著者
飛内 悠子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

南スーダン、ウガンダ国境地帯に位置するカジョケジ郡では、従来先祖崇敬やウィッチクラフトが存在したが、聖公会リバイバル運動の流入によってこれが否定されるようになっている。一方、人々は「神」の力でとり憑く悪魔を払おうとする。このキリスト教徒たちの「呪術」的実践とそれをめぐる言説を見ていくことによって、キリスト教における「呪術」のありようを提示し、キリスト教の人類学と呪術の人類学を架橋することを目指す。
著者
原尻 英樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.107, 2010

合気柔術及び古流空手ともども丹田を中心としたところで、球体あるいは螺旋形の動きをおこし、その波動を自らの末端まで伝え、それを相手に伝えることで技にしていることがわかる。研究方法の第一前提は、操作的に近代的身体と前近代的身体を分けることである。次に、研究者自らが技の修得をする必要がある。また、これまでの代表的な身体論研究における研究方法についての問題点とその克服方法についても考察する。
著者
小谷 凱宣
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.245-262, 1996
被引用文献数
1

1996年4月の「ウタリ対策に関する有識者懇談会報告書」の提出により,アイヌ研究の推進は,より重要かつ緊急になってきた。有識者懇談会報告書の内容は,ウタリ協会の「アイヌ新法」制定要求に対する具体的措置の第一歩と考えられ,その意味でアラスカ先住民の先住権を全面的に承認したアメリカ連邦政府現地特別委員会報告に対比できる。そして,現地特別委員会報告にもとづいて制定された「アラスカ先住民諸要求解決法」(ANCSA)」は「アイヌ新法」内容のモデルになっていると解釈できる。本稿ではアラスカ先住民の先住権などに対する行政措置を決めた現地特別委員会報告(1968)とANCSA(1971)の内容を紹介する。それらに照らして,有識者懇談会報告書の内容を検討し,アイヌ新法制定要求内容の三本柱のうち,文化振興策のみが触れられただけで,先住権承認とアイヌ民族基金設置要求については触れられていないことを指摘する。ついで,有識者懇談会報告書で強調されているアイヌの総合研究の推進に焦点をおき,アイヌの博物館コレクションを中心に,いままでのアイヌ研究の問題点を指摘する。そのうえで,1980年代前半から実施してきたB・ピウスツキのアイヌ資料研究と在北米アイヌ関係資料の現地調査の結果にもとづき,アイヌの総合研究の必要性を具体的の考慮,提案する。未刊行資料の再発掘やその意義の再検討は,狩猟民文化が世界的に変容しつつある昨今,緊急を要する課題であると考えるからである。
著者
佐々木 衞
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.280-300, 1988

中国の民間宗教が多様な姿を持つことに, 研究者は多くの関心を払ってきた。本稿ではフリードマン等が提示した中国社会の統一性と多様性に関する命題から, その全体的な姿を理解する手掛を示した。中国の民間宗教には宗族の祖先祭祀や廟の祭祀の他に, 歴代の朝延から弾圧され続けた民間宗教集団のものがある。宗教集団を構成する絆は師弟が結ぶ個人的な関係より他はなく, 宗教集団は師弟の絆を越えた実在を持つことができなかった。この構造においては, 伝統的な宗教権威は継承され難く, 集団の統一は頭目のカリスマ的実力に頼らざるを得ない。中国の民間宗教集団の活動には, 「伝統型」「分派型」「自唱型」の3つの位相がある。教義・組織・活動の範例として大きな影響力を持ったのは, 「伝統型」の位相の集団である。しかしこの位相の集団も教首の法燈を守るのは容易でなく, 幾代もつづいて継承されたのはごく少数であった。その存在は神格化されて広く一般民衆の中に流布した。教派の具体的な姿は, 幾多の「分派型」がくり返し出現する中に新しく更新されていった。中国の民間宗教を全体的に理解するには, 宗族と村廟の祭祀に加えて, こうした宗教集団の活動をも重ね合わせて透視することが必要であろう。中国社会の構造原理を解明する上でも, 欠かすことのできない問題である。
著者
広瀬 浩二郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.3, pp.379-398, 2005

