著者
溝部 良恵
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
中国研究 (ISSN:18825591)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-24, 2019

はじめに一. 家族の元に戻る鬼(一) : 「薛万石」の背景、袁晁の乱二. 家族の元に戻る鬼(二) : 「李覇」三. 聞き書きから創作へ四. 家族の元に戻る鬼(三) : 再び「薛万石」と「李覇」おわりに
著者
大鐘 敦子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.113-126, 2006-03

十九世紀末に一世を風靡したファム・ファタルの代表『サロメ』といえば、誰しもが思い浮かべるのはオスカー・ワイルドの戯曲である。ワイルドはビアズリーの挿絵にはじめはそれほど乗り気ではなかったと言われているが、そのモノクロの挿絵はワイルドの『サロメ』の妖艶さや退廃的、破滅的、悪魔的側面を全面に押し出して、読者や未来の観衆の関心を引き寄せることになった。しかしこれを遡ること十六年、ギュスターヴ・フロベールが最晩年の短編『ヘロディアス』においてサロメのダンスを初めて言語化することに成功したことや、ワイルドがフロベールに多大な影響を受け、意識的に初稿をフランス語で書いていたことは意外に知られていない。 『サロメ』は、1891年11月から12月にかけてオスカー・ワイルドのパリ滞在中にフランス語で書かれ、1893年にパリで出版された。本国では上演禁止となり、ロンドンでの出版は1894年となった。ワイルドはフランス文学に精通し、パリの文壇や社交界にも出入りし、ジッド、マラルメ、ピエール・ルイスなどと親しく交流して、マラルメの"火曜会"にも二度顔を出していることが知られている。 当時すでにフロベールは他界していたわけだが、ワイルドはフロベールを文学の師として、美学的にも仰いでいたことが書簡に残された証言からわかる。1888年のW. E. Henley 宛の手紙では、英語で散文を書くためにフランスの散文を勉強していることを述べ、「そう、フロベールこそわが師なのだ。そして『誘惑』の英訳が成功したなら、私は第二のフロベールになれるし、それ以上のものになるだろう。」と『聖アントワーヌの誘惑』の翻訳について意欲を燃やしている。また1890年には、Scots Observer の編集者への手紙で美学的問題に触れ、『ボヴァリー夫人』と『サランボー』を引き合いに出しながら、「フロベールは言葉の日常的な感覚において正しいだけでなく、芸術的にも正しかった。そしてそれがすべてなのだ。」と全面的に尊敬の念を表している。投獄中に友人に読書用の本を依頼した際にも、フランス語文献リストの筆頭にフロベールの La Tentation de saint Antoine, TroisContes, Salammbô を挙げている。一方、Pascal Aquien はフロベールとの関係について、サランボーの名前や巫女というアイデンティティー、ユダヤ人たちの議論、「サロメ」と「ヘロディアス」という主人公たちの名前の拝借、『ヘロディアス』の「ヨカナン」「マナエイ」から「ヨカナン」「ナアマン」という命名をしたことなど、かなり影響があったことを指摘している。 『サロメ』に関するワイルドの証言で特にフロベールに関係あるものを挙げておきたい。まず第一に挙げられるのは、1890 年のエドガー・ソルタスによる挿話で、サロメについて書くと宣言していたワイルドが、ある晩ピカデリーのレストランでソルタスと食事をした後、連れ立ってフランシス・ホープのアトリエをたずねたところ、逆立ちしたヘロディアスの版画が、まさにフロベールの作品のように描かれており、 « La bella donna della mia mente »(「わが夢見る麗しき女性よ!」)と叫んだという話。第二は、アメリカの象徴派詩人スチュアート・メリルとムーラン・ルージュに行ったときの挿話で、ルーマニア娘のアクロバット的な逆立ちの踊りを見たワイルドが、執筆中の劇の中のサロメのダンスを踊ってもらおうと思い、「フロベールの物語でのように、あの娘に逆立ちのダンスをしてほしいんだ。」と言ったという話である。どちらも注目されるのは、ワイルドがフロベールのサロメのダンスの「逆立ちの踊り」にとても惹かれていたということである。また、サランボーへの賛美も惜しまず、ビアズリーの挿絵について批判する際に「僕のサロメはサランボーの妹だ」という表現すらしている。 『ヘロディアス』の中でサロメの踊りの初の言語化に挑んだフロベールの先駆性と象徴性を論じた拙論では、その「逆立ちのポーズ」に読み取れるユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への逆転というメタファーを指摘したが、ワイルドが果たしてフロベールのサロメの「逆立ちの踊り」にこうした意味を読み取っていたかは定かではなく、踊りのト書きにも逆立ちのポーズへの言及はない。その代わり、ワイルドのサロメでは「七枚のヴェールの踊り」というメタファーと月のメタファーが全面に押し出されている。ことにワイルドがサロメを一幕物の劇にしたことから、登場人物の科白の文体が重要な位置を占めており、後にその作品の芸術性は、音楽性としてシュトラウスのオペラが証明することになった。以下、本稿ではワイルドのサロメの文体とリズムをフロベールのそれと比較しながら、『ヘロディアス』のサンボリスムから『サロメ』の世紀末文学への変遷をみることとする。
著者
野村 伸一
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケ-ション (ISSN:09117229)
巻号頁・発行日
no.26, pp.1-31, 2001

