著者
佐藤 斉華
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.95-117, 2007-06-30

本論文は、ネパールのチベット系ヨルモにおいて急速に過去のものとなりつつある嫁盗り婚(略奪婚)という結婚締結の一選択肢がいかに語られているかを考察することを通じ、グローバルな広がりを持つ「開発」という「近代」的価値言説との交叉において構築されつつある彼らの現在の一段面を照らしだそうとするものである。比較的近年までかなりの規模で嫁盗りを実践してきたと見られる彼らが、この慣行について自ら積極的に語ることは現時点では基本的にない。知りたがりの外部者(例えば筆者=人類学者)に促されて語るとしても、例外なく否定的に、消え去るべき「昔のこと」として語るのみであり、その語り口は近代(西欧)が嫁盗り婚に向けた「過去の」「野蛮な」慣習という視線と一見軌を一にするとも見える。しかし、語りの内容や語る行為において遂行されること(=発話のパフォーマティヴな側面)を子細に腑分けしていくにつれ浮かびあがってくるのは、彼我の類似性・同一性であるより、むしろ彼我の間に横たわる距離であった。即ち、彼らによる嫁盗り婚の否定は、「女性の権利」や「解放」といった嫁盗り婚否定を支える「近代」的価値観の採用によるものではない。それは彼らにおいてローカルに培われてきた価値観の、さらなる純化/強化(=社会的対立/宗教的秩序攪乱の回避)にむしろその根拠をおいている。またそれは確かに、「進歩」を掲げる近代的世界に向けた彼らの積極的参画の働きかけではあった。だがこれらの発話は、彼らの近代世界への参画を一義的に促進する効果を持つというより、その根底にある価値観の異質性とともに、開発への一途な信奉と(既にそれを手放した「開発された」中心に身をおく立場からは)見えるその素朴さにおいて、近代世界における彼らの周縁的位置をむしろ再-構築してしまうという、相矛盾する動きの同時遂行ともなっていたのである。
著者
楊 海英
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.73, no.3, pp.419-453, 2008-12-31

社会主義者たちは「民族の消滅」を理想に掲げ、そのために闘争してきた歴史がある。中国共産党は文化大革命中に、彼らが得意としてきた暴力で以て「民族の消滅」を実現させようとした。内モンゴル自治区では、この地域が中国領とされたがゆえに、モンゴル人を対象とした大量虐殺事件が発生した。本稿は、中国文化大革命中の1967年末期から1970年初頭にかけて、内モンゴル自治区で発生した「内モンゴル人民革命党員大量虐殺事件」をジェノサイド研究の視点からアプローチしたものである。内モンゴル人民革命党は、モンゴル族の自決と独立のために、1925年にモンゴル人民共和国とコミンテルンの支持と関与のもとで成立した政党である。その後、日本統治時代を経て、第二次世界大戦後にモンゴル人民共和国との統一を目指したが、中国共産党によって阻止された。文化大革命中に「内モンゴル人民革命党の歴史は偉大な祖国を分裂させる運動である」と毛澤東・中国共産党中央委員会から断罪され、モンゴル人のエリートたちを根こそぎ粛清する殺戮が発動されたのである。本研究は、従来から研究者たちによって指摘されている「国民国家型ジェノサイド」理論に沿って、ジェノサイドと近代の諸原理とりわけ国民国家と民族自決の問題との関連性に焦点をあてている。国民国家たる中国からの統合と、その統合に反対して別の国民国家を建設しようとしたモンゴル人たちが大量虐殺の対象にされた経緯を分析したものである。「モンゴル人ジェノサイド」に社会主義中国の対少数民族政策の強権的、暴力的な本質が内包されている。
著者
森田 敦郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.4, pp.491-517, 2007-03-31

