著者
芸林 民夫 Thomas Guerin
雑誌
比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要
巻号頁・発行日
vol.13, pp.A1-A30, 2004-03-31

2003年11月のインドでの2週間の研究活動を通して、特に印象に残ったのはカジュラホの神殿を飾る性的な彫訓群だった。疑問は、このような彫刻がなぜ神殿という聖なる建築物を飾るのか。カジュラホだけではなく、インドのいたるところの神殿に西洋の目で見れば「汚い」性的な表現が多いので、性に対するインドと西洋の違いを探ることにした。結論として西洋とインドの大きな違いは、インドの宗教と神話には、当たり前のように、男女の神々が現在まで国民の宗教活動の対象になっている。それに対して、西洋の神は一人の「父神」であり、「母神」はいない。そのために、性は宗教の中からは排除され人間の社会でもタブー視されるようになってしまった。インドでは「男根」の意味の「リンガム」や女性の「外陰部」の意味の「ヨニ」は崇拝の中心になる。現在インドでは多くの神々の中で一番人気のあるシバ神の神殿の聖なる場所で神体として「リンガム」が拝められている、その近くには必ず女性の本源シャクテイの象徴「ヨニ」が一緒に信者の崇拝を受けている。西洋の世界では、「リンガム」や「ヨ二」のような物を神とすること、または、神と関係あることは、タブー以上に冒涜になる。シバ神と奥さんパルバティ神の性交は理想的な愛の表現であり、パルバティ神は若いインド人女性たちの憧れの的である。同じように、西洋でポルノとして見られている「カマ・スートラ」は、インドでは結婚前の女性に理想的な結婚生活の手引書として渡されることもある。「悟り」(ヒンズ教では「モクシャ」)への道として、ヒンズ教の中に在るタントラは性行為を含めて、人間のあらゆる欲を清めながら実行する。特にタントリック・ヨーガの中では、性行為の「アーサナ」(ヨーガの種々の姿勢)は悟りに導くとされている。西洋の世界では、人間の死んでからの世界は「天国」で、「悟り」や「涅槃」ではない。しかし、「天国」に達するために、罪のない人生を過ごすことが条件であり、「性行為」=「罪」という考えが多く、「天」に到達する一番の妨げになる。それに対してインド(また仏教を含めてインドから始まった宗教)では、輪廻から開放する「涅槃」が目的で、性欲を含めて人間のあらゆる欲をルールにのっとって清めることにより達する。要するに、父神しかいない西洋では、性行為はタブーとされ(自然の世界では当然行われているが、神に対する良心の呵責の原因となる。)、インドでは、父親の神もいるが当然母親の神もいるから、性行為はいとも自然なことであり、そこが世界の始まりとされている。
著者
Rajalakshmi Parthasarathy ラジャラクシュミ パルタサラティ Parthasarathy Rajalakshmi
雑誌
Gender and Sexuality : Journal of the Center for Gender Studies, ICU
巻号頁・発行日
no.1, pp.51-66, 2006-03-31