今日,東アジアにおいて民俗の世界は急速度の近代化とともに,衰退していくかにみえる。けれども,ほんとうに衰退していくばかりなのか,これは可能性を秘めた世界なのかどうか,そこから何か新しい視点が開けるのか。こうしたことを考えるとき,わたしには女性の祭祀と女神信仰ということがかなり可能性を秘めているのではないかという予測がある。そこで,福建省や台湾,日本の南島,韓国南部および済州島などの研究者とともに,それぞれの地域ごとに積み重ねられた資料,知見を持ち寄り,これをひとつにまとめあげようとして研究会を発足させた。 とはいえ,現在,東アジア全体を一目でみる準備は整っていないので,とりあえずは東シナ海周辺の民俗文化を取り上げることにした。そしてあらかじめいうと,この地域ではとりわけ女性の祭祀活動と女神信仰が顕著なのだが,にもかかわらず,それがこの地域の民俗世界の性格を考える際に主要な課題となるという視点や取り組みがほとんどない1)。まずは,このことの意味から考えなければなるまい。
著者
野村 伸一
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション (ISSN:09117229)
巻号頁・発行日
no.31, pp.25-66, 2003

朝鮮民族の伝えた仮面のあそびは夜陰を貫く鮮烈な一条の光芒のようなものであった。それは邑落の広場で多くは夜半,篝火のもとに俗語と歌謡を交えた台詞,強靱な身体を反映する跳舞とともにおこなわれた。 演じ手はクヮンデ(広大)とよばれた者たちである。かれらは文献では高麗時代に突然現れ,その出自は明らかでないが,鮎貝房之進がかつて推定したようにおそらくは北方からきた異邦人であろう。朝鮮朝においても仮面戯や雑戯,またパンソリなどの謡い物の担い手として活動した。かれらは朝鮮時代に賤民とされ,同じく賤民とされた巫覡と縁戚関係を結んだ者も多かった。 また朝鮮朝後期に成立したとおもわれる現存仮面戯の多くは在地の郷吏が陰に陽にかかわっていて,かれらの素養,趣向が反映されたために,台詞のなかに多数の漢文の詩句が挿入されることになった。それはちょうどパンソリという謡い芸の変容と対応する。 朝鮮の仮面戯の系統について,李杜鉉は,ムラの城隍祭におこなわれる仮面戯と「山台都監系統劇」とに大別している。前者としては河回,江陵および東海岸別神クッの仮面戯があげられている。また後者は黄海道や京畿道,慶尚南道の仮面戯のことで,それはいずれも朝鮮朝の儺礼を管掌する官庁「山台都監」の影響下にあるという前提のもとで名づけられている。しかし,李杜鉉自身がいうように,宮中の儺礼の際におこなわれた「山台雑劇」「山台儺戯」は必ずしも仮面のあそびではなく,今日民間に伝承されたものと同一ではない。しかも,京畿道と黄海道のものは類似した部分も多いが,慶尚道の仮面戯をそれらと同類のものとしていいのかどうかは,反論も提起されている。 ただ,わたしは,本論において系統論にはあまり深入りする考えはない。わたしがここで提起した問題は,朝鮮の仮面戯は儺と死霊供養の観点からみる時,「城隍祭」の仮面戯であれ,「山台都監」系統のものであれ,また慶尚南道のものであれ,すべて包括的に論じることができるということである。そもそも山台都監とは宮中の儺にかかわる官庁であり,そこに出入りしたクヮンデらの動向が儺礼の廃止以後,どのていど民間の仮面戯に影響を及ぼしたのかは推測するほかはないのだが,かれらの演戯の根柢は東アジアに広く存在する民間の儺であり,また孤魂供養の場にあった。このことはのちにいろいろな視点から述べることになる。 わたしは,以下では,まず朝鮮全国に広がる主要な仮面戯を概観し,現存する仮面戯の成立にとって主要な契機は何だったのか,また仮面戯の動因は何であったのかを検討し,次に,主として言語伝承の面について,また東アジアの枠内における比較対照の必要性について論じようとした。 論議はかなり広くなるが,仮面戯はそもそもなぜおこなわれたのかということが基本的な問いかけであり,その答えはまだ明確に出されていない。そこで,まずわたしの視点の大枠を提示しておきたい。 朝鮮のムラのまつりは毎年おこなわれるが,すべてのまつりに仮面のモノが訪れるわけではない。従って,ムラまつりが仮面戯を胚胎したというだけでは十分な説明にはならない。ムラの祭儀の場に来訪するモノは無数にあり,いちいち目にみえるかたちでは表現しないのがふつうである。