著者
池本 美香
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.27-45, 2011-06-10 (Released:2014-06-03)
参考文献数
7
被引用文献数
2

本稿では,諸外国において,幼児教育・保育政策に関して,特に経済的な観点から,近年どのようなことが議論され,具体的にどのような施策が講じられているのかを紹介し,日本の幼児教育・保育政策の今後のあり方について考える。諸外国では幼児教育・保育政策が,女子差別撤廃条約や児童の権利条約など,女性や子どもの人権に関する国際的な議論を受けて見直されていることに加え,少子高齢化に伴う労働力不足に対して,女性労働力の活用が求められていること,社会保障費用の負担増に対して,子どもの貧困や教育格差が問題視されていること,就学後の教育の効率性を決めるのは就学前の教育にあるという研究成果が注目されていることなどから,経済成長戦略の一環としても注目を集めている。 具体的な改革として,幼児教育・保育政策を救貧的な福祉制度体系から,人的投資を意識した教育制度体系に位置づける国が増えているほか,保育の質を高めることにも力を入れる傾向にある。公的投資の効果を意識した様々な工夫も見られ,保護者が自ら共同運営する施設や祖父母が保育する方式を積極的に活用したり,家庭や地域に対する働きかけを重視したり,保護者の労働時間短縮を進める動きなどが見られる。日本で目下検討されている幼保一体化を含む「子ども・子育て新システム」についても,人道的観点に加え,経済成長戦略の一環としての検討を加えることが期待される。
著者
香川 めい 劉 語霏
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.5-25, 2016-11-30 (Released:2018-03-26)
参考文献数
33
被引用文献数
1

生徒減少期の高校教育機会の確保には,量的不足への対応が求められた拡大期とは異なる位相の問題が孕まれている。この局面では準義務教育機関となった高校に求められる質的に多様なニーズを満たしつつも規模を縮小させることが必要となるからである。本研究は,同じく生徒数の減少に直面しつつある日本,台湾を事例として取り上げ,高校教育機会を維持し続けること,そこで浮かび上がってくる課題について公私関係を軸に検討する。 日台ともに公立高校の供給不足を私立高校が補完して高校拡大が達成されたため,私立高校はセミ・パブリックな性質を持つようになった。加えて,日本では都道府県に公私協議会を設置して入学定員の按分が行われてきた。それは量的変動のショックを負担し合うことで教育機会の安定的な供給に寄与した。しかし,生徒数が減少し続ける中,定員の按分方式では私立高校の経営が維持できなくなる事態が生じつつある。一方,台湾では2014年の「十二年国民基本教育」実施に伴い,義務教育が実質的に高校まで延長された。この政策は教育機会の平準化や質の均質化を目指すものであるが,少子化の進行,地域間格差などの現実に即したものではない。特に地方で私立職業高校の存続を難しくし,政策の意図とは裏腹に教育機会の平等が担保されない事態が生まれつつある。両社会とも縮小局面で,私立高校の役割をふまえ機会の平等をどう保障していくかが問われている。
著者
梅崎 修
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.71-90, 2016-05-31 (Released:2017-06-01)
参考文献数
33

本稿では,取引費用という概念を使って人材と取引制度の分類を行い,教育とキャリアの接続を考察した。まず,取引費用の大小と市場取引と組織内取引の比較の観点から人材と取引制度を「市場型」「指令経済型」「ネットワーク型」「内部労働市場型」に分けた。さらに,その分類を踏まえて市場と雇用制度に関わる変化を「個別化」「市場化=非正規化」「バウンダリーレス化」「非定型化」に分類した。この分類によって,(1)「市場型」と「ネットワーク型」を区別せずに市場重視を語る限界と,(2)取引費用を過小評価し,市場取引や組織内取引を過度理想化する限界を考察した。具体的には,職業教育重視の高等教育改革案の問題点を検討し,「ネットワーク型」の中で脚光を浴びている曖昧な能力や働き方が,同じ市場取引という理由で「市場型の人材」の中に「密導入」され,さらにその能力が市場で観察・伝達可能であると理想化されていると説明した。実際の問題は,「市場化=非正規化」と「非定型化」によって生み出された「内部労働市場から排除され,なおかつ市場取引費用は高く,ネットワークも活かせない低い熟練の人材」が経験学習の「場」も喪失していることである。今後の高等教育機関の役割として,社会の中にネットワーク構築の「場」となることをあげた。
著者
伊佐 夏実 Natsumi ISA 大阪大学大学院 Graduate School Osaka University
雑誌
教育社会学研究 = The journal of educational sociology (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.125-144, 2009-05-31