このペーパーではインドにおける現代に至るまでのジェンダー表象およびグローバル化の中での変化のありかたの包括的分析を行う。インドの社会実情は多文化混在性と密接に結びついており,それは地域により父権主義的なものからから女系制まで存在するジェンダー関係の現状にも反映されている。ここでは,ジェンダー観の発達および内在化に強い影響を与えた5個の要素に焦点を当てて議論したい。具体的には,インド神話体系・宗教・歴史・文学およびマスメディアを取り上げる。多面的なインド文化では,多くの対立的要素,例えば伝統とモダニティ,都市文化と地方文化、精神主義と現実主義、識字文化および非識字文化といった事柄が共存するパラドクスが見られる。他言語・他宗教・他民族・階層社会というインド社会の多様性にも関わらず,そこにある統一的アイデンティティが確実に存在しているのは,やはり文化活動の影響に負うところが大きいだろう。神話体系はインド文化にとって最も豊饒な基盤のひとつであり,現在に至るまでインド社会の精神性の根源はヒンドゥー教聖典であるプラーナの編まれた時代にある。ジェンダーによるステレオタイプや役割の発展過程の研究において,叙事詩や民話,伝説が参照される要因はここにある。インド社会内の父権的構造によって採用されてきた宗教原理や伝統についての議論は,ジェンダーによる差異化がいかに着実に男性の社会における優位性を確立し女性の生を周縁化してきたか,また寡婦殉死や持参金制度,女児殺し,寡婦や未婚婦人の蔑視,強姦をはじめとする女性に対する暴力全般などの社会悪の根源がここにあることを明らかにする。外国勢力の侵入の歴史を辿ると,紀元前325 年のギリシャによるパンジャブ地方浸入および紀元747 年のアラブ浸入,15 世紀に始まるムガール帝国による支配,イギリスによる植民地支配などによる数次にわたる男性優位性思想導入の影響を見て取ることができる。文学はそれを生んだ社会を映す鏡の役割を果たす。一般大衆向け作品に見られるジェンダー表象は男女に対するステレオタイプ化されたイメージとアイデンティティの変化を見せてくれる。過去において,そしておそらく現在においても,女性に対するイメージには両義的なものがあり,神格化されたイメージと侮蔑的で貶められたイメージが並立して見られる。男性キャラクターの描かれ方と照らし合わせるとき,現代社会における女性の地位および役割の変化の中,アイデンティティクライシスが進行しつつあることが見て取れるだろう。映画やテレビドラマ,広告や印刷メディアが男女の生活におよぼす影響は非常に大きい。映画は現在の社会の傾向を指し示す理想的なメディアである。年間製作本数の膨大さにおいてインド映画界は世界最大規模を誇る。メディアテクストの多義的な意味性に女性性の現実ではなく男性の幻想の反映を見て取るのは難しくない。娯楽映画では,男女を伝統的アイデンティティのもとに表現するため,さまざまな方策をとっている。採算性が最優先されるため,男性観客向けアピールとしてセックスと暴力に力点が置かれている。インド社会全域に浸透しているテレビも映画に影響を与えている。連続ドラマの多くは女性を中心に据えているが,否定的な側面が強調されている。そこでは女性は悪意に満ちているか,あるいは弱い人間として描かれる。広告で男性の下着からトイレ・浴室用製品にいたるまで,グラマラスな人形として女性イメージが多用されている。締めくくりとして,インド社会の精神性と文化構造の継続性および安定性が,黙々たるインド女性によって保たれてきたことを示したい。この文脈において,女性の人生は徳性の担い手として娘・妻・母としての義務と役割を果たすことにあると考えられてきた。全人格的存在としての個人が役割の枠組みから離れることは許されず,女性の多くが,既成の枠組みを超えるのではなく,その枠組みを尊厳あるものとして扱い,結果としてそれを保持してきた。しかし現在,成長と生活の場には新しい状況がある。現在女性が立っている空間はいまだかつて存在たことのない場所だ。そこには新しい指針が打ち立てられなければならない。女性が旧来の世界を脱却し,新しい世界に足を踏み入れ,新しい意味性を獲得し作り出すためには,まず自らの内面に潜む因習を乗り越える必要がある。現在の世界的および地域的状況は,女性と男性が対話に基づき,平等で幸福な人間社会を協力して築くことを行動に移す環境を整えつつある。
著者
中村 真
雑誌
江戸川大学紀要 = Bulletin of Edogawa University
巻号頁・発行日
vol.28, 2018-03-31

本稿は,恥意識が社会的逸脱行為に対して促進・抑制の両面にわたって影響を及ぼすことを首都圏の四年制大学に通う学生を対象とする質問紙調査を行って実証的に検討した。先行研究の知見をふまえて,自分の行動が自ら立てた目標や基準に合致しないときに生じる「自分恥」,および,自分の行動が社会一般の常識やルールと一致しないときに生起する「他人恥」が社会的逸脱行為に対する許容性を抑制すること,自分の考えや行動が身近な仲間集団と一致しないときに生じる「仲間恥」が社会的逸脱行為に対する許容性を促進するという仮説を設定し,これらを概ね支持する結果を得た。また,「仲間恥」が社会的逸脱行為を促進する背景に,規範意識の低い仲間との同調傾向があることを裏付ける因果モデルの検証をパス解析により行った。
著者
松本 真 マツモト シン Shin Matsumoto
雑誌
広島修大論集. 人文編
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.49-113, 2000-03-10

