台頭したブーランジェに対し、ヴィクトル派内には批判や擁護など様々な見解が見られた。1888年以降、王党派から資金援助を受けながらも、急進共和派の一部を前衛とする反「議会共和政」運動としてブーランジスムが展開するなかで、多くのヴィクトル派は「帝政再建」を棚上げにして、改憲運動に参加していく。しかし、ヴィクトル派指導者層の言説や帝政派コミテの運動の分析からは、ブーランジスムへの対応について、党派内で一貫した方針や運動は存在しなかったことが明らかになった。 ブーランジスム敗北後の組織再編を経て、ボナパルト派は「帝政」ではなく「人民投票」を標語にしたものの、共和政へのラリマンが進展していく。かくして、1880年代前半から展開していた、帝政を支持する思想・運動としてのボナパルティスムの解体が、ブーランジスムを通じて加速するのである。
著者
松下 孝昭
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.1-31, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、近年盛んになりつつある「軍隊と地域」研究の一環として、日露戦争後の軍拡期に第十三師団が立地した新潟県中頸城郡高田町(現上越市)を対象とし、地方都市が地域振興のために敷地を献納してまで軍隊を誘致し、軍隊と共存しうる市街地の改造に努めつつも、様々な負担の重圧から政治的・財政的混乱を引き起こしてしまう経緯を解明することを目的とする。 前半では、高田町がすべての敷地の献納を公約して師団の立地を得たものの、敷地買収のための公借金が過重であることに加え、政友会との政治的な対立の中に投じられ、師団誘致を進めてきた非政友系町長の辞職を余儀なくされるなどの混乱を引き起こしてしてしまう経緯を追った。また、高田町の負担額は陸軍省によっていくぶん軽減されたものの、新たに小学校の増改築にも迫られ、長期債への借り換えによってかろうじて財政破綻は回避された。しかし、その償還費が以後の町財政を圧迫して新規事業に着手できなくなったほか、償還財源は戸別割や所得税割の重課に依存せざるを得ないため、低所得層住民や転入してきた将校らにも負担が転嫁されていく経緯について明らかにした。 後半では、こうした財政難の中でも、停車場拡張や将校住宅の建設、屠獣場の新設など、師団と共存するための市街地の改造に迫られる諸相について見ていく。とりわけ、行軍に必要な道路の開削や拡張の負担については、師団側と町当局の間であつれきが生じ、結局町道に編入して維持管理が高田町に負わされることとなった。市街地中心部にあった遊廓は師団立地を機に郊外に移転されたが、一方では市内に私娼窟を存置させる結果ともなった。また、師団・町当局の双方が求める最大の都市インフラである水道の敷設は、敷地献納費に来由する長期債の償還が市財政を圧迫している間は着手できず、一九二〇年代を待たなければならなかったのである。
著者
大谷 伸治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.35-60, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、筆者が新たに発見した政治学者・矢部貞治が書いた三点の史料にもとづき、共同体的衆民政と協同民主主義の異同、すなわち戦前・戦時・戦後の連続/断絶を詳らかにし、その成果にもとづいて、周知の矢部の憲法改正案と天皇退位論を再検討するものである。 敗戦を前にした矢部政治学は、戦時期の自己批判によって二度目の発展を遂げた。 デモクラシー論では、南原繁の政治哲学に接近した。デモクラシーの本義を「古代人の自由」に見出し、共同体的衆民政が孕んだ全体主義に堕す構造的問題を克服した。それは戦前への単純な回帰ではなかった。協同民主主義は、戦前の自由的衆民政と共同体的衆民政ないし協同主義を止揚したものだった。地域の生活協同体の自治に国民が参加することで、自由と公共性を両立した民族共同体の構築をめざした。 国体論では、里見岸雄の国体論を採り入れ、一君万民論から君民一体論へ変化した。しかし、それは戦前から影響を受けていた美濃部達吉の国体論との止揚だった。これが矢部国体論の真骨頂であった。内容自体は後追いにすぎないが、新体制期の失敗を活かし、デモクラシーと接合する国体論を構築すべく、戦前・戦時に敵対していた国体論を一本化した。 こうして再編された根本規範としての国体の「表出」が憲法改正案であり、象徴天皇論に結実した。しかし、天皇はあくまで形式的な統治権総攬者として位置づけるべきだとした。この点では、国民主権を明記した日本国憲法とはやや距離がある。しかし、これを求めた理由は英国型の立憲君主制下の議院内閣制を理想としたからであった。また、天皇が政治責任を取って自主的に退位することを大前提としていた。 協同民主主義とは、敗戦が必至の状況に直面したからこそなされた矢部政治学そのものの自己革新であった。この意味で、共同体的衆民政から協同民主主義への変化はまさに、被強制性と自発性をあわせもった「敗戦転向」であった。