しかし,天災,疫病,飢饉,暴政などムラの存亡にかかわるとき,そうしたモノは姿を現した。いや現れることが待望された。それは巫覡のクッのなかに織りこまれるばあいもあるし,また農楽隊のかたちで訪れ,迎えられることもあっただろう。また男寺党やその前身となる流浪の芸能者のかたちで訪れることもあっただろう。 かれらは,クッの場に集うモノなので,訪れてから,まずはムラのようすをながめる。ムラでは巫覡のクッもあっただろう。農楽隊による出迎えもあっただろう。そうしたところへやってきたモノたちは鬼神,神将などの姿をとる。そして通例,楽の音に誘われてやってきたことを告げる。またかれらは楽士によびとめられる。このとき,楽士らは村人を代表していて,このモノたちを受け入れる。 あそびの場に引き寄せられてきたモノたちは障害を持っていたり,かたちが歪んでいたりする。そうではあってもかれらなりの一生を語り,また演じてみせる。それは辱説(悪態),地口による笑い,あけすけな性の表現,家庭の不和などに満ちていて,身分ある人士の日常とは縁遠いが,東海岸のコリクッの登場人物がそうであったように,農村の日常,あるいは民俗世界の記憶としては真に迫るものがあった。猥談は農作業の合間に頻繁におこなわれ,哄笑にも似た笑いと些細なことが原因の派手な夫婦喧嘩こそは日常茶飯事だった。しかも,その世俗性はほかならぬクッのなかに構造的に埋め込まれていた。 これらの要素は,たとい郷吏のような地方官僚が「風紀上怪しからん」とあそびに介入したとしても消し去ることのできないものであった。なぜなら,かれら,モノたち(孤魂野鬼)の帰趨が邑落の存亡とかかわるという暗黙の前提があり,郷吏はこれを受容せざるをえなかったからである。郷吏は自分たちの主宰する年末の儺戯を仮面戯を中心に構成した。その際,付け加えられたものがあるとすれば,それは漢文もじりの台詞や強烈な両班諷刺のことばなどでしかないであろう。およそ祭儀にかかわる伝来の本質的な面は全面的に受容するほかはない。そのことではじめて地域共同体の儺の儀が全うされたのであるから。 こうして,根源的な問いかけが出されることになる。すなわち,一体,邑落の祭儀にとって原初の仮面戯はどのようなものとして受容されたのか。いいかえると,なぜ仮面戯が必要であったのか。この問いは少なくとも定説に対する根源的な問題提起になるだろう。すなわち,朝鮮には古来,ムラに自然発生した仮面戯と都市に住む専門的な芸人による仮面戯の二種類があったという解説は決して回答とはならないということである。 この根源的な問いかけにこたえるべく,以下には個々の仮面戯をみていくことにしたい。以下の構成は大きくふたつに分かれる。第一は,別神クッのなかの仮面戯である。慶尚北道の河回仮面戯と江原道江陵の官奴仮面戯がそれで,韓国では通例,村まつり系統の仮面戯とされている。第二は黄海道,京畿道および慶尚道の仮面戯で,近年の韓国の研究によると専門的な芸能者の参与したあとが濃厚なものである。 わたしの視点では,とくに両系統を分ける必要はないと考えるが,それについては,ここで論じるよりは全体をみた上で述べるのがよいと考える。従って,ふたつに大別したとはいえ,それはあくまでも便宜的なものである。
著者
斎藤 直樹
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.24, pp.109-131, 2009

第1節 北朝鮮の核兵器開発(1) プルトニウム計画1. 1994年10月の米朝枠組み合意以前のプルトニウム原爆の保有2. 2003年核兵器開発再開後のプルトニウム生産(2) 高濃縮ウラン計画(3) 2006年10月9日の核実験第2節 北朝鮮の運搬能力(1) 北朝鮮の弾道ミサイル 1. スカッド・ミサイル2. ノドン・ミサイル3. テポドン1号ミサイル4. テポドン2号ミサイル5. 新型中距離ミサイル開発(2) 北朝鮮のミサイル技術移転This article attempts to survey and examine both developments of nuclear weapons and ballistic missiles of North Korea.
著者
韓 林花 田中 聡久 朴 原模
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション
巻号頁・発行日
no.26, pp.97-119, 2001-04 (Released:2001-00-00)

