著者
朴澤 泰男
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.51-71, 2012

本稿では男子の大学進学率の地域格差,すなわち都道府県間の差が構造的に生ずるメカニズムを説明することを目的に,人的資本理論の枠組みに基づいて,都道府県別データと,高校生及びその保護者を対象とする質問紙調査の分析を行った。<BR> 分析の結果,得られた知見は以下の通りである。第一に,大卒と高卒の男子一般労働者の平均時給を県別に推計したところ,その相対賃金(大卒/高卒)が大きい県ほど大学進学率が低い。20~24歳の男子の相対賃金は,男子大卒労働需要(出身県の20~24歳の大卒就業者数を高卒就業者数で除して定義)と負の相関関係にある。<BR> 第二に,男子大卒労働需要を用いて,県単位の大学進学率の回帰分析を行った。その結果,大卒労働需要の大きい県ほど地方在住者の県外進学率や,進学率全体が高いことがわかった。なお県外と県内の進学率は負の相関関係にあるため,収容率は大学進学率全体にはほとんど関連性がない。<BR> 第三に,高校生調査を用いた分析でも同様の結果が得られた。大学進学希望の有無に関する二項ロジスティック回帰分析を行うと,個人間で異なる家計所得や学力を統制してもなお,大卒労働需要の多い県に住む男子ほど,大学進学希望を(地方在住者の場合,県外進学希望も)持つ見込みが高いことが確かめられた
著者
須藤 康介 Kosuke SUDO 東京大学大学院 Graduate School The University of Tokyo
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 = The journal of educational sociology (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.25-44, 2007-11-30

The purpose of this paper is to grasp how science is taught in Japanese junior high schools, and to show the influences of teaching methods on academic achievement and differences between social classes, using the data of TIMSS2003. It is found that science lessons in junior high schools are taught using four teaching methods: the experiment-investigation method, society-daily life method, homework-examination method, and hearing-practice method, as well as combinations of these methods. They are not trade-offs, but are linked to one another. In this paper, the author emphasizes the following three points regarding the influence of these four teaching methods. Firstly, looking at two of the "Traditional Views on Academic Achievement, " the hearing-practice method tends to improve academic achievement, while the homework-examination method may degrade it. Thus, a return to the "Traditional Views on Academic Achievement" could potentially lead to an unintended further decline in academic achievement. Secondly, the society-daily life method, which is based on the "New Views on Academic Achievement, " may promote increased differences of academic achievement between social classes, but does not bring about a decline of academic achievement. Thirdly, an additional effect takes place on academic achievement when the hearing-practice method and society-daily life method are combined. Based on these findings, the author suggests that we should not regard "New Views on Academic Achievement" and "Traditional Views on Academic Achievement" as being in binary opposition. Rather, we should discover effective teaching methods (and a combination of them) among many kinds of "new" and "traditional" teaching methods.
著者
加藤 隆雄
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.5-24, 2014

「ポストモダン」論によって影響を受けた1980年代後半の日本の教育社会学を「ポストモダン教育社会学」と呼ぶことにする。それは,「モダン」としての教育・学校制度の異化に向かったが,アリエス,ブルデューと並んでインスピレーションの供給源となったのが,『監獄の誕生』におけるフーコーの「規律訓練」の視点であった。しかし,1990年代以降の教育システムの変動によって,異化の手法で捉えられた教育・学校制度の理解は不十分なものとなり,ポストモダン教育社会学の訴求力も低下していく。他方,フーコー研究においては,2000年代以降,規律訓練の概念が「生政治」論の一部であることが明らかになるのだが,1990年代以降の教育システムは,まさにこの生政治論的視点からよりよく捉えうることをフーコー理論を概略しながら論じた。
著者
江口 潔
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.129-149, 2013