This paper examines and presents the characteristics of the "emotional labor" of teachers by analyzing interviews with ten elementary teachers. Moreover, it discusses the notion that the emotional labor of teachers is a teacher strategy. The concept of emotional labor, introduced by Hochschild (1983), contends that the emotion of workers becomes commoditized when these acts are sold for a salary and thereby estranged from the individual. Although Hochschild emphasizes the negative aspects of emotional labor, I contend here that the emotional labor of teachers may have strategic aspects even if it is compulsory. The differences between Hochschild's argument and that put forward by this author arise from two points. The first depends on the autonomy of work. The second depends on the aspect of emotional labor as a means by which teachers carry out their core classroom purposes. In this paper, I present a concrete analysis of the latter point. In Hochschild's argument, the commercialization of feelings and their instrumentality are dealt with as identical things, but the two aspects should be distinguished. I insist that the emotional labor of teachers has an instrumental aspect rather than one of commercialization. That is to say, for emotional labor in teaching it is important to consider how teachers manage pupils' emotions. Japanese teachers hope that pupils will grow up not only academically but also emotionally. In addition, a teacher's instruction is based on working on pupils' feelings. Thus teachers need to manage both pupil's feelings and their own in order to build relationships in which the parties are linked together by emotional bonds in order to enable teachers to control classrooms. Because of this, teachers are required to carry out emotion management of their work, and in this sense they constrain their emotional labor. However they carry out emotional labor strategically by changing the meaning of heteronomous emotion rules into valuable instruments for their pedagogical purposes. This strategic aspect of the emotional labor of teachers is a skill acquired in the process of socialization as teachers. Thus negative aspects do not reside in the characteristics of the emotional labor of teachers, but are caused by aspects (compulsory/strategic) which are emphasized when a teacher carries out emotional labor. However, as Hochschild shows, emotional labor becomes negative and draining when poor working conditions make it impossible for teachers to perform their work well. Accordingly, it is necessary to conduct further studies concerning the emotional labor of teachers in relation to the circumstances surrounding the teacher.
著者
安東 由則
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.99-116, 1997-05-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
57
被引用文献数
1 1
著者
嶋内 佐絵
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.303-324, 2014
被引用文献数
1

本研究の目的は,日本と韓国の高等教育における英語プログラムへの留学に関し,先行研究による国家的枠組や経済的視点を中心としたプッシュ・プル要因が提示できなかった留学動機を明らかにし,東アジア地域における新しい留学の形を留学生の視点から描き出すことである。研究方法として,日韓の名門国私立大学における9つの英語プログラムで,東アジア諸国からの正規留学生への質的調査を行い,その留学動機と留学の要因を多面的に探った。インタビュー分析の結果,留学に至るまでの要因は,既存の国家の枠組を基本にしたプッシュ・プル要因だけでなく,西洋英語圏における高等教育の優位性に基づくセカンドチャンス型やステッピングストーン型の要因など,分析枠組における「西洋英語圏」との比較軸の必要性が示唆された。また,国際化したキャンパスや事前の留学経験の中で生まれた人々とのつながりなど,ナショナルプッシュ・プル要因の多様化が見られた。さらに,これらの英語プログラムが「地域」という留学空間を含有していることでリージョナルなプル要因が生まれ,高等教育の地域化と「東アジア周遊」という新しい留学の形をもたらしていることも示唆された。このような留学生移動と多様化する留学動機を踏まえ,日韓の英語プログラムがどのようにしてその魅力を打ち出し,留学生を惹き付けて行くことができるのか,さらなる研究と議論が望まれる。
著者
薮田 直子
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.197-218, 2013

