著者
坂寄 俊雄
出版者
京都大學經濟學會
雑誌
經濟論叢 (ISSN:00130273)
巻号頁・発行日
vol.97, no.2, pp.243-244, 1966-02
著者
白井 利明
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 総合教育科学 (ISSN:24329630)
巻号頁・発行日
no.69, pp.163-174, 2021-02-28

アーネット(Arnett, 2000, 2015)は,自分の人生に責任をもとうとする主体を重視する立場から,青年期から成人期への移行は単なる青年期の延長ではなく,新しい発達段階としての成人形成期(emerging adulthood)であると提案した。現代の若者は,成人形成期にアイデンティティのための労働を探求し,自分の可能性を信じているとしたのである。この提案をめぐって心理学のみならず社会学からも論争が起きた。成人形成期は恵まれた社会階層の現象を過度に一般化したもので,社会構造の影響が無視されており,かれらの楽観性は社会的排除に対する心理的防衛にすぎないと批判された。本稿はこの論争を整理することで,成人形成期は社会的排除の結果であるだけでなく,たとえば若者なりの新たな可能性の認識に基づくものであり,そこに社会現実を乗り越えようとする主体のダイナミズムが示されているのではないかと問題提起をした。
著者
土方 久 Hisashi HIJIKATA
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
商学論集 (ISSN:02863324)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.137-171, 2004-07

