著者
荒金 直人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.31-55, 2010

1. 『想像力』2. 『想像的なもの』(A.心象について)3. 『想像的なもの』(B.画像について)画像とは何か? - サルトルは,この問いへの答えを,彼なりの仕方で提供してくれているのだろうか。 1936年の『想像力』における問題提起は極めて興味深く,その問題の分析が本格的に展開される1940年の『想像的なもの』(邦題『想像力の問題』)に期待が寄せられる。しかし我々がそこに見出すのは,なかなか突破口を開こうとしない,開いたはずの突破口を渡ろうとしない,慎重でじれったいサルトルである。想像力という観点から画像の問題に接近しようというのは,やはり無理だったのか。心的な像(心象)の経験と物質的な像(画像)の経験とが類似的な志向的構造を有しているという発想自体に,無理があったのだろうか。本稿では,『想像力』と『想像的なもの』においてサルトルが展開する像についての分析が,「画像とは何なのか」という我々の問いに対して何を与えてくれるのか,それを探ってみたい。
著者
羽田 功
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.48, pp.231-282, 2011

伊藤行雄教授 退職記念号 = Sonderheft für Prof. Yukio ITO1. はじめに2. ローマ教皇庁と『ローマ・ミサ典礼書』3. 聖金曜日のユダヤ人のための代願4. ベネディクトの代願をめぐる議論
著者
石原 あえか
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学
巻号頁・発行日
no.37, pp.1-23, 2003 (Released:2003-00-00)

1. はじめに 「ホムンクルス」の製造法2. ゲーテのホムンクルス—その1:「実験室」の場面—(1) 錬金術と化学のはざまで(2) ゲーテのホムンクルスとヴェーラーによる尿素の有機合成3. 人造人間制作者の系譜—ギリシア神話から天才職人ヴォーカンソンまで—4. 現代のプロメテウス(1) プロメテウス伝説とゲーテの散文詩『プロメテウス』(2) メアリー・シェリー:『フランケンシュタイン 現代のプロメテウス』(3)「産む男」 女性の出産に対する憧れと嫉妬 ( ? )5. ゲーテのホムンクルス—その2:「実験室」の続きとしての「海の祝祭」—6. 現代ドイツ文学におけるホムンクルス・モティーフ(1) ロベルト・ハマーリンクの叙事詩『ホムンクルス』(1888)(2) シャルロッテ・ケルナーの児童文学作品『1999年に生まれて』7. まとめ ゲーテのバランス感覚—良心と好奇心—
著者
石原 あえか
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.33, pp.1-28, 2001

はじめに1.ゲーテと天文学ゆかりの地 (1) ゴータ (2) イェーナとヴァイマール2.月火山と月人3.隕石あるいは火球4.彗星5.イェーナ天文台監督官としてのゲーテ6.まとめ・ゲーテの天文学受容とその限界
著者
小町谷 尚子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 英語英米文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.1-17, 2003-03 (Released:2003-00-00)

An emergent ideology of love in Romeo and Juliet appears to have been central and centrally attacked in the controversy over a defiant daughter in a patriarchal society. Thus, a study of the ways in which Shakespeare deals with an integral part of the family, Juliet and her father, reveals, from one perspective that of how he employs the relationship of the father and the daughter he uses the father's redemption as negotiation of the father-daughter relationship and reconciliation between the feuding families, all of which mirror the social circumstances of the early modern society. From another perspective that of why he questions this kinship bond he employs the relationship among the family for the positive purposes of subversion, thereby again commenting on the social mores of the period. However, Shakespeare does not romanticize or idealize the father-daughter relationship. Rather, in such a relationship he creates a female subject for larger societal issues that inflamed his era. He presents this with those who form a homosocial bond with the heroine to interrogate gender, generational and familial issues, as well as the relationship of the society to the individual. Employing the strategy of Queer Theory, this paper reveals the fiction of forced heterosexual love in a patriarchal society, and then shows that the Nurse is a queer agent who serves as an internal director, manipulating and exerting control over Juliet, ranging frominfluencing the development of Juliet's sexuality to helping her depart from a traditional role as an obedient daughter. Her function and impact seem to be closely related to the qualities she possesses. Thus, the paper's primary focus is upon the role of the Nurse who affects cross-gender relationships for either good or ill.
著者
小林 邦夫
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.47, pp.217-248, 2011