著者
鈴木 真吾
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.61-85, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、19世紀末から20世紀初頭のイズミルで発生した2つのコレラを事例に、細菌学という新たな科学知の受容、病気という現象の理解、そして現実の疫病対策への影響という理論と実践の両面から、近代オスマン都市の疫病対策を検討する。そしてコレラ対策の中心となった行政医たちに着目し、こうした疾病理解や新聞や雑誌の急速な発達の中で、近代オスマン帝国の衛生政策に地方社会がいかに組み込まれていったかを考察する。 1910年から11年のイズミルにおけるコレラ流行では、それに先立つイスタンブルでの細菌学研究所設立の影響もあり、上水道の断水や患者の隔離の徹底が対策の中心となるなど、1893年の流行の際とは異なる対策の新たな局面も見られた。しかし他方で、コレラの発症には人間側の条件、すなわち人間の身体にコレラ菌の生育に適切な環境が必要であるという理解の下、以前の流行の際に見られた行政・個人双方での諸対策も、「細菌の生育を防ぐ」対策として新たに位置づけられ、実行された。こうした事実から、時代の変遷によるコレラ理解と対策の変容のみならず、細菌学の到来により再編された疾病理解の枠組みの中に従来の対策が新たに意味づけられるという連続性も看取される。 イズミルのような地方都市で、こうした防疫実践を主導したのは、1867年にイスタンブルで開校した文民医学校出身の医師たちであった。帝国各地から集まった医学生は、卒業後、出身地の行政医に任ぜられ、帝国の衛生政策のエージェントの役割を果たした。彼らはコレラ対策の中心となるだけでなく、同時期に発達した新聞や雑誌などのメディアを通じて個人・家庭における日常的な健康維持を啓蒙した。このような活動を通じて、主体的に健康を維持する個人を作り出し、オスマン帝国の国家的な衛生政策に地方都市の個人を組み込む役割を果たしたのである。
著者
小林 文治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.1-37, 2021 (Released:2022-04-20)

本稿は巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への遷徙傾向の比較を出発点に、統一秦における洞庭郡遷陵県の開発の状況を検討する。岳麓書院蔵秦簡や里耶秦簡を見ると、巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への刑徒や「従人」の遷徙例では①遷徙目的、②移動の禁止、③移送方法が共通している。これは洞庭・蒼梧両郡が置かれると、戦国秦において成立した巴蜀地域への遷刑が両地に援用されたことを示す。言い換えれば、新領土に外部から労働力を供給して開発を行うというモデルが巴蜀において完成し、それが洞庭・蒼梧郡に援用されたということになる。 洞庭郡遷陵県の移入人口を見ると、巴郡と南郡からの移入が多数を占める。この傾向は周辺郡がすでに秦の習俗が浸透して久しく、同時に土着の習俗が洞庭郡のそれに近いので、洞庭郡の開発に便利であり、さらに秦による新領土経営の経験が洞庭郡経営に利用できることが反映されていると言える。 刑徒の移入傾向を見ると、その多くが反秦行動に加担した者で、労働力として送られてきた者たちであった。彼らが遷陵県で主に従事していたのが公田の開発である。遷陵県の公田収入は県内で消費されていたが、消費量に対して遷陵県全体の生産量が少なく、他地域からの搬入に多くを頼らざるを得ない状況であった。洞庭郡への刑徒移送と公田経営は秦の六国統一後の「戦後処理」と統一秦の「新領土経営」を結びつける政策であるが、計画に比して実際は効果が上がっていなかった。本稿の検討結果はある地域における秦の統治過程を検討する際、郡を超える広域的な地域を想定し、検討することが重要であること、その時の歴史的事情が地域のさまざまな「活動」に影響を及ぼすことを示唆する。
著者
井上 正望
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.38-63, 2021 (Released:2022-04-20)

