著者
清水 光明
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.34-55, 2020 (Released:2021-12-01)

本稿の目的は、近世後期の尊王思想の流通について、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係で再検討することである。ここでいう尊王思想とは、大政委任論・「みよさし」論・朝廷改革構想・尊王攘夷思想等を念頭に置いている。先行研究は、これらの尊王思想に関してその形成過程や機能に着目してきた。例えば、中国思想(朱子学)との関係や、内政状況(宝暦・明和事件や尊号一件)、外政状況(対露関係やペリー来航)、幕末の政治状況(将軍継嗣問題や安政大獄)等への着目である。 これらの研究は、尊王思想についての基礎的な成果と見做すことができる。その上で、次の課題は以下の二点である。一点目は、尊王思想の流通と幕府の政策との関係である。近世後期の尊王思想は、天皇・朝廷の権威の上昇や対外危機の勃発によって、幕府の統制を越えて流布したというイメージがある。このイメージは、天保改革における出版統制の強化によって補強される。しかし、尊王思想は、近世後期には広く公然と流布していた。例えば、中井竹山『草茅危言』、頼山陽『日本外史』、会沢正志斎『新論』等である。何故このような現象が生じたのであろうか。本稿では、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係から、尊王思想が流布する過程と環境を検討する。 二点目は、天皇像と他の為政者像との関係である。よく知られているように、近世日本では幕府が朝廷を厳しく統制した。したがって、この時代の天皇像を考察するためには、天皇と他の為政者(将軍や大名)との相互関係に留意する必要がある。 以上の観点を踏まえて、本稿では、まず十八世紀から十九世紀にかけての出版統制の変遷と編纂事業の展開を跡付ける。その上で、天保改革において出版統制が大きく変更された経緯や背景を検討する。そして、その変更の結果や機能について分析する。これらの考察を通して、本稿ではこの出版統制の変更(一部規定の緩和)が尊王思想の流通や近世から幕末への連続面・非連続面を考える上で重要な転換点であることを明らかにする。
著者
近藤 和彦
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.76-84, 2020 (Released:2021-12-01)

天皇像の歴史を君主(monarch)の歴史の共通性において、また特異性において理解したい。ちなみに西洋史で、両大戦間の諸学問をふまえて君主制の研究が進展したのは1970年代からである。2つの面からコメントする。 A 広く君主制(monarchy)の正当性の要件を考えると、①凱旋将軍、紛議を裁く立法者、神を仲立ちする預言者・司祭といったカリスマ、②そうしたカリスマの継承・相続、③神意を証す聖職者集団による塗油・戴冠の式にある。このうち②の実際は、有力者の推挙・合意によるか(→ 選挙君主)、血統によるか(→ 世襲君主)の両極の中間にあるのが普通である。イギリス近現代史においても1688~89年の名誉革命戦争、1936年エドワード8世の王位継承危機のいずれにおいても、血統原則に選挙(群臣の選み)が接ぎ木された。天皇の継承史にも抗争や廃位があったが、万世一系というフィクションに男子の継体という male chauvinism が加わったのは近代の造作である。 B 近世・近代日本の主権者が欧語でどう表現されたかも大きな問題である。1613年、イギリス国王ジェイムズが the high and mightie Monarch, the Emperour of Japan に宛てた親書を、日本側では将軍(大御所)が処理し、ときの公式外交作法により「源家康」名で返書した。幕末維新期にはミカド、大君などの欧語訳には混迷があり、明治初期の模索と折衝をへて、ようやく1873~75年に外交文書における主権者名が「天皇」、His Majesty the Emperor of Japan と定まった。NED(のちのOED)をふくむすべての影響力ある辞書はこの明治政府の定訳に従順である。じつは emperor / imperator は主権者にふさわしい名称かもしれないが、そもそも血統という含意はないので、万世一系をとなえる天皇の訳語としては違和感がぬぐえない。とはいえ、世界的に19世紀は多数の「皇帝」が造作された権威主義の時代でもあった。
著者
戸川 貴行
