著者
李 セイ
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.D15, 2016 (Released:2016-04-23)

本発表では日本東京都北区王子市での調査中に出てきた「カワイイ妖狐」について語りの読み解きから、現代日本都市部における「大衆的な妖狐」の認識について試論を展開する。「カワイイ妖狐」の特徴を捉え、「民俗的キツネ」と「学術的キツネ」から受け継いだ連続性を検討する。また、同じく「妖狐」として扱われているが、おおむね同じ存在ではないと主張する。
著者
佐藤 斉華
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.73-95, 1998-06-30

民族問題/ナショナリズムという表現が示す問題群は, 国民国家の規約体系を挟むそれ「以前」/「以後」の「民族」の動態を考察することを要求する。本稿は, 1990年の民主的体制への転換以降, ネパール複合社会を縦横に走る社会・宗教・民族的境界がより顕在化/問題化している状況を受けつつ, 北東ネパールの一地域に由来する「ヨルモ」という民族範疇の変容過程を検討することにより, その一断面を切り取ろうとするものである。「ヨルモ」は元来地名であるが, 伝統的に, 文脈に依り指示範囲を微妙に変えつつその(主な)住民や言語にも柔軟に適用されていた。近年カトマンヅの一遇に形成されたヨルモ・コミュニティのなかで, 従来とは性格を異にする「ヨルモ」の用法が特に90年代に入り急速に広まっている。即ち固定的な社会文化的実体=民族の名としての使用であり, 「ヨルモ」をめぐる社会・文化・言語・地理的諸境界間のズレは克服されるべき課題となったのである。新たな用法のなかでは, このズレにどう対処するかにより二つの方向性が現れた。「ヨルモ」により多くの成員を取り込もうとし結果として文化的異質性の拡大するのも黙認する拡大派と, 「ヨルモ」の人口がたとえ目減りしても文化的均質性の水準維持または向上を優先しようとする純粋派であり, 両者の間を「ヨルモ」の境界は揺れ動くことになる。「ヨルモ」は, 伝統的用法に加えて移住地での議論の過程を包含し, 幾重もの位相がずれながら重なってせめぎあう重層的かつ動態的な様相を呈することになる。こうした「ヨルモ」をめぐる事情は, 国民国家概念の浸透にされされた少数民族の反応と対応の一例であり, またその浸透が民族的範疇についての意識と言説の複雑なダイナミクスにいかに寄与するかということの例示ともなっているのである。
著者
松田 有紀子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.143-143, 2012

本発表では、京都市内の5つの花街(祇園甲部・祇園東・上七軒・先斗町・宮川町)に共通する、お茶屋の商業上の慣習に注目することで、「女の街」の現在を生きぬくための技法を考察することを目的とする。 慣習がお茶屋の商売感覚に由来することを明らかにした上で、これを「安全な商売」を実現するために客との長期的で親密な関係に依拠して商売を営む感覚と定義し、その意義と現状における変容を指摘したい。
著者
小田 亮
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.272-292, 2009-09-30
被引用文献数
1

本論文で提示する「二重社会」という視点は、レヴィ=ストロースの「真正性の基準」の議論の帰結、つまり「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という、異なるあり方をした二つの社会を二重に生きている」というものである。本論文では、この「二重社会」という視点が、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する日常的な実践と、そうした実践を可能とする社会的連帯の基盤となる煩わしさと反復による社会関係の評価を可能とすることを示す。すべてを交換可能なものとして一般化するグローバリズムやネオリベラリズムに対抗するために、比較可能で置換可能な差異としての特殊性に依拠することとそれへの批判は「一般性-特殊性」の軸にそってなされる。また、それを批判するネグリ/ハートの議論も同じ対立軸上でなされている。ここで見落とされてきたのは、ドゥルーズが一般性と対比させる「単独性」と「反復」であり、それは「一般性-特殊性」の軸とは異なる「普遍性-単独性」の軸に位置する。これらの軸はレヴィ=ストロースの真正性の水準の議論における「非真正な社会」と「真正な社会」にそれぞれ対応する。「真正な社会」と「非真正な社会」とでは、同じ貨幣や行政機構などの媒体が、質的に異なったものとなる。それらの一般化された媒体は、真正な社会において、一般性を剥奪される。この一般化された媒体を変換する実践は、人類学では、J・パリーとM・ブロックらによる「貨幣を飼い慣らす」実践として議論されてきたが、それらも、「一般性-特殊性」の軸にそった議論にとどまっている。「二重社会」の視点から見直すことで、こうした実践が「普遍性-単独性」の軸にそって非真正な社会との境界を維持するものであるという点が明らかとなる。このように「二重社会」という視点は、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する多様な実践の意味解釈を可能とする。
著者
安藤 直子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.344-365, 2001-12-30