小林邦夫教授 退職記念号 = Sonderheft für Prof. Kunio KOBAYASHI第一章 一切皆苦第二章 煩悩と精進第三章 輪廻転生第四章 因縁生起第五章 禅思想第六章 唯識思想第七章 浄土思想
著者
Mackworth Cecily 原山 重信
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.42, pp.127-135, 2006

本論はCecily Mackworth, English Interludes, London and Boston, Routledge& Kegan Paul, 1974の第2章The Young Mallarmé のうち、The FrenchQuarter という表題の小見出しのついた箇所の全訳である。私としては、この論文の翻訳を、小見出しと紙幅の許す範囲の長さとに配慮しながら連載していきたいと考えている。 何故この文献を紹介しようという考えに至ったのか? それはこの文献が菅野昭正著『マラルメ』(中央公論社、1985年)には部分的に紹介されているものの、多くのマラルメ研究者が引用する論文ではないし、最近上梓されたジャン = リュック・ステンメッツ著『マラルメ伝』(柏倉康夫・永倉千夏子・宮嵜克裕訳、筑摩書房、2004年)にも触れられていない一方、マラルメにとって要の問題の一つである、詩人と英国との関係を考える上で有効な詳細情報を提供してくれるものであり、しかも英語で書かれていることもあって、多くの日本人マラルメ研究者に知られていないという事情による。したがって、読者として想定しているのは、日本人のマラルメないしその周辺に関心のある方々である。 そもそも研究者への利便を考えた時、フランス語以外の文献の翻訳紹介は、研究のレベルアップに貢献する意味が大きいように思われる。中世文学や言語学関係の研究者以外にはほとんど顧みられることがないドイツ語文献などはその最たるものであるが、英語文献の翻訳もそれなりに意味があるだろう。 この論文は、イギリスの母国人でないと困難である地理的、文化的側面を明らかにしてくれるという意味で注目に値する。ここでは若きマラルメが後に夫人となる女性と駆け落ちして滞在したロンドンの地域の詳細が明らかにされる。このこと自体はマラルメ研究に根本的修正を迫るものではないが、マラルメとイギリスの関係の根深さを証してくれるものであり、これはやがて職業人としては英語教師でもあった詩人がものしたエドガー・アラン・ポーの翻訳をはじめ、『古代の神々』、英語の教科書の類、さらに英国人たちとの交友関係を考える際、有益な情報ともなってくれるだろう。
著者
上原 孝三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケ-ション (ISSN:09117229)
巻号頁・発行日
no.26, pp.75-96, 2001

1. はじめに2. 宮古島狩俣村落の概要3. 『御嶽由来記』にみえる御嶽由来説話4. 狩俣のウヤガン祭祀5. 巡行する女神
著者
秋山 豊子 宮本 康司 池田 威秀 片田 真一
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要 自然科学 (ISSN:09117237)
巻号頁・発行日
no.47, pp.83-110, 2010

研究ノート昨年の報告に引き続いて,今年度も未来先導基金の公募プログラムとして西表島での野外実習を行った。一昨年の実習からは3 回目の実習である。これまでの報告にあったように西表島は八重山列島に属し,その特異な地形・風土から多様な生物が観察される。また,離島であるために廃棄物や水,エネルギーの問題などが凝縮した形でみられ,多くの環境問題が認識できる。これまでの実習の経験を元に,今年度も4 月から全学部とキャンパスに広報を行って参加学生を募集し,昨年同様,琉球大学熱帯生物圏研究センター西表研究施設に宿泊し,昨年同様のプログラムにいくつか今年新規の試みを加えて実習を行った。今年度の変更点・改善点・問題点とこれらの新規のテーマを中心に報告する。
著者
武山 政直 津久井 かほる
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.20, pp.73-89, 2009

