著者
町野 朔
出版者
一般社団法人 レギュラトリーサイエンス学会
雑誌
レギュラトリーサイエンス学会誌 (ISSN:21857113)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.65-70, 2016 (Released:2016-02-05)
参考文献数
16

日本においては, ヒト細胞・組織の研究利用は, それ自体人間の尊厳に反するものであるという意見が根強い. だが, このような研究は人々の健康に奉仕するものであり, まさに人間の尊厳のためのものである. 他方, このような研究に直接適用される法律は現在存在していないのであり, 研究を適切に推進させて行くためには, われわれは, 死体解剖保存法, 臓器移植法などの法律を参照しながら具体的なルール作りを進めなければならない.

2 0 0 0 OA 偉人伝全集

出版者
改造社
巻号頁・発行日
vol.第16巻, 1934

2 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1920年11月17日, 1920-11-17

2 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1920年01月24日, 1920-01-24

2 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1921年06月13日, 1921-06-13
著者
田中 俊
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科『人間存在論』刊行会
雑誌
人間存在論 = Menschenontologie (ISSN:13412698)
巻号頁・発行日
no.26, pp.1-12, 2020-07-01

Das Ziel dieses Aufsatzes ist es, die unterschiedlichen „Wirklichkeits"-Begriffe bei Husserl zu klären. Diese Klärung wird möglich durch eine Analyse des antiken griechischen Philosophen Aristoteles. Aristoteles ist nämlich wahrscheinlich der erste, der die ενεργεια, die der Ursprung der „Wirklichkeits-"Begriffe ist, sachlich analysiert und zu begreifen versucht hat.In diesem Aufsatz versuche das „Wirkliche" in Husserl aus seinem Zusammenhang mit der „Wirklichkeit" in ihrer Einteilung bei Aristoteles zu erklären. Die „Wirklichkeit" ist vieldeutig. Aristoteles unterscheidet die κινησις (Bewegung), die kein Ziel in sich selbst enthält, und die ενεργεια (Wirklichkeit im engeren Sinn), die ein Ziel in sich selbst enthält.Jener Begriff ist durch Unvollendetheit charakterisiert, z. B. liegt, während man etwas baut, noch kein vollendeter Bau vor.Dagegen ist eine Tätigkeit als Wirklichkeit im engeren Sinne schon immer vollendet. Wenn man z. B. sieht, so sieht man und hat zugleich dabei immer schon gesehen. Wir finden nun demgegenüber diese zwei „Wirklichkeiten" in den „Ideen" Husserls: Einerseits gibt es dort die „präsumptive Wirklichkeit", die den zufällig und vorläufig einstimmigen, intentionalen Gegenstand auszeichnet, andererseits die „absolute Wirklichkeit", die das Faktum eines notwendigen und zweifellosen Erlebnisses ist. Das Problem daran ist dieses: Warum werden diese Wirklichkeiten jeweils als „Wirklichkeiten" verstanden? Was ist der sachliche Grund dafür, diese Wirklichkeiten als Wirklichkeiten zu bezeichnen? Ich sehe den Grund dafür in den Bestimmungen des Aristoteles, der ενεργεια und κινησις unterscheidet, insofern der Unterschied zwischen den Wirklichkeiten bei Husserl eine wesentliche Gemeinsamkeit mit dieser Unterscheidung bei Aristoteles aufweist.Diese Gemeinsamkeit liegt darin, dass beide Begriffspaare (ενεργεια und κινησις; präsumptive Wirklichkeit und absolute Wirklichkeit) den gleichen Kontrast bezeichnen. Die κινησις und die präsumptive Wirklichkeit sind also beide gleich wesentlich unvollendet, insofern in der κινησις noch kein Gegenstand vorliegt, in der präsumptiven Wirklichkeit noch keine endgültige Gegenstands-Konstitution. Die ενεργεια sowie die absolute Wirklichkeit sind hingegen wesentlich immer schon vollendet. Auf der Basis dieser Gemeinsamkeit will ich die Behauptung aufstellen, dass die präsumptive Wirklichkeit und die absolute Wirklichkeit auf der Grundlage des Unterschieds zwischen ενεργεια und κινησις beide als Wirklichkeiten angesehen werden können.
著者
三保 仁
出版者
一般社団法人 日本総合健診医学会
雑誌
総合健診 (ISSN:13470086)
巻号頁・発行日
vol.46, no.3, pp.370-376, 2019-05-10 (Released:2019-08-01)
参考文献数
5