本稿は、十~十三世紀の期間を主として、中世的天皇の形成過程の検討を行うものである。中世的天皇の特徴として、個人としての側面と機関としての側面の二面性を持つことが指摘されてきたが、そのような二面性の分化過程を、特に天皇の「隠蔽」に関する検討を中心に明らかにすることを目指す。従来古代~中世の天皇変質に関しては、その相対化ばかりが注目されてきたが、実際には形式的ながらも絶対化も並行して行われていたことを明らかにする。 本稿で扱う天皇の「隠蔽」は、御簾と「如在」の利用を主とする。実在しない霊魂や神々を存在するとみなす中国の作法であった「如在」が、十世紀の日本では不出御の天皇を出御しているとみなす、天皇機関化作法に展開していたことを指摘する。そして村上天皇による母藤原穏子に対する服喪時に、清涼殿で「尋常御簾」を使用したことが、倚廬で服喪・忌み籠りしていて清涼殿に不在という天皇の個人的側面を「隠蔽」し、天皇は表向き清涼殿にいるとみなす「如在」の一形態であり、天皇機関化作法であることを述べる。これは、天皇の相対的な個人的側面を「隠蔽」し、機関化され表向き服喪することがない形式的ながらも絶対的な側面を維持する方便である。 更に御簾に関する検討から、天皇の服喪姿「隠蔽」は仁和三年から昌泰三年までの間に成立したであろうことを指摘する。これは、九世紀後半以降、特に皇親以外の天皇即位などの天皇相対化に危機感を持った天皇たち自身による天皇機関化を背景とする。 また「如在」については、皇位継承時の如在之儀を再検討する。これは本来皇位喪失による天皇「ただ人」化=相対化を「隠蔽」し、天皇を表向き皇位を喪失していない=「ただ人」化していない、形式的ながらも絶対的存在として扱う作法だったことを指摘する。 以上から、天皇「隠蔽」による天皇の二面性分化明確化過程の検討を通して、中世的天皇の形成過程を明らかにする。
著者
出水 清之助
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.12, pp.1-38, 2020 (Released:2021-12-20)

本稿は、西日本の政党の動向と、懇親会という運動形態に注目することで、民権運動の停滞期(明治一六~一八年)に特有の運動の論理と展開について解明しようとするものである。 明治一七年の関西懇親会は、自由党と立憲政党の主導のもと準備・開催された。同懇親会は、大同団結が強調され、関西を中心に多数の地域から参加者を得たほか、四大政党の関係者が一堂に会するなど盛況を極めた。党派と地域を問わず、広く同主義の人々を糾合し、持続的に懇親を重ねることで、緩やかな連帯の成立を目指した点に同懇親会の特質があった。こうした特質をもつ懇親会は、集会条例改正後の「隔地割拠」(中央―地方関係の疎遠化)と、偽党撲滅運動後の党派対立の激化という、当該期の政党運動が抱えていた課題を克服する可能性を有するものであった。 以上のような特質を帯びた懇親会は、人々が集まって親交を深めるような単なる懇親会ではなく、規約・主義に基づいた、組織性のある一種の政治団体的性格を持つものであった。関西懇親会を主導した立憲政党は、この政治団体的な性格を有する懇親会を、党名簿や党規則を伴う有形政党ではない、同主義者の結合である「無形結合」として捉えていた。この時期、立憲政党や、同党と気脈を通じる有志は、東北・関西・九州といった一定の地域を単位とする懇親会形態の「無形結合」(=〈広域地方結合〉)を日本各地に創出しつつ、最終的にそれらを結びつけて〈全国的大同団結〉を図ろうとする長期的な構想を有していた。関西懇親会もそうした長期的な「無形結合」路線の一環として位置づけられていたのである。 以上のように、民権政党の停滞期には、懇親会が政党運動の重要な形態として浮上した。こうした漸進的に懇親を重ねるという運動形態は、この時期に発生した激化事件とは異なる論理を有し、社会から一定の支持を集めていた。当該期は政党運動が停滞したと評価されてきたが、こうした大同団結運動につながる可能性をもつ、この時期固有の運動が展開していたのである。
著者
井上 将文
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.12, pp.39-62, 2020 (Released:2021-12-20)