膨大の数のユーザによる情報の投稿や編集がWeb サイト上で行なわれ、その結果として集合的な価値が生み出される、いわゆる集合知(Collective Intelligence)のモデルがビジネスの領域だけでなく、非営利の分野においても数多く見られるようになっている。さらに、GPS や各種センサーの組み込まれた携帯電話を利用することで、人々の生活環境から様々な地理的情報を集める、地理空間的集合知の試みも徐々に現れ始めている。本稿は、そのような携帯メディアの利用によって成り立つ地理空間的集合知の特性を把握するとともに、そこで生み出される知を経済的な価値と結びつけ、ビジネスの創出に応用するための条件や概念枠組について考察する。
著者
森 英樹
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.36, pp.1-34, 2003-03

1フランス文学と漢文学との出会い(その八)クロ.___デルと "タオ"森英樹第一章 フランスのカトリック詩人・劇作家ポール・クローデル(1868-1955)は、その26歳から41歳にかけて外交官として赴任した中国に前後三度にわたって滞在した。一度目の滞在は1895年7月から1899年10月にかけて(上海領事代理、福州及び漢口副領事館事務代理、福州副領事)、二度目は1900年末から1905年2月にかけて(福州及び天津領事など)、そして三度目は1906年5月から1909年8月にかけてであった(北京公使館一等書記官、天津領事)。 かれはその随想集『接触と環境』(《Contacts et circonstances》)中のエッセー(→「中国のこと」)においてみずから言う。わたしはその生涯の15年間を中国で過ごした。老いた西太后や光緒帝に謁見したこともある。行進する袁世凱の姿を見かけたこともある。また孫文は知己のひとりであった。わたしは中国と中国の人々とをこよなく愛した。ここにおいて見聞し身近に接触し体験するさまざまの事象がほとんど自分の嗜好に乖くものではない。あらゆる種族や風習や臭気が活気に満ちて渦巻き、沸騰し、共生しているこの国のなかにあって、わたしはみずから水中の魚のごとくに感じていた。中国の人々はわたしにとっていわば"異郷にある同じ神の子ら"(nOSfrére séparés)のように思われた、と(1926年,OEv.en prose.P.1020sqq.)。2 クローデルが中国と初めて接触したのは、かれが21歳のおり1889年のパリ万博において安南の芝居を見たのがそれであったという。文学的方面について言えば、エルヴェ・ド・サン・ドニの仏訳『唐代詩集』(→拙稿NO29et NO30)の存在は無論知っていた。知ってはいたがこれを読み通したらしい明瞭な痕跡は見出せないから、実は披読しなかったのかも知れない。『クローデルと中国的世界』の著者G・ガドッフルもまたクローデルはデルヴェを読んでいないと断定している。 ジュディット・ゴーチェの可憐な『白玉詩書』(一拙稿N・34et 35)は、クローデルはこれを福州時代に携帯しておりみずからその幾首かを翻案した(→《Autres poëmes d'aprés le chinois》)。その2年後に出た翻案詩集(一《Petit poëmes d'aprés le chinois》)は、 Tsen Tsong-mingなる中国人が出版した《唐代絶句百選》なるいささか怪しげな仏訳詩集を種本にしたもので、英訳と仏訳が並記されている。この英訳はクローデル自身のものなのか、それとも余人のものなるか判明でない。アーサー・ウエリーの『中国詩百七十首』は1918年に出ているが、クローデルはこの英訳をも読んでいないとガドッフルは言っている 魅惑的な形象と構成の哲学をもつ漢字については、レオン・ヴィジェルの著書に啓発されながら、『西洋の表意文字』を書いている。これはS.マラルメの『英語の単語』に比較されるべき、単語をめぐる詩的想像と類推を展開させたエッセーである。 ちなみに『史記』を翻訳し、「T'oung Pao」の主幹となり、当時のヨーロッパのシノロジーに君臨して名声の高かったE・シャバンヌ(→拙稿N・29.p.87)はクローデルとはルイ・ル・グラン校の仲間であったが、そうした一連のシノロジストの著作のいずれかをクローデルがとくに精読したという形跡も明らかではない。 クローデルと中国との関わりにおいて顕著な事件は、文学的方面よりは
著者
田上 竜也
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.33, pp.1-14, 2001

