著者
黒田 一充
出版者
関西大学博物館
雑誌
関西大学博物館紀要 (ISSN:13414895)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-28, 2022-03-31
著者
沖田 瑞穂
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
no.12, pp.181-206, 2003-10-31

Th is pa pe r d ea ls Wi t h t hr ee fe rt il it y g od d es se s; Sダri, Aphrodite, Freya who belong to the pantheons of India, Greece, and Scandinavia, and tries to compare them. This comparison makes it clear that following three characteristics are common to these three goddesses. N l)They spring from the ocean, and are regarded as“the daughter of the ocean”. 2)They have a lewd character, and have love affairs with a dwarf smith or a divine manufacturer. 3)They cause a great war among the human beings. The third is the most important point in this analysis. In India, Greece, Scandinavia, there are legends of a great war in which so many gods and human beings are involved. In my opinion, these legends have a common structure, First, the supreme god decides to bring about the war. Second, the fertility goddess becomes the origin of the war. Third, the abduction of a human heroine or the insult to her turns out to be the direct cause of the war. This heroine is regarded as an earthly i.ncarnation of the fertility goddess. It is likely that Proto-lndo-European society had a fertil.ity goddess having all these characteristics, and myths related to this goddess. And each Indo-European community inherited the concept of this fertility goddess from the Proto-Indo- European mythol.ogy.
著者
永谷 健
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.47-59, 2023-03-31

近代日本において殖産興業を先導した経済エリートは、多様な公職に就任するとともに特徴的なハイカルチャーを生み出すなど、政治的・文化的に独特な存在感を示した。彼らがエリート的な地位を占めた過程には、二つの差異化が重要な意味を持つ。「実業」の模範者として自己を正当化する過程、そして、エリート文化の指標となる象徴財を獲得する過程である。前者は、封建的な賤商意識からの離脱を志向するものである。明治期半ばには、勉学(とりわけ「虚学」)や学校教育とは異なり、また、非道徳的な「虚業」とも異なる実地の民業が「実業」として正当化される。彼らはそうした思想的な趨勢に倣いながら、明治後期において新聞・雑誌で自らを道徳的な「実業家」として語った。また、後者は、明治初年に上流社会で流行した能楽や茶事を自己の地位にふさわしい文化的アイテムとして彼らが積極的に取り入れ、趣味のネットワークを形成した過程である。二つの差異化の過程は、勉学・学校教育の貶価や伝統文化への傾倒という点で、プレモダンへの志向という特徴を共に持つ。次世代の実業家も反知性主義や伝統主義を表明することが多く、そのことは昭和初期という社会の変革期に至って、再び経済エリートの社会的な立ち位置を複雑なものとした可能性がある。
著者
中川 輝彦 Nakagawa Teruhiko
出版者
熊本大学大学院人文社会科学研究部(文学系)
雑誌
人文科学論叢 = Kumamoto journal of humanities (ISSN:24350052)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-102, 2023-03-31

This paper examines the formation of the concept of evidence-based medicine(EBM) in physician culture by analyzing articles on EBM published in medical journals between November 1992 and January 1996. The analysis focused on contestation over EBM. The results revealed that articles supporting and criticizing EBM, although seemingly at odds with each other, share a common view. In other words, together, the papers defending and denying EBM constituted a rhetoric that promoted the “probabilization of medicine”.
著者
田代 深子
出版者
将棋と文学研究会
雑誌
将棋と文学スタディーズ
巻号頁・発行日
vol.2, pp.61-73, 2023

倉島竹二郎(一九〇二〈明治三五〉年一一月九日-一九八六〈昭和六一年〉年九月二七日)は、『国民新聞』において一九三二(昭和七)年から将棋観戦記を書きはじめた(倉島 一九七一)。その後、名人戦第一期(一九三五〈昭和一〇〉年)より『東京日日新聞』(現毎日新聞)の嘱託観戦記者となり、戦中戦後の一時期を除いて一九八一(昭和五六)年(継続的には一九七六〈昭和五一〉年)まで新聞紙上に書き続けた。囲碁観戦記も手がけ、また将棋雑誌や一般雑誌にも囲碁将棋にまつわる多くの随筆を寄せている。
著者
村部 貴浩
出版者
北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院
雑誌
国際広報メディア・観光学ジャーナル
巻号頁・発行日
vol.29, pp.21-36, 2019-10-24

Fukuda Tsueari has been perceived to be one of the leading post-war conservative thinkers in Japan. However, he also placed more emphasis on the importance of an individual in nation and society in contrast to other conservative thinkers in the country. In this article, I focus on some aspects of his emphasis on the importance of an individual, which has not been yet explored in previous research. I mainly discuss Fukuda’s critical paper on Shimizu Ikutaro, “Critique of a modern Japanese intellectual, Shimizu Ikutaro”, who published a paper “The choice of nucleus, Japan be a nation”, in 1980, which indicates his turn to a rightest nationalism from liberalism in his political thoughts. This article examines Fukuda’s perception of individualism which is revealed in his critical work on Shimizu.
著者
井上 裕子
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.219-233, 2010-12-24

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。
著者
小田 博志
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.73-94, 2018-03-31

139年前に札幌から一体のアイヌの遺骨がドイツへと盗み出された。なぜそのようなことが行われたのか。その遺骨のrepatriation(返還・帰還)はどうあるべきか。本論文の目的はこれらの問題について、この遺骨のストーリーを辿りつつ考察していくことである。ここでは「エスノグラフィック・アクションリサーチ」のアプローチを通して明らかになった知見を述べていく。19世紀後半から20世紀前半にかけて、「グローバル人骨流通ネットワーク」を通して植民地化された人々の遺骨が大規模に収奪され、形質人類学の研究対象とされた。そのネットワークのハブのひとつが当時のベルリンであった。その頃ドイツの人類学・民族学では「自然民族/文化民族」の二分法が浸透していた。主体としての人間が文化と歴史を作り、客体としての自然を支配し収奪するという、この非対称的な分割は植民地主義と人種主義とを正当化する役割を果たした。この植民地主義的な歴史の文脈の中で、アイヌ遺骨の盗掘も行われ、主体性が奪われ、研究の客体に仕立て上げられ、ついには“RV33”と番号がふられた。近年、植民地化された人々のコミュニティから遺骨返還を求める声が上がっている。これはrepatriationという概念で論じ実践されているが、そこには法制度的な手続き論を超えて、ポストコロニアルな責任と脱植民地化という課題への広がりがある。“RV33”と番号がふられたアイヌの遺骨の故郷は、札幌にかつてあり、北海道/アイヌモシリの植民地化によって解体されたコトニ・コタンであったことが明らかになっている。その故郷への未完の旅の行く末を、「再人間化」をキーワードに考察したい。
著者
増田 隆一
巻号頁・発行日
pp.32-37, 2012-03-31

新しいアイヌ史の構築 : 先史編・古代編・中世編 : 「新しいアイヌ史の構築」プロジェクト報告書2012