著者
加藤 博文 石田 肇 吉田 邦夫 佐藤 孝雄 米延 仁志 ハドソン マーク 米田 穰 安達 登 増田 隆一 長沼 正樹 深瀬 均 木山 克彦 江田 真毅 岡田 真弓 木山 克彦 江田 真毅 岡田 真弓 長沼 正樹
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2012-10-31

本研究では、アイヌの集団的・文化的形成過程において海洋狩猟民文化の強い影響が社会文化伝統にも、集団的にも、存在したことを示唆する豊富な資料を提供することができた。浜中2遺跡の調査では、海獣儀礼の伝統が先行する先史文化から連続して継承、発展されアイヌ文化の中へ取り込まれていくことが考古学的に提示された。集団的な系統性については、先行研究で示唆されていたオホーツク文化の関与を補強する資料を得ることができた。提示されたアイヌ民族の集団形成性の複雑さは、集団のアイデンティティの形成過程や変遷についても、社会・経済・政治的文脈での検討の必要性を示唆している。今後も得られた資料の調査研究を進めていく。
著者
菊池 俊彦 石田 肇 天野 哲也
出版者
北海道大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

オホーツク文化の遺跡から大陸製の遺物が発見されることはオホーツク文化の大きな特徴であり、そのような大陸製の遺物には青銅製の帯飾りや鉄製の鉾、硬質土器などがある。それらは大陸の靺鞨文化・渤海文化・女真文化の遺跡に同一の遺物が発見されていることから、これらの文化とオホーツク文化の間に何らかの交流があって、その結果として大陸製品がオホーツク文化の文化圏にもち込まれたことを示している。本研究ではこうしたオホーツク文化と大陸の諸文化の間の交流について、遺物の上からその実態を明らかにすることを目的とした。その主要な研究成果は次のようにまとめることができる。1.青銅製帯飾りは靺鞨文化およびその中国側の同に文化、女真文化の遺跡から発見されており、したがってオホーツク文化と靺鞨文化・女真文化の間の交流が密接だったことを青銅製帯飾りがよく示している。2.鉄鉾は靺鞨文化・渤海文化・女真文化のいずれの遺跡からも発見されており、オホーツク文化にはこれらのどの文化からも鉄鉾がもたらされていた可能性がある。3.硬質土器は靺鞨文化にはなく、渤海文化と女真文化の特徴的である。オホーツク文化の硬質土器には渤海文化の硬質土器に類似のものと女真文化に類似のものとがある。4.オホーツク文化の人たちの人骨の計測データとアムール河下流域およびサハリンの諸民族の人類学研究のデータの対比によって、オホーツク文化人はニウ-フ民族やツングース系諸民族に極めて近いことが明らかとなった。
著者
石田 肇
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.371-374, 1988 (Released:2008-02-26)
参考文献数
11
被引用文献数
1 1

987年,北海道枝幸郡枝幸町目梨泊遺跡から,オホーツク文化期に属する男性頭骨1体が出土した。この頭骨は,観察結果および計測値からみて,アイヌ的特徴を強く示している。
著者
百々 幸雄 木田 雅彦 石田 肇 松村 博文
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.99, no.4, pp.463-475, 1991 (Released:2008-02-26)
参考文献数
33

北海道東部の厚岸町下田ノ沢遺跡より,1966年,1体の擦文時代人骨が発見された。人骨は頭骨ほぼ全体と体幹•体肢骨の一部が,人類学的研究に耐え得る状態に保存されていた。年齢,性別は成年女性である。頭骨の計測値に基づいた距離計算では,アイヌよりも東北日本人にやや近いという結果が得られたが,歯の計測値に基づく距離計算と頭骨の非計測的小変異に基づく分析の結果は,本人骨が明らかにアイヌに帰属することを示した。体幹•体肢骨の計測と観察の結果もこれを支持するものであった。頭骨の非計測的小変異では,関節面を有する典型的な第3後頭顆の発現が注目された。分析結果を総合的に解釈すると,下田ノ沢擦文時代人骨の形質は,近世北海道アイヌのそれと基本的に変わるところがないと結論される。
著者
染田 英利 石田 肇 米田 穣 橋本 正次 佐藤 泰則 小林 靖
出版者
防衛医科大学校(医学教育部医学科進学課程及び専門課程、動物実験施設、共同利用研究
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2013-04-01

