著者
菅原 和孝 藤田 隆則 細馬 宏通
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.182-205, 2005-09-30

民俗芸能の伝承を身体資源の配分過程として捉え、静岡県水窪町の西浦田楽における世襲制の変容を解明する。また、次世代への継承を実現する場としての練習に注目し、そのやりとりの特質を分析する。西浦田楽の核となるのは毎年旧暦1月18日に挙行される「観音様のお祭り」である。ここで奉納される舞は地能33演目、はね能11演目(うるう年は12演目)である。地能は能衆と呼ばれる24戸の家に固定した役として割りあてられ、父から長男へ世襲によって継承されてきた。200年以上の歴史をもつこの制度は、昭和40年代初頭から農村の過疎化により崩壊の危機に直面した。14戸に減少した能衆組織内で役の大幅な再配分が行われたが、とくに本来は役を持たなかったにもかかわらず技能に秀でた成員に、多くの役が負わされた。演者の固定しないはね能において身体技法の功拙が競われてきたことが、こうした再配分を可能にした。近年、はね能に関与している家のすべては、父と長男の二世代が田楽に参加しており、継承が急速に進行している。練習場面では、太鼓および練習場の物理的構造という資源を最大限活用する教示と習得の工夫が発達している。初心者(「若い衆」)の所作・身振り・動作を継年的に観察すると、困惑や依存から納得への明瞭な推移がみられる反面、年長者によって開示される知識が断片的で不透明であることからくる混乱も顕著であった。祭り前の集中的な練習によってある地能の舞いかたが若い衆に促成で植えつけられたことは、継承を急激に進めようとする年長者たちの決意を示すものであった。これらの分析結果に基づき、正統的周辺参加理論、および民俗芸能において「身体技法的側面」が突出するプロセスに関する福島真人の理論の適用可能性を検討するとともに、練習場面にみられる「楽しさ」を分析する展望を探る。
著者
松田 さおり
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.64, 2012

本報告は、日本のナイトクラブで働く女性の接客場面における感情労働を、<色で売る>および<いい人間関係>という銀座ホステスの現場概念から分析するものである。ジェンダーの差異と客-ホステス間の非対称性から一層の困難を抱えるホステスが、客を「叱りつける」という「自律的」な感情労働場面を詳細に検討することで、感情労働概念における「他律性」と「自律性」を再考することにつなげたい。
著者
近藤 英俊
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.269-288, 2002-12-30

西欧医療の近代化は、強力な医師会の設立と国家への介入、国家による医療規制と資格化、そして他の医療の排除と市場の独占、すなわち専門職化(professionalization)という職業集団の戦略に負うところが大きい。ところが現在世界各地では伝統医療従事者による専門職化が進められている。このことは伝統医療が西欧医療と同じような近代化を経験しつつあることを意味するのだろうか。本稿はナイジェリア・カドゥナ市における伝統医療の専門職化に焦点を当て、その動向を吟味する。カドゥナの伝統医療の専門職化は1970年代末にナイジェリアのメトロポリスであるラゴスの伝統医師会の指導のもとに始まり、当初はリーダーのカリスマ性も手伝って順調に組織化が行われた。しかしその後伝統医師会はリーダーシップを狙う野心的な伝統医によって派閥化、さらに会員認定証をめぐる不正行為のせいで事実上機能を停止する。すなわち伝統医師会の歴史は伝統医のあいだの不信感、グループの離散集合、そして組織の暫定性に彩られている。また確かに伝統医は会員認定証を所持し、「伝統医」や「ハーバリスト」といった呼称を使うようになっているが、彼らはそれらを政治的経済的関心にもとづいて様々に流用している。つまり医療知識の基準化や、アイデンティティーの統合・単一化が起こっているわけではない。この専門職化に見られる諸特徴はカドゥナ伝統医療の全般的な変化の一端を示している。その変化とは治療者が自らを規定する社会条件を再帰的に変革していくような近代化の過程ではなく、むしろそれとは対極的な変化、治療者がその実践・活動を複数化、断片化、流動化していく過程である。いいかえればここでは伝統医が反省的な専門家(expert)ではなく、状況に応じて複数の文化を渡り歩く起業家(entrepreneur)となりつつあるように思われる。
著者
中屋敷 千尋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