上に掲げた「序説」という表題は、この小論のいわば射程の短さを示すものである。というのも、ヴァレリーにおける「空間」の問題を扱うにあたり、詩人としての、あるいは詩以外の文学的テクストの作者としてのヴァレリーの想像界へと話を展開していくことは、あまりに論点を拡散しすぎてしまう恐れがあるからである。ここでは、もっぱら理論面からヴァレリーの空間に関する思索を分析し、とりわけヴァレリーの思想と、彼が生きた当時の数学的、科学的思潮との関連という点に話を絞って進めていくことにする。それが、この論を序説と題する所以である。 本稿ではヴァレリーの『カイエ』における空間論を中心に考察していくが、その前に、19世紀から20世紀への転換点において、空間を巡る論議が、物理学的、数学的、哲学的、科学認識論的な領域にわたる中心問題であったことを強調しておく必要があると思われる。ごく大雑把に言って、19世紀以前、空間の概念は、数学的対象としても、物理的現実としても、素朴な形でユークリッド空間に結びつけられていた。すなわち、ユークリッド幾何学においては、空間概念を、論理的明証性と現実的かつイデアルな秩序を担った定義と公理の体系と見なしていた。また物理的空間は、知覚に基づく現実空間およびユークリッド空間と同一視されていた。周知のように、ニュートン物理学とカント哲学はユークリッド幾何学を具現するものだが、前者において空間は、物質がその中で自由に動きまわることのでき、またその内に幾何学図形を構築することができる、空虚な受容体としての絶対空間であり、後者は、空間概念の根拠を認識主体の側に引きつけたうえで、それをア・プリオリな感性の形式と定義づけるものであった。19世紀において、こうした空間観への疑義が呈されるようになったのは、言うまでもなくガウスやロバチェフスキーらによる非ユークリッド幾何学の発見に依るものである。19世紀末という時代は、一方にはア・プリオリの純粋直観というカント的空間論、他方には双曲線幾何、楕円幾何といった複数の幾何学、さらにそれに伴う複数の空間の存在を認める新しい空間論とが、哲学的、科学認識論的地平において対立していた時代と言うことができる。 このような時代状況下、ヴァレリーはその空間論の出発点において、ポワンカレの1895年の論文「空間と幾何学」2に大きな影響を被っている。論中ポワンカレは、空間を現実空間、すなわち視覚、触覚、運動感覚によって構成される知覚表象の空間と、幾何学空間(この場合ユークリッド空間)との2種類に大別している。このポワンカレの論を受けて書かれたごく初期の『カイエ』にはこう記される。「ポワンカレは、彼によれぽ連続的で、無限で、3次元で、同質的、同方向的な幾何学空間を、(視覚、運動等の)空間ないし表象空間と区別する。彼はおそらくこれらの空間が思考のなかで混ざり合っていることを忘れている。[_]彼が実に正当に指摘したように、表象空間については、それが3次元を持つとは言えない。表象空間は独立した神経網が与>xるだけの、すなわち独立変数の数だけの次元を持つ。」(C.int.,I,215)ヴァレリーはここで言及される2種類の空間、すなわち現実(表象)空間と幾何学空間の他に、さらに想像空間、つまり心像によって作られる空間の存在を主張し、それら3種類の空間が意識のなかで混在していると考える。初期『カイエ』における探究の大きな柱のひとつは、心像の連鎖の観察と操作を通じて、この想像空間の性格を明らかにすることにほかならない。「イメージの幾何学」と名づけられた一連の考察のなかで彼は、想像空間の特質を、現実空間、幾何学空間との比較から明らかにしようと試み、とりわけ、想像空間にどれだけ幾何学的法則を適用することができるか、という点を問題にしている。そうした試みのなかで、ヴァレリーは抽象的でイデァルなユークリッド幾何学空間と、感覚の多様さに応じて複数の次元を持つ現実空間、平面的で絶えず大きさの変化する想像空間を対立させている。以下では、現実、幾何学、想像空間という3分法に基づく枠組みを念頭にいれた上で、ヴァレリーにおける幾何学的認識および空間の起源と性格、さらに心的空間の表象と幾何学モデルとの関係について検討する。
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-18, 2006-09 (Released:2006-00-00)