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.4, pp.1-29, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿では、五~六世紀を中心として華北の諸政権において行われた雅楽の復興・再建のプロセスに注目し、楽制史の観点から、中国の「正統」というものを見直した。 後漢末から五胡十六国時代にかけての混乱によって漢以来の楽制が失われたのち、華北を手中におさめた北魏は、四世紀末から五世紀に鮮卑の音楽を利用して新しい楽制を立てた。しかし、それも爾朱兆の洛陽襲撃によって失われる。その後、北魏末に西涼楽を利用して楽制の欠を補うことがなされた。西涼楽とは五胡十六国時代、呂光が西域地方の亀茲楽に関中地方の秦声をまじえて作った音楽のことである。 この西涼楽を中心とした雅楽は、北魏の流れをくむ北斉・北周両王朝にも踏襲されて「中国」の音楽の基本となった。ただし、西涼楽は本質的に「中国」の伝統的な音楽ではなかったから、それを「中国の伝統」に則ったものとして見せかけるために、北斉・北周両王朝においては、理想上の周の制度について記したとされる儒学の経典『周礼』を利用して、呼び名などを周の制度に合うように改め、新しい雅楽を「伝統」的なものとしてカモフラージュした。 その際の『周礼』の用いかたについては、同時代の南朝において復興しつつあった『周礼』研究の影響が認められる。とくに北周について言えば、南朝系の沈重の果たした役割が大きかった。一方、雅楽の胡楽化批判から始まる隋の楽制改革は、南朝系の何妥の活躍もあって、西涼楽よりも南朝清商楽の影響を強く受けるようになる。その結果、隋の雅楽は南朝清商楽の強い影響を受けた音楽を『周礼』によりカモフラージュしたものになった。 以上から、梁・北斉・北周・隋の雅楽は、『周礼』によるカモフラージュをへることで、中国の新たな伝統として確立したといえる。
著者
原科 颯
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.4, pp.30-54, 2020 (Released:2021-09-09)

明治22(1889)年に制定された(明治)皇室典範(以下、典範)は、皇位継承や皇族など皇室に関する重要事項を定めた。本稿は、従来等閑視されてきた元老院議官の制定への関与に着目した上で、典範によって規定された皇室の自律性を明らかにするものである。 典範草案の多くは、柳原前光や尾崎三良など、近世朝廷関係者で三条実美を人脈的結節点とする元老院議官によって作成・協議された。それらは、井上毅の意見とは異なり、天皇の皇族に対する監督権(以下、皇族監督権)を尊重しながら、皇位継承順序・摂政就任順序の変更などは元老院へ諮詢されねばならないとした。背景には、皇室の自律性確保や元老院の権限強化といった志向がうかがえる。 しかしながら制定を主導した伊藤博文は、皇族監督権を容認する一方、皇位継承順序の変更については、皇室の政治からの独立性を担保すべく、元老院のみならず内閣への諮詢も否定した。こののち柳原は、伊藤・井上に対し、起草作業の主導権をめぐる対抗意識や政治的闘争心を強めるに至った。 その後、典範諮詢案の枢密院会議では、永世皇族制が採択されたものの、皇族の婚姻や懲戒などに関しては、宮内大臣の副署や皇族会議ないし枢密顧問官への諮詢を要すとしつつ、天皇の皇族監督権が広く認められた。 かくして典範の制定は、憲法のそれとは対照的に、草案の広範な回付や伊藤への対抗意識を伴った。この間、柳原ら議官は一貫して上院の皇室事項への関与を重視したが、伊藤は内閣・議会いずれの関与も斥けた。しかしながら両者は、先行研究では看過されてきたが、皇位継承を除く皇室事項について天皇の意思を尊重する点では概ね一致したといえる。即ち典範は、皇室の自律性を確保すべく、皇室の政治からの独立性(消極的自律性)を保障した上で、皇室事項は原則として、天皇をはじめ宮内大臣・皇族会議・枢密顧問官の意思で決定・運営されるとしたのである(積極的自律性)。
著者
福地 スヴェトラーナ
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.6, pp.1-31, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は日ソ戦争直後にスターリンが満洲の日本人捕虜をソ連領内に移送して労働使用する命令を発令する過程と、ソ連極東軍が日本人捕虜をソ連領内に移送する過程が、常にアメリカが関与する状況の中で進められていた可能性についてソ連とアメリカの史料に基づいて検証することを目的とする。 ソ連では捕虜の労働使用が積極的に行われ、経験的にも技術的にも定着して制度化されていた。独ソ戦においてソ連は戦争終結後にもドイツ人捕虜の抑留と労働使用を計画したが、アメリカの反対が予想された。これに対してソ連はドイツの捕虜収容所からソ連軍が解放したアメリカ人を抑留状態に置き、その帰還者数を制限することによりアメリカの反対を抑えようとした。 日ソ戦争では日本人捕虜の取り扱いは独ソ戦争の経験に基づいて行われ、捕虜をすぐにはソ連領内に移送せずに武装解除地点に捕虜収容所を設置して収容状態を維持する命令が発令され、七日後にスターリンから捕虜を領内各地に移送して労働使用する命令が発令された。 この命令の実行に対してもアメリカの反対が予想されたが、アメリカは移送の事実を把握していたにも拘わらず沈黙を維持し、結果として移送を黙認することになった。 アメリカは日本が満洲に設置した捕虜収容所に収容されているアメリカ人の早期帰還についてソ連に協力を要請しており、ソ連はそれを受け入れて帰還は順調に進められて完了したが、これと引き換えにアメリカは日本人捕虜の移送に沈黙したものと考えられる。日本人捕虜の移送は翌年春まで続いたが、ソ連はその移送が完了するまでドイツの捕虜収容所から解放したアメリカ人の抑留状態を維持し、日本人捕虜の移送についてアメリカの介入を封じることに成功した。日本人捕虜の移送と労働使用の問題はソ連と日本の問題ではなく、ソ連とアメリカと日本、さらにはソ連とアメリカの問題であった。
