著者
鈴木 隆雄 峰山 巌 三橋 公平
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.87-104, 1984-04-15 (Released:2008-02-26)
参考文献数
34
被引用文献数
3 4

北海道西南部の内浦湾に所在する入江貝塚から出土した,縄文時代後期に属する成人骨格の四肢骨に明らかな病理学的所見が認められたので報告する。この個体(入江9号人骨)は思春期後半に相当する年令段階にあると考えられるが,その四肢長骨は総て著しい横径成熟障害を示し,また長期の筋萎縮に続発したと考えられる骨の著明な廃用萎縮を呈していた。このような長骨の形態異常は長期に経過する筋麻痺を主体とした疾病の罹患によってもたらされるものと考えられるが,そのような疾患について,好発年令,発生頻度,麻痺分布,生命予后などの点から考察した。その結果,この入江9号人骨にみられた四肢骨病変の原疾患として急性灰白髄炎(急性脊髄前角炎,ポリオ,小児マヒ)が最も強く疑われた。
著者
土肥 直美 田中 良之
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.95, no.3, pp.325-343, 1987 (Released:2008-02-26)
参考文献数
64
被引用文献数
2 2

周知のように,北部九州地方は,金関の"渡来混血説"によって,弥生時代の開始期に朝鮮半島からの移住があったとされる地域である(金関,1976).この金関の説に従うならば,北部九州は,弥生時代における渡来遺伝子の影響が最も強かった地域と考えられる.そして,これらを支持する成果も,人類学•考古学双方から得られつつある(池田,1982;埴原,1984;山口,1982;永井,1985;尾本,1978;小田,1986;下条,1986;田中,1986).したがって,古墳人形質の地理的変異は,弥生時代以来の混血による遺伝子拡散の過程とみることができよう.我々はこれらの成果を踏まえた上で,さらに,北部九州を中心とする渡来遺伝子の動き,すなわち,より詳細な渡来の実態について形質人類学的立場からのアプローチを試みた.資料は,主として九州大学所蔵の古墳人頭蓋であるが,既報告のデータもできるだけ収集し,併せて使用した.計測はマルチンの計測法(Martin & Saller,1957)および顔面平坦度(山口,1973)について行い,地理的変異をみるために主成分分析を適用した.また,北部九州からの拡散過程をみるために,渡来的形質の分布パターンと北部九州からの距離との関係を, single step migration モデル(Hiorns & Har-rison,1977)との対比において考察した.結果は,マルチンの計測値•顔面平坦度ともに,北部九州における渡来遺伝子の強い影響を支持した.特に,マルチンの計測値については,第1主成分のスコアと筑前から各群までの距離の関係から,北部九州を中心とする渡来的形質の地理勾配が再確認された.この地理勾配には明らかな方向性が認められたが,筑前を起点として描くカーブはルートによって異なる.すなわち,1)筑後•肥前および豊後を経て南九州に至るルートは,急激な fa11-off curve を描く.これは,弥生人において金隈から大友を経て西北九州へと至るカーブと同様である.2)北豊前から南豊前•豊後を経て南九州に至るルートは,緩やかな fal1-off curve を描く.これらに対して,3)北豊前•西瀬戸内を経て中部瀬戸内に至るルートは直線をなし,山陰を経て近畿へと至るルートは不規則な線を描く.また,金隈を起点として,佐賀東部•土井ケ浜•古浦とつないだ線も不規則である.1)2)は,ともに fall-off curveを描くものの,その傾斜は大きく異なる.両ルートは,基本的に,前者が山間部•海浜部を経由するのに対して,後者は平野部を通る点に大きな相違点がある.さらに,3)のルートは single step migration モデルのようなランダムな拡散では説明できないパターンであり,渡来系遺伝子の高い移動性を示したものと考えられる.これらの分布パターンは,古墳時代における政治的•文化的関係をそのまま反映したものではない.したがって,これらは,むしろ渡来人および混血を経たその子孫が,北部九州を起点として,婚姻や移住によって,農耕に適した土地へと拡散していった過程を示すものと考えられる.
著者
鈴木 尚
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.1-32, 1985 (Released:2008-02-26)
参考文献数
26
被引用文献数
3 4