序I:科学知という「禁断の果実」Ⅱ:エコール・ノルマル批判Ⅲ:「静かな無神論」:宗教と科学の融合Ⅳ:『ローマ』と聖フランシス:「生の信仰」結論
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49/50, pp.131-153, 2009 (Released:2009-00-00)

Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集 序I: 精神病治療と外科手術II: パターナリズムの文学的表象 : 戦略としての「情報の操作」III: 疾患ではなく患者をIV. 慈父と医師むすび
著者
堀江 聡 Nicolao ex Castellaniis Petro
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-22, 2006

ここに邦訳する世界初訳のテキストは,1519年にファウェンツァ出身ピエール・ニコラ・カステッラーニによってラテン語に訳された『アリストテレスの神学』全14章のうちの第十章十三節までである。この書は錯綜した素性をもつ。紀元3世紀後半,プロティノスによってギリシア語で記された『エンネアデス』の後半部分,第4 ~ 6 『エンネアス』の翻案であるが,これとは別の, 9世紀前半バグダードで成立した「流布版『アリストテレスの神学』」と呼び慣わされるアラビア語の翻案もある。後者の出自にすら定説はなく,世界的に議論が喧しい現状であるが,前者の素性はそれに輪をかけて謎に包まれている。研究が進捗しない原因として,このラテン語版の近現代語訳が一つもないことが挙げられる。さらに近現代語訳がない理由は,ラテン語版に先行し,全体の約3/4残存するいわゆるユダヤ・アラビア語(ヘブライ文字表記のアラビア語)版の校訂(プラス翻訳?)をフェントンがかなり以前に予告したにもかかわらず,未だ完了していないことによる。流布版は全10章であるのに対し,ラテン語版は14章からなるので,『アリストテレスの神学』の「長大版」(longerversion)と称されている。とはいえ,流布版から省略された箇所も多々あるので,単純な拡大版でないことは注意を要する。第一章から第八章までは,両版が一対一対応であったのに対し,長大版第九章も第十章も,相変わらず流布版第八章のパラフレーズの続きであることが判明した。 ラヴェンナのフランチェスコ・ローズィがダマスクスの図書館で発見したアラビア語写本を,キプロス出身のユダヤ人医師モーセス・ロヴァスを雇ってイタリア語,ないしは粗雑なラテン語に訳させたものを,ニコラが彫琢することによってラテン語版が成立した。それをさらに洗練されたラテン語に移したジャック・シャルパンティエの訳もある。流布版が長大版に先行するという説が優勢ではあるが,長大版から流布版に移行したという主張が消えたわけではない。長大版の研究はまだ緒に就いたばかりなのである。 底本には,Sapientissimi philosophi Aristotelis stagiritae. Theologia sive misticaphilosophia secundum Aegyptios noviter reperta et in Latinum castigatissimeredacta, ecphraste Petro Nicolao ex Castellaniis, Roma, 1519 を用い,常時 Libriquattordecim qui Aristotelis esse dicuntur, de secretiore parte divinae sapientiaesecundum Aegyptios, per Iacobum Carpentarium, Paris, 1571 を参照した⑽。底本のニコラ版は句読点が不正確で誤植も散見されるので,シャルパンティエ版を援用しつつ文脈を解釈しなければならなかった。流布版『アリストテレスの神学』に対応箇所がない部分は太字で明示した。ただし,解釈者の視点の差によって,太字部分の確定は議論の余地のないものとはなりえないことをお断りしておきたい。私の立場は,哲学的に重要で長大版に特有な思想を識別できれば,それで充分というものである。その思想の独自性をことさら強調したい箇所には下線を施してみた。[ ]内はフォリオ数である。言うまでもないが,見開きにすれば,rは右頁,vは次の紙の左頁になるのは注意を要する。{ }内は文意を明確にするための訳者による補足である。原文における名詞の複数形は,和訳でも愚直に保存するよう努めたが,意味が通じる箇所では,もちろん日本語表現の審美的観点から,そのかぎりではない。 今回訳出した長大版第十章第一節から十三節まででは,流布版のパラフレーズというよりも,ほとんどが脱線というか,新たな教説の挿入である。その意味で,長大版独自の思想を探るには絶好の箇所であると言えよう。とりわけ,形而上学的体系全体が提示されているので,その全体を素描してみることにする。 まず頂点には,「神」である「第一の創始者」が位置し,それは「第一の存在者」,「第一能動者」,「真の能動者」,「両世界の創始者」,「第一位の創始者」,「神的知性」といった,さまざまな名称によって言い換えられている。 次の階層は,長大版独自の展開として,かねてより注目してきた「神の言葉」,「神的な言葉」の階層である。神と知性の間に別の存立を仮設しない点では,流布版は『エンネアデス』から逸脱していなかったが,『エンネアデス』にも流布版にも対応箇所をもたない特有の思想として,創造主と知性の間に措定される言葉(kalimah, λόγος)の教説がボリソフ以来夙に指摘されてきた。これは,万物を命令形「在れ!」(kun)の一言で創造する神の言葉であり,神の意志,命令と関連する。事実,[52r]には,「意志」「命令」「知恵の指図」の語が現れている。「創造する言葉」「懐胎された言葉」「最も完全な言葉」という表現も見られる。「第一の形相」という言い換えからは,その形相の担い手である基体が要請されるらしい。それが[46v]では「精神」とされる。「第一位の精神」「首位の精神」のように形容される場合もある。 その次には,「能動知性」が来る。「第一位の能動知性」「第一能動知性」「第一知性」「首位の高貴な知性」「高所の知性」「純粋で絶対的な知性」,さらに「存在者そのもの」「第一の被造物」も同じものを指し示していると思われる。 次は,「可能知性」であり,「第二知性」「第二位の知性」「自然的知性」「質料的知性」などとも呼ばれるが,いわゆる「われわれの知性」「知性的魂」である。これがさらに,思考の座であり推論的探求を行う「理性的魂」と同一視されているようである。 この下に,表象し評価する能力をもつ「感覚的魂」があり,これはおそらく「前進する力」「呼吸する力」をも含む動物の魂に相当するのだろう。そして, 増殖力をもつ「植物的魂」, それから, 天の円環運動を司る「自然」,最後に「下位の自然」として,多様な運動と形態を備え生成する「複合物体」と「構成要素」が続くのである。 これら階層間の連関は,上から下へ下降するに伴い,次第に暗く弱まる「光」,「生命」,「力」の「照明・発出・流入」と「物体的粗雑さ」の増大,その裏返しである下位のものの上位のものへ還帰への希求という新プラトン主義的常套句で説明される。しかも,「産出したものを愛し完成させる」という表現から察するに,創造は一度では成就せず,少なくとも論理的には二段階の過程を経るというプロティノス流の二相性の原理が貫徹していると予想される。階層から階層へと転送されてゆく力の連鎖は,途切れることなく上から下まで連なり,「神の言葉の隠然たる影響」により,すべてが「霊的な色で塗られている」世界が現出する。とはいえ,「霊的世界」から隔たった理性的魂は,つねに「無知,過誤,忘却,不確実,逸脱,腐敗」の可能性に晒されているゆえ「学問による教科」が必要であり,その目指すべく魂の完成とは,「自己自身へと還帰し」,「ダイモーン的霊に類同化し」,「光り輝く世界」たる能動知性と「愛し愛されるように」一つの実体へと結合し,「光で沸き立ち燃え立つ」「諸真理」を観照することにあると言えよう。
著者
坂口 尚史
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.32, pp.115-127, 2001