本稿の目的は、一九三二年~一九三四年に北海道庁(以下、道庁と略記する)が北海道を対象として推進した農業移民政策の検討を通じて、二つの移民政策の受け手側に立つ農家自身の主体性の一側面を抽出する。本稿では、北海道第二期拓殖計画(第二期拓計)下の農業移民政策(民有未墾地開発事業)とブラジル移民政策が、競合関係にあったことを論じた。一九三二年の拓務省による支度金交付は、凶作・水害下の道内農家に対して、ブラジルへの移動という選択肢を与えるものであった。北海道における一九三二年~一九三四年のブラジル移民の増加は、拓務省が提示した選択肢を選んだ農家が少なからず存在していたことを示す。生活維持が困難な農家の立場からすると、一定程度の資本が必要となる民有未墾地開発事業よりも無資本でも受給できる支度金は、利用しやすい政策であったといえよう。ただし、農家の移動・定着を決定づけたものは、道庁・拓務省といった政策主体側の意向ではなく、結局のところは、政策の受け手側に立つ農家自身の意思であった。この点を端的に示しているのが、名寄町(上川支庁管内)の事例である。一九三二年九月、名寄町では支度金の周知徹底を目的とした宣伝事業が行われたが、同月以降に同町から移民した農家は、皆無であった。一方、凶作・水害下の北海道において、道庁が推進する民有未墾地開発事業を利用して道内に定着しようとする農家もまた、限定的であった。本稿では、農家が移住・定着する要因として、移民個々の自由意思が重要な意味を持つと結論付けたい。
著者
藤澤 潤
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.1-35, 2021 (Released:2022-01-20)

本稿は、1990年から91年にかけてのコメコン改革ないしはコメコン後継組織の設立をめぐるソ連の方針とコメコン内の交渉過程について分析したものである。コメコンに関する研究史では、この時期のコメコン内の動向を扱った研究はほとんどなく、1989年の「東欧革命」以降、コメコンは自然消滅したとする見方が今なお有力である。これに対して本稿は、旧ソ連・東ドイツのアーカイヴ史料をもとに、この時期のコメコン内の交渉過程を実証的に分析し、以下の結論を得た。 1990年以降のコメコン改革をめぐる交渉で、当初、ソ連はコメコンの枠内で経済統合を進めようとしたが、中欧3国(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド)の反対を受けて大幅に譲歩し、協議を主目的とする権限の弱い国際経済関機構(OMES)をコメコンの後継組織として設立することに同意した。しかし、コメコンには欧州域外の国々も加盟しており、とくにキューバが非欧州加盟国に対する特別の配慮を求めてOMES規約案に反対し続けたことから、合意形成は遅れた。最終的に、1991年2月初頭には全ての加盟国がOMES規約案への調印に同意したものの、その直後に中欧3国は欧州共同体との個別交渉を優先することを決定し、非欧州諸国がOMESに参加することを理由に規約案への同意を撤回した。この中欧3国の方針転換の結果、コメコンは何らの後継組織を残すことなく解散した。このように、コメコンは求心力を失って自然消滅したのではなく、欧州情勢の急変やそれに伴う加盟国の方針の変化、さらには非欧州加盟国との関係などが複雑に絡み合って解散へと行きついたのである。
著者
村瀬 啓
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.39-65, 2021 (Released:2022-01-20)

戦間期の帝国日本において、朝鮮総督府や満洲国といった外地政府は中央政府(内地政府)の介入を拒絶するほどの自律性を持ち、内地政府はそれらの外地政府に影響力を及ぼし、あるいは交渉することを繰り返し試みた。帝国日本におけるこうした内外地間の政治過程についてはある程度の研究蓄積があるものの、大恐慌の克服とブロック経済の構築のため、外地政府との協調の重要性が増した満洲事変後の政治過程については、未解明の部分が多い。本稿は、1930年代において内地政府が朝鮮総督府および満洲国と交渉し、帝国大の経済政策を形成する過程を検討するものである。分析に際しては、特に激しい利害対立が内外地間で見られた農業政策に注目する。したがって本稿は、内地政府のうち農林省が植民地政府と展開した交渉の過程を跡づける。 1930年代前半、農林省はまず朝鮮総督府との米穀統制をめぐる対立に直面した。恐慌下で米価の低落に喘ぐ農村を擁護するために、農林省は朝鮮からの米穀移入を抑制しようとした。しかし結果的には、農林省の試みは朝鮮総督府の強い反対と拒否権の前に挫折することになる。農林省にとって、総督府との二者間交渉によって自らの主張を通すことは困難だったのである。 他方で農林省は、満洲国に対しては自らの利害を主張することができた。まず農林省は、日満産業統制委員会における満洲開発政策の形成に参画した。同委員会は商工省や資源局といった複数の省庁によって構成されており、それゆえに農林省は多省間調整が可能であった。さらに農林省は、満洲産業開発五ヶ年計画の策定にも参加することができた。 こうした過程を経て、農林省は満洲国との協調関係を構築していった。日中戦争が勃発すると、農林省はこの協調を基に、自らの利害を盛り込んだ帝国大の農業政策を構築し始めるのである。