本研究では戦前期百貨店の女子店員を取り上げて,技能観の変容過程を検討する。女子店員の職域が拡大したのは,彼女たちの賃金が安いというばかりでなく,彼女たちの対人技能が評価されたからでもあった。彼女たちが売場の過半数を占めるようになると,彼女たちの振る舞いは標準化されていくこととなる。ここでは,三越の女子店員を取り上げて,以下の3点について検討した。<br> 女子店員が採用されるようになった当初,百貨店では,彼女たちが永続的に勤めることを前提としていた。ところが,花嫁修業として働く女子店員が多かったこともあり,短い勤務年数が一般的となった。彼女たちの多くは昇進とは無関係に店員生活を過ごすこととなる。<br> 1900年代初頭には,女子店員は簡単な職務に配属されていた。それというのも,男子店員ほどには専門的な知識を身につけることができないと考えられたからである。その後,百貨店化がすすめられる中で女子店員の丁寧な応対が評価されたことにより女子店員は様々な売場に用いられていくようになる。<br> 1930年代には店舗の拡大を受けて,女子店員が売場の過半数を占めるようになる。この頃から三越では映画や写真を用いた店員訓練を導入して,標準化された対人技能を女子店員たちに学ばせるようになった。そこでは不特定多数の人に開かれた振る舞い方を身につけられると考えられていたのである。
著者
長谷川 哲也 内田 良
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.259-280, 2014

本研究の目的は,大学図書館の図書資料費に関して,大学間の格差の実態とその推移を明らかにすることである。資料の電子化という地殻変動のなかで,大学間の格差はどう変容してきたのか。図書館研究と高等教育研究はいずれもこの問題を等閑視してきただけに,格差の全体像を丁寧に検証することが求められる。 とくに高等教育の資源格差は,各大学の機能の相異として是認されうるため,本研究では4つの視点──大学間の不均等度,大学階層間の開き,時間軸上の変化(縦断的視点),大学本体との比較(横断的視点)──を用いて多角的に分析をおこなう。分析には『日本の図書館』の個票データを用いた。国立大学法人化以降(2004-2011年度)の図書費,雑誌費,電子ジャーナル費に関して,「大学間格差」(個別大学間の不均等度)を算出し,さらに「大学階層間格差」(群間の開き)を明らかにした。<BR> 主な知見は次のとおりである。第一に,電子ジャーナル費では大学間の不均等度は縮小しているものの,階層間格差はむしろ拡がっている。これまで電子ジャーナルの購読では階層間格差は小さくなると考えられてきただけに,重要な知見である。第二に,雑誌費では大学間の不均等度が高くなり,さらに階層間格差が拡大するという,深刻な事態が生じている。「電子化」の背後で進むこれら図書資料費の「格差化」にいかに向き合うかが,大学図書館の今後の課題である。
著者
石岡 学
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.173-193, 2014

本研究の目的は,1920年代日本の中等学校入試改革論議における「抽籤」に関する言説に照準し,「抽籤」に対する賛否の対立軸の分析を通して,選抜の公正性がいかに捉えられていたのかを解明することである。<BR> 1章では,公平性と正当性の二要素から構成されるものとして選抜の公正性を概念定義した。その上で,1920年代の中等学校入試に関する先行研究を検討し,これまで等閑視されてきた「抽籤」をめぐる議論を分析する意義について論じた。<BR> 2章では,1920年代に中等学校入試が社会問題化した背景について論じた。入試改革には,準備教育の軽減・入学難の解消・的確な能力選抜という3つの問題の解決が期待されていたことを述べた。<BR> 3章では,従来の入試にかわる入学者決定法としての「抽籤」に関する議論を分析した。賛成論の多数派であった条件付き賛成論は,先天的素質の差異は固定的・恒常的だとする能力観を基盤に,大多数の中位者に対する能力判定は困難とする認識に立脚していた。一方,反対論は能力の伸長可能性を前提としており,人為的選抜の技術的な限界に対する意識は希薄であった。<BR> 4章では,1927年に行われた文部省の入試改革における「抽籤」の位置づけについて論じた。人為的選抜の困難性という認識が,実際の改革においても引き継がれていたことを明らかにした。<BR> 5章では,選抜の公正性という問題に対して「抽籤」論が持つ含意について考察した。
著者
朴澤 泰男
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.51-71, 2012

