著者
井上勝五郎 編
出版者
井上勝五郎
巻号頁・発行日
vol.上, 1887
著者
井上勝五郎 編
出版者
井上勝五郎
巻号頁・発行日
vol.下, 1887
著者
阪口 弘之 井上 勝志 沙加戸 弘 林 久美子
出版者
神戸女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

本研究は、学界で懇望されている『古浄瑠璃年表』編纂にむけての総合的な基礎調査研究を目的としたもので、国内外に所蔵されている正本をはじめ、絵巻・奈良絵本・写本(奧浄瑠璃を含む)などの総合調査を通じて、多くの新出本文を発掘して、古浄瑠璃史の更新にむけての基礎資料の整備充実を果たした。また、これら新出資料の年代考証と併せ、初期段物集や当代諸日記等の記録類の調査整理をも重ね、総合的な古浄瑠璃年表作成にむけての研究作業環境を整え、今後へ引き継ぐべき研究基盤の強化を果たした。
著者
井上 勝生
出版者
岩波書店
雑誌
図書
巻号頁・発行日
no.751, pp.7-11, 2011-09
著者
井上 勝一 中島 収 宮本 宏 川上 義和 伊藤 正美
出版者
日本肺癌学会
雑誌
肺癌 (ISSN:03869628)
巻号頁・発行日
vol.30, no.4, pp.513-520, 1990-08-20

赤血球亜鉛量と血清亜鉛量を64例の肺癌患者で測定し, 以下の結果を得た.1)進行肺癌患者では健康成人に比し血清亜鉛量は低下し, 赤血球球亜鉛量は増加した.2)しかし, 炭酸脱水素酵素量に差はなかった.3)進行肺癌患者の赤血球をヘパリン加生食で洗浄すると, 赤血球亜鉛量の約1%の亜鉛の遊離を認めた.4)以上より, 進行肺癌患者では亜鉛の赤血球への集積が見られ, 担癌生体の亜鉛の動態に多大な影響を示すものと考えられた.
著者
新井 久稔 井上 勝夫 浅利 靖 宮岡 等
出版者
一般社団法人 日本総合病院精神医学会
雑誌
総合病院精神医学 (ISSN:09155872)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.15-23, 2017-01-15 (Released:2023-09-07)
参考文献数
13

北里大学病院救命救急・災害医療センター(以下当センター)に勤務する精神科医の立場として,救命救急センターに搬送され精神疾患が疑われた患者に対する対応に関して検討した。筆者は,救命救急センターに搬送となった急性薬物中毒や縊首,墜落外傷,刺切創など自殺企図の症例や,重篤な身体疾患の治療にて入院となり精神症状を合併した症例などに精神科医としての立場から対応している。当センターでは,①救命救急センターにおける精神科医の関与は自殺企図症例の割合が高いこと,②自殺企図症例の精神科診断は,F3(気分障害)の割合が高く,退院後精神科医療機関へつなぐケースの割合も高いこと,③自殺企図の手段により,入院期間に影響(過量服薬は短期間,転落外傷は入院が長期化)する傾向が見受けられた。さらに,救命救急センターに勤務して感じた点は,①従来の報告どおり,救命救急センターに搬送される患者のなかでも自殺企図患者が1割以上を占めて高いこと,②精神科医としての役割において自殺企図患者の対応が中心であること,③救命センターのベッドは早い回転が必要であり,早めの治療・ケースワークの必要とされること,④精神科医療機関との効率的な連携に関してはさらに検討が必要と考えられた。
著者
岡松 佑樹 井上 勝博 川上 覚 河口 知允 内山 明彦 笹栗 毅和
出版者
特定非営利活動法人 日本肺癌学会
雑誌
肺癌 (ISSN:03869628)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.373-378, 2016-10-20 (Released:2016-11-11)
参考文献数
15

背景.軟骨肉腫は大腿骨や骨盤から発生することが多く,肺より発生する軟骨肉腫は極めて稀であり,国内では自験例を含めて18例が報告されているのみである.症例.53歳男性.高血圧症,脂質異常症で近医通院中であった.初診1か月前より咳嗽を認め,かかりつけ医を受診した.胸部X線写真で右下肺野に腫瘤影を指摘されたため当科紹介受診となり,精査目的に入院となった.胸部CTで右中下葉にまたがる腫瘤を認め,気管支鏡検査では確定診断には至らなかった.MRI,FDG-PET検査により悪性腫瘍が疑われたため,右中下葉切除術を施行した.切除標本の病理組織所見では,硝子軟骨様の多量の基質中に大小不同の異型性を有する軟骨細胞様の腫瘍細胞が増生しており,軟骨肉腫の病理診断となった.全身検索の結果,他臓器からの肺転移は否定的であり原発性肺軟骨肉腫と考えられた.術後経過は良好で,現在も再発や他臓器の原発巣の出現なく経過している.結語.今回我々は肺原発と考えられる軟骨肉腫の1例を経験した.治療の第1選択は手術による完全切除とされ,完全切除された場合の予後は比較的良好であるが,再発例も多く自験例も慎重な経過観察が必要である.
著者
吾郷 祐子 廻 京子 脇地 一生 梶原 佑子 今城 沙都 宮井 貴之 後藤 振一郎 井上 勝
出版者
岡山赤十字病院
雑誌
岡山赤十字病院医学雑誌 = The Okayama Red Cross Hospital Journal of Medicine (ISSN:09158073)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.20-24, 2021-11-30