ヒト硬組織中に含まれる炭素、酸素及びストロンチウムの各安定同位体比は、遺骨の身元確認の前段階におけるスクリーニング法として有効な情報を提供できる。本研究では、戦没者遺骨鑑定への適応を想定しパプアニューギニア人と日本人の歯牙エナメル質中の炭素、酸素及びストロンチウム同位体比を計測し、先行研究である米国人データを参照し、判別分析による統計学的検討をおこなった。これらの3群から米国人の分別は高精度に可能であった。パプアニューギニア人と日本人については一部地域では正確な分別が可能であった。安定同位体比分析は、ニューギニア戦線におけるこれら3群の遺骨を分別する方法として有効となる可能性が示された。
著者
石田 肇 百々 幸雄 天野 哲也 埴原 恒彦 松村 博文 増田 隆一 米田 穣
出版者
琉球大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

オホーツク文化人骨の形態解析とDNA分析の結果、北東アジア、とくにアムール川流域を起源としていること、mtDNAのハプログループYは、アムール川下流域集団の祖先からオホーツク文化人を経由してアイヌへともたらされたことが示唆された。また、食生活では栄養段階の高い大型魚類や海生ほ乳類を主要なタンパク質として多く利用していたことが示された。変形性関節症の頻度分布からも、生業との関連性が示唆された。アイヌ民族のイオマンテ型儀礼は続縄文文化・オホーツク文化にまでさかのぼる可能性が大きいことを示した。
著者
百々 幸雄 川久保 善智 澤田 純明 石田 肇
出版者
一般社団法人 日本人類学会
雑誌
Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
巻号頁・発行日
vol.120, no.1, pp.1-13, 2012 (Released:2012-08-22)
参考文献数
67
被引用文献数
5 3

北海道アイヌの成立には,オホーツク人の遺伝的影響がかなり強く及んでいたという近年の研究成果に鑑みて,視野の中心を北海道に据えて,東アジアと北東アジアにおける北海道アイヌの人類学的位置を,頭蓋の形態小変異を指標にして,概観してみた。使用した形態小変異は観察者間誤差の少ない9項目で,日本列島の10集団とサハリンおよび大陸北東アジアの3集団を対象に分析を行った。集団間の親疎関係の推定にはスミスの距離(MMD)を用い,棒グラフとMMDマトリックスの主座標分析で集団間の相互関係を図示した。オホーツク人は北海道アイヌとサハリン・アムール・バイカルといった北東アジア集団のほぼ中間に位置したが,北海道アイヌとの形態距離はかなり近く,北海道や本州の縄文人と同程度であった。これに対して,大陸東アジアにその原郷が求められる弥生系集団は,北海道アイヌから遠く離れていた。9項目による分析結果が妥当なものであったかどうかを検証し,さらに,北海道の続縄文人の形態学的な位置づけを明らかにするために,著者のひとりが独自にデータを収集した12集団についても,20項目の形態小変異を用いて,同様の分析を行った。9項目による分析結果と20項目による分析結果はほとんど同じで,北海道アイヌの母体になった集団は,やはり従来の指摘どおり,北海道や本州の縄文人と北海道の続縄文人であると考えられたが,北海道アイヌの成立には,オホーツク人の遺伝的影響をも考慮しなければならないと思われる。
著者
大島 直行 木田 雅彦 石田 肇 百々 幸雄
出版者
札幌医科大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1991

