著者
小林 勝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.407-428, 1992-03-30 (Released:2018-03-27)

南インド・ケーララにおけるカースト制は,ナンブーディリ・ブラーフマンを中心=頂点とする<儀礼的位階>イデオロギーが著しく貫徹され,彼らが王権を超える地位を獲得していたことによって特徴付けられる。そのことの意味は,一番に,この地域が古代の統一王権を喪失して以来近代にいたるまで慢性的な政治的分裂状況にあり,そこにおける汎ケーララ的な次元での社会的統合の宗教的な要としての役割がこのブラーフマンに対して要請されてきたという歴史的な経緯に求められる。また,ナンプーディリは他に例をみない大土地保有者であり,そしてある場合には地方小王権に対抗し得るような強大な武力をさえ抱え込んでいたのであって,そうした彼らの世俗的な側面は一方で自らの汎ケーララ性を裏切りながら,しかし全体からすれば彼らの宗教的権威を王権から自立させて維持するのに大きな意義をもったのである。
著者
堀内 正樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.25-41, 2000 (Released:2018-05-29)

クリフォード・ギアツの著書に有名な 『Islam Observed』がある。視覚を通してイスラームを理解するということだろうか。しかし本稿では、見たり見られたりするイスラームではなく、聞いたり話したり呼びかけたりするイスラームがあって、その方が現実感があると考える。モロッコにおいてイスラームが提供する音には,コーランの詠唱に始まり,祈りの呼びかけ,預言者賛歌,神学のテクストの詠唱,神秘主義教団の祈祷句,憑依儀礼の音楽など様々なものがある 。一方 「音楽」の諸ジャンル,たとえば古典音楽,民俗歌舞,商業音楽などにも宗教的な要素が深く浸透している 。宗教音はこうした個々の音のジャンルを乗り超えて柔軟に結び合わされ,全体として人々に感覚としてのイスラームを提供しているように思う 。その感覚の統合化に機能する音の特徴として,本稿では「脱分節性」という概念を提起する 。この特徴は意味の分節化を抑制する機能を持ち,結果として特定の意味ジャンルを越え出て,それらを相互に結び付けることを可能にする。従来のイスラーム社会の分類方法の主流を占めてきた「正統イスラーム」対「スーフイズム」, あるいは「学究的イスラーム」対「土着信仰」といった視覚的な分類枠もこうした音文化分析によって組み替えることが出来るのではないか,という可能性を示してみたい 。
著者
松本 尚之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本発表では 、在日アフリカ人の間で2000年を前後して隆盛を極めた服飾ビジネスについて、特にナイジェリア出身者の事例を通して報告する。対象とするビジネスは、アメリカのポピュラー文化(ヒップホップ)の流行を背景として生まれたもので、彼らが携わるエスニック・ビジネスのなかでも日本人を対象とした点に特徴がある。服飾ビジネスの概要と変遷を論じ、ポピュラー文化のグローカル化と移民の関係について考察を行いたい。
著者
築島 謙三
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.41-51, 1950

Kroeber insisted on man's "social" nature-a trait which distinguishes him from animals. Sapir doubted this, and thus the problem of why man is essentially "social" still remains. Here lies a psychological issue, which in recent years has given rise to emphasis on the concepts of symbol and sign. The existence of culture is necessarily connected with the symbolic faculty, as White has ponited out. But White does not explore the final implications of this. When we consider the creative development of culure by Homo sapiens and when we consider the psychological nature of the symbolic faculty, we cannot but admit the creative power of this symbolic faculty. In this faculty of using the symbol we see likewise the faculty of creating the symbol. White regards man as a constant ; culture as an independent variable. We see, however, that men are not really constant because of their unique psychological creative faculty. Enculturation into a given culture depends essentially on the exercise of this faculty. It seems we are obliged at least in principle to admit that the individual may have the power to change culture, although the cultural stream in the long view appears generally so determining that the individual seems powerless. Obviously we cannot neglect the concept of the super-individual nature of culture and deny that we are able to study culture as if it were an independent entity. For example, we must know the structure of any culture before we study the process of enculturation of an individual into that culture. The most important inquiry would seem to lie in the area of the interdependence between the individual and cultural process, especially when investigating a small community culture intensively and minutely. Thus we may conclude that culture is not entirely super-individual.
著者
孫 嘉寧
出版者
日本文化人類学会
巻号頁・発行日
pp.113, 2018 (Released:2018-05-22)