著者
飯島 直樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.8, pp.1-37, 2020 (Released:2021-09-09)

「協同一致」の論理とは、陸海軍が完全に意見一致することで、軍事協同作戦の遂行が可能になるという論理であるとともに、天皇への輔弼責任の保障という軍による輔弼の在り方を建前とした、陸海軍間や他の国家機関との間における自己正当化の論理だった。本稿は、「協同一致」の輔弼責任を保障していた元帥府・軍事参議院を分析軸として、昭和戦前期における陸海軍関係の一端を解明することを目的とした。 日露戦後、軍事参議院は戦闘用兵事項について軍政・軍令機関の「協同一致」の輔弼責任を保障する役割を担った。元帥府には国防用兵事項について統帥部が諮詢奏請、元帥会議による全員一致の奉答を経て裁可を仰いだ。両統帥部が「協同一致」の輔弼責任を元帥府奉答で仮託することで、内閣と対等の立場で国防用兵事項の決定に関与するという政治的正当性を具現化していた。 この「協同一致」の論理が動揺したのが、ロンドン条約批准問題だった。参謀本部は兵力量改訂を両統帥部の「協同一致」の連携で行うことを当然視していたが、海軍では多数決制や議長表決権のある軍事参議会の場で条約否決を目指す艦隊派への対応に忙殺され、陸軍との連携が疎かになった。参謀本部では海軍の紛争への関与を回避したい上層部と、将来の陸軍軍縮や協同作戦策定を見据えて海軍との「協同一致」の維持を重視する中堅層が対立したが、結局は海軍単独軍事参議会開催で妥協した。このことは、陸海軍関係の観点では「協同一致」の論理の綻びを示すものであった一方、枢密院の審議方針に影響を及ぼすなど、他の国家機関に対しては軍の表面的な「協同一致」が有効に作用していたことを示す。 最後に、「協同一致」の論理に依拠してきた陸海軍関係がロンドン条約の段階で動揺したことは、戦時期の政策や作戦面での陸海軍対立の淵源となったこと、戦時期に海軍を「協同一致」の下に牽制するために陸軍で元帥府活用構想が浮上することを展望した。
著者
崎島 達矢
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.1, pp.40-68, 2020 (Released:2021-09-02)

本稿は、近世以来の自治慣行を継承しつつ、明治初期に政治・外交・経済上の要所で三府開港場と称された東京・京都・大阪・横浜・神戸・長崎・新潟における税の収支実態の検討と、地方税規則の例外措置であった三部経済制との関連の検討を通して、都市財政構造の近世から近代への変容過程を明らかにすることを目的とした。 第一章では、維新後の府県財政を制度的に概観した上で、大蔵省収納の諸運上・冥加金が、近世的な収支慣行を残しながら、明治五、六年の府県限り取立税に関する法令に先んじて、目的税として三府開港場へ切り出されていたことを明らかにした。その背景には疲弊する町人の民費や共有金の負担を回避しつつ財源を確保する意図があった。 第二章では、それらの徴収・支出の実態を「賦金調」を元に検討した。府県庁と町会所が担う行政内容の近接性、近世以来の税の収支慣行の存続ゆえに、実際には目的税の制約を超えた「共有金的な」運用が展開された。一方、府県庁直下の中心地では府県庁が直接扱うために、府県庁直下の中心地、市街地、郡村地と土地柄に応じて区別した制度が整備されていた。 第三章では、明治八年の税制改革の意義を考察した。雑税廃止により近世以来のその収支慣行が解消され、府県税は普通税として成立した。結果、府県税支弁が拡大されると共に、府県税・共有金・民費の区別が進み、府県税は府県庁が直接徴収・支出する税としての性格が強まった。さらに土地柄に応じて区別した税運用制度は維持され、都市固有の財源であり続けた。 以上のように、府県税は、三府開港場に固有の財源であった府県限り取立税・賦金とは異なり、府県一般のものとして成立した。しかし運用面では府県税以前の都市の財源を確保するための構造が引き継がれており、三部経済制が成立する構造的背景を成していた。その意味で府県税創設は近代都市財政成立の起点となっていたと結論付けられる。
著者
薩摩 真介
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.2, pp.1-36, 2020 (Released:2021-09-09)

