著者
中谷 和人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.431-449, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
40
被引用文献数
3

ミシェル・フーコーの生権力(生政治)論は、我々の生をとりまく今日の社会政治的布置を批判的に記述・分析するための有効な視座を提供してきた。しかし他方で、フーコー自身は、生がそうした特定の権力布置から絶えず「逃れ去る」ものであることも鋭く指摘していた。本論ではこの指摘を踏まえつつ、デンマークの障害者美術学校「虹の橋」に所属していた一人の男性生徒のドローイングに焦点をあて、その「線を描く」という営みが、いかに現在支配的なそれとは異なった生存の仕方(生き方)を可能とするかを追究していく。1980年代以降デンマークで進められてきた脱施設化の過程は、決して障害者の単なる「自由解放」ではなかった。むしろ、その延長線上に近年実施されたある全国プロジェクトの例から浮き彫りになるのは、かれらの自己決定や参加を、いかに 客観的で標準化された形式のもとで監視し、コントロールするかという問題である。そしてそのさいに活用される方法こそ、「監査」と呼ばれる新しい統治技法にほかならない。だが、自己と他者の統治、そして自らの生の形式化は、必ずしも監査の実践を通じてのみなされうるわけではない。そこで取り上げるのが、虹の橋に長年在籍しつつも、2012年に急逝したセアンという男性の事例である。先在する経験の模倣や再現ではなく、むしろ、その真の「所有」を通じて自己自身の変容へと向かうセアンの線描画制作、そしてその作品の中にたどられた「物語」に随うという他者の営みがつくりあげてきたのは、監査におけるそれとは根本から異なった、美学的でかつ倫理学的な自己の自己自身に対する関係、自己と他者のあいだの関係である。本論ではこれを、プロジェクトで作成される「図」と、セアンが描く「作品」との比較を通じて明らかにすることで、今日支配的な社会政治的布置の内部で「線」が切り開く生の新たな可能性について探究する。
著者
奥野 克巳
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.4, pp.417-438, 2012-03-31 (Released:2017-04-17)

マレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の狩猟民・プナン社会において、人は「身体」「魂」「名前」という三つの要素から構成されるが、他方で、それらは、人以外の諸存在を構成する要素ともなっている。人以外の諸存在は、それらの三つの要素によって、どのように構成され、人と人以外の諸存在はどのように関係づけられるのだろうか。その記述考察が、本稿の主題である。「乳児」には、身体と魂があるものの、まだ名前がない。生後しばらくしてから、個人名が授けられて「人」と成った後、人は、個人名、様々な親名(テクノニム)、様々な喪名で呼ばれるようになる。その意味において、身体、魂、名前が完備された存在が人なのである。人は死ぬと、身体と名前を失い、「死者」は魂だけの存在と成る。これに対して、身体を持たない「神霊」には魂があるが、名前があるものもいれば、ないものもいる。「動物」は、身体と魂に加えて、種の名前を持つ。「イヌ」は、イヌの固有名とともに身体と魂を持つ、人に近い存在である。本稿で取り上げた諸存在はすべて魂を持つことによって、内面的に連続する一方で、身体と名前は多様なかたちで、諸存在の組成に関わっている。諸存在とは、身体と魂と名前という要素構成の変化のなかでの存在の様態を示している。言い換えれば、諸存在は、時間や対他との関係において生成し、変化するものとして理解されなければならない。人類学は、これまで、精神と物質、人間と動物、主体と客体という区切りに基づく自然と社会の二元論を手がかりとして、研究対象の社会を理解しようとしてきた一方で、複数の存在論の可能性については認めてこなかった。そうした問題に挑戦し、研究対象の社会の存在論について論じることが、今日の人類学の新たな課題である。本稿では、身体、魂、名前という要素の内容および構成をずらしながら諸存在が生み出されるという、プナン社会における存在論のあり方が示される。
著者
中川 敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.262-279, 2003-09-30 (Released:2018-03-22)