本論文においては「介護」を障害者と健常者の関係と定義し、「介護の人類学」構築の可能性を探る。具体的には戦後60年間の視覚障害者と日本社会の関わりに注目し、「介護」概念の変遷を追う。「平家物語」の創造、伝播に象徴されるように、日本の宗教・芸能史のなかで盲人たちは大きな役割を果たしてきた。江戸時代以後、彼らは主に按摩・鍼・灸、あるいは筝曲を生業とした。近代の盲教育にあっても、中世の当道(琵琶法師の座)以来の伝統的職業を死守していくことが最大の目標とされた。「決められた道」を持つことが他の障害者には見られない視覚障害者の特徴であり、その「決められた道」からの脱却が第二次大戦後の盲青年たちの"見果てぬ夢"となった。"見果てぬ夢"は視覚障害者の高等(大学)教育への進出という形で発現した。本論文では、1950〜60年代を「大学の門戸開放」期、70〜80年代を「入学後の学習環境の整備」期、90年代以降を「卒業後の就労支援」期と位置付け、各時期の「介護」状況を示す団体として「日本盲人福祉研究会(文月会)」「関西SL(スチューデント・ライブラリー)」「視覚障害者文化を育てる会(4しょく会)」の活動を取り上げる。障害者=「特殊」、健常者=「普通」という図式は、少数者を差別、排除する近代化過程の必然の帰結だった。視覚障害者は「奮闘」「懇願」することから"見果てぬ夢"の実現をめざし、彼らの社会参加を求める運動は晴眼者の「同情」により受け入れられていった。70年代以後には「権利」を主張する障害者とそれを「支援」する健常者により、「特殊」を「普通」に変換する「バリアフリー」が進展した。本論文では「バリアフリー」の次なる課題、21世紀の「介護」を創出する新しい概念として「フリーバリア」を提唱したい。
著者
今村 豊 池田 次郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.311-318, 1950 (Released:2018-03-27)

According to Dr. Kiyono, the modern Japanese are the result of physical change, having developed out of a prehistortc type, through a protohistoric intermediate type, with some Korean admixture. The Ainu, being different from the peoples either of prehistoric or protohistoric periods, had nothing to do with the formation of the modern Japanese. These conclusions are said to be derived, with statistical procedures, from a survey of skeletons of all those periods. Thus, if there were defects in his chronology of skeletons and his anthropometrical methods, his conclusions would be questionable. In the first place, because of insufficient description of the excavations and the relation to other relics excavated, the chronology of skeletons is ambiguous. Furthermore, several errors can be pointed out. In the second place, there are defects in his anthropometric methods. When measurements are compared, the characteristics compared are not always of the same kind, and therefore the basis of comparison fluctuates. The "mittlere Typendifferenz" is calculated only between the most convenient materials, and general conclusions are drawn in spite of the fact that the interrelations between all materials have not been exhaustively worked out. On the basis of Dr. Kiyono's own anthropometrical data, the reviewers have calculated the "Typendiffirenz" between all materials exhaustively, and reached the following results : 1) Though Dr. Kiyono concludes that the difference between the modern Japanese and their adjacent peoples is greater than that between local types of the modern Japanese, his evidence, especially with reference to the relation of the modern Japanese to the Koreans and Northern Chinese, cannot be validated. 2) On the basis of Dr. Kiyono's anthropometrical data, the Ainu, rather than the protohistoric Japanese, would more probably be regarded as the intermediate type between the modern Japanese and the prehistoric people. 3) Statistical evidence as to the mixture with the Koreans is lacking. In short, even provided that the chronology of materials were exact, it would be impossible to draw Dr. Kiyono's own conclusions from his own statistics.
著者
井上 雅道
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.499-522, 2013