第二次大戦後、タイでは地元の機械工や農民たちによってさまざまな農業機械が開発されてきた。本論文ではこの技術発展とその担い手となった機械工集団の形成の相互的な関係を記述するとともに、実践と社会性に関する人類学的概念の再考を試みる。タイの農業機械は輸入された機械類を環境に合わせて修理・改造する中から生み出されてきた。輸入された機械類が先進国と異なるタイの環境のもとで稼動し続けるためには、部品交換や修理、環境に合わせた改造などが必要であった。こうした需要に応えるために農村部では独学の修理工たちが誕生し、彼らの実践はその間を流通する人工物によって都市部や海外の工場と結び付けられたネットワークを形成してきた。タイの農業機械は、このネットワークで行われる修理や改造を通して発展してきた。ここでは、修理や改造を依頼した農民と機械工の間で機械の不具合をめぐる交渉が行われ、両者の知識が結び付けられることによって地域に適応した機械が生み出されてきた。さらに、この技術的実践は独学で技術を学んできた多様な人々の間に共有された次元を生み出し、社会集団としてのまとまりを作り出してきたのである。本論文では、近年の実践理論の展開とエスノメソドロジーおよびウィトゲンシュタインの後期哲学の知見に依拠しながら、このような技術的実践を通した社会性の生成のプロセスを考察していく。この考察を通して筆者は、実践に先立って存在する社会関係が実践を社会的にするのではなく、実践を構成する異種混交的な要素のつながりの中から社会性が生成することを明らかにする。技術的実践が社会性を生み出しうるという本論文の主張は、技術と社会の二分法だけでなく、従来の実践と社会性の関係をも問い直すものとなろう。
著者
山本 桜
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 The 56th Annual Meeting of the Japanese Society of Cultural Anthropology 日本文化人類学会第56回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A13, 2022 (Released:2022-09-13)

本発表では、身体的性別を変更するために身体加工を追求してきた人々がそれらを中止するという、脱トランスの営為を対象にする。当事者たちは、身体的性別に対して自らが感じてきた違和感を度々内省し、自己や自己の身体についての語りを再構成してきた。発表者は、彼らの当時的/遡及的語りを分析することで、彼らの身体違和がどのように形成されてきたのか、および身体と自己との関係がどのように変遷してきたのかを論じる。
著者
與那覇 潤
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.451-472, 2006-03-31 (Released:2017-09-25)

本稿は、1879年に琉球王国を「沖縄県」として日本国家に併合した所謂「琉球処分」の政治過程とそれをめぐる同時代の様々な「語り」の検討によって、近代西洋との遭遇以降もナショナリズムの発生を抑制してきた東アジア世界の歴史的諸条件を明らかにしつつ、同時に現地住民の「民族性」を領土問題の正当化に動員するような政治体制の、東アジアにおける起源について再考することを目的とする。人類学における民族論の展開は、民族とは「差異の政治学」を通じて不断に構築されるプロセス-たとえばある社会問題が「A民族対B民族」の「民族間対立」として問題構成され続けることによって、「A民族」「B民族」が相互に排他的な実体的集団として人々に意識されるようになるという過程-であることを明らかにしている。そうであれば、国境画定作業において現地住民の集団的アイデンティティが政治的に資源化されるような議論の「場」が出現する時期を見定めることは、例えば当該地域におけるナショナリズムの発生を考察する上で肝要となる。従来、「琉球処分」において日本政府は日本住民と琉球住民との人種的・民族的同一性を併合の根拠にしたとされてきたが、一次史料から見るとそのようなイメージは必ずしも事実でなく、日本内地や中国の新聞記事からも琉球の一般住民の性格によって領土帰属を論じた議論は観察されない。さらに注目されるのは、同時代の欧米系メディア(米国人の著作や横浜居留地の英国系新聞など)には「日琉同祖論」に通ずる民族誌的知識や、生物学的純粋性・混淆性に立脚して人種間の優劣を議論する言説が見られるにも関わらず、日本・琉球・中国という東アジアのアクター諸国はそれを政治的な道具として動員していないことであり、その背景には国民形成以前の状態にあった東アジアの表象システム-「民族問題」を構成しないような論理と世界観の体系-が存在した。本稿はその歴史的実態を明らかにするとともに、そのような作業を通じて、研究領域として自己完結しがちな民族論や国民国家論をより普遍的な視野へと開くことを目指すものである。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.247-270, 2004-09-30