本稿では男子の大学進学率の地域格差,すなわち都道府県間の差が構造的に生ずるメカニズムを説明することを目的に,人的資本理論の枠組みに基づいて,都道府県別データと,高校生及びその保護者を対象とする質問紙調査の分析を行った。<BR> 分析の結果,得られた知見は以下の通りである。第一に,大卒と高卒の男子一般労働者の平均時給を県別に推計したところ,その相対賃金(大卒/高卒)が大きい県ほど大学進学率が低い。20~24歳の男子の相対賃金は,男子大卒労働需要(出身県の20~24歳の大卒就業者数を高卒就業者数で除して定義)と負の相関関係にある。<BR> 第二に,男子大卒労働需要を用いて,県単位の大学進学率の回帰分析を行った。その結果,大卒労働需要の大きい県ほど地方在住者の県外進学率や,進学率全体が高いことがわかった。なお県外と県内の進学率は負の相関関係にあるため,収容率は大学進学率全体にはほとんど関連性がない。<BR> 第三に,高校生調査を用いた分析でも同様の結果が得られた。大学進学希望の有無に関する二項ロジスティック回帰分析を行うと,個人間で異なる家計所得や学力を統制してもなお,大卒労働需要の多い県に住む男子ほど,大学進学希望を(地方在住者の場合,県外進学希望も)持つ見込みが高いことが確かめられた
著者
近藤 博之
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.101-121, 2012
被引用文献数
1

学力に階層差のあることは広く知られているが,マクロな社会の変化とともにそれがどう変容していくかについては,必ずしも明確な展望が描けていない。本稿では,OECD の PISA 調査データ(2009)に多次元階層分析を適用し,国際比較の観点からこの問題に取り組んでいる。まず,生徒の家庭背景について,多重対応分析からブルデュー流の社会空間を構築し,経済発展により階層の多次元化が進むかどうかを検討した。つぎに,社会空間における個人座標を階層変数として利用し,それが PISA テスト得点をどの程度説明するかを吟味した。その結果,〈資本総量〉に対応する第1軸得点が生徒の成績差をよく説明すること,それに〈資本構成〉の違いを反映した第2軸得点を追加すると説明力がさらに高まることが明らかとなった。つぎに,各国におけるそれらの説明力の差異をマクロ水準の回帰分析によって検討した。その結果,第1軸得点の場合は,経済水準の上昇が階層差を縮小する効果をもつものの,平均学校余命が逆に階層差を拡大させる効果をもつことから全体の傾向が曖昧になること,第2軸得点の場合は,教育制度の特徴によらず経済水準の上昇とともに文化的資源の影響力が単調に強くなっていくことが確認された。結局,マクロな社会の変化とともに学力差に対する要因構造の転換が進み,教育達成の階層差は単純には縮小していかないとの結論が導かれた。
著者
嶋内 佐絵
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.303-324, 2014
被引用文献数
1

本研究の目的は,日本と韓国の高等教育における英語プログラムへの留学に関し,先行研究による国家的枠組や経済的視点を中心としたプッシュ・プル要因が提示できなかった留学動機を明らかにし,東アジア地域における新しい留学の形を留学生の視点から描き出すことである。研究方法として,日韓の名門国私立大学における9つの英語プログラムで,東アジア諸国からの正規留学生への質的調査を行い,その留学動機と留学の要因を多面的に探った。インタビュー分析の結果,留学に至るまでの要因は,既存の国家の枠組を基本にしたプッシュ・プル要因だけでなく,西洋英語圏における高等教育の優位性に基づくセカンドチャンス型やステッピングストーン型の要因など,分析枠組における「西洋英語圏」との比較軸の必要性が示唆された。また,国際化したキャンパスや事前の留学経験の中で生まれた人々とのつながりなど,ナショナルプッシュ・プル要因の多様化が見られた。さらに,これらの英語プログラムが「地域」という留学空間を含有していることでリージョナルなプル要因が生まれ,高等教育の地域化と「東アジア周遊」という新しい留学の形をもたらしていることも示唆された。このような留学生移動と多様化する留学動機を踏まえ,日韓の英語プログラムがどのようにしてその魅力を打ち出し,留学生を惹き付けて行くことができるのか,さらなる研究と議論が望まれる。
著者
薮田 直子
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.197-218, 2013