本編は徳川将軍5体と夫人9体,および大名30体と夫人14体,計58体の頭骨形質についての研究結果である。徳川将軍の顔は彼らの個人差を超越して,江戸時代の庶民と次の点で区別される。それは超狭顔型で,狭くて隆起の強い鼻,高くて大形の眼窩,退化した上•下顎骨などである。これらの形質は世代を重ねるとともに強化されるので,14代将軍,徳川家茂(1846~66)では,この点に関して最も高度である。上の形質はまた仁孝天皇の皇女,和宮(静寛院宮)でも全く同じである。また江戸時代の大名では,将軍ほど高度ではないにしても,同じ形質をもっていたので,上の形質は江戸時代の貴族形質と見なされる。これら江戸時代貴族は,天皇家は別として,中世日本の庶民または,それに近い階層から由来したと信じられているので,これら貴族形質もまた当時の庶民形質の中から,たぶん下に述べる遺伝と環境の2因子の相乗作用にもとずいて顕現したものに相違ない。1.遺伝 将軍夫人と大名夫人の間に認められる顔型の類似性は,250年以上にもわたって,江戸時代貴族と同類の顔面形質をもった女性が夫人に選ばれていたことを物語っている。もし幾世代にもわたって上記の形質をもつ女性が夫人として選ばれるならば,当然,これらの形質は将軍や大名となるべき子孫に高度に伝えられるはずである。2.環境 各将軍に見られた発育不全の上•下顎骨と老年者ですら咬耗のない歯をもっているという非庶民的な特殊性は,彼らの食生活を含む総ての生活様式が,伝統的に特殊なものであることを示す。これと同じ環境的因子は大名やその夫人にもそのまま適用されるであろう。結局,将軍と大名とは形質人類学的にみて,江戸時代において特殊に文化された人たちと見なすことができる。
著者
森本 岩太郎
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.95, no.4, pp.477-486, 1987
被引用文献数
11

打ち首(斬首)の所見が認められる古人首例は比較的少なく,偶然に発見されたとしても,頭蓋の刀創などから斬首を間接的に想定した場合が大部分を占めると思われる.著者が最近経験した鎌倉市今小路西遺跡出土の南北朝期(14世紀後半)に属する斬首された2個体分の中世頭蓋の場合は,切られた上位頸椎が一緒に残っていたので打ち首の技法がよく分かる.当時の屋敷の門付近に,A•B2個体分の頭蓋と上位頸椎だけが一緒に埋められていた.首実験後に首だけが遺族に返されず,そこに仮埋葬されたものであるらしい.2体とも男性で,年齢は A が壮年期前半,B が壮年期後半と推定される.頭蓋は無傷で,それぞれの頸椎が日本刀のような鋭利な刃物により切断されている.頭蓋と第1~3頸椎からなる男性 A の場合,切断面は第3頸椎体の前下部を右後下方から左前上方へ走って椎体の途中で止まり,その先の椎体部分は刀の衝撃によって破壊され失われている.切断面の走向からみて,第4頸椎(残存せず)を右後下方から切断した刃先が第3頸椎体に達して止まったと思われる.頭蓋と第1~4頸椎からなる男性 B の場合,主切断面は第4頸椎の中央を右からほぼ水平に走っている.切断面より上方にある右横突起と右上関節突起の上半部だけが残存し,それ以外の第4頸椎の大部分は失われている.A の場合と同様に,刃先が第4頸椎の椎体の途中で止まって,その先の部分が破壊されたものと推定される.別に第3頸椎の左下関節突起先端部から右椎弓根基部上面へ向けて椎体を左下方から右上方へ斜めに走る副切断面があり,この副切断面によって改めて首が切り離されている.失われた第3頸椎の椎弓板もこのとき壊されたと思われる.切断面の走向からみて,両個体とも,垂直に立てた頸部を横切りにされたというよりは,むしろ正座のような低い姿勢をとって前方に差し伸べた頸部を,左側やや後方に立った右利きの執刀者により切り下ろす形で右背後から鋭く切断され,絶命したと推定される.この際,首は一気に切り落とされていない.これは俗に「打ち首はクビの前皮一枚を残すのが定法」と言われるところに近似の所見であり,この技法の確立が中世までさかのぼり得るものであることが分かる.2体とも最初に第4頸椎部を正確に切断され,頭蓋には刀創の見られないところから,同一の練達者によって斬首されたと推測されるが,切られたほうも死を覚悟した武士であったかも知れない.英国のSutton Walls 出土の鉄器時代人骨における斬首例のように,首を刀で一気に切り離すのが昔のヨーロッパ流のやり方とすれば,中世における日本の打ち首では頸部を後方から半切して処刑する点にその特徴があると思われる.
著者
埴原 恒彦
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.99, no.3, pp.345-361, 1991 (Released:2008-02-26)
参考文献数
57
被引用文献数
5 10