本論文においては、岩手県盛岡市の2つの祭礼「チャグチャグ馬コ」と「さんさ踊り」を題材に、祭りが「伝統性」保持と観光化という対立する文脈において変化していく複雑なプロセスと、そのプロセスの中での祭りに携わる人々の「伝統」保持及び観光化への関わり方を分析した。その結果、担い手による多様な「オーセンティシティ(真正性、本物性)」追求の様相が確認された。従来の観光人類学においては「ゲスト(観光地を訪れる人々)」「ホスト(観光を担う人々)」といった二項対立の枠組み上で、ゲストとホストとの関わりが議論され、オーセンティシティ概念も同様の枠組み上で論じられてきた。ゲストが「オーセンティシティ」を追求し、一方ホストは「疑似イベント」を創出しゲストに提供すると論じられ、主にゲストに主体性をおいた「オーセンティシティ」論が展開されてきた。しかしながら、2つの祭りにおいてはホストが訪問者を制して主体性を獲得し、多様な方法でオーセンティシティを主張する様相が確認された。担い手によるオーセンティシティの追求は、ゲストによるそれとは比較できないほど重要かつ切実な問題であると言える。なぜなら、担い手にとってオーセンティシティの追求は、地域社会における中心的な地位の追求と重なっているためである。2つの祭りにおいては、オーセンティシティにより近いと主張し、担い手内部でそのように評価されるほど、祭りの中で中心的な位置を占めることができる。祭り運営組織の役職に就き、運営上の主導権を獲得することは、結果的に担い手の地元内部における社会的プレステージ(威信)を上昇させる。観光化が進むほどにこの傾向は強まり、ホストによるオーセンティシティの主張は活発化し、主張の方法も複雑化している。本論文においては、観光の現場でホストがオーセンティシティを追求する理由を議論し、その概念を深めることを目的とする。
著者
西村 大志
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.17-17, 2008

人体模倣の多様な現場(具体的にはダッチワイフ、ドール、人体模型、ヒューマノイド型ロボットなど)では、どこまでも人間そっくりをめざす技術と、そこから独自の距離をおく手法が開発されてきた。また、人体模倣が精緻をきわめるなかで、「性」の問題が浮上してきた。これを、具体的に考察することで、人工身体における「性」の利用と隠蔽の問題を明らかにする。
著者
今関 光雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.367-387, 2003-03-30

本稿は、「ファン・コミュニティ」の文化人類学的研究というテーマの下に、あるラジオ番組のリスナーたちの行っている「集い」を、フィールドワークによる調査研究に基づいて分析し、オーディエンス/ファン同士のコミュニケーションの重層性を明らかにするものである。リスナーが番組に「告知」を投書し、行う集会を「集い」と呼ぶ。実際に出会うことで友人関係を構築しようという試みである。そこでは、同じ番組に関する情報を持つ「比較可能で代替可能な者」同士の関係を、具体的な「個別性を持った顔のある誰か」同士の関係に変換していくという実践が見られる。これは、メディアを介して作られたファン・コミュニティにおけるコミュニケーションを情報交換のみの関係として語ってきた「おたく」論の一面性を批判するものである。また、オーディエンス研究において「受け手」の能動性を考える場合、受け手の行う「流用」がよく議論される。ここで明らかになるのは、その「流用」がメディア上だけで、すなわち顔の見えない「サイバースペース」だけでなされるのとは違って、「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりにおいてなされることが重要であるということである。本稿は、そのような顔の見えない「サイバースペース」における繋がりを「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりに変換し、コミュニケーションの重層性を創りだしていることに注目する重要性を明らかにする。それらの実践がメディアによる人びとの分断や抽象空間としての「国民文化」への回収に抵抗する「流用」であるということを示唆する。
著者
内堀 基光
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.373-389, 2009-12-31