続縄文時代恵山文化の形成と展開に際しての、本州弥生文化の影響の実態と把えるため,北海道豊浦町礼文華貝塚の発掘調査を実施した。調査の結果,次の点が明らかになった。1.貝塚の規模は,約500m^2であった。貝層の堆積は、最も厚いところで1mを計。形成時期については,縄文時代晩期終末に始まり,続縄文時代恵山期と比較的長期にわたることが明らかとなった。2.遺構は,残念ながら墓の発見はなかった。ただし、立地条件や過去の調査結果などから、本遺跡の墓地としての可能性は大きく,埋葬遺構の発見も,将来的に期待される。本調査においては,イルカの埋納土壙の発見があった。全国的にも、きわめて珍らしい検出例である。土壙は、直径約100cmの円形を呈する。埋土を10cm程掘り下げた段階で,頭骨を中心とする大量のイルカの骨があらわれた。その数は12個体分だが,調査は土壙の約半分にすぎないことから、全体ではさらにその数が増すものと思われる。おそらく、「送り場」的な性格を持つ遺構と考えられ、たいへん興味深い。3.出土遺物の中で,特に注目されたものに土製紡錘車の出土がある。恵山文化期の包含層中より出土したもので,北海道出土の紡錘車としては,最も古い例となった。おそらく、本州の弥生前期〜中期段階の資料と深く関係するものと思われ、有珠10遺跡より出土した南海産貝輪とともに,北海道への弥生文化の波及を示す、興味深い資料の追加となった。
著者
石田 肇 下田 靖 米田 穣 内藤 裕一 長岡 朋人
出版者
北海道大学総合博物館
雑誌
北海道大学総合博物館研究報告 (ISSN:1348169X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.109-115, 2013-03

The Okhotsk culture spread from southern Sakhalin Island to northeastern Hokkaido Island and the Kurile Islands from the 5th to the 12th centuries AD. The Okhotsk culture developed a considerable maritime infrastructure which was different from that of the native population in Hokkaido. The demographic structure of prehistoric hunter-gatherers contributes to our understanding of life history patterns of past human populations. Age-at-death distribution was estimated using the Buckberry-Chamberlain system of auricular surface aging and the Bayesian approach to discuss whether paleodemographic estimates can yield an appropriate mortality profile of the prehistoric hunter-gatherers in Japan. The age distributions of the Okhotsk revealed low proportions of young adults and high proportions of elderly adults. The results indicated 24.4-51.3% for the proportion of individuals above the age of 55 years. The newly-employed technique of the Bayesian estimation yielded age distributions with significant numbers of elderly individuals, which are contrary to usual paleodemographic estimates. Apical periodontitis, accompanied by considerable wear, was frequently seen in the upper first molars of the Okhotsk people. The bone cavities around the root of the upper first molars were probably caused by chronic apical periodontitis and radicular cyst. The bone cavity was clearly surrounded by sclerotic bone tissue diagnosed as condensing osteitis. Excessive amounts of secondary cementum were deposited on the root surface as a result of radicular granuloma. Pulp exposure through extreme wear very likely resulted in bacterial infection of dental pulp and periapical tissue. Degenerative changes in people of the Okhotsk culture were investigated using adult human skeletons and reconstructing their lifestyle. Findings were compared with materials obtained from skeletons from the medieval Kamakura period and skeletons of early-modern peasants on the Ryukyu Islands, Japan. Severe osteophytes on the lumbar vertebrae were more frequently seen in the Okhotsk males. Degenerative changes of the articular process were also most frequently seen in the lumbar vertebrae of the Okhotsk skeletons. This is a significant contrasted from the high frequency of degenerative changes in the cervical apophyseal joint among Ryukyu peasants. The high prevalence of elbow and knee joint changes in the Okhotsk skeletons was a strong contrast to the high frequency of hip joint changes seen in materials from Kamakura and changes in shoulder and hip joints common in materials from Ryukyu. Because the Okhotsk culture developed a considerable maritime infrastructure, the lifestyle required for sea-mammal hunting and fishing seems to have particularly affected the incidences of severe degenerative changes in the lumbar vertebrae, elbow, and knee. Isotopic signatures in bulk collagen and some amino acids inform of significant differences in the subsistence of each group. Reconstructed diets are taken into consideration to correct the marine reservoir effects on radiocarbon dates for human remains.
著者
石田 肇
出版者
Japanese Academy of Budo
雑誌
武道学研究 (ISSN:02879700)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.18-23, 1987