アイヌの起源に関しては,コーカソイド起源説,オーストラロイド起源説,モンゴロイド起源説など,考え得るほとんど全ての説が提出された.しかし,今日では,アイヌが縄文人の直系の子孫であることはほぼ確実視されている.一方,近世アイヌの成立に関しては,一般には,本州の縄文人を主体とし,それに北海道東部の縄文人やサハリン,千島からの外来要素が加わって,その形質的特徴が形成されたと考えられている.このような結果はおそらく,モヨロ貝塚や大岬から出土したオホーツク文化期人骨の北方的な形質的特徴によるものであろう.しかし,筆者は,少なくとも近世アイヌの形質に関しては北方的要素,すなわち寒冷地適応を示す特徴はほとんど見られないのではないか,と考え,アイヌの起源と分化について歯冠形質に基づき,再調査した.分析の結果,北海道南西部,中部,東北部のアイヌ,更に,サハリンアイヌは,続縄文人と共に,本州の縄文人ときわめて類似するが,時代的に続縄文人と近世アイヌの間に位置する大岬人骨は,従来の主張通り,北方アジア人にきわめて近い形質を有することが,歯冠形質にっいても明かとなった.このことは,確かに北海道にも北方からの渡来があったことを示していよう.モヨロ人骨,大岬人骨に代表されるオホーツク文化は12世紀頃に忽然と消えてしまうが,本分析結果から,彼らが先住民であるアイヌにほぼ完全に吸収されてしまったか,あるいは適応に失敗し,事実上は消滅してしまったものと考えられる.以上のことから,近世アイヌの成立にっいては,北方からの外来要素を考慮するよりは,むしろ縄文人の形質を主体とし,その後2千数百年間の,環境と文化の影響下における小進化として説明するのが最も妥当であると考えられる.アリゾナ州立大学の C.G. ターナー教授が,縄文人の源流を,後期更新世にスンダランドで進化してきた集団に求め得るとしていることは,よく知られている.今回得られた結果は,上記の,スンダランドのいわば仮想集団が,形質的には,現在のネグリトに代表されるような,東南アジアにおける最も基層的集団 (generalized Asiatic populations)に類似していたのではないかという筆者の主張と矛盾するものではないと思われる.
著者
平本 嘉助
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.221-236, 1972 (Released:2008-02-26)
参考文献数
36
被引用文献数
20 22

関東地方の縄文時代より近代初期まで,各時代人の平均身長を推定し,これに既発表の現代人の生体計測による資料を加えて縄文時代より現代までの身長の時代変化を検討した.繩文時代より近代初期(明治維新より1900年まで)までの各時代人の推定身長は大腿骨をもちいた身長推定式によって算出した.推定式は藤井(1960)の報告による大腿骨最大長の身長推定式をもちいた.結果は男女ともに繩文時代人より古墳時代人が大きく,以降,鎌倉時代,室町時代,江戸時代,そして近代初期へと順次身長が低下してきたことが推測される。そして現代においては急激な身長の増加が生じている.また現代人の身長は古墳時代人よりも大きくなっている.
著者
森本岩 太郎
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.97, no.2, pp.169-187, 1989 (Released:2008-02-26)
参考文献数
12
被引用文献数
2