私にとっての民族学/人類学は、極ミクロと極マクロという2つの認識地平からなる学問領域である。この2つの地平を無理に接合させる必要もなく、またその間を安易に埋める必要もない。むしろその断絶と乖離を嘉し、それとして見つめることのなかに、人間の存在と活動に関して、他の隣接学問領域のそれとは異なるこの学問独自の接近法があると考えている。これを前提にして、文化人類学会賞受賞の機会を利とし、より広い人類学の領域のなかで「資源」という研究対象がどのような位置を占めるのか、それを、死、「もの」、民族、進化という4主題にからめて語ることにする。資源はこれらの主題に挟まれて析出してくる対象とみなすことができる。進化という極マクロの時間尺度から、民族と死というそれぞれが類と個(ミクロ)を結ぶ回路に関わる、たがいに密接に結びついた2主題を経て、4主題のなかではより直接的に資源に関わる「もの」に至る。「もの」の研究に人間中心主義からの脱却を展望し、進化、民族、そして死からなる主題の正三角形のなかに、消滅というかたちで頂点を極めるようにみえる形態生成の過程を追究するのが、民族学/人類学研究における私の願望である。
著者
森 雅雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族学研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.p229-236, 1988-09
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.265-283, 1991-12-30

華北村落では,異なる宗族でも,あたかも同一宗族であるような擬制的世代関係を形成している。本稿ではこれを「世代ランク」と称するが,近隣者間の擬制的世代関係である。世代ランクの社会的機能は,挨拶・年始回り・擬制的親族関係・席順・村民資格の取得・社会的威信がある。世代ランクは,宗族の世代関係と,姻戚の世代関係の組み合わせによって形成され,親族としての交際が消滅した後でも,世代関係が近隣者の間に残存したのだろうと考えられる。中国全体で,近勝者への親族名称を拡張することは普遍的である。しかし親族名称の拡張原理に年齢が関与しない世代ランクの習俗は,村落の成員権と強く結びついている。これらの特徴は,華北村落のみに観察される。その社会的要因は,華北村落の共同体的規制の強さと,村落内の統合性の高さにあるのだろう。世代ランクは,社会集団ではなく,社会的カテゴリーである。
著者
関 一敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.402-407, 1997-12-30
著者
田村 和彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.C16, 2016 (Released:2016-04-23)

本発表は、漢族社会の親族研究の蓄積にたち、東南アジアの宗教・社会組織に関する議論において洗練された「親密性」と「公共性」(黄・日下:2014)を補助線として、「広場舞」と呼ばれる、近年の中国において急速に普及した集団ダンスという、従来、人類学的研究がほぼなされてこなかった、流動的で非組織的な対象について、その中核的な人物を中心とする関係性構築のあり方について考察を試みるものである。
著者
福井 栄二郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.47-76, 2005-06-30 (Released:2017-09-25)
被引用文献数
1

本稿は、筆者が調査を行ってきたヴァヌアツ共和国・アネイチュム島の事例をもとに、彼らの伝統文化の真正性が変動する、その様態を明らかにするものである。アネイチュム語で「ネテグ(netec)」とは土地保有集団、親族集団を指し、一般的には父系の理念で成員権が決定される。またネテグは個人名の保有集団としても機能している。つまりあるネテグにはつけてもよい個人名が決められていて、それらを他のネテグの成員に命名してはいけないとされる。しかし実際には、非男系成員の編入も、個人名の他ネテグへの拡散も、相当数存在している。たしかに理念には抵触するのであるが、これまでそうした事象は、事実上「黙認」されていた。ただ近年になってこのような「黙認」の事象が引き金となり、土地問題が生じてきている。そこで彼らはこれまで「黙認」だった事象を「間違った」ことと捉え直すようになり、今後は禁止しようとしている。つまりある事象に対して「黙認」から「禁止」へと真正性が変動したのだと考えられる。このように、ある伝統的事象が「正しい」とか「間違っている」と考える際、彼らが参照にしているのが、西洋人がやってくる以前の「かつての姿」である。そこで本稿では、島民たちの考える「かつての姿」を歴史資料を用いて多面的に考察するが、彼らの認識は必ずしも「事実」ではないのかもしれない。ただ重要なことは、それが「事実」かどうかなのではなく、伝統文化をはかるときのメルクマールとして実際に機能しているという点である。つまり彼らの「歴史」はひとつのリアリティを有しているし、換言すれば、伝統文化とは彼ら自身の歴史認識を抜きに理解することができないのだと結論づける。
著者
渡辺 公三
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.492-504, 2000-03-30 (Released:2018-03-27)