第1章 はじめに 済州島の伝統女性社会第2章 済州島の潜嫂と歴史第1節 済州島における伝統的女性社会の2つの共同体済州島の自然環境と生活環境済州島女性の特性第2?節 済州島の潜嫂の世界済州島の潜嫂の世界潜嫂の歴史潜嫂社会の位階秩序潜嫂の訓練・修練潜嫂の作業場における危険要素潜嫂の事故死と「ケダッキ」第3節 済州島の潜嫂の世界二つの儀礼,彼女たちの祭り
著者
土屋 博政
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 英語英米文学
巻号頁・発行日
no.39, pp.27-147, 2001

This paper deals with the first half of Clay MacCauley's superinten-dence of the Unitarian Mission to Japan (1890-1900), the second period in its overall history (1887-1923). Our theme is : "Why could not the Unitarians increase their members in Japan?" As my last paper showed, Arthur May Knapp and other Unitarian missionaries were all welcomed by leading Meiji figures. Fukuzawa Yukichi, Kaneko Kentaro and other eminent people offered them every convenience to spread their liberal movement. Their future looked full of promise. Knapp and MacCauley were convinced that their religion would prevail among intellectuals and the upper classes in the very near future. Knapp considered himself `a man with an Empire on his hands'. After Knapp left Japan for health reasons toward the end of 1890, however, the Mission began to grow less rapidly than had been expect-ed. Why? There were several reasons, both external and internal. From the second decade of the Meiji era (1877-), Japanese increas-ingly came to accept the principle that the Emperor occupied a special position in the nation. An important turning point in attitudes to the West came with the failure of attempts at revision of the unequal treaties in 1888. In the Meiji Constitution of 1889 the Emperor granted his people limited political rights, but the Imperial Rescript on Educa-tion of 1890 emphasized the duty of loyalty to the throne. There was a reaction against Christianity and things western. As a result, the Japanese people stopped imitating the West and searched for a culture which was distinctly Japanese. At the outset Unitarianism fitted in well with the atmosphere of "nationalism", because the Unitarians respected Japanese culture and religions. In fact, Knapp was surprisingly successful in his first few years. According to Fenollosa, `The marvel of his success is stated when I say that in less than two years he alone has accomplished far more with the upper classes than a large corps of evangelical mission-aries have been able to do in thirty.' Nonetheless, the reaction against Western ideas went further than Knapp and MacCauley had anticipated. As events moved toward the Sino-Japanese War (1894-95), Kaneko and other leading intellectuals began to disassociate themselves from the Unitarians. To ordinary Japanese the Unitarian movement belonged to Christianity after all, however liberal it might look. There were two major internal factors which prevented the Unitar-ians from flourishing : problems connected with MacCauley's personal-ity and leadership, and problems connected with the organization of the Mission itself. It was reported that "Knapp was able to secure the cooperation of influential Japanese, but MacCauley was not." Mac-Cauley was not so much a leader as a lone thinker, who was poor at communicating his ideas clearly to his co-workers. Soon after Knappwent home, MacCauley's clumsy handling of Kato Satori, the first Japanese Unitarian minister, led to the latter's withdrawal. In Knapp's view, "MacCauley was lacking in the diplomatic ability" to cope with Kato's problem. He also mentioned MacCauley's "almost morbid sensi-tiveness in regard to the dignity and responsibility of his position." Some influential members left the Mission after this incident. When contemplating the problems the Mission had as an organiza-tion, we must consider three aspects : finance, policy, and the liberal nature of Unitarianism itself. As far as the finance was concerned, the problem was straightforward. Since the American Unitarian Associa-tion was very small, it did not have sufficient funds to support the Japan Unitarian Association. If mission funds had been more abundant, the Mission might have been able to spread its net wider and win more supporters. The Unitarian missionaries had their own policies regarding mission work. First, they relied heavily on mission literature. It is true that their magazine and tracts were "very active, effective missionaries", but MacCauley's dependence on literature alone was not effective in keep-ing members within the circle. MacCauley underestimated the emo-tional dimensions of religious faith. It is well known that not only rituals, but also ornamental images and music are very helpful to keep faith alive. This was as true of religion in Japan as elsewhere. The Unitarians tended to be too intellectual, even for the intellectuals who were their targets. Unitarian models were absolutely necessary. Because of his sociable nature, Knapp was a living example to the Japanese of what Unitarian faith entailed. We find the following statement in The Japan Weekly Mail : "Mr. Knapp is himself a type of the faith he professes. Tolerant,liberal, genial, and highly cultured, he is precisely the sort of man to appeal to the refined and critical tendencies of the educated Japanese." MacCauley, however, failed to be a good model of Unitarianism since he preferred not to associate with the upper classes and intellectual leaders. Without Knapp, therefore, the Unitarian Mission lost much of its appeal. Secondly, Unitarian policy concerning the incorporation of other religions, especially Buddhism, turned out to be ambiguous. According to MacCauley, there were two kinds of opinion among American Unitarians ; "those which have been formed through the relations of Unitarians to historic Christianity and those which have resulted from free philosophic and scientific speculation upon many of the problems confronting human life." According to the first class of opinion, Unitar-ians were Christians. The second class of opinion saw Unitarians as philosophic theists, scientific moralists, and students who were sympa-thetic with all the forms of religion. Conservative Unitarians favored the former opinion and many radical Unitarians the latter, but Mac-Cauley was a middle-of-the roader. He professed himself a Christian, yet he was also willing to admit that Japanese Unitarians did not necessarily have to be Christians. His position caused confusion both within the Mission and outside. Liberal Christians such as Universalists and members of the Fukyu Fukuin Kyokai (General Evangelical Church) had no hostility to Buddhism, but hesitated to cooperate with the Unitarians because they were unwilling to compromise their Chris-tian identity. On the other hand, only a few Buddhists joined the Mission because there were some important Buddhist teachings which were incompat-ible with Unitarian beliefs. For example, Buddhists usually have nofaith in God the Father or in the immortality of the soul. The Jodo and the Jodo-Shin schools were exceptions, because of the stress placed on faith in the vow of Amida. Members of these schools found it less difficult in accept Unitarian teachings. It is no wonder that such leaders as Saji Jitsunen and Nakanisi Usio belonged to the Jodo-Shin school. However, the Jodo and the Jodo-Shin schools were only minority Buddhist groups in Japan. The liberal nature of Unitarianism itself caused some difficulties in Japan. As a critic said, "Unitarianism flourishes as a parasite on other bodies when their vitality is low." When standing alone, it could hardly walk. The chief reason why Unitarianism as Christian liberalism did not take root in Japan lay in the fact that it did not require people to leave their previous faiths and actually become formal members. Christians dissatisfied with more orthodox forms of Christians were potential customers, but there were very few such people in Japan. Unitarianism might therefore have broadened the minds of some Christians, but it rarely led complete unbelievers to liberal Christianity. The liberalism of Unitarianism also made it difficult for the Mission to develop a distinct identity. In the U.S. the radicals of the A.U.A. established their own group, the Free Religious Association. They rejected the word "Christian" from their statement of principles as too narrowing ; broadening out still more, they even expunged the word "theistic" and were ready to include agnosticism. In 1896 the Japan Unitarian Association came to resemble this radical offshoot, conse-quently the A.U.A. halved their financial aid. Previously, in 1893 the Association's Jiyu Shin Gakko (School for Liberal Theology) was only able to attract new students by waiving entrance and tuition fees, since so few students were willing to study Unitarianism.As is generally known, Fukuzawa, Kaneko, and other leaders suppor-ted the Mission in various ways. But none of them joined it. Three professors at Keio University, Garrett Droppers (Dutch Reformed) , W. J. Liscomb (Baptist) and J. H. Wigmore (Episcopal), had come to Japan to help the Mission. Although they were in full agreement withUnitarianism, none of them actually became Unitarians, or attendedUnitarian services on Sunday. Why did they do so? The reason wassimple : because they did not have to. MacCauley had claimed thatUnitarianism should not be a sect but a movement. Its mission to Japanwas just to spread a liberal faith. Membership figures were not thecentral concern.
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.108-54, 2003