本稿は,公立中学校とNPOでのフィールド調査から,外国にルーツを持つ生徒のアイデンティティに関わる教育実践の現状を描くことを目的とする。<br> 調査地では,近年ベトナムルーツの生徒が「通名」を使用する事例が散見される。そこで具体的に「本名を呼び名のる実践」を挙げ,教師や支援者が生徒の「通名」にどう向き合うかを描く。分析から2つの「転換」が明らかになった。<br> まず,従来の実践が象徴としてきた「通名から本名へ」という物語の揺らぎである。在日コリアン生徒を対象とした実践では,本名を表明することが重視されていた。しかしダブルの生徒にとって,また歴史的経緯を別とするベトナムルーツの生徒にとっての表明すべき「本名」とは何か。ここから実践目標に転換が生まれていると位置付けた。<br> 次に浮かび上がる2つ目の転換は,名乗りという主体的な行動に介入することへの配慮である。本人や保護者の決定に介入しない実践スタイルは,「特定の名乗り:民族名」を過度に期待することで生まれる「教条的」な関わりを避けたいという実践手法の転換であった。<br> 以上の分析から,オールドカマー,ニューカマー両者を対象に据えた新たな実践の形が明らかになった。また公立学校と同校区内のNPOを事例とすることによって,実践の中心的役割を担ってきた2つの場を比較検討することができた。こうした教育実践の現状を記すことは,「在日外国人教育」の発展に有益な視点を提供すると考える。
著者
佐久間 亜紀
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.97-112, 2010-06-30

本稿では,90年代以降の教員養成カリキュラムの変容とその問題点を,高等教育全体の改革動向に位置づけて整理した。先行研究において,教員養成論と高等教育論は乖離しがちであり,近年の高等教育改革が教員養成カリキュラムに及ぼした影響は,充分に検討されてこなかった。高等教育全体に市場原理を導入する90年代以降の改革は,教員養成大学・学部と教育委員会の「連携」を「融合」ともいえる状態にまで至らしめ,大学教育の質を向上させるという本来の意図とは裏腹に,教員養成力リキュラムの「矯小化」や「非学問化」を進行させていた。また,90年代にいったんは規制緩和に向かった教免法の改革は,00年代以降「再統制化」の傾向を強め,教員養成カリキュラムの「規格化」を進行させていた。そして教員養成大学・学部は,学生の成長を支援し教員を「養成」する機関から,国や地方自治体の求める規格や要望にあわせて教員を「供給」する機関へと変質しつつあった。これらの変化から,改革の意図とは裏腹に,輩出される教員の「質」が低下している可能性を指摘した。最後に,大学とは何かという共通理解が失われた高等教育界の現状を踏まえれば,先行研究の鍵語とされてきた「大学における教員養成」「開放制」という二語では,もはや近年の教員養成の変容を捉えきれなくなっていることを指摘した。その上で,今後の教員養成研究は,高等教育論に充分根ざしつつ探究される必要があることを論じた。
著者
内田 良
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.129-148, 2005-05-30

The aim of this study is, through a secondary analysis of the number of child abuse reports filed with children's welfare centers, to examine activities to prevent child abuse in Japan. The number of cases of child abuse, filed in 47 prefectures and 12 ordinance-designed major cities, can be analyzed by focusing on the regional differences among them. Adopting the perspective of social constructionism, this study regards the number of child abuse reports as a rate of discovery rather than incidence, and analyzes the differences between urban areas and rural ones through some variables. The main findings can be summarized as follows. (1) Especially since the latter half of the 1990s, urban areas have been carrying out activities to prevent child abuse (in this study, termed "child abuse discovery activities"), and all areas have been converging on an average discovery rate. (2) In urban areas, new types of child abuse (sexual abuse, emotional/psychological maltreatment, and neglect) were discovered a few years later than physical maltreatment. In 2001, the first whole year when child abuse prevention law was put into force, all types of maltreatment were discovered relatively higher in urban areas. (3) Neighbors, acquaintances/friends and medical facilities have been discovering child maltreatment in urban areas significantly and particularly in 2001 most urban public organizations have higher rate significantly. In Japan, child abuse is often discussed in the context of contemporary and urban ways of life, such as "the weakening of local bonds and blood relationships," "increase in nuclear families" and "psychological troubles arising in the course of growth and development." However, as stated above, since the latter half of 1990s, urban areas have been the forerunners of child abuse prevention activities in Japan. Therefore, the way of life in urban areas cannot be identified as a causal factor of child abuse. Rather, the great interest that urban people, medical facilities and public organizations have in child abuse is behind the incidence of "abuse" in urban areas.
著者
伊佐 夏実
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.125-144, 2009-05-31