近代人類学の始まりとして1859年におけるパリおよびロンドンでの学会創立の日付がしばしばあげられる。パリ人類学会の中心的な創立者ポール・ブロカは創立直後におこなった「フランスの民族学的研究」という基調報告をケルトやキムリスなどのraceがフランスのnationを構成することの論証にあてている。国民の人種構成を論証するために使われたデータは, 当時ほぼ唯一の全国的な統計資料だった徴兵検査資料, とりわけ身長統計である。身長という粗雑な特徴に満足していたわけではないブロカは, この報告の後, 晩年まで人種的差異の実証的根拠づけに多くの力を注ぐことになった。その後ブロカの洗練した身体計測技法は, ブロカの不肖の弟子でもあったパリ警視庁に勤務するベルティヨンによって意外な用途を発見された。身体の各部分のサイズが全く同じ成人は稀であり, 身体各部の正確な計測値を一定のしかたで分類のエントリーとして使うことで, 名前にも顔にも頼る事なく個体を個体として同定できるというわけである。この着想は軽犯罪の急増に悩む世紀末フランス市民社会にきわめて有効な身元確認技術を提供することになった。ここには国民国家の根幹をなす軍隊の人員管理技術の整備とともに, 人類学的な国民の人種的同一性確定手法が洗練されてゆき, その手法が警察の犯罪者同定技術として利用されていったという過程があったことが示されている。統治技術から人類学へ, そしてまた人類学から統治技術へという人目にはつきにくい知の技法の往還が見出されるといえよう。この小論ではフランスにおける, 今世紀初頭までのパリ人類学会の動向を, 軍および徴兵制との関係を中心に簡単に検討し, とりわけ徴兵制の変化が, 人類学会で一定の学問的な言説としてどのように議論されていたかについて検討する。それがどのような問題構成の枠のなかでおこなわれ, 人類学固有の問題としてどう受け止められていたのか, そしてそこにわれわれは19世紀人類学のどのような存立条件を見極められるのかを見ていくことにしたい。
著者
砂井 紫里
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.593-612, 2019 (Released:2019-05-12)
参考文献数
36
被引用文献数
1

本稿の目的は、台湾を対象に、ムスリムが少数派を構成する社会においてムスリムと非ムスリムを取り込み展開するハラール認証制度と、制度を活用する事業者と消費者の動向を考察することである。他の非イスラーム地域と同様に、台湾でもハラール認証制度は、非ムスリムのハラール産業への参入を促進しており、その点で制度はムスリムと非ムスリムを架橋する。他方で台湾の中国回教協会のレストラン認証では、事業主がムスリムか非ムスリムかに応じてそれぞれムスリム・レストラン/ムスリム・フレンドリー・レストランと認証カテゴリーを分けている。このカテゴリーの分化は、ムスリムと非ムスリムの違いを可視化している。本稿ではまず、ハラール認証制度が自己と他者を連接し差異化するという両面性を有していることを指摘し、新たに創造された商品・料理やサービスがムスリムと非ムスリムを架橋しつつ弁別していることを明らかにする。従来、中国語圏のムスリムである回民は、ハラールを含意する語として清真(qingzhen)を用いてきた。人びとの生活の中の清真は、ムスリムにとって非ムスリムと自己とを弁別するアイデンティティの根幹となってきた。だが、近年のハラール産業に関わる場面では、清真はもっぱら「イスラーム法における合法」を意味するアラビア語のハラールの訳語として限定的に用いられるなど、清真とハラールの意味は、重なりながらもずれがある。他方で台湾の現代ハラール産業では、広く人と人との取引や相互行為において重視されてきた「誠信(誠実と信頼)」の精神や、食の選択肢の一つとしての「素食(ベジタリアン食)」、そうした食の対応にみられる「弾性(弾力性)」といった地域独自の価値観や食文化との接合もみられる。本稿では、台湾のハラール認証が、自己と他者を弁別しながらも、台湾独自の価値観を包摂しつつ、非ムスリム事業者、ムスリム団体、政府関係機関を巻き込み展開する動向を明らかにする。
著者
村津 蘭
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.635-653, 2022-03-31 (Released:2022-07-20)
参考文献数
54