1993年からスタートした新しいカリキュラムに「地域文化論(1)」「地:域文化論(ID」と称する新設科目が,日吉1,2年生のための人文科学系の科目として入った。法学部が設置し,(1)は春学期(前期),(II)は秋学期(後期)に開講され,それぞれの学期末に定期試験を実施して,学期ごとに2単位となる。しかしゼメスター制度は,法学部の政治学科が中心であるので,政治学科の受講生にだけ9月に春学期の成績が知らされる。法学部法律学科や,経済学部,商学部の受講者についても春学期の成績として出ているのであるが,受講者が成績を確認できるのは,翌年の3月である。 制度上の統一がとれないのが残念であるが,オムニバス形式ではなく,一人の担当者が少なくとも一学期を通じて講義するので,イギリス,アメリカ,フランス,中国,ロシア,スペイン,東欧の七地域の文化論講義を,法学部,経済学部,商学部,医学部の受講者が多数聴講している。ただ,東欧については担当者の都合もあり,途中から開講されなくなった。 筆者は1996年度から「地域文化論」(1)(II)を8学期担当した。法学部ドイツ語部会から最初に小名木栄三郎先生が担当され,深田甫先生が担当された年もある。両先生ともすでに退職されている。ドイツ,オーストリア,スイスのドイッ語圏を視野に入れて,(1)はドイッ文化入門を,(II)は(1)の講義の中から少し具体的に,ある時代,あるテーマをとり出して,それぞれ12回ほどの講義を行う。聴講者は必ずしもドイッ語の履修者ばかりでなく,フランス語,スペイン語,ロシア語などドイツ語以外の外国語を履修している学生も多い。2000年度の秋学期については,受講者数は190名に達し,アメリカ,イギリスに次ぐ大きなクラスとなっている。しかしこれは必ずしも,ドイッ文化に対する受講者の関心の高さを意味しない。講義の主旨を反映して1年生が多く,法学部法律学科42名,政治学科40名,経済学部15名,商学部15名,医学部1名であり,2年生も各部あわせて77名来ている。 講義の主旨というのは,この時間が例えばドイッに関していえば,「30年戦争」がいっの時代にあったのか,「ローレライ」とはいかなる歌か等にっいて全く知らない学生が多くいるという,最近の大学生の現状に端を発して設置されたものである。外国語を学ぶ人が,その国の言葉の背景をなす文化について,外国語の授業では説明されない部分を講義科目で学べるように,また他の外国語をとっている人もドイッ・オーストリアについての知識を得てロマンス語圏の文化と比較できるようにとの目的をもって設置された。さらにそのテーマが日吉2年生の「人文科学特論」につながり,三田へ行って3,4年生のたあに設けられている 「人文科学研究会」に受けっがれるという意図もある。理想どおりにはなかなかいかないとしても,社会科学を中心に学ぶ学生にも,人文科学をできるだけひきっづき研究してもらうための第一段階という役割を担っている。このため法学部では,旧一一般教養科目の中の「人文」,「社会」,「自然科学」という枠づけは保持されているのである。人文科学が3,4年生にまでのばされたかわりに,専門科目が日吉の1,2年生に,以前と比べてかなり降りてきているので,履修する方もうまくバランスをとっていかなければならない。これはかなりの難問である。
著者
石原 あえか
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.45, pp.1-18, 2009