先天性甲状腺機能低下症(Congenital hypothyroidism,以下CH)は,新生児マス・スクリーニングの中で患者数は最多であり,早期介入で身長や知能予後を改善することができる.また,CH は様々な病型が存在し,予後も異なるがその予測は容易ではない.今回我々は,マス・スクリーニングを契機にCH と診断された患者を対象とし,予後について,診療録を用いて後方視的に検討した. 3 歳まで診療継続していた症例では,一過性CH と永続性CHに分類し,精密検査時データや臨床経過を比較検討した.結果は,一過性CH が15人,永続性CH 9 人,一過性高TSH 血症6 人だった.一過性CH と永続性CH では,精密検査時のTSH,大腿骨遠位端骨端核の出現の有無, 3 歳までのレボチロキシン投薬量増量の有無,休薬前の投薬量で有意差を認め,精密検査時のTSH 高値,大腿骨遠位端骨端核の出現無,および加療中に投薬量増量を要した症例は,永続性CH への移行を予測できることが示唆された.
著者
井上 勝央 湯浅 博昭
出版者
公益社団法人 日本ビタミン学会
雑誌
ビタミン (ISSN:0006386X)
巻号頁・発行日
vol.84, no.10, pp.472-479, 2010-10-25 (Released:2017-10-10)
参考文献数
46

Folates are essential cofactors that are required for the provision of one-carbon moieties in key biosynthetic and epigenetic processes. Mammals cannot synthesize folates. Hence, dietary sources must meet metabolic needs, necessitating an efficient intestinal absorption mechanism. It has been suggested that absorption of folates involves carrier-mediated process with a low-pH optimum. Its molecule entity had long been unclear, but it was only recently that proton-coupled folate transporter (PCFT/SLC46A1), which was originally cloned as a heme transporter, was redefined as a transporter that mediates the translocation of folates across the cellular membrane by a proton-coupled mechanism. Since this discovery, studies on PCFT/SLC46A1 have been progressing rapidly, accumulating evidence for its role as the major folate transporter in the intestine. In this review, we summarize up-to-date information on this newly identified transporter, and describe its physiological significance in intestinal absorption and cellular distribution of folates and antifolate drugs such as methotrexate.
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.p359-401, 1989-05

個人情報保護のため削除部分あり天皇誕生日の祝祭(天長節) は欧米諸国の国王の誕生日祝典の模倣と推測されている。近世社会に欧米諸国のような国民的祝祭はなかったが、天皇誕生日の祭祀は天皇や女官による私的な祝賀として存続していた。維新政府は、一八六八年の発足当初から、天皇誕生日の国民全体の祝祭を指示した。近代日本の国民全体の祝祭布告の初見である。京都府や東京府は、維新政府の布告をうけて独自の布告を出したものの、実施には消極的であり、祝祭もなかった。一方、長崎と横浜という開港場では盛大な祝祭が行われ、一部の藩でも庶民の祝祭が見られる。しかし、それらの祝祭は伝統社会の祭りの動向によって規制されてゆくのであった。やがて日本全体の重要な祭祀となる天皇誕生日の祝祭の、一八六八年における実施のされ方には一定の偏向が認められる。そこに作用したのは、維新政府の欧米諸国との協調政策にもとづいたラディカルな統合政策と伝統社会との対抗であった。It is supposed that ceremonies in celebration of the Emperor's birthday (tentyosetsu 天長節) were held in imitation of Western practices of celebrating the birthdays of their kings. Although there was no national celebration in early modern Japan, the Emperor's birthday was celebrated privately by the Emperor and court ladies. Soon after its establishiment, the Government of the Restoration (Ishinseifu 維新政府) directed that the Emperor's birthday should be celebrated nationally. This was the first time in modern Japan that it had been decreed that the occasion should be celebrated by everyone. However, Kyoto and Tokyo prefectures issued statements in opposition to the decree and did not hold any ceremonies. On the other hand, in Nagasaki and Yokohama, ports open to foreign trade, there were grand ceremonies. Additionally in some han (domains) there were popular ceremonies. Nevertheless, the trends of these celebrations were influenced by ceremonies of a traditional nature. Certain inclinations can be found in the manner in which the Emperor's birthday was celebrated in 1868, leading to its becoming an important ceremony in all parts of Japan in later years. This was the result of the Government of the Restoration's receptive policies towards Europe and America and the resulting confrontation with traditional society.
著者
伊藤 弘樹 中村 千枝 井上 勝雄 関口 彰
出版者
日本感性工学会
雑誌
感性工学研究論文集 (ISSN:13461958)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.11-18, 2006 (Released:2010-06-28)
参考文献数
9
被引用文献数
7 2