「16世紀における複式簿記の風景」を見事に描写する木版画がある。1585年に製作された木版画。標題は『商業の寓話』(" Allegorie des Handels" )。彫刻はAmman, Jost,図案はNeudörfer, Johann によって製作された木版画である。画1を参照。すでに,筆者がこの木版画の断片に出会ったのは,ほぼ40年も前。ドイツ簿記の歴史を克明に跡付ける古典ということで,1913年にPenndorf, Balduin によって出版される著書『簿記の歴史』(" Geschichte der Buchhaltung" ,Leipzig.)の復刻版を入手してからである。ただの好奇心から入手したにすぎなかったためか,それとも,14世紀,15世紀の商人の帳簿の原文と16世紀の教科書の原文を織り混ぜた難解な文章に,筆者が恐れをなしたためか,この文章を本格的に読むことはなかったが,表紙の標題ばかりか,各章の見出しに飾られる挿し絵の商業活動には,大いに興味を覚えたものである。この挿し絵には,画像から憶測するに,「帳簿に記録する事務員」,「金貨,銀貨の金銭を確認して,櫃に収納するか,文書に記録する商人と使用人」,「帳簿に記録する事務員」,「金貨,銀貨の金銭を確認して,袋に詰め込む商人と使用人」が木版画に組込まれる韻文と共に描写される。しかし,あくまで挿し絵,これが木版画の断片であるとは思いもしなかったものである。ところが,筆者がこの木版画に再び出会ったのは,偶然というか,10年ほど前。筆者は19世紀のドイツ簿記に取組み始めたのだが,いつしか「ドイツ簿記の16世紀」にはまってしまい,ことあるごとに参考にしたのが,さらに,16世紀に出版される印刷本の資料を整理して,年表を作成しようと参考にしたのが,1975年に「英国勅許会計士協会」(Institute of Chartered Accounts inEngland and Wales)によって編纂される目録『会計資料の歴史目録』("Historical Accounting Literature",London.)。表紙の裏側,見開き両面の淡い黄色地に装飾として,これまで挿し絵としか思っていなかった画面が印刷される。この画面には,筆者が興味を覚えた挿し絵の商業活動がパノラマのように描写されるではないか。画面の群像から憶測するに,商人の館に働く商人,事務員,使用人,作業員,飛脚,異国から商業取引に訪れる商人まで,まさに「商人の館」での活況が描写される。機会あるごとに幾度となく,この目録は参考にしたというのに,筆者の注意力が散漫であったためか,これに全く気付かなかったことは不思議といえば不思議である。このスケールの大きい木版画に出会って,筆者は改めて興味を覚えたものである。しかし,表紙の裏側,見開き両面の装飾でしかないためか,木版画の上部の画面,左端と右端の画面は切断,削除される。それだけに,この木版画の全貌を見てみたい,この木版画に組込まれる「韻文」を読んでみたいとの想いに駆られたものである。商人の館の活況に加えて,木版画に組込まれる韻文には,商業取引の信条ばかりか,帳簿の記帳技法が示唆されるので,16世紀の商業の風景,はては複式簿記の風景を想像しうる,またとない木版画のようであるからである。そのために,「ドイツ簿記の16世紀」に取組んでいる筆者としては,まずは,木版画が,何時,誰によって製作されたか,どこに所蔵されるか,どうしても知りたいとの想いを馳せようというものである。しかし,筆者の日本の研究仲間はもちろん,筆者のドイツの研究仲間,ドイツの大学図書館に問い合わせるなど,八方手は尽くしてみたが,期待するような回答はない。諦めかけたところで,1989年にYamey, Basil S. によって出版された著書『芸術と会計』("ART & ACCOUNTING", New Haven & London.)に収録される旨,日本でも入手可能である旨,教示された。まさに燈台もと暗しである。早速に取り寄せて見るに,また,Yamey の解説文を読むに,1585年に,彫刻はAmman,図案はNeudörfer によって製作された木版画。ドイツはニュルンベルクで製作されたというのに,収録されたのがイギリスの著書であるためか,それとも,「大英博物館」に所蔵される木版画を参考にしたためか,英文の標題の『商業の寓話』("Allegory of Commerce")である。しかも,この解説文を読んで,さらに,木版画の原画まで捜し求めると,Yameyによって紹介される木版画も,まだ,木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面が切断,削除される。実際には,切断,削除される木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面を見るに,さらに,文章が画面の縁取りとして組込まれる。画1と画3を参照。このようにして,ほぼ40年の間,筆者が捜し求めた木版画にやっと出会ったわけであるが,「商人の館」での活況が描写された画面は,わずか,木版画の下段,3分の1の画面にすぎない。切断,削除された木版画の上部の画面,左端と右端の画面を見るに,さらに,切断,削除される木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面を見るに,どうしてどうして,予想したよりも,実にスケールの大きい木版画の全貌に驚顎を覚えたものである。そこで,筆者なりに憶測しながら,この木版画の全貌を俯瞰することにする。木版画の上段,3分の1の画面。画面の中央に,商業と商人の守護神,ギリシァ神話の「ヘルメース」(Hermes)ないしローマ神話の「メルクリウス」(Merker)が描写される。両側はヨーロッパの商業都市の紋章を付された盾で飾られる。守護神の左手に持つのは,2匹の蛇がからまる杖,右手に持つのは,秤となる天秤棒の挺子である。天秤棒は,「貸借平均原理」を示唆する「天秤の両皿が比較されて,均衡する帳簿締切では,間違いはない」(Die Wag sich sein vergleichen thut /Im Bschlusz einer Bilanza gut)の標記で飾られる。さらに,天秤棒の左側,秤の皿が繋がれる3本の索ないし鎖に架かるのは,「借方(彼は支払うべし=私に借りている)」(DEBET,DEBET NOBIS,DEBET MIHI)の標記を付される巻軸。