スクーバダイビングは、水中という高気圧環境下で行われる特殊な活動であるため、健康適正基準が特殊なものになる。本邦には、世界的な基準であるRecreational Scuba Training Councilに基づき、日本高気圧環境・潜水医学会が作成した「ダイバーのためのメディカルチェック・ガイドライン」が存在する。ダイバーの検診項目は、このガイドラインを満たすものであるかどうかで個々に決定される。まず、ダイバーは健康問診票を記入し、該当項目がない場合には一般的な検診を行うに留まるが、該当項目がある場合には、追加検診項目をガイドラインを参考にしながら決定してゆく。ガイドラインの内容は多岐広範囲にわたるため、本論文では、一般的なスポーツでは問題にならない疾患や病態が、潜水活動では重大な障害をもたらし、誤判断を招きやすい疾患群を抜粋して解説する。神経系では、意識障害および失神発作を起こしうる病態は潜水禁忌である。特にてんかんは死亡事故が多い。循環器系では、9METSの運動能力があること、心臓シャントがないこと、高血圧症では指定の薬剤のみで良好にコントロールされていることが必要である。呼吸器系では、肺の空洞性病変がないこと、喘息のコントロールがガイドラインを満たしていること、気胸病歴がないことが求められる。消化器系では、嘔吐する可能性がある疾患は潜水禁忌である。血液疾患では、出血傾向および血液が高粘調度な病態では潜水不可である。内分泌系では、糖尿病は投薬が必要な状態では潜水不可である。また、高気圧環境下特有の疾患である減圧障害を知ることは、ダイバーの検診および診断の一助になる。これには、減圧症(Decompression sickness)と動脈ガス塞栓症(Arterial Gas Embolism)があり、浮上中の減圧時に発症する特殊な疾患である。
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.55-70, 1971

「このコスモス(宇宙、秩序)は、すべてにとって同じであるが、神々にしろ人間にしろ、誰が作ったものでもなく、常にあったし、あるし、あるであろう。メトロン(度、矩)に従って燃え、メトロンに従って消える永遠の火として」(DK. 22B30)、「太陽はそのメトロンをこえないであろう。もしこえれば、ディケー(正義の神)の助力者たるエリニュエス(復讐の神々)が見つけ出すであろう」(DK. 22B94)、という言葉がヘラクレイトスのものとして伝えられている。また、アポロニアのディオゲネスによれば、冬夏、夜昼、天候など「すべてのものに或る一定のメトロンがある」と云われている(DK. 64B3)。一般に自然界においては一定の法則があって、自然は一定の限度をこえることがない。動物の行動もまた一定の限度をこえることはないと云われる。ところが人間だけは、その自由によって、自然の限界をふみこえ、たえず限度を見なう可能性をもっている。限度や節度をこえることを、古代ギリシア人は、ヒュブリス(暴慢,不遜)としてしりぞけた。有名な「君自身を知れ」(DK. 10A3, cf. Philebos 48c)にしても、ソロンに帰せられる「すごすな」(DK. 10A3, cf. Philebos 45e)にしても、あるいは七賢人の一人クレオブーロスのものとされる「メトロンが最善」(DK. 10A3)という言葉も、さらにタレスに帰せられる「メトロンをたもて」(DK. 10A3)も、このヒュブリスをいましめたものと考えることができる。人間に火を与えたプロメテウスはゼウスによって罰せられなければならなかったが、悲劇の主人公達も、人間としての限度をこえることによって、没落していったのである。ところが,現代は、限度や節度を失っているところに、その特徴がある、とされることがある(cf. Bollnow, s. 36ff.以下引用書名は、とくにことわらないかぎり、末尾の文献表にまとめて示して、頁数だけを記すことにする)。たとえば『悲劇の誕生』(Bd. I, s. 33ff.)において、デュオニュソス的なものに対して、アポロン的なもののひとつの徴表を節度のうちに見たニイチエは、他の箇所で、つぎのように云っている。「節度(Maß)がわれわれに縁遠いものとなったことをわれわれは自認する。われわれの欲望は無限・無節度なものの欲望である。奔馬をかる騎手さながらに,無限なものを前にして手綱をはなすのである。われわれ現代人、われわれ半野蛮人は。」(『善悪の彼岸』第七章224, Bd. II, s. 688)。ギリシア的なメトロンの考え方が最もよく現われている作品のひとつとして、プラトンの『ピレボス』をあげることができる。本稿は、メトロンの概念をひとつの導きの糸としながら、この対話篇の一解釈をこころみたものである。たとえばヴィンデルバントは、この対話篇について、およそ次のような意味のことを述べているが、きわめて核心をつく言葉とおもわれる。すなわち、「これはプラトンの哲学的倫理-ギリシア精神のもっとも純粋・貴重な産物のひつ-である。美と真理の理想をもって、くまなく感覚生活に光をとおすことは、ギリシア人の創作と造形芸術すべてにおいて私たちに語りかけていることであるが、このことがここで光を放っているのである。これは節度(Maß)につながれ、ハルモニアにみちている。そのために、プラトンはここで、円熟のさなかにあって、また形而上的思考の頂点にたって、二世界論によって基礎づけようとした神学的倫理の場合よりも澄明で輝やかしい色彩のうちに,人間存在を見たのである。」(s. 108)。しかしながら、節度といい、限度といっても、それだけでは相対的なものであって、中心、規準をどこにとるかによって規定されてくるはずである。では規準となるべき「尺度」はどこに求めるべきであろうか。まずこのことについて、『ピレボス』篇の背景をさぐりながら、考えてみたいとおもう。In der Interpretation des Philebos bemerkt man bisher nicht besonders die Bedeutsamkeit des Maßes (metron), etwa außer Natorp und Krämer. Daher übersieht man oft die Einheit des Dialogs. In dieser Abhandlung versuchen wir, die Einheit dieses sehr verwickelten Dialogs dadurch zu finden, daß wir den Begriff des Maßes als Leitfaden der Ariadne benutzen. Das Prinzip, das diese Welt des Werdens als gewordenes Sein aus Mischung von Bestimmtheit und Unbestimmtheit erzeugt, ist auch dasdas gemischte gute Leben erzeugende Prinzip. Dasselbe Prinzip der Bestimmtheit, d. h. des Maßes macht also diesen Kosmos schön und das Leben des Menschen gesetzmäßig und geordnet. Auch in der Erforschung von Lust und Erkenntnis teilt Platon, meiner Ansicht nach, diese in Klassen nach Kriterium des Maßes ein. Und das, was als maßhaft anerkannt wird, wird in das aus Lust und Erkenntnis gemischte gute Leben eingemischt als die Bestandteile desselben. Die fünf Stufenfolgen der sogenannten Guttafel (ktēma 66 a ff.) scheinen die innerhalb dieses gemischten Lebens zu sein. Also darf man dieselbe Stelle nicht so interpretieren, daß die ersten drei Stufen Maß, Schönheit und Wahrheit sind, die zusammen das Prinzip des Guten darstellen. Den ersten Rang hat das Maßhafte und Normhafte in dieser gemischten gewordenen Welt, den zweiten das Symmetrische und Schöne, den dritten die maßhafte Vernunft, den vierten die nicht so maßhaften praktischen Wissenschaften, den fünften die ungemischte wahrhafte, d. h. maßhafte Lust.
著者
伊藤 斌
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-62, 1992