本稿は,公立中学校とNPOでのフィールド調査から,外国にルーツを持つ生徒のアイデンティティに関わる教育実践の現状を描くことを目的とする。<br> 調査地では,近年ベトナムルーツの生徒が「通名」を使用する事例が散見される。そこで具体的に「本名を呼び名のる実践」を挙げ,教師や支援者が生徒の「通名」にどう向き合うかを描く。分析から2つの「転換」が明らかになった。<br> まず,従来の実践が象徴としてきた「通名から本名へ」という物語の揺らぎである。在日コリアン生徒を対象とした実践では,本名を表明することが重視されていた。しかしダブルの生徒にとって,また歴史的経緯を別とするベトナムルーツの生徒にとっての表明すべき「本名」とは何か。ここから実践目標に転換が生まれていると位置付けた。<br> 次に浮かび上がる2つ目の転換は,名乗りという主体的な行動に介入することへの配慮である。本人や保護者の決定に介入しない実践スタイルは,「特定の名乗り:民族名」を過度に期待することで生まれる「教条的」な関わりを避けたいという実践手法の転換であった。<br> 以上の分析から,オールドカマー,ニューカマー両者を対象に据えた新たな実践の形が明らかになった。また公立学校と同校区内のNPOを事例とすることによって,実践の中心的役割を担ってきた2つの場を比較検討することができた。こうした教育実践の現状を記すことは,「在日外国人教育」の発展に有益な視点を提供すると考える。
著者
星野 周弘
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.61-72,en179, 1975

1.Two phncipal approaches to the problem of definitions are usually recognized as the legal and the behavioral or sociological. There seems to be extensive agreement that delinquency consists of behaviors recognized as undesirable or behaviors formally prohibited by law. However, a number of questions always arise as to this seemingly simple way of defining term. One of such questions is concerned with the problem of what is involved in the idea of delinquency. Is it a single act or must there be a series of related acts, a pattern ofbehavior in order to establish the fact of delinquency? There are also questions about whois a delinquent and when one becomes a delinquent. Whether causal analysis of delinquency is possible depends on how these basic questions are answered.<BR>2. Three fundamental perspectives on delinquency dominate the current scene. They are strain or motivational theories, control or bond theories and cultural deviance theories. Although most current theories of delinquency contain at least two and occasionally all three of these perspectives, reconciliation of assumptions is very difficult. Each investigator should begin framing hisperspective in order to analyze causes of delinquency.<BR>3. There are three principal requirements that an empirical investigator must meet in order to be able to say that A causes B:<BR>1) A and B are statistically associated.<BR>2) A is causally prior to B.<BR>3) Theassociation between A and B does not disappear when the effects of other variables causally prior to both A and B are removed.<BR>4. There have been many arguments among proponentsof "general theory" or "multiple factor" approaches. Multiple factor adherents should state more explicitly the reasons for their choice of particular itemsfor analysis and the general theorists should examine and make more extensive use of data.The causes of delinquency must be discussed more in probabilistic terms than in deterministic models.
著者
朴澤 泰男 白川 優治
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.321-340, 2006
被引用文献数
1

This article explores factors that affect rates of financial aid receipt among private institutions of higher education in Japan, with the aim to understand whether academically well-prepared and needy students are awarded financial aid in those institutions. Using a survey dataset of chief financial officers of Japanese private four-year colleges and universities, an ordered logistic regression analysis of the rates of institutional aid receipt including tuition waivers and a linear multiple regression analysis of the percentage of recipients of Japan Scholarship Foundation (JSF) Scholarship Loans were conducted. The regression results are as follows:(1) the rates of institutional aid receipt are related to the age of the institution and the selectivity of students, but not to regional income levels or tuition amounts. The percentage of aid awardees is also not related to instructional costs. In institutions where many students receive institutional aid, there are a significant number of students who borrow JSF Type I Scholarship Loans (Interest-Free Loans).(2) While the rate of JSF Type IScholarship Loan recipients is related to the historical background of the institution, selectivity of students, and regional income levels, there is no correlation between JSF Type I Loan recipient rates and tuition. The type of departmentsand schools in an institution is also not relevant to that figure.(3) While the rate of JSF Type II Scholarship Loan (Interest Bearing Loan) recipients is not related to the historical background of an institution, the selectivity of students, regional income levels, tuition, and instructional costs affect it. The percentage of JSF Type I Scholarship Loan awardees is positively correlated to that of JSF Type II Scholarship Loans.
著者
秋葉 昌樹
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.83-104, 2013