核時代の使徒ーJ・G六徒ラバ1ウドロ『ヴィーナスの狩人』を読むー藤崎 康どうして私の人生を、そうでないかもしれないではなく、けずにいられたでしょうか?そうかもしれないほうにこそ賭ルネ・ドーマル『類推の山』1聖性のゆくえ、あるいはフエイクな神? フランケンシュタイン神話は、科学的合理主義に対抗して、科学の諸概念を、錬金 術の神秘や感情と再結合しようとした、十九世紀のロマン主義的反抗に由来する。 デイヴィッド・J・スカル『マッド・サイエンティストの夢-理性のきしみ』 英国のSF作家J・G・バラードに、『ヴィーナスの狩人』(一九六七年)という、ちょっと類を見ないよう伽 な傑作がある。この短編がとてつもなく面白いのは、バラードが科学と魔術の、あるいは合理と非合理の対決㎜ ・ん を、SFや幻想小説や文明批評の手法をもちいながらも、そうした手法ないし意匠に淫することなく、むしろ107(28)登場人物の心理や意識のひだを精妙に描くことで、きわめてユニークな物語に仕あげているからだ。バラードはこの作品でまた、近代合理主義(理性信仰)という、今やさまざまな揺らぎやほころびを見せているものの、依然として私たちの生活を律している「教義」i一八世紀の西欧で確立した啓蒙思想、すなわち「理性の光」ですべてを吟味しようとする知的態度の延長上にあるーが支配する現代にあって、人知をこえた「聖なるもの」はいったいどんな場所に降りてくるのか、という重大な問いを投げかけている。 ここで、『ヴィーナスの狩人」の読解にはいるまえに、近・現代とはいかなる時代なのかを、おおまかに輪郭づけてみよう。1近代化にともなう都市化、高度な産業化、科学技術の飛躍的な発展、市場経済の圧倒的な拡大、そして大衆消費社会の到来によって、教養、芸術、観光、民俗、健康、エコロジー、美容、セックス、「癒し」等々、文化や肉体にかかわる一切が商品化され、情報化され、日常生活の利便性や快適さがめざましく増大するいっぽうで、地縁、血縁などの旧来の共同体が無残に掘り崩され、核家族化が進行し、伝統的な文 リサイクル化・芸能・芸術が衰退する(それらはキッチュー1まがいものとして再利用される)といった状況を生んだ。 ミ イズム また人びとは、他人への関心や共感力を極端に欠いた自分主義ーそれは「自分探し」「自分らしさ」といっ こまた気味の悪い言葉を生んだーに閉じこもり、濃やかな人間関係を避けるようになった。そしてかれらは、そ よ エ ト スれまで拠りどころにしていた生活規範や行動様式を手放し、いわば「自由」を獲得した代償として、寄る辺なさ、精神的空白にとらわれるようになったー。ごく粗雑にまとめれば、近・現代とは、そういった時代である。(↓それはまた、近代化目工業化のはてに世界が「脱魔術化」され(M・ウェーバー)、宗教が世俗化され、いきおい「聖なるもの」や「崇高さ」が見失われた時代1しかし同時に、非合理的な呪術や終末予言を売りものにする新種の宗教が、あるいはカリスマ待望や過剰なナショナリズムが、合理主義の影の部分に寄生する奇妙な時代でもある。へ,) もちろん、近代化の負の側面は、いまざつと触れたいくつかの間題にとどまらない。たとえば大量生産.大量消費は大量廃棄を生み、排気ガスによる地球温暖化、異常気象、熱帯雨林の破壊と砂漠化といった事態を生じさせた。そして今日の科学主義は、生命創造という「神の領域」さえ侵犯しよ
著者
井原 晴佳 増田 直衛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 自然科学 (ISSN:09117237)
巻号頁・発行日
no.34, pp.71-81, 2003