著者
賀 申杰
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.2, pp.1-36, 2021 (Released:2022-02-20)

これまで、明治期の横須賀造船所の事業状況に関する研究は主に焦点を国内の軍需と民需の両面にあてて論じているが、本稿は外国船の修理という視点を導入し、明治一六年の海軍軍拡の開始まで、船舶の修理事業に重点を置いた横須賀造船所の事業状況、とりわけ外国船修理の受入れに対する造船所・海軍省の態度ついて検討を試みました。 この時期、部外船の修理の受入れに対する海軍の態度に関する考察として金子栄一・小林宗三郎、室山義正らの研究があげられる。これらの研究は修理船の外需の排除を海軍の方針として理解し、その上で、ヴェルニーの解雇の原因として外国船修理に関する彼の方針への海軍の反発があったと理解している。さらに、ヴェルニーが解雇されて以降も、造船所が依然として広く外国船の修理に従事したことについてそれを海軍の意図に反するやむを得ない選択として理解している。 しかし、前掲の各研究は史料的制約に規定され、その説は充分な実証に支えられているとは言いがたい面も多い。実際当時海軍・外務両省の公文を分析すると、当時両省はむしろ外国船修理の受入れに歓迎していた。 以上の研究を踏まえ、本稿は従来では史料的な裏付けが弱かった横須賀造船所における外国船修理状況に注目し、外国船の修理申請に関する規則の制定過程を明らかし、その上で、外国船修理の受入れに対する海軍・外務両省の態度を再検討したい。よって、第一章ではフランス人主導時代の横須賀造船所における外国船修理の受入れ状況を分析し、当時造船所の経営上に存在した問題を究明する。そして第二章では、ヴェルニーの解雇前後における外国船修理の申請手続きに関する規則の制定・改正の過程に注目し、規則の制定をめぐる海軍の意図を明らかにしようとする。最後の第三章では、ヴェルニーの解雇後の明治一〇年代前半における外国船修理の事業状況を分析し、外国船修理の受入れに対する海軍の態度を分析する。
著者
新見 まどか
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.9, pp.1-35, 2020 (Released:2021-09-20)

一般的に、唐代藩鎮は中央集権支配に反目した負の印象が強い。しかし近年の研究により、唐が軍事・行政・財政等、諸方面に亘って藩鎮に依存していたことが明らかとなった。唐は、藩鎮体制というシステムがあったからこそ、安史の乱後も存続することが出来たと言っても過言ではない。ただし、朝廷と共存関係にあった唐代藩鎮は、僖宗(きそう)期の黄巣(こうそう)の乱を境に変質していったとされる。では、唐代藩鎮体制は具体的にどのような過程を辿って破綻に至ったのだろうか。本稿ではこの点を解明すべく、僖宗期の軍事政策に如何なる過失があったのかを分析し、唐滅亡と唐代藩鎮体制との関連を考察した。 黄巣の乱が勃発した際、朝廷は、乱に遭遇した現地の節度使に対応させるという基本戦略を採用した。しかし、現地兵は実は賊と表裏一体であったため、この戦略は有効ではなかった。そしてより重要な問題は、黄巣の乱前半期、本来唐の軍事力の根幹であったはずの遊牧勢力が、ほぼ全く利用されなかったことである。この原因は、黄巣の乱と同時期に代北で起こった李(り)克用(こくよう)の乱であった。黄巣の乱の淵源地と李克用の乱の淵源地とは、藩鎮体制においてはいずれも唐を守るべき戦力が配備されていた地域だった。しかし僖宗期には、その両方の軍事力が利用不能となったのである。そのため朝廷は有効な対策を取れず、二つの乱は相互に連動しながら拡大していった。以上のような藩鎮体制の軍事的破綻が、唐朝の解体に繋がったと考えられる。 従来、唐滅亡の要因は専ら黄巣の乱にあるとされ、李克用に関してはそれを平定した功績が強調されてきた。しかし、唐が滅んだのはむしろ、黄河の南北で発生した二つの乱の相互作用によると見做すべきだろう。このような見方は、ひいては唐滅亡の歴史的意義を、唐内地のみならずより広域的な視野で位置づけることにも繋がる。
著者
章 霖
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.9, pp.39-64, 2020 (Released:2021-09-20)