The aim of this study is to demonstrate logically that Anko Itosu (born in Okinawa in 1830 and died in 1914) formed a nodal point from traditional Karatedo to modern Karatedo by the basis of 2 guideposts.<br>1. The first guidepost, Mr. Itosu's manuscript (10 articles)-3 Elements which form his view of Karatedo<br>(1) Spiritual element The concept of Budo which forms the basis of his Karatedo.<br>(2) Bujyutsu element The concept of Budo which forms the basis of his Karatedo.<br>(3) Physical element-The new viewpoint which forms the foundation of his Karatedo.<br>2. The second guidepost, Itosu's Karatedo-Kata<br>-His parts in the establishment of modern Karatedo<br>(1) He mastered and critically succeeded most of the traditional Karatedo-Kata-then he acquired the materials of his modern Karatedo.<br>(2) He adapted the many traditional Karatedo-Kata and recorganized some medern Karatedo-Kata from them----The period of transition to the modern Karatedo.<br>(3) He created the original modern Karatedo-Kata &ldquo;Pin-An Syodan-Godan&rdquo;, spread Karatedo widely and established the teaching method of modern Karatedo.
著者
諸見里 恵一 譜久嶺 忠彦 土肥 直美 埴原 恒彦 西銘 章 米田 穣 石田 肇
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
巻号頁・発行日
vol.115, no.1, pp.25-36, 2007
被引用文献数
5 8

17世紀から19世紀の農耕民であると考えられる,久米島近世人骨(男性56個体,女性45個体)の変形性脊椎関節症の評価を行った。変形性脊椎関節症の頻度は,男女ともに腰椎が最も高く,女性においては重度化を認めた。次に変形性脊椎関節症を認めた部位として,女性は頚椎で,男性は胸椎下部と,男女間で異なった傾向を示した。変形性脊椎関節症の部位別頻度では,椎体前縁部が後縁部に比べ顕著に高く,男性の胸腰椎では右側縁部が左側縁部より高い傾向を示した。関節突起に関しては頚椎が最も頻度が高く,胸腰椎では低い傾向を示した。また,男性は頚椎,胸椎上部の一部に,女性では第11および第12胸椎で頻度が高く性差を認めた。主成分分析の結果でも,頚椎および腰椎の変形性関節症の頻度が高く,腰椎では椎体前縁部と左右縁部に,頚椎では椎体後方と椎間関節に関節症の頻度が高い傾向を確認した。久米島近世人骨の女性は,頚椎の椎体後方に変形性関節症の頻度が男性と比較して高いことから,民俗学者らによって示唆されている,頭上運搬による体幹直立位での荷重の影響を受けたと思われる。<br>
著者
百々 幸雄 川久保 善智 澤田 純明 石田 肇
出版者
一般社団法人 日本人類学会
雑誌
Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
巻号頁・発行日
vol.121, no.1, pp.1-17, 2013 (Released:2013-06-21)
参考文献数
75
被引用文献数
1 1