研究ノート共感覚とは,ある感覚を引き起こす物理的なエネルギーが感覚器官に与えられることによって,通常その感覚器官に属する反応のみが生じるが,同時に,他の感覚器官に属する反応も生じる現象である。中でも,聴覚器官に与えられたエネルギーに対して,聴覚だけでなく視覚も同時に生じるものを色聴という。共感覚には,他に,数や曜日に一定の視覚図式があり,常にその中で一定の位置をとって現れる数型,色や形に対応した音や音楽が聞こえる音視などがある。共感覚は実験的に研究されることは少なく,個人の経験に基づいた逸話的な報告のなかでとりあげられることがほとんどである。このため,共感覚を経験したことがない人には,ある感覚経験をたんに別の言葉で比喩的に置き換えたものと理解されることが多い。しかし,本来の感覚以外に別の生き生きとした感覚が生じるという事例が発達的研究を中心に多く報告されている。本研究では,聴覚から色覚が生じる色聴に焦点をあて,実験的に検討する。共感覚の研究は,19世紀後半から行われていたが(Marks,1975),多くは作曲家などに関する逸話的なものに過ぎず,実験が行われるようになったのは1930年代からであった(梅本(1966)によれば,Karwaski, T.F. Odbert,H. S.(1938)などがある)。Cytowic,R.E. Wood,F.B.(1982)では,提示する音にピアノの単音を用い,これを複数回提示した場合,色聴所有者は提示音を聞いた時にみえる色の一致度が高く,色聴非所有者は色の一致度が低いと仮定し,被験者に提示した音に合う色を選ばせ,色の一致度から色聴所有者と非所有者の比較を行った。その結果,色聴所有者は色の一致度が高く,非所有者は一致度が低いことが示された。このように,過去の研究では,1.音を聞いた時にみえる色が,時間が経っているにも関わらず一致している2.幼少時から色聴が生じている,といった色聴の特徴が示されている。また,色聴の中でもさらに4つのタイプがあるとされている(Peacock,K.1985)。タイプ1は,曲を聞いて色聴が生じるもの,タイプ2は,トランペットの音色が緋色である,というように,音色から生じるもの,タイプ3はC の音は白,というように音程から生じるもの,タイプ4は,C の調は白,F
著者
佐谷 眞木人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学 = Hiyoshi Studien zur Germanistik (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.58, pp.131-144, 2019