この巻軸に繋がれる秤の皿には,1冊の帳簿が載せられる。これに対して,天秤棒の右側,秤の皿が繋がれる3本の索ないし鎖に架かるのは,「貸方(彼は持つべし=私に貸している)」(DEBEO EGO,DEBEMVS NOS,DEBET HABERE)の標記を付される巻軸。この巻軸に繋がれる秤の皿にも,1冊の帳簿が載せられる。両者の皿に繋がれる1本の索ないし鎖が架かるのは,「情況」(CIRCVM STANTLE)の標記が付される標注,噴水の水盤の中心にそそり立つ標柱が支える1冊の帳簿。この帳簿は「仕訳帳」(ZORNAL)の標記を付される。秤の左側の皿に繋がれる索または鎖には,「債務者(借主)」(DEBITOR)の標記を付される巻軸が架かる。これに対して,右側の皿に繋がれる索または鎖には,「債権者(貸主)」(CREDITOR)の標記を付される巻軸が架かる。したがって,秤の両側の皿に載せられる2冊の帳簿は,仕訳帳から転記される「元帳」,木版画に組込まれる韻文から憶測するに,「金銭帳」(Schuldbuch)と「商品帳」(Capus)ではなかろうか。画4を参照。したがって,木版画の上段,3分の1に描写されるは,帳簿の種類,記録技法から,まさに複式簿記の原理,原則を想像させる画面である。木版画の中段,3分の1の画面。画面の上方に,港湾に浮かぶ数隻の船舶,この間を往来する数隻の艀,船団を組んで,海路,商業取引に乗り出す光景が描写される。これに対して,画面の下方には,商品を荷樽に詰め込んだり梱包して,荷駄を準備して,馬車に積載する作業員,隊商を組んで,陸路,商業取引に乗り出す光景が描写される。さらに,これを背景に,中央には噴水の水盤。噴水の水盤の側面は,財産の種類,まずは,「現金」(PRESENS PECVIA)に始まり,「債権」(DEBITORES),「羊毛と紡錘毛」(LANE ET VELLERA),「毛織物と絹織物」(PANNI ETSERICA),「果実」(ETALLA),「香辛料」(AROMATA),「銀器」(ARGENTEAVASA),「計量器」(CLINODIA),「小麦」(RES FRVMENTAR),最後に「家財」(MOBILA BONA)の標記を付される。噴水の水盤の縁は,「資本の投下・回収」を示唆する「この噴水から流れ出るのは,この商業の結果(損益)と元金(資本金)」(Aus diesen Brunnen fliessen thut / Dess Handels Bedchlusz und Haubtgut)の標記で飾られる。画5を参照。したがって,木版画の中段,3分の1に描写されるは,海路,陸路の商業取引に乗り出す光景と,この商業取引に投下される資本と回収される資本から,まさに複式簿記の背景を想像させる画面である。木版画の下段,3分の1の画面。画面の左側には,画像から憶測するに,「商品の目方を計りながら,値踏みする商人」(3人),「帳簿を前に商談する商人」(3人),さらに,「荷樽を製作する作業員」(1人),「荷樽に詰め込まれた商品を取出す商人と使用人」(2人),「商品を背に運び出す使用人」(1人),「帳簿に記録する事務員」(1人),「文書を作成する事務員」(1人),計12人の商業活動が描写される。さらに,画面の左端には,商業を守護する女神が描写される。女神の足元は帳簿と「貸借関係」(OBLIGATIO)の標記で飾られる。画6を参照。画面の中央には,まずは,画面の上方に描写される,「秘密の帳簿」(SECRETORVMLIBER)の標記を付される収納庫に,「財産目録」(INVENTATIUM)の標記を付される帳簿が保管される。さらに,画像から憶測するに,「商業書簡か手形書簡を事務員に手渡す飛脚」(1人),「財産目録を背に商業書簡か手形書簡を受取る商人」(1人),「文書に記録する事務員」(1人),「商業書簡か手形書簡を持参する飛脚」(1人),「商業書簡か手形書簡を使用人に手渡す飛脚」(1人),「飛脚を出迎える使用人」(1人),さらに,「異国から商業取引に訪れる商人」(1人,2人,2人),計11人の商業活動が描写される。異国から商業取引に訪れる商人の脇腹,足元は,商業取引の信条なのか,「誠実」(INTEGRITAS),「語学力」(LINGVARVM PERITIA),「慎重」(TACITVRNITAS),の標記で飾られる。画面の下方に描写される,足元は財宝に囲まれて王冠を戴く女神は「商業の繁盛」を象徴する。画7を参照。画面の右側には,これまた,画像から憶測するに,「金貨,銀貨の金銭を確認して,櫃に収納するか,文書に記録する商人と使用人」(5人),「宝石,貴石の財宝を前に帳簿に記録する商人と使用人」(2人),さらに,「帳簿に記録する事務員」(1人),「金貨,銀貨の金銭を確認して,袋に詰め込む商人と使用人」(2人),「荷樽に押印する作業員」(1人),「荷造りのために梱包する作業員」(3人),計14人の商業活動が描写される。さらに,画面の左側の左端と対照的に,画面の右端には,これまた,商業を守護する女神が描写される。女神の足元は帳簿と「自由」(LIBERTAS)の標記で飾られる。画8を参照。したがって,木版画の下段,3分の1に描写されるは,「商人の館」で働く計37人もの商人,事務員,使用人,作業員,飛脚,異国から商業取引に訪れる商人まで,まさに商人の館での商業活動から,まさに複式簿記の現場を想像させる画面である。このように,木版画の全貌を俯瞰するに,16世紀における商業の風景,はては複式簿記の風景を想像するのに,またとない木版画である。商人の館での商業活動を想像させるだけではなく,複式簿記の原理,原則,複式簿記の背景,さらに,複式簿記の現場を想像させる画面,まさに16世紀における複式簿記の風景を見事に描写する木版画である。そこで,筆者が取組んでいる「ドイツ簿記の16世紀」をヨリ馴染み易いものにするために,「16世紀における複式簿記の風景」として,まずは,Yamey の解説文,「木版画の解説文」を紹介することにしたい。さらに,木版画の下段,3分の1の画面,商人の館に組込まれる韻文,「木版画に組込まれる韻文」だけでも紹介することにしたい。
著者
田口 こゆき
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床カウンセリングルーム
雑誌
関西大学心理臨床カウンセリングルーム紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.67-73, 2010-03