英西間の一七三九年のジェンキンズの耳戦争に対しては、ウォルポール政権を批判する野党のプロパガンダ・キャンペインとそれに煽られた世論が引き起こした戦争という見方が早くから存在した。そのため、スペインの沿岸警備隊によるアメリカ海域でのブリテン商船拿捕問題などをめぐるこの時期の政治的論争も、しばしば戦争原因の探求という文脈の中で扱われてきた。また近年では、ウィルソンの研究のように、議会外集団の政治参加のあり方を探る政治史的観点からも分析されている。しかし、本論文ではこの時期の議論を、近年の財政軍事国家論の進展を踏まえ、十八世紀半ばのブリテンにおける軍事力、とくに海軍力の行使を正当化ないし批判するロジックの解明という新たな観点から分析する。 使用した主な史料は、新聞・パンフレット類などの出版物、および議会討議録であるコベット『議会史』である。本論文ではこれらを用いて、拿捕問題が議会で論じられ始めた一七三七年から、ジェンキンズの耳戦争がオーストリア継承戦争に合流する四〇年末までの時期について、従来十分検討されてこなかった政権側の議論も含め、また議会外の出版物と議会内の議論も照合しつつ、政治的言説の内容と変化を精査した。 分析を通じて明らかになったのは以下の点である。すなわち、与野党双方ともスペインとの戦争を正当化ないし批判するに際し、商業利害を中心としながらも、それに留まらない地主層を含む幅広い経済的利害の擁護を主張の根拠として援用していたこと、陸軍と異なり海軍自体は批判の対象にはならなかったものの、コストに見合うその有効な活用法をめぐって、政権の「腐敗」とも結び付けられて批判が展開されていたこと、そして政権側の反論を封じる過程で、野党側が「航海の自由」を通商国家ブリテンにとっての妥協の余地なき権利として祭り上げ、さらに開戦後には、それが政権側によっても戦争の大義名分として主張されるに至ったということである。
著者
袁 甲幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.2, pp.37-72, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は、明治前期に広く展開されていた府県庁「会議」(各部課署係の正副長ないし一般属官を構成員とし、議会的な議事規則を用いて府県内の重要事案を審査する諮問機関)を対象に、府県行政における意思形成過程の一端を解明することを通じて、近代国家形成期における「公論」の変容過程を考察したものである。 廃藩置県後、府県庁内の官吏と区戸長・公選議員とが交わる「官民共議」的な地方民会が一時に現れたが、公選民会の発達により官吏は徐々に除外された。しかし官側にも、意見集約の場と、対等な議論による意見形成の経路が求められていたため、明治ゼロ年代末から明治十年代初頭にかけて、多くの府県で「会議」が創出された。「会議」の誕生経緯、規則、および議事録からは、「会議」が府県行政、特に議会の議案審査など対議会事務において大きな役割を果たしていたことが指摘できる。府県会が成立したにもかかわらず、議会式な意思形成経路が行政内部に存続しつづけた理由は以下の二点が挙げられる。一つ目は、官僚制内部の階級差や専門性の分化がまだ希薄だったため、行政内部においても対等な議論および議論による意見集約が比較的に達成しやすかったということ、二つ目は、「会議」を構成する属官層が、その出自・教育背景に由来する「公論」観、すなわち「公論」とは「賢明」で「公平無私」な人物の「衆議」によって形成されるものだという認識に基づき、地域利害を反映する議会と異なる役割を自覚していたことである。その後、地方官官制の整備につれ「会議」は上層部のみの部局長協議会へと収斂されていったが、議会制の危機あるいは新たな課題に応じ、「会議」が再び姿を見せることも屢々あった。 このように明治前期においては、行政における「公論」が、「民」側の民会・府県会と、「官」側の府県属官層によって支えられていた「会議」と、すなわち「官」「民」双方の「衆議」で棲み分ける形により、異なる側面の「至当性」を確保しようとしていたと捉えることができるのである。
著者
滝野 祐里奈
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.3, pp.1-34, 2020 (Released:2021-09-09)

ハワイへの官約移民に始まる日本人の大規模な海外移民及び植民は、国内外の政治状況に左右される形で、山谷を繰り返してきた。明治以後、多くの人びとがハワイ、そして北米へと移住したが、1908年の日米紳士協約によって事実上、米国への移民の途を閉ざされるに伴い、海外移民数は落ち込んだ。しかし、1920年代には、年間1万人から2万人もの人々が、再び移住先を、ブラジルを中心とする南米にかえて、海を渡るようになる。本稿は、この所謂「ブラジル移民ブーム」と呼ばれる現象の背景にあった、第一次世界大戦後の海外移植民政策・事業の変化とその規模拡大の過程を明らかにしながら、その政策的・社会的位置づけと特質の描出を試みるものである。 1920年代の海外移民送出数の盛り上がりの直接的な要因としては、1924年に内務省社会局が実現したブラジル移民渡航費全額補助が挙げられよう。大人一人につき200円もの渡航費を数千人規模で国庫から歳出するという同制度を含む、一連の海外移植民政策・事業は、当時、過剰人口問題の解決策と銘打たれていた。ただし、1920年代後半には、国内で食糧と職業を賄えない人々ではなく、一定程度の資産を持つ層を、移民ではなく植民として南米へ送出することへと、政策の軸が明らかに変化した。こうした政策・事業の変化の背景を明らかにしながら、本稿は、前述の目的に沿い、第一次世界大戦後のブラジルを中心とする海外移植民政策・事業について、深刻化する社会問題の解消と、海外への土地投資及び移住地建設を結び付けるような社会的枠組みを与えるもの、即ち、日本勢の海外進出に社会政策の看板を掲げるという、社会帝国主義の相貌を有するものであったことを指摘する。
