著者
松本 剛
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
JpGU-AGU Joint Meeting 2017
巻号頁・発行日
2017-03-10

東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明になった宮城県の石巻市立大川小学校(以下,「学校」と云う)をめぐり,児童の遺族が市と県に損害賠償を求めた訴訟で,平成28年10月26日,仙台地裁は原告(児童の遺族)の主張を一部認める判決を言い渡した。判決では教員は津波の襲来を予見しており,早めに安全な場所へ児童を誘導すべきであったとされる。しかし,新聞報道の判決文要旨のみではこの辺りの判断の根拠の検証が難しい。そこで,本報告者は今般,仙台地裁より判決文全文の提供を受け,原告・被告双方の主張とそれに対する地裁の判断を検証し,今後の学校防災の在り方について,考察を行った。事象を時系列で追うと,以下のようになる。・午後2時46分,本件地震発生,直後より,NHKが津波等に関する情報や避難の呼び掛け。・午後2時51分以降,NHKが宮城県で大津波警報が出ており高さ6mの津波の到達が予想されていること等を伝えた。・午後3時14分,気象庁は,宮城県に到達すると予想される津波の高さを10m以上に変更。NHKは発表直後にテレビ放送の字幕でこのことを伝えた。・午後3時20分頃,河北消防署の消防車が学校前を通過し,大津波警報が発令されたことを伝え,避難を呼び掛けた。・午後3時30分~35分頃,教職員と児童70名が徒歩で校庭から「三角地帯」に向けて移動開始。・午後3時37分頃(推定),「三角地帯」に向かう途中で,北上川を遡上した津波が堤防を越流して襲来し,教職員と児童は津波に呑まれた。・午後3時37分頃,学校に津波が到達し,周辺一帯が水没。「三角地帯」は,新北上大橋付近の北上川東岸に位置する標高約7mの小高い丘で,大川小学校の校庭(標高1.5m程度)より標高が高く,学校からは直線距離で150m程である。一方,学校のすぐ南側には標高数百メートルの「裏山」と呼ばれる高地がある。標高が高く,避難場所として真先に想定されるべき場所である。「裏山」への避難には3ルートがあり,当面の津波被害回避として標高10mを目安とすれば,どのルートについても校庭の中央付近からの距離にして150m程度,所要時間は歩いても2分以内(原告が後に実験を行った結果)である。しかし,当時は降雪により地面が湿っていたとされ(被告主張),また崖崩れを起こした履歴があり,教職員や地元の人は「裏山」への避難を躊躇していた。判決では,地震発生前,発生後午後3時30分以前,それ以降の3段階に切り分け,津波により児童が被害に遭うことが予見出来たか否か,また教員の注意義務違反の有無をそれぞれ判断し,以下の点を明示している。遅くとも午後3時30分頃までには,広報車が学校の前を通り過ぎて,学校の付近に津波の危険が迫っていることを伝えていた。北上川東岸の河口付近から学校のある地区にかけては平坦で,北上川沿いには津波の侵入を妨げる高台等の障害物は無い。教員は当然,勤務校周辺のこのような地理的特徴を知っているはずであり,判決では遅くとも上記広報を聞いた時点で大規模な津波が学校に襲来する危険を予見したものと認め,この時点で,教員は速やかに児童を高所に避難させるべき義務を負ったとした。判決ではまた,避難場所としての「三角地帯」と「裏山」の適否についても論じている。ここでは,予想津波高10mという情報がある以上,北上川の堤防を超える可能性もあることや,付近にはより高い地点が無いことから,避難場所として適切ではないと結論付けている。午後3時30分或いはそれ以前に「裏山」への避難を開始すれば,充分に津波被害を回避できたことが容易に想像される。余震が続く中で崖崩れの虞もあり,足場の良くない山中で児童を率いて斜面を登ることは簡単ではなく,児童に怪我をさせる危険性もあった。しかし判決では,大規模な津波の襲来が迫っており,逃げなければ命を落とす状況では,各自それぞれに山を駆け上ることを児童に促すなど,高所への避難を最優先すべきであったと結論付けている。原告・被告双方はこの判決を不服として控訴したと報じられた。しかし,この判決は,非常事態に際し,児童・生徒の生命が学校としての秩序の維持などよりも優先されるという,学校防災の本質を示している。また,判決では学校で過去に津波被害が無かったこと,またハザードマップ等で学校が避難場所として指定されているなどを理由として原告の訴えを一部退けているものの,現実にこのような事件が起きた以上は,次回同様の津波が襲来した場合,このような根拠で学校側が義務を逃れることは許されない。教職員には自然現象への理解,学校の置かれた環境の把握,災害に対する備え,普段からの防災訓練などに加え,児童・生徒の生命を守るため,常に「先を読む」力が求められる。
著者
下江 勉 恵柳 信政
出版者
公益社団法人 砂防学会
雑誌
砂防学会誌 (ISSN:02868385)
巻号頁・発行日
vol.30, no.3, pp.22-27, 1977-12-20 (Released:2010-04-30)
参考文献数
6
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.17-41, 2003-03