The Oribe-style stone lantern used in a garden for tea ceremony has its origin in the time around 1600. On the remains of those lanterns is engraved the year 1615. Their formative characteristics are found at the three parts of stone poles. First, the top part of stone poles, projecting right and left, has a shape Τ (Egyptian Cross), and a shape † (Latin Cross). There's a theory from this that it's the symbol of the Holy Cross. However, I think this theory is wrong. The design Τ is not limited to the Holy Cross. Second, in the center of the shape † are engraved hieroglyphic characters. There's another theory from this that these characters mean IHS (Jesus; lesus Homium Salvator), or IHP. This theory is also wrong. I think it's the ideogram of the old form of a Chinese character Tatsu. Tatsu means the year of the birth of Furuta Oribe (1544-1615). Tatsu is one in Eto (or, Chinese sexagenary cycle), and the character means the North Star. It also has its original meaning of "being the best season for crops in fine spring weather." Third, at the base of the stone pole is a figure in relief. There's a theory from this that this is an image of Jesus Christ or of a missionary. I think this is wrong, too. I think it's an image of a bonze (or, priest) style of the master of tea ceremony and its variation.
著者
谷内 正往
出版者
近畿大学
雑誌
博士学位論文/内容の要旨および審査結果の要旨(平成28年度授与)
巻号頁・発行日
pp.1-5, 2017-05-01

学位の種類:商学 学位授与年月日:平成29年3月21日 主査:山田,雄久 教授 報告番号:乙第687号 学内授与番号:商第18号
著者
近藤 則子
雑誌
情報処理
巻号頁・発行日
vol.62, no.7, pp.320-321, 2021-06-15
著者
池田 佐輪子 楠 凡之
出版者
北九州市立大学文学部
雑誌
北九州市立大学文学部紀要, 人間関係学科 (ISSN:13407023)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.17-39, 2021-03

本稿では“知的には境界域にある自閉症スペクトラム障害の子ども”の事例を取り上げ、専門機関との連携と就学に向けての支援の課題を検討した。今回の研究を通して、専門機関との連携が発達支援に重要かつ有効な役割を果たしたこと、今後の課題として、そこから小学校へと引き継ぐための就学支援のあり方を構想していくことの重要性を提起した。
著者
安藤 和代
出版者
千葉商科大学国府台学会
雑誌
千葉商大論叢 (ISSN:03854558)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.35-54, 2018-11-30
著者
高岡 詠子 杉浦 学 小宮 仁志
雑誌
研究報告コンピュータと教育(CE)
巻号頁・発行日
vol.2014-CE-125, no.9, pp.1-14, 2014-05-31

本研究ではタッチタイピングのできるタイピング中級者に焦点を当てて実験を行い,タッチタイピング初心者の打鍵特性と比較や分析を行った.その結果,中級者も初心者も同じような文字を得意とし,同じような文字を苦手としている,中級者は初心者に比べ誤打鍵のミスの割合が減り,入れ替えや挿入のミスの割合が増える,中級者は左右の交互打鍵が速く,初心者は一つの指による連続打鍵のほうが左右の交互打鍵より速い,中級者は左手より右手による打鍵のほうが打鍵間隔が短い,多く打鍵すれば速く打鍵できるようになるが,正解率が高くなるとは限らない,正解率をあげるためにはある程度の速度を保ったまま多く打鍵する必要があるなどの結果が導かれた.これをもとに,有効なタッチタイピング学習方法や問題文を検討することが可能となる.
著者
伊藤 潔志
出版者
桃山学院大学
雑誌
人間文化研究 = Journal of humanities research St. Andrew's University (ISSN:21889031)
巻号頁・発行日
no.3, pp.29-53, 2015-10-27

This paper aims to reconsider, from the viewpoint of educational ethics, the "religious neutrality of education" that is a fundamental principle of Japan's Basic Act on Education. Religious neutrality in education is a concrete example of the principle of the separation of church and state. The history of the relationship between church and state in the USA and Europe reveals that separation of the two has been enacted in each individual country as a result of a wide range of developments, and could therefore be called a political "product of compromise." The relationship among the three fundamental principles - separation of church and state, freedom of belief, and the spirit of tolerance - can be describedas follows. First, freedom of belief has the definitive meaning of having freedom to follow one's own personal beliefs. However, when this freedom is expanded to mean freedom of belief for both oneself and others, it becomes a right with universal value. What makes such an expansion possible is the spirit of tolerance. For this reason, it can be said that the spirit of tolerance is a condition for freedom of belief, and that the result of the systemization of this spirit of tolerance is the separation of church and state. The separation of church and state thus becomes a means to safeguard freedom of belief. These three elements are inter-related. Tolerance appears to be a universal concept, but it is based on an extremely Protestant philosophy. The same can also be said of freedom of belief, and of the separation of church and state. Moreover, the limits inherent in the separation of church and state are inextricably linked to the limits of religious neutrality in education.