まず、鳴釜神事の由来が結末に語られる桃太郎昔話の一モデルという吉備津地域温羅伝説の文献記録及び現在の神事を紹介する。鬼・温羅は製鉄技術を持つ渡来統治者とされ、伝説の語りには渡来集団と在地集団と中央政権など重層な対立関係やねじれが見られ、ローカル歴史が不断に語り直されることを、構造主義、伝承と歴史、記憶理論、両義性の概念や理論で考察し、今日観光文脈との関連と、地域アイデンティティの再構築を指摘する。
著者
星野 晋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.460-481, 2002-03-30 (Released:2018-03-27)

本研究は、エホバの証人の輸血拒否を、新しい医療技術の開発によって医療現場で生じた文化摩擦であると位置づけ、この問題をめぐる日本の医療環境の変化の過程を見ていくことにより、医療と技術と文化の関係を検討することを目的とする。エホバの証人(法人名、ものみの塔聖書冊子協会)は、19世紀末にアメリカで誕生したキリスト教系の宗教団体であり、血を食べてはならないという聖書の記述を根拠に医療現場で輸血を拒否することが、さまざまな国で社会問題になった。日本では、1985年交通事故に遭った小学生の輸血を両親が拒否し死に至ったことがマスコミで報道され、エホバの証人、信者である両親、輸血を強行しなかった医師等が非難の的となった。1990年前後から、輸血拒否問題をめぐる状況は大きく変わり始める。患者の自己決定権、インフォームド・コンセントといった概念が社会的に認知されるようになってきたが、これらの考え方はエホバの証人の輸血を拒否し「無輸血治療」を選択するという主張と合致するものであった。一方、薬害エイズ問題等で輸血や血液製剤の危険性が改めて注目されるところとなり、その回避にもつながる新しい薬剤や技術が開発されはじめる。その結果、輸血は人の生死を分ける唯一の選択肢ではなくなった。また協会はそのころ、新しい技術や無輸血治療に理解を示す医師等についての情報を信者に提供するなどして信者と医療の架け橋の役割を果たす、医療機関連絡委員会等の部門を設置する。結局、医療側とエホバの証人は、それぞれがいだく信念の直接衝突を避け、インフォームド・コンセントの枠組みを最大限に利用し、その場面でなされる利用可能な技術の選択という一般的なテーマに輸血拒否の問題を解消させる。その結果この文化摩擦は解決する方向に向かっているといえる。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

本発表では、日本の内なるエスニシティへの他者化、および、それを内面化した自己他者化のプロセスに作用する文化認識と実態の所在について、「東北地方で暮らす関西人」である発表者のオートエスノグラフィーをもとに考察する。それをもとに、文化人類学における文化の捉え方を今ひとたび考え直してみたい。
著者
長井 優希乃
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第51回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A16, 2017 (Released:2017-05-26)

本発表ではインド、デリーにおいて働く不可触民であるメヘンディ描きの家族に焦点を当て、メヘンディ描きの仕事のなかでいかに彼らが他者のまなざしを操っているかということを考察する。その上で、まなざしを操る彼ら自身が、不可触民であるということを他者からまなざされることを恐れながらもそれを隠し、いかにビジネスをし、貨幣を介して装うのかということを考察する。
著者
丸山 道生
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第42回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.266, 2008 (Released:2008-05-27)

流動食は最も重症な病人が食する食事で、それぞれの民族や地域での健康を祈願し、生命の再生を願う儀礼的な食事である。世界20カ国の50病院を訪問し、流動食を中心とした病院食を検討した。東洋(アジア)の流動食は穀物の煮汁が主体で、西洋(ヨーロッパ、オセアニア、南北アメリカ)ではブイヨン、ブロスに代表される肉の煮汁である。東洋ではさらに、北方は雑穀(粟)、日本を含む中間では米、南では大麦の煮汁が流動食の代表であることがわかった。
著者
黒崎 岳大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.247-265, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
22