この論文の目的は密接に関連した二点からなる:(1)ギアーツの「文化システムとしての宗教」とそれに対するアサッドの批判をあたらしい光の中で再解釈すること、そして、(2)そうすることによって、このような論争から帰結するとされる理論的な袋小路から抜け出す道を探り、同時に、人類学的な比較というもののあたらしい可能性を探り出すことである。アサッドの批判は、端的に言えば、ギアーツの議論はエスノセントリックである、ということである。ギアーツの宗教の定義は、ギアーツ自身の文化に特徴的な宗教、すなわち宗教改革以降のキリスト教の考え方に、無意識にせよ、多大な影響を受けているのである、とアサッドは主張するのである。このような批判からギアーツの議論をすくい出すために、私が主張したいのは、ギアーツの議論をローティの反・反エスノセントリズムの議論の脈絡で読め、ということである。反・反エスノセントリズムとは、簡単に言えば、自らのエスノセントリズムに自覚的であるべきであり、そして、(エスノセントリズムを破棄せよというのではなく、)あくまでそれから出発し、他の立場を受け入れることができるようにそのエスノセントリズムを拡大していくべきである、という考え方である。この立場は、もちろん、単純なエスノセントリズムではない(ちょうど反・反相対主義が単純な相対主義ではないように)。それゆえ、あくまで思考実験の中だけにせよ、ギアーツの自称する立場、すなわち、反・反相対主義と相容れない立場ではないと考えることは可能であろう。反・反エスノセントリズムという光の中で、当該の論文の中でのギアーツの作業は、次のようにとらえられることになる-彼は自らのもつ「宗教」に対するステレオタイプ(パットナムの言葉であるが)をできるだけ解明(カルナップの言葉であるが)しようとしているのだ、と。このようにしてギアーツの作業をとらえると、論争それ白身がまったく異なった様相を呈してくることとなる-それはもはや論争ではなく、対話(あるいは、ローティのお気に入りの言葉をつかえば、会話)なのである。二人の対話は経験に近い概念(「痛み」「苦しみ」「訓練」などなど)と経験に遠い概念、すなわち「宗教」との間を振り子運動する。対話者はさまざまな時代、さまざまな場所から民族誌的事実を引用し、そうすることによって、自らのエスノセントリックなステレオタイプを解明していくのだ。この対話こそが、私は主張したい、人類学の比較の模範演技である、と。
著者
太田 好信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.383-410, 1993-03-30 (Released:2018-03-27)
被引用文献数
2

本論は、文化の担い手が自己の文化を操作の対象として客体化し,その客体化のプロセスにより生産された文化をとおして自己のアイデンティティを形成する過程についての分析である。現代社会において,文化やアイデンティティについて語ることは,きわめて政治的にならざるをえない。したがって,この客体化の過程も,その対象や方法,またその権利などをめぐる闘争に満ちている。文化の客体化を促す社会的要因の一つは観光である。観光は「純粋な文化」の形骸化した姿を見せ物にするという批判もあるが,ここでは,観光を担う「ホスト」側の人々が,観光という力関係の編目を利用しながら,自己の文化ならびにアイデンティティを創造していることを確認する。つまり「ホスト」側の主体性に立脚した視点から観光を捉え直す。国内からの三事例を分析し,「真正さ(authenticity)」や「純粋な文化」という諸概念の政治性を再考する。
著者
鷹木 恵子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.9-24, 2000 (Released:2018-05-29)