本稿の目的は,「フォーラムシアター」と呼ばれる応用演劇の手法によって,養護教諭が日常的に抱える問題意識やその仕事の流儀と向き合う作業を支援する方法について考察し,「教育臨床の社会学」の新たな展開可能性を探ることにある。<br> 「フォーラムシアター」は,観客ないし演じ手が日頃直面しがちな問題をとりあげ劇として上演し,観客を巻き込んだ 討論と劇の再演を繰り返しながら問題状況における変化,変容可能性を探っていく手法である。それはいわば演劇を用いた社会教育的実践とも言いうるものだが,その応用的性格からか,理論的定式化は必ずしも十分に進められてこなかった。<br> 本稿では,この手法がもたらす当事者支援の可能性を視野に,筆者が養護教諭らのグループとともに運営してきたフォーラムシアターを事例として分析した。 その結果見えてきたことは,フォーラムシアターという手法によって,参加者である養護教諭が,日頃の葛藤や問題意識を共有しつつ再認識し,またそれらを乗り越えるべく主体的に探究を開始し,今後の変容可能性を見いだしているということである。そして本稿では,参加者によって主体的に見いだされる変容可能性が,フォーラムシアターが備える遊戯性および"未完"性という構造的特質によってもたらされることを明らかにした。
著者
渋谷 知美
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.25-47, 1999

This paper shows the images of youth sexualities in mid-last-Meiji period and examines the way in which sexualities of youth was discussed as problematic by society and the reactions of youth to the problematization. To do this, I examined articles about<I>Gakusei-Fuki Problem</I>in<I>Kyoiku-Jiron</I>published in Meiji period. The perspective of social-constructionism approach developed by Kitsuse and Spector was employed in this study. The questions I asked here were:(1) what sexual behaviors were considered problematic?;(2) what rhetoric was used to make them problematic?; and (3) what reactions were arisen. In these problem areas, I also examined the countermeasures taken by educators and administration, the counter discourse and the behaviors of students.<BR>The following are the findings of this study.(1) Male students: buying prostitute, sexual violence against younger boys (including gay sexual behaviors), women or girls and having a date with female students were considered sexually delinquent. Female students; prostituting, becoming a mistress and having a date with male students were thought to be sexually improper.(2) In most articles, these sexual behaviors were problematized without providing reasons. Simultaneously, the authors immediately concluded that sexual behavior of youth must be controlled with vigor.(3) Educators thought that bad manners ubiquitously seen in Japan were the factors of youth's problematic behaviors and suggested that students should be strictly supervised. These arguments were realized as the purity of environment around students and the supervision of youth by administrators and educators. Contrary to these movements, however, heated problematizations on sexual behaviors of youth caused some counter discourses. They also led student's movement of self government.
著者
中澤 渉
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.151-174, 2013
被引用文献数
2

