著者
丹保 健一 Tanbo Ken-ichi
出版者
三重大学教育学部
雑誌
三重大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学 (ISSN:03899241)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.1-12, 1999-03-01

ヨウダが表すとされる「様態」「推量」「伝聞」「婉曲」の意味について考察し、「様態」的なものと「推量」的なものの比重が「時間的空間的心理的」遠近によっていること、「伝聞」に擬似的なものがあること、「婉曲」と呼ばれるものに推量的なものが混在していること等についての指摘をした。
著者
植村 邦彦
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
多元的経済社会の展開
巻号頁・発行日
pp.19-48, 2003-03-31

一つの妖怪が世界をうろついている。「帝国」という妖怪が。すでに1997年には、極東の片隅でもこう言われていた。「帝国の到来をめぐる予言が今日ほどさかんだったことはない。しかもそれは、一地域における帝国の誕生ではなく、世界帝国とも言うべきものの出現である(1)」。この「世界帝国」の表象について、『帝国とは何か』の編者の一人である増田一夫は、次のように説明している。「われわれの目前で成立しつつあるかもしれないとされる帝国は、武力制覇によって成立するのでもなく、中心的な核もなく、あくまで匿名であり続けると言われている。このイメージは政治よりも経済、経済よりもコミュニケーションの分野で実際に起こっている事態を想起させる。ピラミッドや樹[ツリー]状の組織ではなく、無限に接続し合い絡み合うウェブもしくはネットワーク。あらゆる地点からのランダム・アクセスの可能性を備えた開かれたシステム。根茎[リゾーム]状の組織。これはドゥルーズとガタリの著作『資本主義と分裂症』において提示されたイメージにほかならない(2)」。そのように述べたうえで、増田は次のように結論を保留している。「そして『帝国』。その到来の予感は、一部の人々の期待を代弁しているにすぎないのかもしれない。……しかし『帝国』は、たんに、国民国家が弱体化してゆくなか、その崩壊の後に来る事態を『混沌』と呼ぶのを忌避して用いられる名にすぎないのかもしれない(3)」。このような叙述からわかるように、最近現れた「帝国」という言説は、イマニュエル・ウォーラーステインによって提起された資本主義「世界システム」論やその上部構造としての「インターステイト・システム」論に取って代わる、新しい世界認識の概念として論じられているのであって、従来の「帝国主義」論や「帝国主義の問題を『意識』に即して見ること(4)」をテーマとする「帝国意識」論とは問題関心が基本的に異なると考えるべきであろう。本論文は、このような意味での「帝国」論の最新の成果であり、2000年にアメリカで出版されるとすぐに大きな話題を呼んだマイケル・ハートとアントニオ・ネグリの共著『帝国(5)』を取り上げ、その内容を紹介したうえで、その理論的な有効性について考えようとするものである。
著者
佐藤 知己
出版者
日本北方言語学会
雑誌
北方言語研究 (ISSN:21857121)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.219-230, 2020-03-20

本稿は、アイヌ語の「合成名詞(複合名詞とも呼ばれる)」の分析において、動詞から名詞への品詞転換、句から語へのカテゴリー転換という二つの文法的カテゴリー転換が共に重要な役割を果たしていることを、これまでのアイヌ語の研究史 を概観することによって確認し、さらに、未解決問題として残されている、自動詞( 一項動詞)から名詞への品詞転換を可能にしている要因とは何かを論ずるものである。具体的には、形式意味論的要因が転換において重要な役割を果たしている可能性を、完全動詞(ゼロ項動詞)との対比を通して明らかにすることを試みる。
著者
新山 喜嗣 Niiyama Yoshitsugu
出版者
秋田大学大学院医学系研究科保健学専攻
雑誌
秋田大学大学院医学系研究科保健学専攻紀要 (ISSN:18840167)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.21-32, 2018-10-31

自分は死によって,「完全な非在」となるのか,それとも,「不完全な非在」として残存するかを論点とした.始めに,仮に自分の死が完全な非在になるとしたとき,自分の死を意味する「私はいない」という本来は語用論的に誤りとなるべき語りが,いかにしてわれわれの日常会話の中で成立しうるのかを検討した.この過程において,カプグラ症候群がもつ臨床的特徴から,二人称には 「このもの性」を持つときと持たないときの二重性があることを確認した.この二重性は,一人称としての語りである 「私はいない」という語りが,あたかも成立するかのような錯覚をもたらすことになる.結局,「私はいない」という語りは錯覚としてしか成立しえず,自分の完全な非在は実のところ二人称の他者の死を意味するものである.次に,自分の死が不完全な非在であるとしたとき,そのような不完全な非在が,他者の死としての他の不完全な非在と融合せずに,独立して存在できるか否かを検討した.この過程において,ドッペルゲンガーが持つ臨床的特徴から,存在者の同一性は原始的な原理であることを確認した.このことから,自分の不完全な非在は,生あるときの単独性を持つ自分と同一性という原始的な原理で連結し,結局,自分の不完全な非在にも単独性という性質がもたらされることになる.よって,自分の死が不完全な非在であるとしたとき,その自分の 不完全な非在は,死後も独立した個別者として存続することになる.Is death“complete non-existence”or“incomplete non-existence”? First of all, assuming my own death will be“complete non-existence”, the utterance“that I am not”would be an error from the perspective of pragmatics. In everyday conversation, however, this seems as if it were not a mistake. Let us examine why. In this process, from the viewpoint of the clinical features of Capgras syndrome, the second person has duality; in other words, there are two cases—one where the second person has“haecceity”and one where the second person does not have“haecceity”. This duality creates the illusion that the utterance“that I am not”is established. Ultimately, the utterance“that I am not”cannot be established, and “complete non-existence”in fact means not my own death but the deaths of others. Next, let us assume that my own death will be“incomplete non-existence”. At that time, could the“incomplete nonexistence”of my own death exist independently without fusing with the“incomplete non-existence”of others’deaths? In this process, from the viewpoint of the clinical features of Doppelgänger syndrome, the identity of the existence is confirmed as a fundamental principle. From this, my“incomplete non-existence”would link with my living“uniqueness”by the fundamental principle of identity and this identity brings the property of“uniqueness”to“incomplete nonexistence”. Therefore, my“incomplete non-existence”will continue to be a full independent existence after death.
著者
代田 昭彦
巻号頁・発行日
no.21, 1962
著者
高橋 敏
雑誌
長崎大学教養部紀要. 人文科学 (ISSN:02871300)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.27-36, 1970-12-25