早稲田大学古代エジプト調査隊の一員として,1983年から1986年までの3回にわたる野外調査において,エジプト•ルクソール市西岸クルナ村にあるいわゆる「貴族の墓」317号および178号両墓から発見された古代エジプト男性ミイラ18体(成人15•小児3)の外陰部を観察した。これらのミイラは新王国第18王朝時代からプトレマイオス朝時代まで,すなわち約1550~30B.C.のものであり,墓泥棒によってひそかに両墓に運び込まれ,身にまとう金銀宝飾を目当てに包帯を解かれ,ばらばらに解体されたものと思われる。18体のミイラのうち,成人3体の外陰部は布で包まれており観察できなかった。外陰部の包み方は,陰茎を他から独立させて布で覆う方法がとられていた。また成人1体の陰茎は墓泥棒により破壊されていた。外陰部を観察できた14体のうち,成人11体中3体(26.3%),小児3体中2体(66.7%)の外陰部が自然の状態に保存されていた。LECA (1980)によれば古代エジプトミイラの外陰部は保存するのが通例であるというから,今回の調査で得られた保存率は異常に低いものであると言える。小児の亀頭包皮の有無は確認できなかったが,成人3体では全例に包皮が存在しなかった。HERODOTUS(紀元前5世紀)の記載や,サソカラのアンク7ホール墓の壁画などに見られるように,エジプトではそのころ思春期の男子に広く割礼が行われたと思われる。成人5体では陰茎が切り取られていた。1体は完全切除,他の4体は部分的切除であった。成人3体と小児1体では陰茎が長く引き伸ばされていた。そのうちの2体(成人1•小児1)では陰嚢を引き伸ばして作った棒状の台の上に陰茎を乗せて支え,他の成人1体では陰嚢を圧延して作った薄板により陰茎を包んでいた.また成人1体では陰茎•陰嚢をかたどった小さな模型(樹脂製•金塗色)が外陰部の直下に置かれていた。ミイラ作りにおける陰茎切除の理由ないし起源について,LECA はどのような思案も浮かばないという。しかし,拙考によれば,ミイラ作りの際における上記の陰茎切除•陰嚢変形•外陰部模型使用などの男性外陰部に対する特別の配慮と処置は,古代エジプト神話において女神イシスが彼女の夫である男神オシリスの身体の復元を志した時,ナイル川に捨てられて蟹に食われてしまった夫の外陰部だけが発見できなかったこと,また夫の外陰部の代わりにその模型を用いて夫の身体の完全復元に成功し,ついにオシリスが永遠の生命を得た(ミイラ作りの起源と言えよう)という物語りに起因するものと思われる。
著者
松本 秀雄
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.95, no.3, pp.291-304, 1987 (Released:2008-02-26)
参考文献数
27
被引用文献数
8 10

人種によって遺伝子型を異にするというユニークで,安定した在り方を示す免疫グロブリン(抗体) IgG の遺伝標識は,血液型の中で唯一の特異な特徴をもつものである。北方型蒙古系民族の標識遺伝子である Gmab3st 遺伝子の発見(1966年)を緒にして,日本人を中心に朝鮮民族,中国人(漢民族および少数民族),東南アジア,東アジア,南北アメリカに分散する蒙古系民族について,20年間にわたって検索した成績を集約した。蒙古系民族は基本的には4つの遺伝子,Gmag,Gmaxg,Gmab3st,および Gmafb1b3 をもつことで特徴づけられる。これらの遺伝子の分布と流れに基づいて,蒙古系民族は大きくは,北方型と南方型の2つのグループに分かれる。南方型蒙古系民族の標識遺伝子 Gmafb1b3 のルーツは中国南部の雲南,広西地域に,日本民族を含む北方型蒙古系民族の標識遺伝子 Gmab3st のルーツはシベリアのバイカル湖畔にあることを明らかにした。
著者
木下 太志
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.98, no.3, pp.317-336, 1990-07-31 (Released:2008-02-26)
参考文献数
46
被引用文献数
2 3