Though a lot of glasses design for women are proposed and displayed in a shop recently, it is difficult for a customer to select them. For the purpose, the fundamental research on what kind of glasses design is liked from a viewpoint of a customer is thought to be required. Then, the purpose of this research would analyze about the glasses design liked by women.As the method of research, image words contributed to the attitude of liking the glasses design were calculated by multiply regression analysis, and cognitive parts (form elements) affected to each image word of the glasses design were extracted by rough sets. Before the calculation, these image words and cognitive parts were extracted by the evaluation grid method. Samples of seventy-one kinds of glasses were evaluated into five steps about each image word on the subject of twenty women. Four image words “foppish (fashionable), pretty, decent, intellectual”in twelve contributed to liking were calculated using the data mentioned above. Next, the relationship between four images and cognitive parts was extracted based on the decision class of Rough sets (the non-linear technique of the ability to avoid of Multicollinearity) using the data of each image word. From the result, the hierarchical relation from the attitude to cognitive parts about the preference has been clarified.Furthermore, the verification experiment of the result of the hierarchical relation was conducted on the subject of a designer working a design office, who proposed three design sketches reflecting the whole result of the attitude and emphasized pretty and intellectual in it with some useful comments to improve the method.
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.p599-647, 1983-09

幕末の長州藩を素材として、藩体制の絶対主義化の前進を検証し、絶対主義化の要となった権力機構、推進者、そして権力闘争の展開を検討する。これによって、形成過程の日本絶対主義と幕藩体制の連続の問題、および絶対主義の日本的特質の一端が明らかになると思う。長州藩の藩体制の絶対主義化は、安政五年の藩政改革から始まる。要となった権力機構は、従来から存在した御前会議である。この改革によって、御前会議は、「規格(掟) 」とされ、拡大強化された。御前会議で藩主と政府員が決定した政策は、藩主の親政によるものであり、藩主の上意であるとして、藩士に強制されたのである。まず、このようにして、保守的家臣団の反対が強かった洋式軍制改革が強行される。やがて御前会議は、藩士大衆の意向を無視して、独自に政策を決定し、これを藩士に強制する機構となる。それを証明する事例のひとつが、文久二年、政府員内部の反対をすらも押し切って、尊王攘夷の藩是を決定した御前会議である。当然、藩士からの、この藩是にたいする反抗は強く、政府は、苦境に陥る。周布政之助、木戸孝允、高杉晋作は、この反抗を抑圧するために、文久三年、藩政改革を行い、江戸と萩に分かれていた藩政府を一元化するなどの、藩制の基本にかかわる改革を行った。権力機構の集中化であり、御前会議も、日常的に藩主が臨席する政事堂へと発展する。この権力集中を推進したのは、すでに藩政の実権を握り、天保期から「有司」と呼ばれていた、右筆(のち政務座役) を始めとする実務役入である。 「有司」の系譜のひとつは、天保改革の指導者、村田清風に始まり、周布、木戸へと続いている。彼らは、いずれも要職の右筆から昇進し、御前会議の主導権を握り、藩の絶対主義化を推進した。したがって、藩体制の絶対主義化は、実体としては、 「有司」の専制、形式としては、藩主の親政という独特の複合した構造を持っている。本稿は、これを「日本的な親政の体制」と呼ぶ。文久期までは、藩主の親政という形式が前面に出て、 「有司」の専制は、背景にあった。しかし、反政府派の反抗によって、藩主の弱体が明らかになり、慶応期には、 「有司」の専制の実体が前面に登場する。これは、親政という形式の希薄化であり、この形式から出発した藩体制の絶対主義化の崩壊は、避け難いのである。長州藩の「有司」は、日本の有司とならざるをえない。
著者
久保 是一 久保 元敏 井上 勝平 出盛 允啓
出版者
日本皮膚悪性腫瘍学会
雑誌
Skin Cancer (ISSN:09153535)
巻号頁・発行日
vol.8, no.3, pp.439-446, 1993-12-20 (Released:2010-08-05)
参考文献数
13