20世紀の最後の10年間、自由は、現代世界における究極的価値としての地位を独占するようになった。「個人の自由」は、個々の社会的行為を支配する最終審級となったし、政治や経済の自由化は、武力介入さえ正当化できる「正義」となった。こうした状況の出現に対して、それを自由のアナキズムと批判して、何らかの歯止めをかけようとする動きが出てくるのもうなずける。無制限な自由の膨張に対する、もっとも強力な歯止めは、共同体からの規制であった。諸個人を共同体の文脈に位置づけ直して、自由の行き過ぎを規制し、社会の秩序を回復するという志向は、自由主義に対する共同体主義として定立されてきた。この二つの志向のあいだの論争は、1980年代以降、コミュニタリアン・リバタリアン論争として知られているが、本論の目的は、こうした論争における共同体の議論の不十分点を、人類学的思考で補うことにより、個人の自由と共同体という問題構制にに、新たな視角から光をあてることにある。これまでの共同体に関わる議論には三つの不十分点があった。第一には、生活論的視点がまったく欠如していた点であり、第二には、共同体を固定的な実体として自然化するか、もしくは、それと正反対にたんなる構築物として言説世界に還元してしまう平板な認識図式にとらわれていた点である。第三には、こうした個と共同体のアポリアを解決するため考案された創発的連帯モデルの限界に無理解だった点もあげられる。そこで本論においては、共同体の内外で生成される生活組織の多層で変異する態様を明らかにする。それを通して、共同体の外延(境界)をそのままにして、生活の必要に応じてうちから融通無碍に変質していく過程を、ナイロビにおける社会秩序の生成を題材にして分析することを試みる。
著者
中谷 和人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.215-237, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)
被引用文献数
2

1980年代の半ば以降、「芸術」や「芸術作品」という現象やモノをいかに論じるかは、人類学にとって最も大きな課題の一つになっている。従来の議論では、しばしば美術界やその制度的・イデオロギー的なシステム(「芸術=文化システム」)への批判、あるいはそれに対抗するかたちでの文化の差異の生産や構築に焦点が当てられてきた。だがその視角は、「異議申し立て」や「交渉」を行なう自律的な主体の存在が前提とされている。一方アルフレッド・ジェルは、「芸術的状況」や「芸術作品」を美術制度との関わりによっては規定しない。ジェルにとってそれらの存在を証明するのはモノとエージェンシーを介して生じる社会関係であり、またその関係は「エージェントのバイオグラフィカルな生の計画」へと結び付けられねばならない。本論文は、現代日本において障害のある人びとの芸術活動を進める二つの施設を事例に、その対外的な取り組みと実践の状況を検討する。一方の施設は、「アール・ブリュット/アウトサイダー・アート」という美術界の言説を逆手にとって利用することで自らの目的を達成しようとする。またもう一方では、こうした美術界の一方向的なまなざしから距離をおき、自らの「アート」を自らで決定しようと試みる。本論では、各施設が展開する戦略と運動を跡づけるとともに、活動現場での相互行為や社会関係がいかに多様な創作・表現(物)を生みだしているか、またそれら「芸術(アート)」の多元的な意味が当事者の生の文脈とどのように接合しているかを解明する。
著者
飯嶋 秀治
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B02, 2023 (Released:2023-06-19)

本研究ではグレゴリー・ベイトソンの戦時活動をアーカイブス研究から明らかにする。特にNARAⅡの文献カードの定量調査とUCSCの個別フォルダ調査を用い、OSS前史としての反ナチ運動とモラル研究、サイバネティクス研究前史としての精神医学者ミルトン・エリクソンとの関係を重視する。そこからベイトソンのインテリジェンス活動を位置づけ、戦後理論への文脈を見る。
著者
石井 美保
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.287-306, 2021-09-30 (Released:2021-12-26)
参考文献数
34

本稿の目的は、京都市の小学校で起きたプール事故をめぐる出来事を、遺族とそれを取り巻く人々の実践を中心に記述することを通して、道徳/倫理をめぐる近年の人類学的議論に新たな視座を提示することである。本稿の検討と考察の主軸となるのは、第1に、了解不可能な出来事に一定の意味を与えようとする物語の作用に抗して、事故に関する事実を追求しつづけ、我が子の死をめぐる「なぜ」「どのようにして」という問いを投げかけつづける遺族の実践のもつ意味である。第2に、事故に関する事実の検証や理解をめぐってしばしば立ち現れる、主観性と客観性、あるいは一人称的視点と三人称的視点の対立を調停する、エンパシー的な理解の可能性である。本稿でみるように、事故をめぐる出来事に関わった人々に倫理的応答を要請するものは、亡くなった少女の存在である。遺族をはじめとする人々は、物語の創りだす時間の流れの中に出来事を位置づけるのではなく、あえて「止まった時間」の中に留まり、喪失の痛みとともに生きることで亡き人の呼びかけに応えつづけようとする。このような人々の生のあり方を考察することを通して本稿は、苦悩の経験に意味を与え、混沌にテロスをもたらす物語の作用に注目する道徳/倫理研究の視座を相対化し、物語論に回収されない倫理的な実践の可能性を提示する。
著者
古川 不可知
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A10, 2023 (Released:2023-06-19)