挿図削除1. はじめに : 地球温暖化と極地2. ゲーテの「気象的自我」形成とヨーロッパの「小氷期」3. フリードリヒの絵画『氷海』 : 前進する氷河と北極4. 北極探検家フランクリンとナドルニーの小説『スローテンポの発見』5. ランスマイアーの冒険小説『氷と闇の恐怖』6. 結びにかえて : 立松和平の『南極にいった男』と開かれた北西航路
著者
西尾 治子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.46, pp.13-40, 2008

森英樹教授・西尾修教授・高山晶教授退職記念論文集 = Mélanges offerts à Mori Hideki, à Nishio Osamu, et à Takayama AkiはじめにⅠ. 具象的「変装」Ⅱ. 象徴的「変装」(1) 『ある夢想者の物語』(2) 『七弦の琴』(3) 『セラフィータ』Ⅲ. 性の二重性Ⅳ. 抑圧された自己存在(1) 強制された「変装」(2) 同性間の「変装」(3) 女装する若者 : 『ヴァニナ・ヴァニーニ Vanina Vanini』Ⅴ. 異性装Ⅵ. 自立する女性の表象(1) マテア(2) ガブリエル(3) 仮面の女と「オルコの伝説」
著者
國枝 孝弘
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.47, pp.19-40, 2008

はじめに : ユルバン・ドメルグの歴史的位置づけドメルグと言語 : 『簡略フランス語文法』Grammaire française simplifiée(1778)Le Journal de la langue françaiseにおける文学(第一期1784-1788)Le Journal de la langue françaiseにおける文学(第二期1791-1792と1975年まで)おわりに