1. はじめに2. 柳田はいつ, どのようにしてKHMと出会ったのか3. 渡欧後の柳田と昔話研究4. ドイツ民俗学とグリムと柳田5. おわりに羽田功教授退職記念号 = Sonderheft für Prof. Isao Hada
著者
田上 竜也
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.35, pp.18-31, 2002-09

ポール・ヴァレリーにとってナルシスの形象は生涯にわたり特権的な価値を帯びていた。その口切りといえるのは、若年期を過ごしたモンペリエの植物園に葬られる少女ナルキッサの伝説に喚起され、その墓碑銘をエピグラフに記した1891年初出の詩篇『ナルシス語る』である 一[...]どんなに私は嘆くことか、お前の宿命的で純粋な輝きをかくも柔らかく私に抱きかかえられた泉よ私の眼はその死の紺碧のなかに汲んだのだ濡れそぼれた花々の冠を頂いた自らの像を[_】((E,1,82)(1)rエロディアード』に強く触発されたこの詩には、しかしながらマラルメの詩における意識の微細な動きを映し出す意図や、詩句の純化された緊張感は希薄であると言わざるを得ない。夕暮れの月光に照らされる泉、百合や薔薇、ミルトといった花々、サファイアや水晶に形容される水面、ニンフの群れといった光景は、世紀末の意匠として目新しいものではなく、若書きの陳腐な道具立ての域を越えていないとすら言える。けれどもナルシスのモチーフはそうした通俗の次元にとどまらず、その後ヴァレリーのなかで独自の展開を遂げ、さまざまな意味を担っていくことになる。この稿では自意識の構造を示すモデルとしてのナルシス問題系の変遷を、主として1920年前後の著作に焦点を当てつつ辿ることにする。
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.23, pp.68-52, 2012

はじめに第一章 埼玉県庁への出仕第二章 司法省への出仕第三章 内務省警保局長としておわりに
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.11, pp.122-33, 2000

解題・凡例救貧要論汎論目次第一章濟貧の略史救貧と文明救濟と政治救濟と宗教宗教的救濟の基礎観念宗教的救濟の衰退救濟法の変遷濟貧院の創設〔都市と救濟]〔濟貧制の設定〕中世の濟貧状態救濟主管の異動都會と救濟濟貧制度の設定現代の濟貧制度第二章 貧民の意義、實體及び範囲貧民とは何ぞ貧民の種類貧民古今の比較観偶發的貧民貧冨の懸隔か將た貧冨の変動か貧困の原因如何なる標準に由て貧困の範囲を知るを得べきか勞銀の増減居住関係結婚統計消費統計死亡統計細民の家計状態小河滋次郎の救貧要論社會的救濟事業の組織第三章 公的救貧救貧制度の大要救貧制度の缺点公的救貧の施行法エルベルフェルド式婦人と救貧ストラースブルグ式公的救貧の經費第四章 宗教的及有志的救貧権力と慈愛新教と救貧旧教と救貧救世軍と救貧猶太教と救貧赤十字と愛國婦人救貧事業の統一調和倫敦中央慈善協會伯林中央慈善協會第五章 救貧事業の十則救濟の普及査賑扶養義務の勵行根本的救濟質實當事者の精進救濟の標的救濟の本質廉耻心の保全家庭式各論第六章 社會的救濟事業に對する立法發達の影響勞働者の保護勞働保険法疾病保険保険法の效果雇傭契約抵當権私生児の扶養義務人事相談所第一欸 貧困の主因に對する豫防第七章 失業就業の権利職業紹介失業保険勞働組合授産塲授産殖民無宿勞働者保護法小河滋次郎の救貧要論免囚保護移住第八章 國民病結核病結核豫防の二要件病院療養私的救濟事業としての結核豫防精神病花柳病第九章 酒毒酒料の消費高禁酒法酒毒療養院禁酒運動青十字ゴーデンブルグ式第十章 家政難収入の問題に非す支出の問題なり主婦と家政家政練習勞働婦女の寄宿家政講習科目第二欸 貧困の直接救濟第十一章 収容的救濟救濟法の種類病院貧民授産塲 病院の構造バラック、バビロン式回復院林間保養院看護者分娩院唖院盲院盲唖生の強制教育療疾院精神病院養老院第十二章 自由的救濟自由救濟の長所生計の保護金保と物保の利害監督居住難の真相家賃の補助無宿者の措置自宅救療救療醫と看護者配食所慰問籃第三欸第十三章 幼児及少年の保護乳児乳児の死亡保護相談所私生児棄児院里預孤児小河滋次郎の救貧要論貧児病弱児 揺籃院幼児保護所(抹消)幼学舎保養所〔院〕生徒の健康状態保養の善後低能児勞働…姐感化事業救濟と児童保護補習教育職業の選擇國民教育大学生の活動第四欸第十四章 貧民の取締救濟の聲刑法の制裁警察と裁判窮民と遊民調査権と申告義務民法の扶養規定救濟と文明本能的救濟
著者
滝藤 早苗
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.38, pp.55-76, 2004