本稿の目的は,中学時代の通塾が,その後の高校進学に及ぼす多様な効果を推定しようとすることにある。通塾は日本人の間でありふれたものになっているが,その教育的効果に関する知見は様々である。一般的に,通塾するかしないかはランダムに振り分けられるのではなく,教育に価値を置く高い階層の出身者ほど通塾する傾向があると思われる。したがって,確かに通塾と進学校進学の間に単純な相関はあるだろうが,それが真の塾の効果なのか,階層を反映した疑似相関なのかの区別がはっきりしない。仮に回帰分析で,階層変数による共変量統制を行っても,通塾と,回帰分析で考慮されていない個人の異質性の間に相関があれば,推定値は誤っていることになる。さらに,塾の効果は誰にとっても同じではないと予想されるが,これまでの分析は効果の異質性を考慮していない。こうした問題点を乗り越えるために,反実仮想的発想に基づく傾向スコア・マッチングを用いた因果効果分析を適用した。その結果,通塾する傾向があるのは,親学歴が高く,関東地方のような都市部出身者で,きょうだい数が少なかった。また通塾の効果は一様ではなく,男女で対照的であった。男性は,通塾する傾向がある人ほど通塾が進学校進学の可能性を高め,女性は逆に通塾しない傾向がある人の進学校進学の可能性を高めていた。最後にこの結果の解釈を提示し,傾向スコア・マッチングの限界と意義について検討した。
著者
石岡 学
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.173-193, 2014

本研究の目的は,1920年代日本の中等学校入試改革論議における「抽籤」に関する言説に照準し,「抽籤」に対する賛否の対立軸の分析を通して,選抜の公正性がいかに捉えられていたのかを解明することである。<BR> 1章では,公平性と正当性の二要素から構成されるものとして選抜の公正性を概念定義した。その上で,1920年代の中等学校入試に関する先行研究を検討し,これまで等閑視されてきた「抽籤」をめぐる議論を分析する意義について論じた。<BR> 2章では,1920年代に中等学校入試が社会問題化した背景について論じた。入試改革には,準備教育の軽減・入学難の解消・的確な能力選抜という3つの問題の解決が期待されていたことを述べた。<BR> 3章では,従来の入試にかわる入学者決定法としての「抽籤」に関する議論を分析した。賛成論の多数派であった条件付き賛成論は,先天的素質の差異は固定的・恒常的だとする能力観を基盤に,大多数の中位者に対する能力判定は困難とする認識に立脚していた。一方,反対論は能力の伸長可能性を前提としており,人為的選抜の技術的な限界に対する意識は希薄であった。<BR> 4章では,1927年に行われた文部省の入試改革における「抽籤」の位置づけについて論じた。人為的選抜の困難性という認識が,実際の改革においても引き継がれていたことを明らかにした。<BR> 5章では,選抜の公正性という問題に対して「抽籤」論が持つ含意について考察した。
著者
小林 雅之
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.51-62,en214, 1981

In 1970s a lot of critical works on the Human rCapital Theory which has been a theoretical framework of the economics of education have been raised in the U.S.A. Among them, the Segmented Labor Market Theory, especially the Internal Labor Market Theory and the Screening Device Hypothesis seem to be very suggestive from a view point of the sociology of education. This paper aims at reviewing these new views and acquiring implications about school education systems.<BR>The Internal Labor Market Theory insists as follows: There are barriers to entry in the internal labor markets. Employment of workers is restricted to entry jobs and they are promoted internally. They acquire their vocational skills not by school education but by On the Job Training (OJT). By acquiring these skills they are promoted to the higher rank jobs. If these skills are enterprise-specific, employers must bear the training costs. To minimize the hiring and training costs, employers prefer to promote workers internally rather than hire them from outside the enterprises. The more skills are enterprise-specific, the more the labor markets are internalized.<BR>The Screening Device Hypothesis insists as follows: Education does not contribute to raising productivity, but serves as a means to sorting people for jobs. Employers do not have enough information about work performances of workers. So they use education as an indirect proxy measure of workers' abilities.<BR>In the internal markets, the more skills are enterprise-specific and training needs long time, the more employers use education as a Screening Device and become indifferent to vocational skills acquired by school education and skills are acquired by OJT. Thus in the internal labor market school education is used as a Screening Device and the transmission function of vocational skills by school systems is weakened. Moreover, some economists declare that school education develops personalities which are correspondent to hierarchical work relations in enterprises.<BR>Japanese labor markets characterized by a life-time employment system seems to be well explained by the Internal Labor Market Theory. In the internal labor markets the utilities of vocational knowledge and skills acquired by school education are denied. Some empirical research evidences support this conclusion.