民主主義的政治制度が成功しているといわれるインドであるが、対象地の北インド・チベット系社会スピティ渓谷では、階層の下位に位置づけられる人々の政治的地位が向上する一方、儀式や祭礼の場面では中間層から下層の人々への差別的発言や暴力的行為が顕著になっている。本発表ではこの両義性の現状と背景を把握した上で、インドの政治体制と土着の階層制度がどのような関係にあるのかを明らかにすることが目的である。
著者
野口 泰弥
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第54回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.D16, 2020 (Released:2020-09-12)

本発表ではアイヌ民族による、河川でのサケ捕獲を伴う儀礼、「アシリチェプノミ」の変遷を事例に、サケを軸としてアイヌ民族の先住権運動史を素描することを試みる。それにより、先住権は国家に認められないながらも、社会制度や環境変化を巧みに利用しながら儀礼や、サケ捕獲を内実として実現させてきた実態を明らかにし、近年は儀礼が、先住権をめぐる権利闘争の場であると同時に、交流の場としての機能の重要性が高まっていることを分析する。
著者
村橋 勲
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本発表の目的は、ウガンダのキリヤドンゴ難民居住地を事例とし、南スーダン難民の生計における難民の「自立」と依存を考察することである。ウガンダは、1955年から現在に至るまで、多くの(南)スーダン難民を受け入れてきた。発表では、ウガンダの難民政策の下での難民の生計活動とホスト社会の形成に注目し、生計における難民の「自立」が、個々の生計活動だけでなく、ホスト社会との社会経済関係に依存していることを示す。
著者
太田 好信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.245-264, 2013-09-30 (Released:2017-04-03)

本論の目的は、アイデンティティ論を歴史化することである。より具体的には、冷戦構造時代の入口と出口という二つの時間においてアイデンティティ論がリベラリズムとの親和性を背景に形成されたことを指摘する。ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』とタウシグの『ミメーシスと他者性』の読解を通して、本論の方法論となっている歴史化という手法を提示する。歴史化とは、理論が可能になる状況を含めて理論を検討することである。冷戦構造の出口にあたる時代、文化とアイデンティティは圧縮され同義語となり、それらが政治の構成要素となったといわれている。文化人類学において『文化を書く』は、文化とアイデンティティとの両方を流動性の考え方のもとに再構想した書物の一冊である。流動性は、多文化主義などに関する議論が高揚する中、リベラリズムと親和性をもっていた。文化、アイデンティティ、政治の交差点に形成されるこの問題系は、文化人類学にとっても疎遠なテーマではなかった。『菊と刀』は、日本という国を日本人の国にしているものが日本文化であることを前提にし、その内実を階層制と呼んだ。冷戦構造の出口にあたる時代、このような前提が批判されたことになる。しかし、アイデンティティの流動性はその固定化を前提にしたベネディクトへの批判としては有効である一方、両者ともリベラリズムと親和性を有している点では共通であり、状況との癒着を通して普遍性を確保している。この癒着が理論の持つ確信であり、それを打破するためには、誰にとってアイデンティティは流動的なのか、という問いを立てる必要がある。一例として、グアテマラ共和国のマヤ(系先住民)運動指導者を前にして、北米文化人類学者が抱くジレンマについて考察し、このジレンマは、アイデンティティが理論化される場所を歴史化できていないことに起因すると指摘する。
著者
加藤 正春
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.209-229, 2000-12-30

かつての沖縄では,若者の死の直後に若者仲間が墓に赴き,歌舞音曲をともなった伽をする習俗がみられた。ワカリアシビー(別れ遊び)などと呼ばれたこの儀礼は,死んだ若者のモーアシビー(野遊び。青年男女の野外交遊のこと)仲間が夜毎に墓前に集い,そこで一時を遊び過ごすものであった。儀礼はほぼ一週間ほど続けられたが,いくつかの報告では,幕内から死者の棺箱を出したり,その蓋を開け,死者を座らせて行われることもあったとされている。また,墓前の仮小屋に短く織った手拭い(いんきや織りの手さじ)を飾って集う例も報告されている。儀礼は昭和時代に入ると行われなくなった。本稿では,19例の報告事例の検討から,この儀礼が野遊びの形態をとって死後に行われる若者仲間の追悼儀礼であり,幕内の死者の霊魂を幕前に招き出して行う,生者と死者との直接交流・交歓であることを明らかにする。若者たちが墓前に集まり,棺箱を墓から引き出すのは,死者に近づいて交流しようとする意図であり,短い手拭いをさげるのはそれを霊魂の依代として用い,そこに寄り憑いた死霊を実感するためである。また,引き出した棺箱を開け,死者を座らせるのは,生前と変わらぬ形で死者と直接に交流しようとする試みである。ただし,このような儀礼行為の前提には死の認識があり,死体の変化に対する人々の知識と経験が存在する。なお,儀礼には死霊の危険性に対する忌避観念が表出されていないようにみえる。これは,若者たちが死んだ仲間を追悼するために,死霊の危険性を受け入れた上で儀礼を行っているからである。それは,若者仲間の同輩結合の強さを示すものである。
著者
大戸 朋子 伊藤 泰信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2012, pp.91-91, 2012