本発表の目的は、日本における一般登山とキャンプの実践を取り上げ、「戸外outdoor」にあることが持つ意味と、そこから想像される理念的な「ホーム」について考察することである。具体的には、①戸外と人類学がどのような関わりのもとにあるのかを整理する。②現代日本のアウトドア観光における語りと実践を、登山とキャンプを対比しつつ報告する。③あるべきホームが戸外からどのように想像されているのかを論じる。
著者
岡野 英之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.F09, 2023 (Released:2023-06-19)

隣国ミャンマーで2021年にクーデターが発生して以降、A国には大量の「難民」が流れ込んできた。本発表で指摘するのは、A国の国境地帯のある町が構造的な汚職によってミャンマー難民にとっての「アジール空間」となっていることである。この空間はミャンマーの民主派勢力にとって対外拠点として機能している一方、外部世界とつながるチャンネルとして機能している。
著者
黄 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第51回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B10, 2017 (Released:2017-05-26)

本報告は「憑く」という民俗現象に関する文化人類学的研究である。これまで積蓄してきた、日本民俗学の憑物信仰論や、中国華南少数民族の「蠱毒」に関する文化人類学研究の論点を、西南中国トン族の事例から考察する。調査地の語り及び呪術の実践のなかに表出する、鬼をめぐるトン族のもつ民間宗教や結婚禁忌との関係から、西南中国トン族の憑きもの信仰を論ずる。
著者
板橋 作美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.156-185, 1978-09-30 (Released:2018-03-27)

Y is a village in the southwest of Gumma Prefecture, consisting of 181 households, rearing silkworms and planting konjak (devil's tongue). Y villagers believe that extremely lucky success, especially economical success, of neighbors can be attributed to two kinds of supernatural forces. One is mystical power of osaki, a folk-zoological term for a small animal resembling a mouse or a weasel, which, by order of his master or his own will, thieve silkworms, cocoon, wheat powder or other properties of neighbors and make his master wealthy, or possess neighbors who then become mentally or physically ill and at times die. Those who keep osaki in their houses are called osakimochi or osaki-holders, and they are segregated in terms of marriage, for osaki-holding is believed to be transmitted to all relatives of the spouse of the osaki-holder and to all the children of the osaki-holders, paternally and maternally. Another is evil magic of sanrinboo, who are believed to practice magical rites secretly in order to deprive properties of neighbors. Usually they are very stingy but on the day of sanrinboo they present food to neighbors generously, and if neighbors receive it, all their wealth wil be taken away. Y is devided into 13 koochi, small local units whose members are bound in co-operative mutual aid relations. These units, however, vary in terms of their social cohesion or solidarity. Koochi which have few or no osaki-holders and sanrinboo keep, in general, strong social cohesiveness, while those koochi which have many osaki-holders and sanrinboo and suffer from much osaki-possession have a looser social structure. These koochi have been increasing in the number of households by new comers from outside and branch families from other koochi. They have co-operative mutual aid relations and religious relations with the members of other koochi, rather than own, and their relations between main and branch families cut across the koochi boundaries. Moreover, the socio-economic hierarchy in such koochi is unstable : old families become poorest and new families become wealthy suddenly. In contrast, those which have few osaki-holders and sanrinboo maintain their social hierarchy or order : old families keep their social and economic prestige, new branch families are organized in patrilinial kinship, mostly in their main families' koochi. As mentioned above, the beliefs of osaki-holders and sanrinboo seem to be related to the weakness and instability of social structure of the local community, and seem to regulate and make clear the individuals' ambiguous social position caused by such social circumstances. The osaki-holders and sanrinboo are believed to be wealthy. In fact, those who are suspected as sanrinboo are rich and, moreover, they have become rich suddenly, mostly by unfair and not traditional means of acculating wealth. On the other hand, the socio-economical status of all osaki-holders are not high, but notorious osaki-holders, whose osaki-spirits have possessed neighbors frequently or brought much misfortune on neighbors, have become remarkably rich in a brief period of a few decades. In most cases of osaki-spirit posession, osaki-holders belong to the middle or high classes economically and victims to low or middle. This fact may be interpreted as : alleging the occurrence of osaki-possession, the victim may try to accuse a neighbor of extremely rapid accumulation of much wealth by immoral economic activity.
著者
北原 次郎太 モコットゥナㇱ
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第55回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.F09, 2021 (Released:2021-10-01)