イスラームは,その歴史的過程で二つの「知」, すなわちアラビア語でイルムとマァリファと呼ばれるものを発展させてきた。 本論は,イスラーム世界の音文化を,この二つの知の在り方との関連から検討するものである。イルムとは,コーラン学やハディース伝承学に始まる,イスラームの伝統的諸学,また現在では学問一般をも意味する 。それは学習によって習得可能な形式的知識,また差異化や序列化,規範化を指向する知識として捉えられる 。 他方,マァリファとは,イスラーム法の体系化に伴う信仰の形骸化に反発して生まれたイスラーム神秘主義において追求された,身体的修業を通して到達する神との神秘的合一境地で悟得される直観知,経験知を意味する 。 これら二つの知の主たる担い手,イルムの担い手ウラマーとマァリファの担い手スーフィーのあいだでは,音楽に対する解釈やその実践にも異なるものがみられた。ウラマーのあいだでは,当初,音楽をめぐり賛否両論の多くの議論があり,イスラーム法での儀礼規範にはコーラン読誦とアザーン以外, 音文化的要素はほとんどみられない。一方,マァリファを追求したイスラーム神秘主義では,サマーと呼ばれる修業法に,聖なる句を繰り返し唱えるズィクルや, 器楽,舞踊などが取り入れられ,豊かな音文化を開花させた 。またイルムの儀礼実践の中核にあるコーラン読誦では、啓示の意味を明確化し、他者への伝達を指向する。堀内正樹の分析概念に基づくならば,「音の分節化」がみられるのに対して,マァリファの儀礼実践ではズィクルにみるように,自己の内面への精神集中が目指され,神との合一境地ではその声は意味を解体させ,「音の脱分節化」という特徴がみられる。このようにイルムとマァリファの知の特徴の相違と同様,これらの儀礼的実践における音文化的特徴にも,それぞれ異なる特徴のあることを指摘し得る。またイスラーム世界ではコーラン読誦やアザーンは「音楽」の範鴎外とされていることから,より包括的な音の問題の検討の上では,「音文化」という概念が有効であることについても,最後に若干,コメントを付す。
著者
土井 冬樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第55回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B16, 2021 (Released:2021-10-01)

先住民の文化は当該先住民によってのみ利用できるとする考え方がある一方、主流派と先住民の二つの文化を尊重する二文化主義体制をとったニュージーランドでは、国家的な組織の一つである警察が、先住民マオリの踊りであるハカに取り組むようになった。本発表では、他者による文化の利用を嫌うマオリが、警察によるハカの実践をどのように許容しているのか考察する。
著者
大石 友子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.D01, 2023 (Released:2023-06-19)

本映像「三月を待ち侘びて」(制作者・著作権者:大石友子、制作年:2023年、上映時間:37分)は、報告者が長期フィールドワークの中で出会った一頭のゾウ、三月の生と死を記録したものである。この映像では、わからなさに向き合う際に喚起される想像的連関を通じて、フィールドでの思考に視聴者を引き込むとともに、オープンエンドな物語を受け渡すことを試みた。
著者
杉田 映理
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 The 56th Annual Meeting of the Japanese Society of Cultural Anthropology 日本文化人類学会第56回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A11, 2022 (Released:2022-09-13)

本報告では、コロナ禍の経済的影響として「生理の貧困」が2021年になって社会的に注目されたことをきっかけに、日本でも広がり始めた生理用品無償配布について考察する。現在、生理用品無償配布は、経済的困窮者の支援だけを目的とした施策となっているが、これまでの海外の動向および本研究におけるトイレ内無償提供の有効性の検証を通じて、生理用品無償配布の目的を問い直したい。
著者
片岡 樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.4, pp.623-639, 2021 (Released:2021-07-06)
参考文献数
55

本稿は、愛媛県菊間町(今治市)の牛鬼の事例から、神と妖怪との区分を再検討することを試みる。菊間の牛鬼は、地域の祭礼に氏子が出す練り物であり、伝説によればそれは妖怪に起源をもつものとされている。牛鬼は祭祀対象ではなく、あくまで神輿行列を先導する露払い役として位置づけられているが、実際の祭礼の場では、神輿を先導する場面が非常に限られているため、牛鬼の意義は単なる露払い機能だけでは説明が困難である。祭礼の場における牛鬼の取り扱いを見ることで明らかになるのは、牛鬼が公式には祭祀対象とはされていないにもかかわらず、実際には神に類似した属性が期待され、神輿と同様の行動をとる局面がしばしば認められることである。また、祭礼に牛鬼を出す理由としては、神輿の露払い機能以上に、牛鬼を出さないことによってもたらされうる災厄へのおそれが重視されている。つまり牛鬼はマイナスをゼロにすることが期待されているのであり、その意味では神に似た属性を事実上もっているといえる。これまでの妖怪論においては、祀られるプラス価の提供者を神、祀られざるマイナス価の提供者を妖怪とする区分が提唱されてきたが、ここからは、事実上プラス価を提供していながら、公には祀られていない存在が脱落することになる。牛鬼の事例が明らかにするのは、こうした「神様未満」ともいうべき、神と妖怪の中間形態への分析語彙を豊かにしていくことの重要性である。
著者
藤野 陽平
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.A17, 2023 (Released:2023-06-19)