インテーク面接は、相談機関を訪れるクライエントと援助者が初めて出会う場である。援助者からみたインテーク面接の目的は、クライエントが抱えている悩みや問題の様態を知り、有効な援助を行っていくための見立てと方針を立てることであるが、本稿では、まずクライエント理解のために重要と考えられる枠組について概観し、またインテーク面接が治療的変化のスタートとしてどのような機能を果たすことができるかについて、Hill, C. E.のヘルビング・スキル理論をもとに論考した。インテーカーとしては、クライエント理解に必要な情報を捉えるために何に注目するべきかといった枠組を念頭に置きつつ、クライエントの中で安心感や受け止めてもらえているという感覚が生じ、自分なりにできるだけ問題を振り返って話せたと感じられるように話を聴いていくことが大切であろう。そのことによってHill, C. E.のいう自己探索のプロセスがクライエントの内面で進み始めるとともに、協働関係を構築していく一歩が踏み出せるのではないかと考えられる。

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1904年04月05日, 1904-04-05

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1903年10月27日, 1903-10-27

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1903年04月24日, 1903-04-24

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1903年04月17日, 1903-04-17

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1902年07月15日, 1902-07-15

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1901年09月06日, 1901-09-06

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1899年08月04日, 1899-08-04
著者
小泉 賢吉郎
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.79-115, 1999-02