The true route of contamination of the Namikata arsenical poisoning incident in Shikoku, which took place in 1933-1935, has remained unclarified, in spite of intensive on-the-spot investigations. The Toroku mine in Miyazaki, Kyushu, had produced arsenicals for scores of years until its complete discontinuance of operations in 1962. The arsenious acid produced there increased between 1921 and 1941, most of which was transferred to Ohkunojima, an islet in Tadanoumichou, Hiroshima Prefecture as materials for lewisite [ (CHCl: CH) 2 AsCl], a poisonous gas, it has been disclosed.Marine shipping agents in Namikata and nearby towns, well aware of the Inland Sea, transported various things in small boats carrying only 2 to 4 persons, often family members from Kyushu to Osaka and Kobe areas. We assume that this was the route of contamination in the Namikata arsenical poisonig incident because of the following reasons: Most of the patients were young 20 to 30 year-old seamen, most of them were family members, such as a man and his child, man and wife, man and cousins, no aged persons or children had been affected. An episode which was told one of us (Kubo, who has worked in Namikata where the incident took place) was that there was a strong demand of a man that there should be no mention of the death in connection with her job when a 47 aged wife died of lung cance in 1956 and her death certificate was prepared, because it would inform her relatives that poisonous materials had been sent with them.
著者
井上 勝雄 広川 美津雄 酒井 正幸 木下 祐介
出版者
日本デザイン学会
雑誌
日本デザイン学会研究発表大会概要集
巻号頁・発行日
vol.54, pp.B14, 2007

ユービリティ評価手法は定量的手法と定性的手法に大別される。定量的手法は複数のインタフェースを比較、つまり、複数のプロトタイプの中から1つを選択する場合やインタフェースを再設計した効果測定を行う場合に用いられる。他方、定性的手法は個々のインタフェースの具体的問題点の発見に用いられる。定性的手法は問題点の発見により改善策を求めるという方法論であったが、本研究で提案する手法は、問題点だけでなく優れた項目の発見も行えるという特徴あり、その優れた項目が設計の知識となる。手法の具体的な方法としては、ラフ近似AHP法の結果により、優れた項目と問題の項目をタスク分析やラフ集合により抽出するユービリティ評価手法である。そして、デジタルプレーヤを事例にその手法の有効性について検証・考察した。
著者
井上 勝利 大渡 啓介 馬場 由成
出版者
日本イオン交換学会
雑誌
日本イオン交換学会誌 (ISSN:0915860X)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.36-48, 1998
被引用文献数
5

希土類元素, 白金族金属, 銅 (II) , ニッケル, コバルト (II) , 亜鉛 (II) , 鉛 (II) , バナジウム (IV) , モリブデン (VI) およびアルミニウム (III) 等の卑金属に対する数種のコンプレキサン型化学修飾キトサンの吸着についての著者等の研究を概観した。グリシン, IDA, EDTAおよびDTPAのコンプレキサンの官能基の導入により吸着能は原料キトサンと比べて高められ, 吸着の起こるpHは低pH側にシフトした。特にEDTA型, およびDTPA型キトサンでは銅 (II) に対する吸着は10, 000倍高められた。<BR>EDTA型およびDTPA型キトサンは通常のキレート樹脂とは大いに異なり, 最も分離が困難な金属群である3価の希土類金属を認識, 相互分離することが可能であった。これはEDTAやDTPAの優れたキレート形成能力がこれらをキトサンのポリマー骨格に固定化した後も保持されるためである。<BR>一方グリシンやIDAの官能基を導入したものでは白金 (IV) やパラジウム (II) を吸着した場合, 塩酸による溶離特性が大幅に向上した。<BR>卑金属の吸着特性はEDTAやDTPAの官能基の導入により劇的に変化した。両者の金属の吸着の選択性の序列は以下の通りであった。銅 (II) =モリブデン (VI) >ニッケル>バナジウム (IV) ≫亜鉛=コバルト (II) ≫アルミニウム。このような選択性は広範な実用的利用の点で興味深い。実際, DTPA型キトサンを充填したカラムを用いてニッケルとコバルトの分離を行ったところ両金属の分離は満足すべきものであった。<BR>これらの化学修飾キトサンを用いて塩酸中からの卑金属の吸着も調べられた。その結果, 鉛 (II) が亜鉛などの他の金属から選択的に吸着された。吸着カラムを用いて大量の亜鉛からの微量の鉛の分離が行われ, 満足すべき結果が得られた。