山形県天童市の旧山家村に残る1760年から1870年にわたる宗門改帳を使って,江戸時代における東北地方の農民の結婚と出生を分析した。結婚に関しては,男子の場合,初婚年齢,既婚率ともに経済的要因によって強く影響されるが,女子の場合にはこのことは必ずしも言えない。この理由として,男女間の社会的,経済的地位の差が考えられる。また,山家村の出生率は時代とともに増加しているが,これは主に有配偶出生率の増加に起因し,生涯未婚率の低下が補助的に出生率の増加に寄与している。出生率の増加には,労働形態の変化,雇用機会の増大,賃金の上昇等が関与しているものと考えられろ。
著者
長谷部 言人
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.128-134, 1956-12-30 (Released:2008-02-26)

The findings of skeletal remains which have been claimed to represent the prehistoric cats of Japan has been reported, but few of these claims have been made on scientific ground.The writer examined the cranium of a cat which was found in the Nojima Shell-mound of Kanagawa Prefecture by Mr. N. AKABosxr, by means of comparative osteometric method. There are actually another bones of cat from the same site, but as regards cranial bones among them only a juvenile lower jaw and an adult upper jaw permit osteometric measurements.The cranium has been well preserved and almost complete, from which, however, some parts of the zygomatic region and about a half of the upper and lower teeth have been missing. It should be of an adult individual but its sex is unknown. The teeth are slightly worn. The writer compared 34 measurements and 8 indices of the cranium with those of 13 crania of domesticated cats (9 from Honshu, Japan; 1 from S. America; 2 from Germany; 1 of unknown origin) and 8 crania of wild cats (1 from Tsushima, Japan; 1 from Korea; 2 from Ceylon; 1 from India; 2 from Africa; and 1 of unknown origin). The comparison shows the results as the followings:1) The Nojima cat is not markedly different from the domesticated cats from Honshu in any individual measurement except in two or three indices. It is quite similar to the wild cats from Korea and Tsushima.2) Morphologically speaking, the so-called cat represented by the isolated jaws from the Nojima Shell-mound and a lower jaw from the Ichioji Shellmound of Aomori Prefecture conform to wild cat.3) Dimensions of the Nojima cat show close similarity to those of the wild cats from Tsushima, Korea, Ceylon, and India. Those cats from Asia are well differentiated from the African wild cats which are larger in general feature and stronger in biting structure.4) The domesticated cats from Honshu resemble to the wild cats from Asia, and the domesticated cat from Germany to the wild cats from Africa.5) The Nojima cat should be a kind of Asian wild cat. Although it is difficult to segregate the Nojima cat from the domestcatied cats from Honshu, there is no reason to regard the former as the ancestor of the latter. On the other hand there seems to be a tendency in Japan to believe that all domesticated cats in Japan have been descended from imported species, but it is also doubtful.
著者
河内 まき子
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.97, no.3, pp.373-388, 1989-07-31 (Released:2008-02-26)
参考文献数
16
被引用文献数
2 2

足部形状の個人差を明らかにするため,男女各152名について計測された右足の生体計測項目21項目の主成分分析を行なった。この結果抽出された形の因子を代表するような示数を考案し,これを用いてクラスター分析を行い,足型の分類を試みた。この結果,男女とも1)足軸の位置,2)ボール部の足軸に対する傾き,3)ボール部の幅,4)甲の高さ,の4つの形の因子が抽出された。クラスター分析の結果,男女とも4人以上から成るクラスターが7つできた。人数が最も多いクラスターを標準型とすると,標準型に入るのは男子で42%,女子では35%である。また,女子は男子よりも個人差が大きいようであり,男子では足の幅が広いタイプ(31%)が,女子では甲の高いタイプ(37%)がかなり多い。現代日本人の足部形状の個人差は,履物による足の変形の影響をふくんだものなので,履物の影響を受けない状態ではどのような個人差があるのかを明らかにするためには,靴を履かない集団の調査が必要である。
著者
森本 岩太郎
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.95, no.4, pp.477-486, 1987 (Released:2008-02-26)
参考文献数
6
被引用文献数
10 11