頭蓋形態小変異9項目を指標にして,北海道集団(縄文/続縄文人・アイヌ・オホーツク人)とサハリンアイヌ・アムール川下流域集団・バイカル新石器時代人といった北東アジア集団との親疎関係を求め,それにもとづいてアイヌの成立史を論じた。頭蓋形態小変異にもとづいた各集団の親疎関係の当否は,18項目の頭蓋計測値による分析からも確かめてみた。頭蓋形態小変異による分析でも,その結果を確認するために行った頭蓋計測値による分析でも,比較6集団のなかで,北海道縄文・続縄文人に最も近い距離にあるのは北海道アイヌで,北海道縄文・続縄文人が近世北海道アイヌの母体になった集団であるという従来の言説を追認した。頭蓋形態小変異にもとづく距離分析では,比較6集団のなかで,北海道アイヌに最も近いのはオホーツク人で,頭蓋計測値による判別分析でも,オホーツク人の約3割が北海道アイヌに判別された。これらの所見から,北海道アイヌの祖先集団とオホーツク人は,これまで想定されていた以上に,活発な文化的・遺伝的交流を行っていたのではないか,という問題提起をした。オホーツク人の頭蓋形態小変異のほとんどは,その出現頻度が,北海道縄文・続縄文人とバイカル新石器時代人のほぼ中間に位置するので,オホーツク人の原郷をサハリン北部やアムール川下流域集団に求めるにしても,その成立にあたっては,北海道続縄文人も何ほどかの遺伝的な貢献をしていた可能性を指摘した。頭蓋形態小変異を用いた分析では,サハリンアイヌとオホーツク人との距離はきわめて近く,さらに,北海道アイヌとの比較では,サハリンアイヌはアムール・ニブフ集団により近くなった。ほぼ同様の結果が頭蓋計測値の分析からも得られた。これらのことから,北海道からサハリンに渡った終末期の擦文人,あるいは最初期の北海道アイヌが,サハリンに生きながらえていたオホーツク人を同化・吸収し,13世紀にはサハリンアイヌの祖先集団となり,その後,ニブフをはじめ,アムール川下流域集団との混血を繰り返し,近世サハリンアイヌが形成されたと推測した。
著者
石田 肇 下田 靖 米田 穣 内藤 裕一 長岡 朋人
出版者
北海道大学総合博物館
雑誌
北海道大学総合博物館研究報告 (ISSN:1348169X)
巻号頁・発行日
no.6, pp.109-115, 2013-03

The Okhotsk culture spread from southern Sakhalin Island to northeastern Hokkaido Island and the Kurile Islands from the 5th to the 12th centuries AD. The Okhotsk culture developed a considerable maritime infrastructure which was different from that of the native population in Hokkaido. The demographic structure of prehistoric hunter-gatherers contributes to our understanding of life history patterns of past human populations. Age-at-death distribution was estimated using the Buckberry-Chamberlain system of auricular surface aging and the Bayesian approach to discuss whether paleodemographic estimates can yield an appropriate mortality profile of the prehistoric hunter-gatherers in Japan. The age distributions of the Okhotsk revealed low proportions of young adults and high proportions of elderly adults. The results indicated 24.4-51.3% for the proportion of individuals above the age of 55 years. The newly-employed technique of the Bayesian estimation yielded age distributions with significant numbers of elderly individuals, which are contrary to usual paleodemographic estimates. Apical periodontitis, accompanied by considerable wear, was frequently seen in the upper first molars of the Okhotsk people. The bone cavities around the root of the upper first molars were probably caused by chronic apical periodontitis and radicular cyst. The bone cavity was clearly surrounded by sclerotic bone tissue diagnosed as condensing osteitis. Excessive amounts of secondary cementum were deposited on the root surface as a result of radicular granuloma. Pulp exposure through extreme wear very likely resulted in bacterial infection of dental pulp and periapical tissue. Degenerative changes in people of the Okhotsk culture were investigated using adult human skeletons and reconstructing their lifestyle. Findings were compared with materials obtained from skeletons from the medieval Kamakura period and skeletons of early-modern peasants on the Ryukyu Islands, Japan. Severe osteophytes on the lumbar vertebrae were more frequently seen in the Okhotsk males. Degenerative changes of the articular process were also most frequently seen in the lumbar vertebrae of the Okhotsk skeletons. This is a significant contrasted from the high frequency of degenerative changes in the cervical apophyseal joint among Ryukyu peasants. The high prevalence of elbow and knee joint changes in the Okhotsk skeletons was a strong contrast to the high frequency of hip joint changes seen in materials from Kamakura and changes in shoulder and hip joints common in materials from Ryukyu. Because the Okhotsk culture developed a considerable maritime infrastructure, the lifestyle required for sea-mammal hunting and fishing seems to have particularly affected the incidences of severe degenerative changes in the lumbar vertebrae, elbow, and knee. Isotopic signatures in bulk collagen and some amino acids inform of significant differences in the subsistence of each group. Reconstructed diets are taken into consideration to correct the marine reservoir effects on radiocarbon dates for human remains.
著者
百々 幸雄 川久保 善智 澤田 純明 石田 肇
出版者
一般社団法人 日本人類学会
雑誌
Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
巻号頁・発行日
pp.120818, (Released:2012-10-06)
被引用文献数
3 2