著者
長﨑 健吾
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.9, pp.1-38, 2019 (Released:2021-09-02)

本論文では天正4(1576)年に法華宗(日蓮宗)教団が京都で実施した勧進に関する史料を分析し、戦国期の都市民における永続的な「家」(イエ)および都市民の社会的結合について考察する。第一章では勧進史料における家の位置付けを「家数」記載や信徒数の集計方法に注目して分析する。法華宗教団は家単位で信徒を把握しようとしていた。信徒の大半は教団側の志向に従って当主名義で家として出資を取りまとめたが、当主以外の家構成員や他宗の檀家に包摂された女性信徒などが個人として出資をする場合もあった。先行研究はこれらの点に留意していなかったため、家について適切に考察することができなかった。 第二章では狩野・後藤・本阿弥・五十嵐等の有力信徒の一族を取り上げ、家と一族の関係について考察する。当該期には婚姻の際に女性が帰依する僧坊を夫に合わせるか否かを選択しており、菩提所を異にする家同士の婚姻によって家や一族内部で帰依する僧坊が複数あるという事態が生じた。続いて上京小川地域における都市民結合について考察した。同地域は武具の製造・販売など武家政権周辺の需要を満たす工房街としての性格を有しており、住民の多くは職縁によってゆるやかに結びついていた。地域内における住民の移動と近隣での婚姻が繰り返された結果、小川地域においては職縁が住民の地域的なまとまりに転化していった。 第三章では西陣地域における都市民結合の特質について織物業者である大舎人座を取り上げて考察する。座衆や染色業者、染色に用いる紺灰の流通を掌握する商人のあいだには法華宗信仰が浸透し、既存の職縁を基に二次的な結合を創り出す媒介として機能していた。大舎人座衆は大宮今出川の辻を中心とする西陣地域内で最も有力な町々に居住しており、座衆自身も有力住民を構成していた。座衆は応仁の乱後にこれらの町々に定着し、西陣地域における地縁的共同体形成の核となった。
著者
小野寺 瑶子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.10, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

18世紀ロンドンでは、都市化の進行をはじめとする社会状況の変化に対応すべく、治安維持機構の改革が進められていた。近年の研究において、18世紀と19世紀の間に一定の連続性が認められる中で、本論文は、中央集権的な警察機構に強い抵抗を感じていたイングランド社会に、いかにして近代警察が導入されるに至ったかについて改めて探ることを目的とした。パーマーによれば、首都警察導入の背景として、騒擾対応において軍隊を用いる機会が増え、警察への抵抗感も薄れていったのであろうと指摘されている。これに対し、筆者は、軍隊と異なる性質を持つ義勇団の治安維持活動に着目し、治安維持組織改革における義勇団の役割と意義を捉え直すことを試みた。 本論において、まず、ロンドン・ウェストミンスタ義勇軽騎兵団及びシティの2つの武装協会を事例に、義勇団の構成並びに財政のあり方について詳しく考察した。結果、義勇団は国からの支援を受けて国と協力関係を結びながらも、日頃から培われてきた地域共同体のネットワークを基盤としていたことが明らかになった。続いて、対仏戦争期の騒擾対応の検討を通して、社会の変化と共に繁雑となった治安業務について、内務省の緩やかな指揮の下、様々な治安維持の担い手が連携しながら、戦時下の新たな社会状況に対処していたこと、また義勇団の参与により、治安判事と治安官を中心とする従来の治安維持組織の不備が補われたことも明らかにした。さらに、議会議事録や下院委員会の報告書の分析を通して、ナポレオン戦争終結後、義勇団の騒擾対応における働きを念頭に置きながら、共同体の自立した住民から成る組織に軍事的規律を導入し、有用性を高める方向で、治安維持組織改革が検討されたことを明らかにした。首都警察成立はその流れの中に位置づけられると共に、リスペクタビリティよりも実践的な有用性を重視した点において従来の治安維持組織と一線を画していたといえる。
著者
伊東 かおり
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.10, pp.27-51, 2019 (Released:2021-09-02)