打ち首(斬首)の所見が認められる古人首例は比較的少なく,偶然に発見されたとしても,頭蓋の刀創などから斬首を間接的に想定した場合が大部分を占めると思われる.著者が最近経験した鎌倉市今小路西遺跡出土の南北朝期(14世紀後半)に属する斬首された2個体分の中世頭蓋の場合は,切られた上位頸椎が一緒に残っていたので打ち首の技法がよく分かる.当時の屋敷の門付近に,A•B2個体分の頭蓋と上位頸椎だけが一緒に埋められていた.首実験後に首だけが遺族に返されず,そこに仮埋葬されたものであるらしい.2体とも男性で,年齢は A が壮年期前半,B が壮年期後半と推定される.頭蓋は無傷で,それぞれの頸椎が日本刀のような鋭利な刃物により切断されている.頭蓋と第1~3頸椎からなる男性 A の場合,切断面は第3頸椎体の前下部を右後下方から左前上方へ走って椎体の途中で止まり,その先の椎体部分は刀の衝撃によって破壊され失われている.切断面の走向からみて,第4頸椎(残存せず)を右後下方から切断した刃先が第3頸椎体に達して止まったと思われる.頭蓋と第1~4頸椎からなる男性 B の場合,主切断面は第4頸椎の中央を右からほぼ水平に走っている.切断面より上方にある右横突起と右上関節突起の上半部だけが残存し,それ以外の第4頸椎の大部分は失われている.A の場合と同様に,刃先が第4頸椎の椎体の途中で止まって,その先の部分が破壊されたものと推定される.別に第3頸椎の左下関節突起先端部から右椎弓根基部上面へ向けて椎体を左下方から右上方へ斜めに走る副切断面があり,この副切断面によって改めて首が切り離されている.失われた第3頸椎の椎弓板もこのとき壊されたと思われる.切断面の走向からみて,両個体とも,垂直に立てた頸部を横切りにされたというよりは,むしろ正座のような低い姿勢をとって前方に差し伸べた頸部を,左側やや後方に立った右利きの執刀者により切り下ろす形で右背後から鋭く切断され,絶命したと推定される.この際,首は一気に切り落とされていない.これは俗に「打ち首はクビの前皮一枚を残すのが定法」と言われるところに近似の所見であり,この技法の確立が中世までさかのぼり得るものであることが分かる.2体とも最初に第4頸椎部を正確に切断され,頭蓋には刀創の見られないところから,同一の練達者によって斬首されたと推測されるが,切られたほうも死を覚悟した武士であったかも知れない.英国のSutton Walls 出土の鉄器時代人骨における斬首例のように,首を刀で一気に切り離すのが昔のヨーロッパ流のやり方とすれば,中世における日本の打ち首では頸部を後方から半切して処刑する点にその特徴があると思われる.

9 0 0 0 OA 蝸牛考(完)

著者
柳田 國男
出版者
一般社団法人 日本人類学会
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.42, no.7, pp.273-284, 1927-07-25 (Released:2010-06-28)
著者
栗栖 浩二郎
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.103-119, 1967 (Released:2008-02-26)
参考文献数
34

Since 1962 a serial excavation of Usu shell-mound in Hokkaido has been made by Prof. KoHAMA and his staffs of Osaka University. Their efforts have resulted in recovery of many human skeletal and cultural remains belonging to the six cul-tural periods, namely, epi-Jomon (Kamegaoka), succesive period of Jomon (Esan), Satsumon pottery period, Muromachi-Momoyama period, early and late period of Edo era. These remains are expected to serve to solve the pending problems when and whence did ancestors of Ainus migrate to Hokkaido.The present study intended to solve some of the problems above mentioned, with the metrical and observational investigations of three skulls of the remains of Muromachi-Momoyama period, and to determine racial affinity of them. These three skulls showed many ainoid characteristics, namely, l) dolicocrany, 2) simple serration of sutures, 3) square-shaped orbits, 4) rounded lower margines of man-dible and 5) broad ramus, while there were some measurements and indices which deviate considerably from those of Ainus. In order to determine to which race they belong, the author used the discriminant function with which each skull was classified into one of three groups (Ainu, Kinki-Japanese and Tohoku-Japanese) and the result showed that all skulls were classified into Ainu.The fluorine method for determination of the relative antiquity of bone has not been considered as a strict method because there are variabilities even in bones which belong to same period. But, if data of fluorine contents from a number of samples are statistically analysed, it may be possible to determine the period of samples. Fragments from twelve individuals of each period were used for fluorine determination. It was concluded that, in spite of passable variability of fluorine contents in same individual and same period, there was increasing tendency of fluorine with burial age and fluorine contents of bones of epi-Jomon could be statistically distinguished from those of the periods after Satsumon.
著者
石原 房雄
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.119-125, 1969-08-30 (Released:2010-06-28)
参考文献数
4
被引用文献数
1 1
著者
石田 肇
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.371-374, 1988 (Released:2008-02-26)
参考文献数
11
被引用文献数
1 1