マーシャル諸島共和国マジュロ環礁には、東太平洋戦没者の碑と聖恩紀念碑という日本政府が建立した記念碑がある。前者は1984年に第二次世界大戦の犠牲者への追悼の意味を込めて建立され、後者は1918年に台風被害を受けた同環礁に対する大正天皇の支援を記念して建てられた。 建立した日本側の意図とは異なり、今日のマジュロ環礁民たちは、両方の記念碑の建立を日本がもたらした経済開発による地域の発展と結びつけて考えた。1980年代には、日本からマーシャル諸島への経済支援の実施と慰霊巡拝による日本人の訪問再開が重なった。マジュロ環礁民は、東太平洋戦没者の碑の建立を、日本からもたらされるODA事業によるローラ地区の発展と結びつけて歓迎した。同様に、戦前に建立された聖恩紀念碑に対しても、同紀念碑が建立された時期がコプラ産業の発展によるマジュロ環礁の開発が進んだ時期であったことと結びつけ、彼らは紀念碑を豊かな時代の象徴として考える言説が確認された。 二つの事例から、記念碑の建立とそこから現地の人々が想起する意味との関係について、次のように解釈できる。一つは、歴史的文脈を超えて生じさせる記念碑が有している記憶やイメージを喚 起する力である。戦没者の碑の建立と経済援助の開始が同時期だったことから、同碑が地域開発を想起させるエージェンシーと化した。同様に住民は紀念碑に対しても、植民地主義という文脈を超えて、戦前のプランテーション開発による経済開発を想起させたと解釈できる。 一方、記念碑の建立と経済開発を結びつけた言説が生じた背景に、戦後の米国による統治政策との関係がある。米国からも多大な財政支援があったにもかかわらず、現地の人々は、社会インフラ整備など目の前に見える形で顕在化された日本のODA事業に対して、豊かさの象徴を見出した。 そこには、強制移住政策や過度な欧米文化の流入という目に見えない形で現地社会に深刻な影響を及ぼす米国に対する不満が存在すること、そして、その対比の中で記念碑の建立と日本の経済開発を結びつける言説が生み出されたのだと解釈できる。
著者
三尾 裕子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.243-268, 1990-12-30

本論は, 台湾において最も人気の高い<神々>のうちの一つである王爺の分析を通して, 台湾の漢民族の霊魂観の構造的特徴及びそれらと台湾の歴史的社会的背景との関係を検証する。本論で王爺を取り上げたのは, 王爺の分析が, 台湾の漢民族の世界観の特色を理解するのに役立つと考えられるからである。王爺は, 従来台湾人の民俗分類概念といわれてきた3種の霊的存在-<神>, <鬼>, <祖先>-では捉えきれない。その問題点は, 従来の見方があまりに静態的であったために, 霊的存在の変化の可能性やその過程を説明しきれない点にあったといえる。本論では, このような視点の下に, まず従来の王爺研究をふり返る。そして, これらの文献資料及び筆者の調査した王爺信仰及び「迎王」儀礼を通して, 王爺にみられる霊魂の内的構造を分析する。更に, 「王爺」の<鬼>から<神>への変化が, 台湾の歴史的環境のなかで生み出されてきたことを明らかにする。
著者
田中 雅一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第42回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.64, 2008 (Released:2008-05-27)

本報告の目的は、強壮剤(精力剤)から見たヘテロセクシュアルな男性身体の分析である。具体的に考えたいのは勃起不全(ED)の男性身体である。あえて本質主義的な表現を使えば、勃起不全は、ヘテロセクシュアルな男性の否定であり、「死」を意味する。この「死」をいかに克服し、蘇ることができるだろうか。その方法のひとつが強壮剤である。強壮剤の分析を通じて、いままで隠蔽されてきた男性身体にあり方に迫りたい。