第一次世界大戦以後における国際協調の機運や平和的思潮は、海軍にも大きな影響を与えた。特に一九二二年のワシントン海軍軍縮条約の締結はその顕著な例であろう。こうした時期において、海軍は如何なる広報活動を行って、地域社会との関係を構築しようと試みたのか。この問題については、近年の先行研究では海軍当局による宣伝活動のほか、特に軍港という空間に着目して、海軍と地域社会・民衆との関係性を問う社会史・地域史的研究が蓄積されつつある。 そこで、本稿では軍港ではなく、関東州へ巡航する艦隊に着目し、巡航中の海軍と寄港地の状況、両者の相互関係を検討することで、大正期における海軍の平時行動の実態を明らかにするとともに、海外租借地である関東州との関係を考察し、海軍と地域社会との関係の新たな一側面を明らかにすることを試みた。 第一章では、海軍の演習、訓練などの平時の艦隊行動を整理し、こうした艦隊行動の一環としての巡航計画の立案過程と巡航中の寄港地状況を分析する。第二章では、関東州の現地状況を整理し、艦隊が関東州に寄港する状況を日本国内の寄港地と比較しつつ、関東州の特徴を考察する。これにより、関東州巡航における最大の特徴だった、大規模な艦隊便乗見学の仕組みを明らかにする。第三章では、一・二章の考察を踏まえて、関東州在住の日本居留民と中国人双方の艦隊に対する感情の相違を、現地発行の中国語新聞などを用いて分析し、関東州巡航が海軍と地方側にもたらす結果を検討する。 以上の考察を踏まえて、関東州巡航は、海軍が国内外の情勢変化に対応すべく、艦隊の平時の艦隊行動を変化させた結果であるとともに、現地中国人への「外交」的意図も含意したものだったことが浮き彫りとなる。
著者
村 和明
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.1-4, 2020 (Released:2021-12-01)

本企画の趣旨は、天皇像―すなわち天皇の(図像ではない)イメージ、天皇のあり方・あるべき姿をめぐる像―を分析対象とし、列島のさまざまな時代におけるその形成、変容、利用のあり方を考える、というものである。特に留意したのは、具体的な時代状況・政治過程のなかで考えるという視座と、媒体となる史料・書物に焦点を当てるという方法であった。 本企画はいうまでもなく、天皇の代替わりをめぐる動向が、国民的な関心をあつめている社会状況を強く意識して企画・開催された。この代替わりに先行して、天皇明仁(当時)による、過去の天皇についての歴史認識をふまえた、現代の日本国憲法下での天皇の役割をめぐる積極的な発言、行動がみられた。国際環境の激動のもと、国内政治・経済の新たな動向が模索される社会において、こうした明仁天皇の言動は強い印象をもって受け止められ、それによって現代日本における天皇(皇族も)についての従来の像・イメージは揺らぎ、意識するとしないとを問わず、再構築がなされてきたように思われる。 さて、前回の代替わりの前後を振り返ると、やはり学会を越えて関心の大きな盛り上がりがあり、天皇にまつわるさまざまな事象について研究の気運が非常に盛り上った。この盛り上がりが、関心の焦点を少しく変えながらも継続し、現在まで研究成果が蓄積されてきたと評価できるであろう。現在の状況を念頭に置いてこの時期をみるならば、当時の人々が経験してきた時代状況、昭和天皇の人物像、その地位をめぐる政治過程などの要素が、当時の、そしてその後の天皇像や、研究史における問題関心に大きな影響を与えていたことが改めて見てとれよう。こうしたある種の規定性や、天皇像の社会における変容が、広く認識されつつある現在は、天皇や、より広くは世界の君主制をめぐる歴史学にとって、またとない発展の好機ではなかろうか。 以上のような観点から、本企画では、さまざまな時代における具体的な政治過程とからみあって、天皇のイメージが形成・伝達され、変容してゆく姿に、媒介となる文字資料そのものにこだわりながら、迫ろうとした。これはまた、研究史における天皇像をも史学史的に再検討することを通じて、豊かな研究蓄積を批判的に継承し、新たな発展の手がかりを得ようとする試みである。さらに、近年の歴史学で重視され豊かな成果を生んできた、表象・意識・言説・「伝統」の分析や、こうした動向によって伝統的な蓄積にさらなる深みを加えつつある史料論を活かし、最先端の視座や方法を議論することも意図した。本企画において提示された多様な内容と議論が深められ、また読者諸賢によりさらに豊かな論点や、研究を躍進させる新しい切り口、新しい息吹が汲み出されること、また現在人々が向かい合っている課題を歴史学から考え、歴史学こそがなすべきことは何かを、改めて問う一助となることを期待するものである。