これまで室町期荘園制は荘園制解体過程として理解されてきた。本稿では、南北朝期から応安年間にかけて中世国家を代表する幕府と天皇権力が荘園制を再編成しようとする政策を推進し、在地からの下地中分の動向とリンクしたことによって再版荘園制が生まれ応永年間を中心に安定性をもって社会的に機能したことを主張した。第一に東国の南北朝期において天皇の綸旨によって棟別銭賦課が命じられ、それを将軍家と関東管領・守護が施行することによって強制徴収されていること、その中で寺社本所領と地頭堀内は免除されるという抵抗の論理が生きていた。しかも同じ時期に東国本所領という所領区分が存在し、そこでの年貢納入沙汰については武家沙汰として幕府権力によって強制的な保護が加えられていた。第二に、こうした地域編成区分がどのように登場してきたかを検討すると、室町幕府による建武四年から応安元年にいたる荘園政策立法によって、武家領・本所領という荘園所領の二大区分法が登場していた。しかも、幕府の荘園政策立法の推移を検討すると、延文二年令以後本所領内部に知行地をもっている武家被官の知行を公認するとともに、下地の半分を武家と本所で折半する法が強制執行されている。しかも「寺社一円之地」と「禁裏仙洞勅役料所」という新しい所領区分が登場しそこでは全面的に保護政策がとられ、武家被官と荘園領主層の両者の利益が両立するものとなっていた。応安の大法ではじめて諸国本所領という所領区分が登場しており、その延長線上に「東国本所領」とならんで「西国寺社本所領」が存在していたことをあきらかにした。この結果、院政期に荘園制が成立し室町期に衰退・解体するのではなく、室町幕府の荘園政策立法によって荘園制の枠組みも再編成されて新しい所領区分法が生み出され社会的に機能していたことを述べた。Until now, the view of the shoen system in the Muromachi Period has been one of the process of dismantling the shoen system. The thrust of this paper is that both the bakufu, that typifies the state in the years from the Nanbokucho Period through the Oan Period, and the imperial authorities, were promoting policies that were attempting to reconfigure the shoen system, and by having linked into the movement from the estate to the division into two halves, a revamped shoen system emerged, providing stability in the Oei period in particular, and playing a useful function in society.First of all, in the Togoku in the Nanbokucho period, it was the rinshi (order) of the emperor that commanded the payment of munabetsusen, and that was enforced through travel between the shogun's houses and Kanto kanryo / shugo. At the same time, there was still some ethic of resistance, with the honjoryo of temples and shrines and the jito horinouchi being exempted. Moreover, in the same period, there existed shoryo divisions called Togoku Honjoryo, and that was where the order to pay annual tributes was made in the form of a samurai order and protection applied unilaterally on the authority of the bakufu.Secondly, an investigation of how categories of regional configuration changed and emerged reveals that the establishment of shoen policy by the Muromachi bakufu from Kemmu 4 (1337) to Oan 1 (1368) , divided the shoen-shoryo into two major categories, bukeryo and honjoryo. Moreover, when the trends in the establishment of shoen policies by the bakufu are examined, from the ordinance in Enbun 2 (1357), in addition to recognizing the chigyo (possession) of the bukehikan who hold chigyo land, a law dividing half of the land between samurai and the honjo was enforced. Moreover, new shoryo divisions called "jisha ichiennochi" and "kinri sento chokuyaku ryosho" emerged, and a full-scale protective policy was taken for them. This enabled both the buke hikan and the shoen ryoshu level to gain benefits simultaneously. The shokoku honjoryo made its first appearance in the great law of Oan, and it has become clear that it was an extrapolation of this move that led to saikoku jisha honjoryo existing in parallel with the togoku honjoryo.This paper states that, as a result, it was not the case that the shoen system was established in the Insei period and declined or was dismantled in the Muromachi period. It was the establishment of the Muromachi bakufu's shoen policy that reconfigured the framework of the shoen system, producing the new shoryo category law (shoryo kubunho) , playing a role both in historical and societal terms.
著者
山本 冴里
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.171-206, 2013-03-29

日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。
著者
by Cyrus Alai
出版者
Brill
巻号頁・発行日
2005
著者
by Cyrus Alai
出版者
Brill
巻号頁・発行日
2010
著者
王 彩華 棚橋 英樹 平湯 秀和 丹羽 義典 山本 和彦
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. PRMU, パターン認識・メディア理解 (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.101, no.58, pp.77-83, 2001-05-11
参考文献数
13

本研究では, ノイズのあるレンジデータから局所平面を安定的かつ, 効率的に当てはめるために, タイムフライレーザーレンジファインダーで得られたレンジデータのノイズモデルに基づいて, 局所平面の最適当てはめの幾つかの近似的な推定手法を導出する. また, シミュレーションレンジデータとGround Truthの分かる実測レンジデータを用いて, 提案手法に対して, 最小二乗法や固有値法, 最尤推定法など一般的な平面当てはめ手法, 及びノイズモデルに最適な当てはめ手法であるくりこみ法を比較し, これらの手法の性能と安定性を評価し, 提案手法の有効性を示す.

2 0 0 0 OA 児玉記考

著者
中山清夫 編
出版者
風声堂
巻号頁・発行日
vol.前編, 1901

2 0 0 0 山梨県史

著者
山梨県編
出版者
山梨県
巻号頁・発行日
1996
著者
田中 嗣人
出版者
華頂短期大学
雑誌
華頂博物館学研究 (ISSN:09197702)
巻号頁・発行日
no.10, pp.16-31, 2003-12
著者
井竿 富雄
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学学術情報 (ISSN:18826393)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-10, 2015-03-31