列国議会同盟(Inter-Parliamentary Union、以下IPU)は1889年に創設された主権国国会議員から成る現存する国際機構である。1908年、衆議院はこれに加盟して日本議員団を結成し、1914年には排日問題を協議する日米部会を組織するなど、一定の成果を挙げる活動を行った。だが、貴族院は当初から日露戦後の財政逼迫を理由に加盟を拒否し、またやがて第一次世界大戦が勃発すると、衆議院とIPUとの関係も希薄化し消滅する。本稿は、こうした時期にIPUと帝国議会の間を私的に仲介し、日本議員団の再組織と貴族院の加盟に尽力した国際主義者・宮岡恒次郎を取り上げ、ジュネーヴのIPUアーカイヴズや衆議院国際部が所蔵する列国議会同盟に関する史料等をもとに宮岡の活動を検討し、宮岡の背景にあった当該期議員外交の国際環境を明らかにすると同時に、宮岡の視点に立って帝国議会の「国際化」を俯瞰し、そこに内在された問題を浮き彫りにする。 本稿ではまず、非議会関係者である宮岡を介したIPUと帝国議会の言わば「非公式」ルートの形成過程を追う。それによりこの背景にあった国際主義者のネットワークが可視化されよう。次に、宮岡の具体的な行動や情報の流れを整理する。その際宮岡がIPUに書き送った、帝国議会が「国際化」する上での構造的な課題についても検討する。宮岡は議会主義を支持し衆議院の発展を国外に向けて強調しつつも、議員外交にはいくつかの面で貴族院の方が適しているという独自の論を展開し、貴族院の加盟をIPUと帝国議会が安定した関係構築の必要条件と考え行動する。それは一般に言う「外交の民主化」イメージとは異なる、「古典外交」の発想が色濃く残った議員外交の考え方であった. 最後に、「非公式」ルートの結果として、日本議員団再組織の過程と貴族院加盟問題の推移を明らかにし、1920年代以降の帝国議会の渉外活動の展開について展望を述べる。
著者
木村 美幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.11, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿では、海軍志願兵募集や「海軍と地域」研究の課題に大きくかかわる海軍と在郷軍人の問題について、海軍の在郷軍人会に対する姿勢に注目して検討した。 海軍は、一九一〇年に在郷軍人会ができると、財源の問題と在郷軍人統制に対する立場の違いから不参加となった。不参加としたものの在郷軍人会に加入する海軍軍人もおり、制度上陸軍のみの団体である不都合を改善するため、一九一四年に在郷軍人会へ正式加入した。加入後に出された勅語には田中義一の影響などがあり、海軍の反対にもかかわらず「陸海一致」の文言が盛り込まれ、これ以降在郷軍人の「陸海一致」の根拠として使用された。 在郷軍人会に加入したものの、陸軍中心の状況は変わらなかった。一九一九年頃には第一次世界大戦の影響によって海軍も在郷軍人統制に力を入れることになり、在郷軍人会からの分離を含めて海軍在郷軍人の立場向上が模索された。一九二一年になると、各地に海軍在郷人の私的団体が結成されていく。これに対し海軍省人事局は、海軍在郷軍人が少数であり在郷軍人会に加入しなければならない地域を考慮して否定的な態度をとるが、志願兵募集状況を勘案した結果、在郷軍人会から分離しない形で事業を行う海軍班を、一九二五年に設置した。 海軍班は各地に設置され、海軍志願兵募集活動や宣伝活動などを地域で担った。しかし、海軍軍人は陸軍軍人と合同の分会の事業も行う必要があり、海軍軍人の不満が高まった。このため、海軍軍人のみで事業の出来る海軍分会を一九三六年に設置した。しかし、陸軍中心の状況は変わらず、海軍関係の事業のみでなく通常の分会としての活動も求められたため、海軍在郷軍人の不満が解消されることはなかった。 以上のように、海軍は独自の在郷軍人統制組織を持たず在郷軍人会に加入し続けた。ただし、これは決して在郷軍人のことを軽視していたからではなく、地域における在郷軍人の立場に配慮した結果であった。
著者
藤井 崇史
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.11, pp.27-51, 2019 (Released:2021-09-02)

第一次大戦期に中国の関税引き上げが日中間の外交問題となると、これに対する寺内正毅内閣の対応を批判して、関西の実業家を中心に大規模な反対運動が起こった。本稿ではこの運動をめぐる政治過程をとりあげ、大戦の長期化のなか展開された寺内内閣の対中政策によって国内政治に生じた問題について考察する。 中国の関税引き上げについては、大戦前の段階から対中輸出貿易への依存度が高い大日本紡績連合会(紡連)などが強い懸念を示していたが、当時は政府・政党もこれらの実業家と問題意識を共有し、その陳情を汲み上げていた。しかし大戦期に再び本問題がもちあがると、当時の寺内内閣は一転して関税引き上げを容認し、代わりに中国への事業投資を促すようになる。これは当時問題となった国内物価騰貴や中国・連合国との外交関係を考慮して提示された政策であったが、紡連に加え関西地方を中心とした同業組合や商業会議所は、国内産業にとって対中輸出が持つ重要性をあくまで強調し、激しく反発した。これに当時の政局が連動することで運動は一層高揚、運動側は政府との対決姿勢を強め広範な実業家に参加を呼び掛けた政治団体の結成を目指したが、対中投資の必要性を認める憲政会や東京実業界との提携は進展せず、最終的に関西の実業家によって大日本実業組合連合会が結成されるに至った。 このように寺内内閣の措置を契機として、中国関税問題は大戦中の日本が抱えるようになった外交・経済問題への対応のあり様を焦点とした政治問題へと発展した。その結果、従来の関税問題をめぐる政府・政党・実業家間の安定的関係は変容を余儀なくされ、寺内内閣の政策構想に批判的な実業家は結集して外交問題への発言力の強化を模索していった。大戦後も関税問題は日本の対中外交の焦点のひとつとなったが、その背景にはこのような問題が潜在することになったのである。