E. T. A. ホフマン(1776−1822)は,『クライスレリアーナ』のなかに収められている音楽小説『クライスラーの音楽と詩の同好会(Kreislers musikalisch-poetischer Klub)』で,彼独自の調性格論を展開している。作家としてよりも音楽家として大成することを切に願っていたホフマンにとって,当時の西洋音楽に必要不可欠な表現手段である調について述べることは,何か特別の意味があったに相違ない。そして,いかにホフマンが調の性格付けを行ったのか検証することは,彼の文学や音楽作品の解釈,または彼の音楽思想の考察,ひいては当時のドイツにおける音楽美学を研究する上で非常に重要な作業となるはずなのであるが,残念なことにこの問題は今日まであまり注目されてこなかった。従って,本稿ではホフマンの調性格論の考察を目的とし,その特徴をより鮮明にするために,C. F. D.シューバルト(1739−1791)の見解との比較を試みる。シューバルトもホフマンと同様に,作家であると同時に音楽家でもあった人物であり,彼の音楽思想は当時の多くの人々に影響を与えたと言われている。特にシューバルトの『音楽美学の理念(Ideen zu einer Ästhetik der Tonkunst)』は,調の性格付けを試みた書物の中でも古典派の時代を代表するものとして,広く知られている。L. v. ベートーヴェンやR.シューマンも,幾つかの点で異論を持ちつつも,シューバルトの音楽思想には興味を示した。ベートーヴェンの秘書を務めたA. F. シントラーによると,ベートーヴェンの蔵書のなかには『音楽美学の理念』が含まれていて,とりわけシューバルトの調性格論に深く傾倒していたという。 ホフマンとシューバルト。多少世代に開きはあるものの,ともにドイツで文学や音楽,その他多岐にわたる分野において活躍した偉才であるが,ホフマンは音楽思想のみならず音楽批評家としての活動においても,シューバルトから大いに影響を受けていると考えられる。しかし,本稿では両者の調に関する見解にのみ焦点を絞って,考察を進めていきたいと考えている。
著者
森田 茂
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学 (ISSN:09117202)
巻号頁・発行日
no.31, pp.1-49, 2000

はじめに1.タシロ3世追放後2.ル-トヴィヒ2世ドイッ人王3.皇帝アルヌルフ4.マジャール人5.西方世界の論理6.プレスブルクの戦い7.アルヌルフ悪玉公8.ハィンリヒ1世とリァデの戦い9.オットー1世とバイエルン公ハィンリヒ1世10.レヒフェルトの戦いおわりに
著者
石井 明
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.225-270, 2010

1. 今日のヴィオラ・ダ・ガンバと本稿の目的2. 20世紀初期から1970年代以前におけるヴィオラ・ダ・ガンバ3. 1970年代におけるヴィオラ・ダ・ガンバの製作状況4. 1980年代,過去に存在した楽器製作方法の再発見とその実践The viola da gamba was a popular musical instrument in Europe between the sixteenth and eighteenth centuries. There were numerous types and sizes of the instrument, all affectionately played and enjoyed particularly by non-professionals like the aristocrats and bourgeois. The popularity of the viols, however, sharply declined towards the eighteenth century, especially at the dawn of the French Revolution. The revival of the viola da gamba became one of the essential elements in the Early Music movements of the early twentieth century. Many string instrument builders began attempting to manufacture viols, especially after the Second World War. By then, however, the tradition of the viola da gamba building had been entirely disappeared. The modern viola da gamba builders first imitated and adopted the technique used by the violin building. They eventually learned that the viol making is an entirely different matter from building violins or cellos. Today, various and numerous pieces of information on historical instrument making became available, and the viola da gamba builders of the twenty-first century finally began producing a true (truer) copy of the viols. At the same time, however, the modern viol builders now face another problem. The builders of the historical instruments today need to re-evaluate the aim and purpose of the viol making. Should they keep searching the true essence of the viol making of the past, or should they regard the viola da gamba as an instrument of the modern times as well as an artistic output of modern instrument builders? To find an answer to this question, this article looks at the history of the modern viol making and compares the modern Early Music instrument building with the modern Early Musi performances.
著者
坂倉 杏介
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.21, pp.63-78, 2010

1. 共助社会と地域の居場所2. 芝の家の概要と現況3. 芝の家におけるコミュニケーションの特徴4. コミュニティの萌芽 : 「中間的」で「小さな」グループ形成5. 地域の居場所が提供するグループ生成の要因6. 展望と課題