987年,北海道枝幸郡枝幸町目梨泊遺跡から,オホーツク文化期に属する男性頭骨1体が出土した。この頭骨は,観察結果および計測値からみて,アイヌ的特徴を強く示している。
著者
百々 幸雄 木田 雅彦 石田 肇 松村 博文
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.99, no.4, pp.463-475, 1991 (Released:2008-02-26)
参考文献数
33

北海道東部の厚岸町下田ノ沢遺跡より,1966年,1体の擦文時代人骨が発見された。人骨は頭骨ほぼ全体と体幹•体肢骨の一部が,人類学的研究に耐え得る状態に保存されていた。年齢,性別は成年女性である。頭骨の計測値に基づいた距離計算では,アイヌよりも東北日本人にやや近いという結果が得られたが,歯の計測値に基づく距離計算と頭骨の非計測的小変異に基づく分析の結果は,本人骨が明らかにアイヌに帰属することを示した。体幹•体肢骨の計測と観察の結果もこれを支持するものであった。頭骨の非計測的小変異では,関節面を有する典型的な第3後頭顆の発現が注目された。分析結果を総合的に解釈すると,下田ノ沢擦文時代人骨の形質は,近世北海道アイヌのそれと基本的に変わるところがないと結論される。
著者
山口 敏
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.55-71, 1963-10-31 (Released:2008-02-26)
参考文献数
53
被引用文献数
3 3

Six human skeletal remains, excavated by the late Prof. H. KONO from Eneolithic pit-graves at Bozuyama in Ebetsu (about 20km northeast of Sapporo), were measur-ed (Tables 1-3) and described. All the skeletons were found in extremely flexed position, with their heads turned to the south or southeast, and lying on their backs. The graves contained potsherds of the Kohoku and Hokudai types, which represent the epi-Jomon culture of northeast half of Hokkaido in early and middle parts of the first millennium A. D.Measurements of the best preserved adult male skull from burial No. VI-2 (Fig. 1-3, Table 1) were compared with those of adjacent racial groups of Hokkaido, Sakhalin, and Japan proper. The Bozuyama VI-2 skull showed the closest resem-blance to the contemporary Onkoromanai remains (YAMAGUCHI, 1963) from northern Hokkaido (Table 4 and Fig. 5 and 6). The author gave a common provisional des-ignation "the Onkoromanai type" to these two Eneolithic groups from central and northern parts of Hokkaido.The Onkoromanai type, which was tentatively represented by the average of three male skulls of Bozuyama and Onkoromanai (Table 4), was compared with the various recent and prehistoric races of Oceania, Far East, Northern Asia and Europe, by means of the shape distance of L. S. PENROSE (1954). The closest distances from the Onkoromanai type were found in the northern and eastern groups of Hokkaido Ainu, Kuril Ainu, Neolithic populations of Japanese mainland, and cromagnonoid types of Bronze Age southwestern Siberia and Neolithic Ukraina. On the other hand, the remotest distances were shown by the Mongoloid races of northeastern Asia, including the Sakhalin Gilyak. The Ainu of Sakhalin and southern Hokkaido, the recent Japanese, and many Oceanian groups showed intermediate distances (Table 5).In addition, reciprocal distances among eight representative groups were calcula-ted and illustrated (Table 6, Fig. 7). Remarkable mutual resemblances were found among four of them, i. e. the Onkoromanai type, the Kitami Ainu (northeast Hok-kaido), the Yoshiko (Neolithic shellmound of Japan), and the Andronovo (Bronze Age Minusinsk basin).