The purpose of this article is to offer an alternative explanation as to why and how Japan was able to become a technological power. My approach is a cultural one. I first examine how the Japanese regarded imported technology historically in the context of a traditional, premodern society. It was adopted and applied freely and without external economic, political, or cultural restraints. This situation abruptly changed after Japan's encounter with the West in the latter half of the 19th century. Threatened, as China had been, by Western colonization, Japan came to form a national view, a framework, a methodology and goal defined as Eastern Ethics and Western Technology, which meant to them that Japan is superior in morality, but the West excels in technology. This framework subsequently evolved into a self image or self definition under the label Japanese Spirit and Western Knowledge. These key words or national mottos made it possible for Japan to import Western things while retaining their culture and values. It led to a wholesale copying of Western technology for the purpose of catching up with the West. And catching up with the West technologically was essential if Japan was to retain its national independence. This was a convenient framework, but at the same time it greatly limited the development of technology in Japan. It meant Japan viewed technology only in the same terms that the West did. The only possible direction that technology in Japan could go therefore was toward replication of the technology of the West. This situation lasted until Japan's defeat in the Second World War. After the war with the prewar Wakon or Japanese Spirit completely discredited, the Japanese began looking for a new identity, a new raison d'etre that could replace the old one. The Japanese were greatly influenced by American culture under the American postwar occupation of Japan, especially by its materialistic aspects. Through a complicated process the Japanese began to identify culturally with the affluent materialistic goals of American society and focused on manufacturing technology, one of the basic aspects of materialistic culture, at which they could excel. This new national mission led to a liberation from the upward and onward, faster, more powerful, high-tech direction of Western technology, and the Japanese rediscovered that technology can be innovated or improved endlessly--and that this in itself was a national goal worth cultivating and worthy of a national self identity. The issue of innovation as creativity, not copying is addressed. 第二次世界大戦が終わったとき、日本と欧米の間の技術力はどれくらい離れていたのだろうか。一口に技術力といっても技術の範囲は広大であり、基準もはっきりしないし、また、まとまった資料もないので、これを知ることはほとんど不可能に近い。が、散見する印象記を集めてみると、やはりその差は想像を絶するほど大きく、容易に埋めがたいとの感じが強い。 たとえば、ある技術者は第二次大戦中に実際に経験したこととして次のようなことをいう。日本軍の鉄砲は温度がマイナス25度になると、引き金が凍ってしまい、撃てなくなってしまったが、そんな寒さのなかでもソ連軍は撃ってきた。これを見て、日本軍には温度に関する科学がないのではないかと思ったほどであった。また日本軍の弾丸はすぐにさびた。それに対してイギリス軍の弾丸はまったくさびなかったが、イギリス軍の捕虜から聞いた話では、イギリスでは弾丸の腐食試験が行われており、これに合格した弾丸だけが実戦に使用されるとのことだった。 第二次大戦中、日本は潜水艦をドイツに何度か派遣し、彼らの進んだ技術を入手しようとした。ほとんどの潜水艦が途中でアメリカの軍艦の攻撃にあって撃沈され、この作戦の成功度は低かったと伝えられているが、潜水艦イ8号がこれに成功し、当時の日本にとって大変に貴重な技術をいろいろ持ち帰った。そのなかに高速魚雷艇エンジンMB501あり、これを見たある技術者は、このエンジンをそっくりそのままモノマネして、量産をすれば、アメリカに対抗できるのではないかと考えた。そしてこのドイツ製のエンジンを実際にバラバラに分解して、いろいろ調べてみたところ、このエンジンは、そっくりそのまま模倣することが不可能なほど精密に作られていることがわかった。つまりデッドコピーができない技術のかたまりだったのである。たとえばシリンダーは一万分の一ミリという精度で作られていたが、当時の日本の技術ではこれは不可能であり、「肝をつぶした」と当時の関係者は語っている。