本論は、ベナン共和国南部のペンテコステ・カリスマ系教会のデリヴァランス・ミサにおける憑依を対象に、妖術師、在来信仰の神々が「悪魔」として現れ、現実に参与する様態を情動と想像力、記憶に着目して明らかにする。近年興隆するサハラ以南アフリカのペンテコステ・カリスマ系教会では、妖術師を始めとする在来の諸霊を悪魔とみなし、悪魔との闘いを強調する傾向が強く見られる。先行研究はその現象を政治・経済の急激な変動や、それに伴う苦悩を説明するイディオムとして理解し、身近な出来事と社会背景を接合する想像力として描く傾向があった。しかし、想像の様態を現実理解のための言説として扱うことは、現実自体が想像と様々な人間・非人間の絡まり合いの中で構成されているというダイナミクスを捨象する危険性を孕む。これらの点を踏まえ、本論は現実を形作る知覚に作用する想像力の特徴に焦点をあて、それが働く条件と過程における調整のあり方を、情動と環境の応答の中から明らかにする。それにより、悪魔・妖術との闘いという実践は、妖術師という想像を使って社会・政治の問題を説明するという単純なものではなく、想像、記憶、そして情動が応答的に動く中で妖術師や霊的存在をモノとして立ち上げるという過程であり、またその立ち現れた悪魔・妖術師が新たな現実を切り開く主体として参入することを許していく過程だと論じる。
著者
橋本 裕之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.537-562, 1998 (Released:2018-03-27)

近年, 人文科学および社会科学の諸領域において文化の政治性や歴史性に対する関心が急速に高まった結果として, 博物館についても展示を巨大な言説の空間に見立てた上でテクストとしての展示, もしくは表象としての展示に埋めこまれたイデオロギー的な意味を解読した成果が数多く見られる。だが, 展示をとりあげることによって表象の政治学を展開する試みは, 理論的にも実践的にも限界を内在しているように思われる。そこで決定的に欠落している要素は, 来館者が構築する意味に対する視座であろう。展示がどう読めるものであったとしても, 来館者が展示された物をどう解釈しているのかという問題は, 必ずしも十分に検討されていないといわざるを得ないのである。本稿は以上の視座に依拠しながら, 博物館において現実に生起している出来事, つまり来館者のパフォーマンスを視野に収めることによって, 博物館における物を介したコミュニケーションの構造について検討するものであり, 同時に展示のエスノグラフィーのための諸前提を提出しておきたい。実際は欧米で急成長しているミュージアム・スタディーズの成果を批判的に継承しつつも, 私が国立歴史民俗博物館に勤務している間に知ることができた内外の若干のデータを演劇のメタファーによって理解するという方法を採用する。じじつ博物館は演劇における屈折したコミュニケーションにきわめて近似した構造を持っており, そもそも物を介したインターラクティヴ・ミスコミュニケーションに根ざした物質文化の劇場として存在しているということができる。こうした事態を理解することは民族学・文化人類学における博物館の場所を再考するためにも有益であると思われる。
著者
比嘉 理麻
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.044-063, 2022-06-30 (Released:2022-12-08)
参考文献数
39

本論は、沖縄県名護市辺野古の基地建設の進行に伴って、熾烈化する抗議行動の最前線で、心身に傷を負い、抗議に行けなくなった人びとが、新たに勝負できる領域を模索するなかで見出した、〈生き方としての基地反対運動〉とでも呼びうる動きを積極的に掬いあげる。現在生まれつつあるのは、狭義の政治運動におさまるものではなく、むしろ、政治の限界(代表政治と直接政治の双方の限界)を踏み越えて、〈生き方〉そのものとして展開される基地反対運動である。日本政府の暴力により、従来の運動の限界に立たされた人びとは、これまでの闘い方とは異なる形で、自らの生き方を通して変革の方途を切り出していく。それは、生活を丸ごと抱き込んだ運動の全面化であり、自らの生き方の社会運動化、とでも呼びうるものである。本論では、従来の「政治運動」で傷ついた人びとが、口にするようになった「これは、政治じゃない」という言葉に耳を傾け、基地反対運動を「非政治化」し、より広い領域を巻き込みながら、自らの〈生き方〉として展開する新たな基地反対運動を理解することを目指す。さらに本論では、ここでの生き方を、人間のみに限定せず、他の動物たちの生き方をも含み込むものとして、より広く捉える。そこから、基地建設によるかつてない規模の破壊によって、改めて交差する人間と動物たちの生を捉える視座を築いていく。