本発表は、(1) 同人誌作家の活動、作品の発表過程についての微視的な記述を提示しつつ、(2)腐女子コミュニティを、内部の様々な軋轢の存在や、評価軸が外部の様々な要因によって変化する流動的なものとして捉え、さらに(3)二次創作作品がどのようなプロセスの中で評価され、コミュニティに受け入れられていくのかについて明確化するために、事象を科学社会学(科学者コミュニティ)の議論に重ねることを試みる。
著者
出口 顯
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.221-241, 2015

本稿ではヌアーとディンカの宗教研究におけるエヴァンズ=プリチャード(E-P)とリーンハートの思想の意義を、近年のアニミズム的存在論にも言及しながら検討する。まずシベリアのチュクチの供犠において生け贅の代用について論じるウィレスレヴの議論とE-Pによるヌアーの供犠における代用の解釈を比較する。代用を可能にする類似性が物質と物質のあいだにみられ、観念は物質の一形態であると説くウィレスレヴに対して、代用において類似しているのは観念と観念であると説くE-Pは、観念と物質の非連続性を強調する。ついで、人間から遠くかけ離れていながらも人間の生活に直接介入し体験される神の存在を理解するために、インゴルドによるメッシュワークという考え方を応用する。人間は神が張り巡らし神の一部でもあるメッシュワーク上にあり、人がメッシュワークに絡み取られる経験の相に応じて、現れる神の姿は異なる。そしてこの神と人々の経験の結びつきをさらに論じたのがリーンハートである。「力」(神性や神霊)がディンカの経験のイメージであるとリーンハートが言うとき、イメージとは視覚的印象ではなく、連続した生の経験を一定の配置のもとで人々に把握させ、経験への対処を定めさせるものである。「カ」が過去の出来事の保管庫であるなら記憶は「力」という外部から人間に到来するものであり、人の心は「力」の介入を俟ってはじめて成立する。リーンハートのこの思想は「機械の中の幽霊ドグマ」で有名な哲学者ライルの影響を受けているが、彼らと照らし合わせるとき、ヴィヴェイロス・デ・カストロやデッコラのアニミズム論は、彼らが批判しているはずの心身二元論という「機械の中の幽霊ドグマ」を乗り越えていないことがわかる。E-Pも心身二元論とは異なる立場にいたが、Nuer Religionは神観念をめぐるシニフィアンとシニフィエの安直な連結を解体する試みとして読まれるべきである。
著者
渡部 瑞希
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.397-416, 2015-03-31 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
2

カトマンズの観光市場、タメルの宝飾店で、ツーリスト相手に商売をするインド系ムスリムの小売商人は、できるだけ高値でツーリストに売るために、彼らと「フレンド」になるという戦略をとっている。しかし、こうした戦略の過程において、小売商人は、ツーリストとのさまざまな社会的折衝を重ねた上に、その場限りとはいえない継続した関係を築くこともあり、その結果、そうしたツーリストから儲けることができなくなることもある。本稿の目的は、友好的態度や親密さが「フレンドシップ」という形で経済利益のために利用される中で、それが経済利益を得るための手段からズレていくことがいかに起こりうるのかを明らかにすることである。これを明らかにするために、本稿では、小売商人がツーリストと「フレンド」になろうとする試みを「賭け」の実践として論じる。「賭け」とは 1)不確実性を免れないながらも確実性を目指す行為実践であり、2)「賭け」から降りない限り勝敗が判然としないものである。「フレンド」になろうとする「賭け」の実践とは、具体的に、1)売るために、当のツーリストの属性(character)(社会的背景や経済力、好みなど)を会話の中から引き出しながら、親密さを表すことである(確実性を目指す行為実践)。このようにして「フレンドシップ」は利用されるが、2)小売商人は、当のツーリストに対するその都度の取引において、売れるか否か(「フレンド」か否か)の「賭け」を繰り返すことになる(勝敗の結果の先送り)。その「賭け」の繰り返しの過程において、ツーリストの抱える個別的な問題を共有することが起こりうる。本稿の意義は、そうした「賭け」の実践を通じて、取引相手に対する親密さへの志向が、取引相手からできるだけ多くの利益をとろうとする戦略の中から誘発される可能性を示唆することである。
著者
佐々木 剛二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.148-148, 2010