快楽は善なのか、それとも思慮のほうが人間にとってよいものなのか。我々の人生にとっては、快楽も思慮も両方あったほうがよい。快楽と思慮との混合した生がよりよい。では、その混合の生をよきものにしているのは快楽なのかそれとも思慮なのか。快楽と思慮の各々を分析して二等賞争いの決着をつけねばならない。第I章、快楽の分類、第II章、思慮の分類、第III章、両者の比較及び判定。 第I章 快楽は一つかそれとも幾つかのものに分けられるのか。快楽を考える時、快楽を与えるものとの関係を無視できない。その対象との関係によって、快楽には真なる快楽と単なる快楽の区別が立てられることになる。思いなしに伴う快は、思いなし自身に真偽の区別が語られるので、それに伴う快にも真偽が語られうる。また、苦痛がなくなることを快と思い違えることもある。かくて、真なる快、偽なる快、苦痛と混じりあった快と、純粋な快など、快楽の間に分類が可能となる。 第II章 思慮についてはそれと同族の知識によって分類が行われる。永遠に変らない神的対象にかかわる知識もあれば、感覚的事物を対象とする知識もある。それらの間には当然、真実さの段階が認められるがしかし、快楽の場合とは異なって、偽なる知識というものはありえない。感覚的事物を対象とする知識も、我々が感覚の世界に生きている以上、必要なものとなる。 第III章 快楽、思慮ともに様々に分類されたが、そのうちのどれを混ぜればよき生が出来るか。両者ともその全部を混合することは危険。ではどれを入れるか。よき生のよさに貢献するものを選ぶのだからというので、善の三つの姿、適度、美、真実性をとり出し、その各々によって快楽と思慮の各分類を吟味する。その結果をもとにして、よき生のよさに貢献するものをランク付けすると、快楽のほんの一部のみがようやく第五位にひっかかる程度である。快楽と思慮がその位を争った善とは何か。この対話篇で語られる限りでは、感覚の世界、実在の世界を秩序づけ、それらをしてよきものたらしめるもの、すなわち原因であり、逆に、我々の生はそのような生を可能な限り写しとっていく限りにおいてよきものとなるのであり、知性と思慮はそのことを行うことを本来の使命とする。