北海道の南西部,中央部,および北東部のアイヌにサハリンアイヌを加えたアイヌ4地域集団を対象にして,日本本土と琉球諸島諸集団の地域差と比較しながら,アイヌの地域差とはいったいどの程度のものであったのかを,頭蓋形態小変異20項目を指標にして評価してみた。地域差の大小関係は,スミスの距離(MMD)を尺度として比較した。北海道アイヌ3集団の地域差の程度は,奄美・沖縄・先島の琉球諸島近世人3集団の地域差よりはやや大きく,東北・関東・九州の日本本土の現代人3集団の地域差とほぼ同程度であった。北海道アイヌのなかでは,道北東部アイヌが道南西部および道中央部のアイヌとやや距離を置く傾向が観察された。サハリンアイヌは北海道アイヌから相当程度遠く離れ,その距離(MMD)の平均値は,北海道アイヌ3地域集団相互の距離の平均値の約4倍にも達した。このような関係は,18項目の頭蓋計測値にもとづいたマハラノビスの距離(D2)でも確かめられた。
著者
蔵元 秀一 譜久嶺 忠彦 久高 将臣 西銘 章 石田 肇
出版者
一般社団法人 日本人類学会
雑誌
Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
巻号頁・発行日
vol.117, no.2, pp.55-63, 2009 (Released:2009-12-25)
参考文献数
25
被引用文献数
2 2

久米島近世の成人距骨193個体343側,脛骨151個体227側を用い,距骨蹲踞面形状を5型{ストレート型,内側関節面前方延長型,内側蹲踞面型(複合1),内側蹲踞面型+外側滑車面前方延長型(複合2),内側関節面前方延長型+外側滑車面前方延長型(複合3)}に,脛骨は外側蹲踞面有りと無しの2型に分類した。結果,1)男性は女性より,複合2と複合3の出現頻度が高い傾向にあり,複合2の右側で男性の頻度が有意に高い。2)左右差では,女性の複合1で右側の頻度が有意に高い。3)脛骨外側蹲踞面の出現頻度も男性が女性に比べて高い。4)脛骨外側蹲踞面が存在する時は,距骨に外側滑車面前方延長型を伴うことが多い。距骨および脛骨蹲踞面出現頻度から,久米島近世人骨では男性の方が女性よりも蹲踞姿勢を習慣的にとっていると考えられた。距骨蹲踞面形成を運動学的に解釈すると,内側蹲踞面は足関節が伸展(以下,背屈)することにより,距骨内側部と脛骨下端部に靭帯や関節包などの軟部組織がはさまれて形成される。足関節がさらに背屈すると,距骨外側滑車面前方部と脛骨下端前縁部外側が衝突し,距骨の外側蹲踞面が形成されると思われる。本土の縄文時代,江戸時代および近代人骨よりも,距骨蹲踞面と脛骨外側蹲踞面の出現頻度が低いことから,久米島近世人骨においては習慣的な蹲踞姿勢が少なかった可能性を示した。
著者
細川 崇 橋本 博 平松 真知子 石田 肇
出版者
公益社団法人 自動車技術会
雑誌
自動車技術会論文集 (ISSN:02878321)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.264-270, 2022 (Released:2022-02-11)
参考文献数
10

本研究は,踏み間違いが発生しやすい状況を運転シミュレータで再現し,ペダル操作を分析した.対象とした咄嗟の制動時,足関節を内転させる踏み替え方は,脚全体を動かす踏み替え方より移動量が不足し,アクセルペダル寄りの位置を踏みやすいこと,心理的に動揺した状況では,ペダル踏み込み速度が増加することが示された.
著者
細川 崇 橋本 博 平松 真知子 石田 肇
出版者
Society of Automotive Engineers of Japan
雑誌
自動車技術会論文集 (ISSN:02878321)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.877-882, 2019 (Released:2019-05-24)
参考文献数
8
被引用文献数
1