台湾の「返校」というデジタルゲーム、そしてそこからメディアミックスした諸作品に現れる恐怖と記憶のあり方を、ダマシオのいう生得的な一次の情動と、成長とともに身につける二次の情動という視点から分析する。台湾の他の作品との比較を通じて、普遍性のある恐怖に関連する一次と、地域性の強い記憶に関連する二次の情動のバランスをとっている本作は、集合的記憶を構築しつつトランスボーダーに展開していることを指摘する。
著者
師田 史子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.F01, 2023 (Released:2023-06-19)

本発表は、フィリピンにおける財宝伝説「山下財宝」の語りや宝探しの実践を通じて、不確実な存在が確実な存在として立ち現れていく様相を明らかにする。財宝譚を語ることで人びとは、戦時中の略奪された記憶を基層としながら、自らの生活世界に隠れる富のイメージを精緻化している。今は掴めずともいつか掴みうる潜在的な財として財宝の存在が据え置かれることに、財宝伝説が社会に残存し続ける現代的な意味が見出せる。
著者
岸上 伸啓 丹羽 典生 立川 陽仁 山口 睦 藤本 透子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B12, 2016 (Released:2016-04-23)

本分科会では、マルセル・モースの贈与論の特徴を概略し、それが文化人類学においてどのような理論的展開をみてきたかを紹介する。その上で、アラスカ北西地域、カナダ北西海岸地域、オセアニアのフィジー、日本、中央アジアのカザフスタンにおける贈与交換の事例を検討することによって、モースの贈与論の限界と可能性を検証する。さらに、近年の霊長類学や進化生態学の成果を加味し、人類にとって贈与とは何かを考える。
著者
田中 雅一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.425-445, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
67

本講演の目的は、ここで<格子>と<波>と名付ける二つの社会関係のモードを論じ、それら がどのような形で国家による統治やナショナリズムに関わるのかを考察することである。一方に、 <格子>モードとして、生者を「生ける屍」に変貌させるアーカイヴ的統治が認められる。それは、 たとえばベルティヨン・システム、現地人の身体計測、アウシュヴィッツにおける収容者の管理方 法という形で現れている。他方に、<波>モードとして、隣接性と身体性の密な人間関係が想定で きる。そこでは、おしゃべりあるいはオラリティ、風や水などが重要な役割を果たす。つぎに、ナ ショナリズムとの関係で<波>モードが特徴的な小説とアート作品を取り上げる。まず、ナショナ ルな物語に回収されることに抗する個人的な経験を水や音、意味の取れない発話などで表現する沖 縄の作家、目取真俊の小説を考察する。つぎに、死者を追悼するモニュメントに対比する形で、風、 ロウソクの炎、影、ささやきなどを利用するボルタンスキーの作品を紹介する。そこでは名前をつ けること、心臓音を集めるといったアーカイヴ的活動が重要になっている。ボルタンスキーの作品 はアーカイヴァル・アートの代表と評価されているが、それは国家によるアーカイヴ的統治に寄与 するというよりは、撹乱するものとして位置付けることが可能である。さらに、自己アーカイヴ化 とも言える私的蒐集活動に触れる。
著者
広畑 輔雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.191-204, 1975-12-31 (Released:2018-03-27)