This paper examines and presents the characteristics of the "emotional labor" of teachers by analyzing interviews with ten elementary teachers. Moreover, it discusses the notion that the emotional labor of teachers is a teacher strategy. The concept of emotional labor, introduced by Hochschild (1983), contends that the emotion of workers becomes commoditized when these acts are sold for a salary and thereby estranged from the individual. Although Hochschild emphasizes the negative aspects of emotional labor, I contend here that the emotional labor of teachers may have strategic aspects even if it is compulsory. The differences between Hochschild's argument and that put forward by this author arise from two points. The first depends on the autonomy of work. The second depends on the aspect of emotional labor as a means by which teachers carry out their core classroom purposes. In this paper, I present a concrete analysis of the latter point. In Hochschild's argument, the commercialization of feelings and their instrumentality are dealt with as identical things, but the two aspects should be distinguished. I insist that the emotional labor of teachers has an instrumental aspect rather than one of commercialization. That is to say, for emotional labor in teaching it is important to consider how teachers manage pupils' emotions. Japanese teachers hope that pupils will grow up not only academically but also emotionally. In addition, a teacher's instruction is based on working on pupils' feelings. Thus teachers need to manage both pupil's feelings and their own in order to build relationships in which the parties are linked together by emotional bonds in order to enable teachers to control classrooms. Because of this, teachers are required to carry out emotion management of their work, and in this sense they constrain their emotional labor. However they carry out emotional labor strategically by changing the meaning of heteronomous emotion rules into valuable instruments for their pedagogical purposes. This strategic aspect of the emotional labor of teachers is a skill acquired in the process of socialization as teachers. Thus negative aspects do not reside in the characteristics of the emotional labor of teachers, but are caused by aspects (compulsory/strategic) which are emphasized when a teacher carries out emotional labor. However, as Hochschild shows, emotional labor becomes negative and draining when poor working conditions make it impossible for teachers to perform their work well. Accordingly, it is necessary to conduct further studies concerning the emotional labor of teachers in relation to the circumstances surrounding the teacher.
著者
星野 周弘
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.61-72,en179, 1975

1.Two phncipal approaches to the problem of definitions are usually recognized as the legal and the behavioral or sociological. There seems to be extensive agreement that delinquency consists of behaviors recognized as undesirable or behaviors formally prohibited by law. However, a number of questions always arise as to this seemingly simple way of defining term. One of such questions is concerned with the problem of what is involved in the idea of delinquency. Is it a single act or must there be a series of related acts, a pattern ofbehavior in order to establish the fact of delinquency? There are also questions about whois a delinquent and when one becomes a delinquent. Whether causal analysis of delinquency is possible depends on how these basic questions are answered.<BR>2. Three fundamental perspectives on delinquency dominate the current scene. They are strain or motivational theories, control or bond theories and cultural deviance theories. Although most current theories of delinquency contain at least two and occasionally all three of these perspectives, reconciliation of assumptions is very difficult. Each investigator should begin framing hisperspective in order to analyze causes of delinquency.<BR>3. There are three principal requirements that an empirical investigator must meet in order to be able to say that A causes B:<BR>1) A and B are statistically associated.<BR>2) A is causally prior to B.<BR>3) Theassociation between A and B does not disappear when the effects of other variables causally prior to both A and B are removed.<BR>4. There have been many arguments among proponentsof "general theory" or "multiple factor" approaches. Multiple factor adherents should state more explicitly the reasons for their choice of particular itemsfor analysis and the general theorists should examine and make more extensive use of data.The causes of delinquency must be discussed more in probabilistic terms than in deterministic models.
著者
森 一平
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.153-172, 2014-05-31 (Released:2015-06-03)
参考文献数
20