著者
新津 健一郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.12, pp.1-32, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿の目的は後漢時代における漢帝国の地方統治に対する辺境地域社会の反応を解明することにある。漢帝国は早くから辺境の征服地も含めて体系的・集権的統治制度を整備したが、そうした国家制度と現地地域社会との接触やその展開には検討の余地が残る。そこで、成都東御街で新たに出土した二点の後漢石碑(二世紀中期。李君碑及び裴君碑。総称して東御街漢碑)及び四世紀の地方志である『華陽国志』を材料とし、紀元前三世紀に戦国秦によって征服された西南辺境である四川地域を対象に分析を行った。 東御街漢碑は後漢蜀郡の治所にあたる現成都市の中心部でまとまって出土した。顕彰文の内容によれば、李君・裴君は郡学(儒教の宣布・教習を目的とした官立学校)を振興し、善政を敷いたとされる。先行研究に指摘されるように、この時期、豪族(大姓)は積極的に儒教を習得し、官吏・地方知識人の性格を強めていた。学術を習得する場では門生故吏や同門関係が形成された。成都に設けられた官学は史料上、前漢武帝期の蜀郡太守・文翁に帰せられ、その文教政策は四川の文化水準を引き上げたとされた。 しかし、東御街漢碑の題名を精査すると、立碑者の大部分は学術教授官であり、その姓種は『華陽国志』に蜀郡の大姓として挙げられるものだけでなく、近隣諸郡の大姓と同姓となるものが多く含まれる。このことは郡内の大姓に限らない人的結合を示し、地方長官との公的主従関係と重層する私的関係、かつ遊学を介して同郡内に限られない結びつきが存在したと想定される。その延長上には地方志編纂に現われた郷里意識に繋がる地域的結合を見通すこともできる。四川地域にとり、儒教をはじめとする政治・学術文化は国家権力により外部から移入されたものであったが、それによって出現し、成長した知識人たちの結びつきはむしろ帝国に対して遠心的作用を生み出したと考えられる。
著者
二星 祐哉
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.12, pp.33-61, 2019 (Released:2021-09-02)

『延喜式』陵墓歴名には、天皇やその近親者など計百二十の陵墓が列挙されている。特に『弘仁式』墓歴名の配列や陵墓歴名の成立をめぐって、新井喜久夫氏と北康宏氏の両説が対峙している状況である。そこで本稿では、『延喜式』陵墓歴名から『弘仁式』部分を抽出し、その配列方針を検討することで、陵墓歴名の成立時期や作成目的について考察した。 原陵歴名には、天皇陵の他、天皇の生(祖)母、即位天皇に準じて扱われた天皇の父や諸皇子女、先例となる伝承をもち、かつ王位をつぐ可能性の高かった人物の墓などが存置順に配列されていた。その成立時期は、生母墓や先例となる伝承をもつ皇子墓の編入の初例が見られる欽明朝であった。原陵歴名とは、皇位継承の正統性を保証するために、国家的な守衛の対象となった陵墓を管理するために作成された台帳であった。 大宝令が施行されると、原陵歴名は天皇陵のみを記載する陵歴名と、それ以外の墓を記載する墓歴名に分化された。その墓歴名には、天皇の生母(三后)、天皇号を追尊された人物、先例となる伝承をもつ人物の墓などが存置順に配列されていた。大宝令施行後の陵墓歴名には、荷前陵墓祭祀の対象陵墓を管理するための台帳としての性格が新たに加えられた。また、八世紀半ばころから、血縁意識が高まり、三后や天皇の父の陵墓が陵歴名に加えられ、桓武朝には外祖父母の墓が墓歴名に編入されるようになった。こうした律令陵墓制の変質をうけ、陵墓歴名は『弘仁式』墓歴名で再編されることとなり、また『延喜式』陵墓歴名に受け継がれた。 以上のことから、『延喜式』陵墓歴名には、六世紀初頭以降の政治過程や皇位継承をめぐる状況がかなりの確率で残されていたことが明らかとなったと言える。
著者
梶原 洋一
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.4, pp.34-58, 2019 (Released:2021-08-26)