明治維新以降、西洋に追いつこうとして日夜努力してきた結果がこれであった。 戦後においても技術力の差については、ほぼ同じような状況が続いていた。1953年にはじまった戦後のビッグプロジェクトの一つ、佐久間ダム建設は関係者の間では大変にむずかしいとされていた。ところが、これは日本の技術を使った場合の話であって、もしアメリカの技術が使えるのであれば、建設できる確率は高いと判断された。実際、大型の機械を数種持ち込みアメリカの技術者の助けを借りて工事が行われ、予定通り3年間で完成した。関係者の回想によると、もし日本の技術だけを使っていたら、5年はかかっていただろうという。ダム建設の関係者はこの際に使われたアメリカ製の機械の大きさに驚愕している。ちなみに、戦後初の技術白書には、たとえば溶接技術の分野では約30年の遅れがあると書かれている。 以上は、個人的な印象をいくつか集めただけであり、これでもって日本と欧米の技術力の差は正式に論じられないものの、模倣さえできないほど精密に作られていたという証言を聞くと、愕然とするし、やはり敗戦の時点において相当な差があったものと考えざるを得ない。これに加えて、終戦後の食うや食わずの混乱を考えると、戦前のレベルを回復するだけでもかなりの時間がかかると考えるのが妥当だったと思われる。ところが、その後の状況を見ると、敗戦からわずかの期間に元に戻っただけでなく、とくに、技術、なかでも製造技術は異常なほど発達した。「異常な」という表現を用いたのは、アメリカに脅威を感じさせるところまで発展したことを強調したいからである。アメリカ自身が、技術のある面において日本より遅れていると感じはじめた。 とくに1980年代、ハイテク摩擦と呼ばれた問題が日本とアメリカの間で顕著になった。それ以前にも貿易摩擦というかたちで、繊維、鉄鋼、テレビ、自動車などの分野において摩擦問題があったが、ハイテク摩擦は、ちょっと違った側面をもっていた。というのは、アメリカが日本の技術水準に脅威を感じはじめたからである。たとえば、レーガン大統領によって悪の帝国と名付けられた旧ソ連の存在より、日本の強力な技術力を背景とした経済力のほうがアメリカにとって脅威だと見なす人が増えたことがあげられる。また、エレクトロニクスや新素材などの分野でアメリカの軍事技術が部分的に日本の民生技術に依存するようになったことに対しても、危惧の念が表明された。ただし、こうしたアメリカの反応には誤解に基づくものもあった可能性がある。アメリカと違って軍事用と民生用に分離して発達してこなかった日本では、いわゆるデュアルユース、つまり軍・民両用の技術が高度に発達し、軍事上と民生用の間に高い壁は設けられなかった。普通、軍事用の技術の方がはるかに高いため、日本で民生用に高い技術が使われているのを見て、脅威を感じた可能性があるからである。 とはいうものの、80年代に日本が世界中から、とくに技術において異常なほどの注目を浴びたことだけは事実である。いったいこれはどう理解すればよいのだろう。明治以降、育成だけを念頭に、政府、とくに通産省の主導のもとに強力な産業育成政策を実施してきた賜物なのか、それとも日本的変容を受けた儒教が国民を動かしたからなのか、あるいは技術が国の安全保障にとってもっとも大切であるとのテクノナショナリズムのもとにデュアルユースの技術システムを作り上げてきたからなのか、それとも技術革新の社会的ネットワークを作り上げ、技術情報がスムーズに流れるシステムを形成したからなのか。以上のような考え方の延長として製造技術の「異常な」までの発展を説明できるのだろうか。本稿では、もう一つの考え方を提案してみたい。 この論文は、構造的に少し込み入っており、誤読される恐れもあるので、まず最初に、簡単に梗概を述べておきたい。第二次世界大戦前に存在した和魂洋才と呼ばれた文化的枠組みは、日本的なものを保持しつつ、西洋の優れたもの、なかんずく科学技術を移入することができ、うまく機能している限り、便利な枠組みであった。これに加えて、日本が近代化に成功すれば、その理由として、「洋才」でなく「和魂=日本精神」の優秀性をあげることもできた。戦前の日本人は、この文化的枠組みに満足していたといえる。 ところが、敗戦によってこの枠組みは崩壊し、日本人は、それまで心の拠り所だった「和魂」を失った。敗戦後、勝利者であるアメリカの、物質的なものを強調する文化が登場し、このなかで日本は、モノ作りを学習した。その時点まで、例えば、西洋からの技術は、あくまで使いこなすための対象でしかなかった。すなわち、日本人が優れた和魂の持ち主であるという理由によって、技術は自由に使いこなせる対象として認識された。もし改良するならば、より安価にするか、日本人にとってより使いやすいようにするかであり、いくらでも改良できる対象として認識されていなかった。ところが、敗戦によって自由に使いこなす主体である和魂が消滅してしまい、代わって登場した新しい文化のなかで生存のために必要となったモノ作りと取り組むうちに、技術の改良に魅せられてゆき、技術改良自体に自らのアイデンティティを見出すようになったというのが私の主張である。 つまり、この新しい文化のなかで枠組みの大きな変化が起こったのである。戦後、モノ作りと改良作業が和魂を失なった日本人の心のなかの真空を埋めていった。戦前の古い和魂洋才の枠組みのなかでは西洋に追いつき・追い越せだけが目標となり、技術の発展は、低い段階(日本)から高い段階(西洋)へと進むことを決定づけられてしまっていた。しかし、敗戦後、和魂洋才の崩壊と新しい枠組みの出現によって、技術発展の方向に変化が生じたのである。もちろん、依然として低度から高度への方向性は不変であったが、のちに見る伝統社会のなかの技術発展のように、多様性が見られるようになった。日本人がモノ作りの過程に自らのアイデンティティを見出してゆくなかで限りなく改良できる技術の存在を発見したからであった。これはまた技術革新の新しい意味の獲得でもあったといえるが、このように多様性の存在が可能になったために、技術開発の多様な在り方が可能となり、製造技術の興隆を見たのである。 以上の主張を検討するために、まずはじめに技術と技術革新の性格について考察し、とくに技術革新の概念が固定された存在でなく、時代とともに変化する存在であることを確認したい。実際のところ、技術革新という言葉がはじめて日本で使われたのは、1956年の日本初の経済白書のなかであった。次に、伝統社会における技術について簡単に見たい。鉄砲技術と木造建築技術を取り上げ、外から入ってきた技術に対して日本の伝統社会が示した反応についてみたいわけであるが、その目的は、この社会には技術発展の方向を決定づけるものはなく、技術は多様な発展の仕方を許されていたことを指摘したいためである。 ところが、この多様性は、江戸時代末期の本格的な西洋との出会いによって崩れてしまった。東洋道徳、西洋学芸の枠組みの誕生とともに、低度から高度へと発展する技術の方向が選択されてしまったのである。状況は、東洋道徳、西洋学芸が和魂洋才へと変化しても同じであった。敗戦だけがこれに変化をもたらした。もちろん、依然として西洋に追いつけ・追い越せのために技術発展の方向性は、決定づけられたいたが、さきに呼べた理由によって多様性が誕生したのである。

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1898年06月23日, 1898-06-23
出版者
日経BP社
雑誌
日経ニューメディア (ISSN:02885026)
巻号頁・発行日
no.1402, 2014-01-27

東経110度CS放送のベーシックパックである「スカパー!基本パック」に参加する番組供給事業者は、3チャンネル(「スカイ・A sports+」、「FOX bs238」、「GAORA」)の加入を認めるか否かについての投票を行った。2014年1月24日にその結果が番供に告知された。 投票…