アクセルペダルとブレーキペダルの踏み間違い事故は社会的問題となっているが,そのメカニズムは明らかとなっていない.本研究は,アクセル・ブレーキのペダル踏み間違えについて,高齢者を対象に基礎的検討を実施した.運転姿勢と操作位置の分析により,姿勢変化が踏み間違い発生の一因となることを示唆する結果を得た.
著者
石田 肇
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.17-45, 1988 (Released:2008-02-26)
参考文献数
59
被引用文献数
26 29

北海道稚内市大岬遺跡から出土したオホーツク文化期に属する20数個体の頭骨の計測値ならびに形態小変異出現頻度を調査し,報告した.頭骨計測値を用いて,大岬人骨を,北海道アイヌ,サハリンアイヌ,モヨロ貝塚人,縄文時代人,現代日本人,中国人,朝鮮人,および北方モンゴロイド諸集団と比較した.その結果,大岬頭骨は,北方モンゴロイドの形態的特徴を持ち,同じオホーツク文化のモヨロ貝塚人と同一集団とみなされる.このオホーツク文化系集団は,計測値では,北方モンゴロイド集団中,アムール河下流域に住むナナイやウリチに近く,またアジアエスキモーにも近い.しかし,アムール河下流域に7-8世紀に栄えた鞍鞨文化のトロイツコエ墓地より出土した頭骨は,オホーツク文化系集団とはあまり類似せず,民族的起源をアムール河下流域のみに求めるのは早計かと思われる.大岬出土人骨の一部にアイヌ的特徴を持つ頭骨が存在することから,北海道アイヌと大岬頭骨の各個体についてユークリッド距離を基にクラスター分析を行なった.それによると大岬の一部はアイヌ集団に含まれ,オホーツク文化期の墳墓出土人骨のうち少数にはアイヌ的形質が見られることが計測値の上からも示唆される.
著者
加藤 博文 佐藤 孝雄 米田 穣 安達 登 石田 肇 蓑島 栄紀
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2016-04-01

昨年度に引き続き、礼文島に所在する浜中2遺跡の調査を継続し、アイヌ民族文化形成過程を考古学的に検証できる資料の蓄積に取り組んだ。特に調査区南側においては、遺跡上層部の堆積層が撹乱されずに良好に残されていることが判明した。層位的にオホーツク文化終末期の元地式土器、擦文式土器が出土している。その上層では、アワビ貝集積遺構が確認された。このアワビ貝集積遺構からは、人為的に変形されたマキリやマレック、船釘など鉄製品が出土している。年代的には、近世江戸期から明治初頭に遡ることが出土資料から推定される。集積されたアワビ貝には、金属製のヤスで刺突した際に開けられた断面四角形の穴が確認できる。アワビ貝の集積遺構は、層位差があることが確認でき、アワビ貝の採集がかなりの幅の持って連続的に行われたことが確認できた。2017年度に出土したオホーツク文化期初頭に属する墓から出土した女性遺体については、形質人類学的な初見が得られ、古代DNA解析も進められている。今後は、DNAの解析を進め、集団系統論からもアイヌ民族の形成過程や、オホーツク文化集団との関係を明らかにする資料の蓄積を図る予定である。民族形成過程に関する理論的考察としては、同時期のヨーロッパにおける集団移住と文化的統合がその後の民族形成に果たした影響について海外の研究者との意見交換を進め、議論を深めた。北海道においても歴史的アイヌ文化に先行するオホーツク文化や擦文文化の成立の背景に集団移住や隣接集団との接触があることが指摘されてきた。本研究では、移住・適応・文化的統合を具体的な事例に即して、理論的検証を進めている。地域集団の動態の背景には、隣接する国家などの政治社会的な動きや、経済交流の影響も大きく、今後検証していく必要がある。