本発表では、ブラジルの人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロの略歴、及びその仕事の概要を紹介した後、彼の理論の核心となっている「ペルスペクティヴィズモ(perspectivismo)」の考え方について詳しく論じることによって、その思想的背景や理論的射程に言及し、関心を持つ日本語話者の研究者たちの議論の発展に資することを目指す。
著者
森下 翔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.449-469, 2014

本論の目的は科学実践における存在者の「実在性(reality)」について、人類学的な考察を試みることである。科学が歴史主義的・実践論的に理解されるようになって以来、私たちの持つ科学のイメージは大きく変化してきた。本論は科学実践における実在性をめぐる議論について、近年の実践論的科学論が科学実践における実在性の概念を局所化・歴史化したことを評価しつつ、そのプロセスを「表現と物質性の接続」というスキームへと還元してきたことを批判する。本論では地球物理学の一分野である測地学における「観測」と「モデリング」の実践について記述することを通じて、「観測網」や「図」などの具体的な構成要素と密接に結びついた-「表現」や「物質性」に還元される手前に存在する-存在者のさまざまな実在化の様態を示す。考察では「実在化のモード」という概念の導入を通じてこれらの様態の関係を考察し、実践における存在者の実在形態の多様性を分析する方途を模索する。
著者
浜本 満
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-28, 1993-06-30

ケニアのコーストプロビンス,クワレ州に住むドゥルマの人々の間では,ムラムロ,ムブルガという2種の占いの形態が知られている。本稿の目的は,ムブルガの語りのテキストの検討をおこない,もう一方の占いムラムロとの違いを明らかにするとともに,両者の語りのありかたの違いが占いによる問題解決の様式のいかなる違いに対応しているのかを考えることにある。ムラムロでは相談内容が相談者自身によって前もって伝えられるのに対して,ムブルガでは相談者は自分からは相談内容をあかさず,占い師にそれを手探りで語らせることになる。このムブルガにおける占い師による問題の「再記述」が,問題状況にいかなる変容をもたらし相談者に何を与えることになるのか。これは,実際のテキストを分析することによってのみ答えるのとができる問いである。ムブルガにおける占い師の語り,手探りでおこなう「再記述」がどのようなイディオムにしたがって組織され,そこに登場させられる妖術や憑依霊などのエージェントが,この語りの中でどのような役割を演じているかを検討することによって,ムブルガにおける説明のモードの特徴が明らかになる。
著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.342-365, 1995-03

新潟県佐渡島の人々の間では,ムジナ(貉(ムジナ))ないしトンチボ(頓智坊)と呼ばれる動物がしばしば話題に上る。この動物は動物でありながら神であり,ときに人間にも変身する存在として知られている。ところが,注意深くこの概念を巡る語りをみてみると,その意味が極めて同定し難いことがわかる。われわれからみると明らかに異質な存在が,同じものであるかのように「あたりまえ」のものとして語られるのである。本稿の目的は,そのムジナについての語りの分析を通じて,従来人類学者が「象徴」という概念を用いる衝動に駆られるとき,いったいなにが起きているのか,また,語りの中でそのような概念の果たしている役割は何か,という問いに答えようとするものである。「あたりまえ」と考えられていることを相対化し,考察するために,従来の中間的話体に加えて,テキストの微視的な分析を行うことにより,われわれ,そしてかれらの中で起こっているコンテキストのくむかえや矛盾の無視などが明らかにされる。