本発表では、近代以降の人類学的研究の中で収集されたアイヌ民族の遺骨について、収集の経緯と返還運動の現状を述べる。また、遺骨の収集と同じ時期・環境のなかで、物質資料や言語資料も収集された。これらの収集行為を巡り、琉球民族やアイヌ民族と和人とでは、それぞれの立場性によって異なった情動が呼び起こされる。これまで意識的に論じられてこなかったこの差異を認識することが、両者の和解・共同に繋がることを述べる。
著者
里見 龍樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.397-415, 2020 (Released:2021-04-07)
参考文献数
33

ソロモン諸島マライタ島では、初期植民地時代(1870~1920年代)において、西洋世界から流入 した銃器により、現地で「オメア」と呼ばれる戦闘や襲撃が一時的に激化したことが知られている。本稿では、同島北東部に住むアシ(またはラウ)において、この「オメアの時代」が今日いかに記憶されているか、また、アシに特徴的な居住形態である人工島がこの歴史とどのように関わってい るかを考察する。 歴史的検討によれば、アシの人工島群は初期植民地時代に急拡大しており、このことは、一部の人工島を戦闘・防衛の拠点として意味付ける語りにもあらわれている。同時にアシの人々は、植民地政府の到来により、戦闘を媒介とする移住の運動が停止したと認識しており、現存する人工島群はそのような歴史的変化を形象化するものとみなされている。 アシの人々は、人工島の多くは、「オメアの時代」が終わってから形成された「新しい」ものにすぎないとしばしば語る。人工島群が初期植民地時代以前に遡る歴史的深度をもたないかのようなそうした語りには、植民地化・キリスト教受容以前の歴史に対してアシが感じている疎遠さがあらわれている。そのように、「オメアの時代」は今日のアシにおいて根本的に「よくわからない」歴史として認識されているが、内陸部への再移住を志向する現代の動きの中で、そのような歴史は新たな関心の対象となりつつある。
著者
高野 さやか 中空 萌
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.127-138, 2021-06-30 (Released:2021-09-23)
参考文献数
80

Legal anthropology has produced numerous studies on law and society, mainly focusing on the significance of customs and social norms other than state law. Represented by legal pluralism in the 1980s, which claimed the coexistence of multiple legal systems in a society, it has successfully relativized the power of state law. However, its uneven emphasis on customary law may have narrowed and limited its research subjects. This article attempts to revitalize the original broader question of legal anthropology on law and society by reviewing recent ethnographies targeting professional and technical legal practice. It elucidates that the study of "making of law" as professional practice mediated by physical/technical devices suggests the new critical understanding of "what law is" or the relationship between state law and customs, as well as opening interdisciplinary dialogues with the studies of "law and development" and "nudges".
著者
板垣 竜太
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.293-315, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)

本稿は、1990年代末から2000年代にかけて日本と韓国にまたがって展開してきた歴史をめぐる対話を事例にしながら、新自由主義が一つの大きな力となって進行しているグローバル化の状況における知的な緊張関係について考察するものである。この時期の対話は、ポスト冷戦期の日本および韓国における歴史研究の同時代的な流れが相互に出会ったものとしてとらえられる。ここでは3つの流れが注目される。(1)ポストマルクス主義:日本の「戦後歴史学」の見直しと、韓国の民主化運動のなかで培われてきた歴史学のパラダイムに対する再考の流れがあった。(2)国民国家論と民族主義批判:国民国家の形成過程を批判的にとらえ直す日本の研究動向と、民族主義的な歴史認識に対する韓国での論争があった。(3)近代性批判:問題の起源を近代に遡って探求する、あるいは近代性そのものの問題を明らかにする研究視角が歴史研究で強まった。それとともに「日本」という時空間で完結し得ない「帝国史」研究の方向と、植民地主義と近代性をめぐる議論の深まりがあった。こうした知的脈絡が出会っていくなかで、いくつかの問題にも突き当たった。特に、以下の3つの徴候が考えるべき問題を投げかけている。(1)「国史」について:ナショナル・ヒストリー批判とひとことでいっても、そこには複数の力のベクトルがせめぎあっており、そこから同床異夢も生じている。(2)植民地主義と近代性:近代性批判が、逆説的にも近代性への問題の還元論となり、植民地主義批判が曖昧になっている。(3)「和解」の政治:「加害」「被害」を単純化しながら、和解のメッセージを読み取る言説が増殖している。以上のような動向は、ポスト冷戦およびグローバル化のなかでのポストコロニアルとポストモダンの緊張関係という観点から考えることができる。