本稿の目的は,授業会話における順番交替組織の一側面を明らかにすることである。小学校の授業会話においては,教師から児童たちへと発言の順番が移行するさい,主に一斉発話と挙手によってこれが成し遂げられる。しかし両者は,ともに同じく教師の質問によって児童たちに要求される。では,授業会話の参与者たちはいかにしてこの2種類の要求を区別し,またいかにしてそれに応えているのだろうか。本稿はこの問いを解くことを通して,上記の目的を果たそうとするものである。 分析の結果明らかになったのは次のことである。第1に教師は,基本的にはsK+質問と sK+/K-質問という2種類の質問を使い分けることによって,一斉発話と挙手の要求をそれぞれ区別していた。第2に児童たちは,事前の発言をきちんと聞いていたことを示しうるような適切なタイミングで挙手を開始していた。第3に,教師の要求に対して児童たちが誤った,あるいは分散した反応を示してしまった場合には,これを事後的に適切な反応へと方向づける付加的な技法が用いられていた。 一斉発話と挙手は授業会話において,その限られた発言の機会を児童たちへとなるべく公平に行き渡るよう分配するための,あるいは授業全体をより効果的なしかたで組織するための,有益な道具として用いることができる。本稿の知見は,この2つの道具を区別し使い分けるための,基礎的な技法を明らかにしたものである。
著者
朴澤 泰男 白川 優治
出版者
THE JAPAN SOCIETY OF EDUCATIONAL SOCIOLOGY
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.321-340, 2006
被引用文献数
1

This article explores factors that affect rates of financial aid receipt among private institutions of higher education in Japan, with the aim to understand whether academically well-prepared and needy students are awarded financial aid in those institutions. Using a survey dataset of chief financial officers of Japanese private four-year colleges and universities, an ordered logistic regression analysis of the rates of institutional aid receipt including tuition waivers and a linear multiple regression analysis of the percentage of recipients of Japan Scholarship Foundation (JSF) Scholarship Loans were conducted. The regression results are as follows:(1) the rates of institutional aid receipt are related to the age of the institution and the selectivity of students, but not to regional income levels or tuition amounts. The percentage of aid awardees is also not related to instructional costs. In institutions where many students receive institutional aid, there are a significant number of students who borrow JSF Type I Scholarship Loans (Interest-Free Loans).(2) While the rate of JSF Type IScholarship Loan recipients is related to the historical background of the institution, selectivity of students, and regional income levels, there is no correlation between JSF Type I Loan recipient rates and tuition. The type of departmentsand schools in an institution is also not relevant to that figure.(3) While the rate of JSF Type II Scholarship Loan (Interest Bearing Loan) recipients is not related to the historical background of an institution, the selectivity of students, regional income levels, tuition, and instructional costs affect it. The percentage of JSF Type I Scholarship Loan awardees is positively correlated to that of JSF Type II Scholarship Loans.
著者
松岡 亮二 中室 牧子 乾 友彦
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.89-110, 2014
被引用文献数
3

<p> P. ブルデューの文化的再生産論は日本社会においても教育達成の格差生成メカニズムの一つとして研究され,各家庭における文化資本の偏在,それに家庭の文化資本と子の教育達成の関係について知見が蓄積されてきた。近年,教育選抜の早期化によって社会階層と教育達成の関連強化が懸念されているが,早期家庭内社会化によって文化資本が世代間相続する過程については未だに実証的に明らかにされていない。そこで本稿は厚生労働省による21世紀出生児縦断調査の個票データを用い,文化的行為である読書に着目し,文化資本の世代間相続という動的な過程をハイブリッド固定効果モデルによって検討した。<BR> 分析の結果,父母の学歴と世帯所得は,父母それぞれの一ヶ月あたりの雑誌・マンガを除く読書量という文化的行為を分化していた。また,これらの学歴と世帯所得によって異なる父母の読書量は,子ども間の読書量格差と関連していた。そして,父母の読書量の変化は,観察されない異質性を統制しても子の読書量の変化と関係していた。親の学歴は制度化された文化資本,世帯所得は経済資本であり,それらの資本量の差が読書行為を分化し,親子の文化的行為が関連している──小学校1,2,4年生の3時点の縦断データに基づいた本稿の結果は,子ども間の文化資本格差,それに先行研究が考慮しなかった観察されない異質性を統制した上で,文化的行為の世代間相続を実証的に示している。</p>