一三世紀以来ドミニコ会は大学と緊密な関係を保っていたが、一四世紀半ばはその転機となった。従来ごく限られた大学にしか設置されなかった神学部が各地で新設され、ドミニコ会士の学位取得が格段に容易になったためである。結果、適性に欠ける学位保持者や取得を巡る不祥事の増加に直面したドミニコ会は、修道士の学位取得を厳密かつ中央集権的に管理する体制を一五世紀を通じて構築した。本稿ではこうした新しい制度的環境における、ドミニコ会士による学位取得に関わる規範と実践の関係を解明することを試みた。このためアヴィニョン大学神学部に注目し、学位取得のための修道士の大学派遣を記した修道会総会の決議記録や総長の書簡記録簿といったドミニコ会史料と、アヴィニョン大学の会計簿を対照することで、学位取得を目指した修道士たちについてプロソポグラフィ的分析を行った。一五世紀末のアヴィニョン神学部は、北フランスに広がっていたフランス管区出身のドミニコ会士をとりわけ引きつけたが、アヴィニョンでの学位取得を修道会から命じられた修道士の多くが、より格式の高いパリ大学における取得を望み、この任命を辞退した。修道会が指定する派遣先に不満を抱いたとき、修道士たちは上層部と積極的に交渉し、より有利な任命を引き出そうとした。フランス管区の修道士たちにとってアヴィニョンでの学位取得は、必要な課業について大幅な免除が受けられるという意味において安易である反面、パリでの取得と比べれば魅力に欠けていた。しかし反対に、アヴィニョン修道院を包摂するプロヴァンス管区のドミニコ会士たちにとっては、重要な出世コースとして機能し、修業の期間も長期化した。地方大学が代表するこうした多面的な役割、修道会や地域の情勢に応じ揺れ動く一つの神学部に対する評価は、中世末期の社会ヒエラルキーの中に大学学位が深く埋め込まれていた証左である。
著者
古川 隆久
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.6, pp.1-35, 2019 (Released:2021-09-02)

立憲政友会の有力者であった前田米蔵は、5・15事件(1932年)後における政党政治批判の高まりに対し、いち早く1933年に「日本独特の立憲政治」論を主張した。日本の議会は天皇が設けたことを強調し、天皇の権威の下に議会政治、政党政治の正当化をはかったのである。 さらに前田は、貴族院議長近衛文麿を党首とする立憲政友会と立憲民政党の合同(保守合同)による近衛新党構想を進めた。近衛は議会外諸勢力の支持を得て首相候補と目されていた。前田は、二大政党による政権交代ではなく、近衛新党という、議会外の勢力とも連携する形による政党内閣の復活をはかったのである。 しかし、近衛新党が実現しないうちに1937年に第一次近衛内閣が成立し、日中戦争が勃発した。日中戦争の収拾に苦慮した近衛は、1940年6月、戦勝に向けた強力な挙国一致体制の実現のため新体制運動を開始し、7月に第二次近衛内閣を組織した。 近衛は挙国一致強化のため、新党ではなく、議会を含む各勢力の協調体制の確立をめざしていた。しかし、近衛の側近たちは全体主義的な政治変革をめざし、前田ら衆議院の主流派(旧政友会・旧民政党)は、議会勢力中心の近衛新党の実現をめざした。「日本独特の立憲政治」論によれば、挙国一致の中心はあくまで議会だったからである。 1940年10月に発足した大政翼賛会は全体主義的な色彩が強かった。前田は、近衛との信頼関係と難題処理の実績を評価されて大政翼賛会議会局長に起用された。しかし、前田をはじめ議会の大勢は翼賛会の全体主義的色彩に不満を抱いており、議会は大政翼賛会の改組や、議会弱体化政策の阻止に成功し、前田は衆議院勢力の指導的立場を保つことができた。近衛新党は実現しなかったが、政府の割拠性が続く限り、議会新党による政府の統合力回復という衆議院勢力の主張の正当性が失われることはないからであった。
著者
中立 悠紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.7, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿は、BC級戦犯が靖国神社に合祀されるまでの経緯を、戦犯釈放運動の旗振り役でもあった復員(ふくいん)官署(かんしょ)法務(ほうむ)調査(ちょうさ)部門(ぶもん)、及びその周辺政治勢力(戦争(せんそう)受刑者(じゅけいしゃ)世話会(せわかい)、白菊(しらぎく)遺族会(いぞくかい))の動向から明らかにする。 復員官署法務調査部門(以下「法調(ほうちょう)」と略記)とは、旧軍の後継機関である復員官署内で戦犯裁判業務を担当した部署である。多数の旧軍人事務官から構成され、法調は戦犯家族の世話も行い、戦犯を合祀する際に必要であった戦犯の名簿も所持していた。 講和条約発効直前の一九五二年二月に、法調は戦犯合祀を企図し始め、密接な協力関係下にあった戦争受刑者世話会とともに合祀を推進した。そして援護法と恩給法の対象に戦犯・戦犯遺家族が組み込まれると、一九五四年に靖国神社は世話会に対して、「適当の時機に個人詮議」という留保付きで戦犯を将来合祀する姿勢を示した。ただし、一九五七年秋の段階でも、靖国は世論に配慮して合祀の時期は慎重を期していた。 ところがそのような状況にもかかわらず、一部新聞がこれを報道してしまい、世論を警戒した靖国は戦犯合祀そのものに消極的になってしまった。厚生省引揚援護局・法調側は靖国に配慮し、新聞報道で特に問題となっていた東條英機らA級戦犯とBC級戦犯を分離させ、BC級戦犯の先行合祀を要望した。しかし一九五八年の段階で、世論の反発を気にするあまりにBC級の合祀すらも慎重になってしまった靖国を、援護局側は説得するのに約一年を要した。 しかし、最後に靖国側は合祀要請を受け入れ、法調が調製した祭神名標に基づき、一九五九年にBC級戦犯の大部分を合祀したのである。 本稿を通じて、ポツダム宣言受諾後に解体された旧帝国陸海軍の佐官級官僚が、靖国への戦犯合祀において担った役割を明らかにする。