The god Takami-musubi (皇高産霊), the Founder of the Imperial Family, in Japanese mythology seems to be equal to the god Tien-ti (天帝) . Tai-i (太一) or Tien-Huang-ta-ti (天皇大帝) in Chinese mythology. It appears that the myth of Tenno (天皇) , the monarch of Japan, being the descendant of Takami-musubi, was created for the purpose of making him equal with Huang-ti (皇帝) , the monarch of China. If Tenno is the descendant of Tien-ti or Tien-Huang-ta-ti, it follows that he has the right to worship the god Takami-musubi. And by that, he can also have the same privilege of worshiping the heavens as Huang-ti has. Thus, it shows that Tenno had the highest status because his ancestor was the highest god in the heavens. It is my opinion that the god of the Founder of the Imperial Family was created for such a purpose. In considering the reason why Amaterasu was made the Founder of the Imperial Family, we should do so on the basis of the relationship between Takami-musubi and Amaterasu, because Amaterasu was made the Founder of the Imperial Family later than Takami-musubi. Since Takami-musubi was originally made the ancestor god, it can be thought that Amaterasu, the Sun-goddess, was combined with Takami-musubi to become the joint-Founder of the Imperial Family. We can find proof of this in the fact that the Grand Shrines of Ise (伊勢神宮) have an indication of being combined with Tai-i of China. It seems to me that in the Imperial Court of Japan, the religious observation of the Sun-goddess had been performed before the Sun-goddess was made the Founder of the Imperial Family. There is a legend that Ame-no-hiboko (天之日矛) , the prince of Hsin-luo (新羅), came to Japan with a treasure, and that it was made a sacred treasure of the Isonokami Shrine (石上神宮). By examining this legend, I am of the opinion that it was the legend which reflected that the religious observation of the Sun-god had been transmitted from the royal family of Korea. After that the Sun-goddess was elevated to a higher status under the influence of Chinese thought, and finally reached the status of the Founder of the Imperial Family by being combined with the god Tai-i.
著者
加瀬澤 雅人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.157-176, 2005-09-30 (Released:2017-09-25)

近年、アーユルヴェーダは世界的な医療となりつつある。南アジア地域固有の医療実践であったアーユルヴェーダは、今日では世界各地に拡大し、それぞれの地域で新たな解釈が加えられ実践されている。インドにおいてもアーユルヴェーダがグローバル化した影響は大きい。多くの患者が海外からインドに訪れるようになり、南インド・ケーララ州では、このような患者のための滞在施設が乱立し、アーユルヴェーダは一大産業となりつつある。世界とのかかわりのなかで、インドのアーユルヴェーダ実践は変容し再構成されているのである。しかし、アーユルヴェーダがグローバルな産業として発展している現状について、インド現地のアーユルヴェーダ関係者の不安もある。海外でアーユルヴェーダが医療ではなく「癒し」術として広がり、その一方でアーユルヴェーダの生薬や治療法にたいしては先進国の企業によって特許が取られていく。このような状況は、インドのアーユルヴェーダ医師や製薬関係者の海外進出を阻み、アーユルヴェーダを彼らの関与できない方向へと転換している。こうした状況のなかで、アーユルヴェーダの知識・技術に関する権利を国家的に保護し、インド主導で医療・産業としての可能性を世界規模で広げていくために、近年ではこれらの知的財産・技術をインドの「ナショナルな資源」として位置づける動きが生まれつつある。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-25, 2013-06-30 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
4

現代世界が経験している激動は、人類学者のフィールドとそのフィールドで暮らしている人々に直接的な影響を与えている。内戦と殺戮、開発と環境破壊、移民と排除、貧困と感染症の蔓延、といった「問題」は、たんなるローカルな「問題」にとどまらず、グローバルな依存関係のなかで「地続き」に現象する。また人類学者自身が、暴力的衝突や内戦に巻き込まれたり、環境破壊や大規模開発、あるいは環境保全や開発反対運動に関わったりすることは、今やフィールドの日常となりつつある。こうした状況に直面した人類学は、これまでのフィールドにおける中立性と客観性を(建前上)強調する立場から、対象への関与と価値判断を積極的に承認する立場へと移行していくことになる。現代人類学は「人権尊重」「地球環境保全」「民主的統治」などをグローバル化時代の普遍的価値基準として承認し、異文化への介入を試みてきた。だがこのような普遍主義的傾向の肥大化は、さまざまな疑問や反作用を生み出している。その核心は、フィールドへの「関与」「介入」を正当化する論理の根本は何かという問題だろう。本論は、この「普遍主義」の勃興の様相を明らかにした上で、それがもつ必然性と危険性を検討し、相対主義的な世界と新たに登場した普遍主義的な世界認識をこれからの人類学はどのように位置づけ関係させるかについて考察を試みる。ただしその試みは、普遍主義的思考を拒否して、相対主義を復活させるという単純なものでも、その逆に相対主義的思考を放逐し普遍主義的価値基準を学的核心にしようというものでもない。本論文の目的は、この二つの世界認識を現代人類学はいかにして接合し、錯綜する現実に対処する方向性を定めるのかについて日常人類学の生活論に基づいた一つの回答を提出することにある。