帝国の時代にあって、生-権力は、多様な身体・意識・行為によって構成されるマルチチュードとの交渉の中で、いかにセキュリティを構築し自らを形成しているのか。本稿では、現実の世界がさまざまな出来事を通じて演劇的に構成される仕方を分析する「ドラマトゥルギー」の手法=視点を用いながら、アメリカの大学警察(ケンタッキー大学警察部)の史的かつ民族誌的記述を通してこの問いを考察したい。この目標に向けまず、大学警察が「いれば煙たがられ、いなければ文句を言われる」二律背反に直面するようになった経緯を、1960年代から1970年代にかけての学生運動とその後の歴史的文脈の中で検証する。続いて、いなくて文句を言われることがないよう警察が被疑者・犯罪者を「見る・排除する」プロセスが、いることで煙たがられることのないよう警察が自らをキャンパス共同体(マルチチュード)に「見せる」プロセスといかに交錯しているかを分析し、警察が被疑者・犯罪者とキャンパス共同体を含む三者関係の中で、死に対する(=排除する)権利を行使する「見る主体」と生に対する権力を行使する「見せる主体」とを統合するようになったこと、またこの統合が大学における生-権力=セキュリティの強化をもたらしていること、を明らかにする。その後「生-権力は際限なく強化され、私たちを無力化している」という先行研究の議論の妥当性を検討すべく、近年-特に9・11同時多発テロ以降-セキュリティが強化されたまさにそれゆえに、警察官の意識・行為において見る主体(「死に対する(=排除する)権利」)と見せる主体(「生に対する権力」)の統一が崩れ、そこにある種の危機が現れていることを明らかにする。更にこの危機を「生-権力の臨界」として概念化し、それが呼び起こすマルチチュードの新しい自由・自律への含意を論じた後、この含意を「大学のエスノグラフィー」の可能性の中で検討する。
著者
山口 未花子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.4, pp.398-416, 2012-03-31 (Released:2017-04-17)

近年、文化人類学では西洋の二元論的思考を乗り越えようとする議論が活発に行われている。例えばフィリップ・デスコーラは自然と人間の関係を内面と外面の連続性から4つのモードに分類し、人々が集まる場面で支配的になるモードがその社会の存在論であると定義した。このような西洋とは異なる存在論を認めることは、異なる視点から社会を分析することを可能にする。本論文ではこうした議論を踏まえ、狩猟採集民のなかでも特に動物との緊密な関係を維持してきた北米先住民カスカの民族誌から、動物と人間の連続性を検討することを目的とした。具体的には、まずカスカが動物と最も接近する狩猟活動の中でみられた、動物に関する知識や技術、規範、種毎の分類から、カスカの人々が生態学的な知識を利用しながらも交渉可能な対象として動物を捉えていることを明らかにした。また、その動物を食べることが出来るか出来ないかによって儀礼の有無が決まることから、儀礼によって確保しようとする動物との連続性が、決してどの動物種にも求められるものではないことが示唆された。カスカの人々は、狩猟においては動物への接近が切望されるのに対し、日常の生活における過度な接近は同化への怖れを呼び起こすというように、状況によって動物との距離を図り、調節しながら生活をしている。さらにカスカを含めた動物同士の社会関係、物語、メディシン・アニマルといった項目の分析からは、種、あるいは親族集団、個という異なる単位での関係のバリエーションがあることが明らかになった。この中でも個人と動物との関係は最も基礎的な社会単位であり、文化的にもその関係の維持に最も価値がおかれ、注意が払われる。そこには動物達が織りなす世界の一部としての人間という、モードに切り分けられないような連続性というものが見いだせるのである。
著者
山上 実紀
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.414-434, 2013

近代医療を担う医師たちの苦悩は、医学に内在する不確実性の問題や医療の安全と責任、患者の自己決定権や家族関係をめぐる倫理的な葛藤、公衆衛生対策や医療経済政策の影響、そして医師と患者の権力関係、という様々な要因が絡まりあった中で起きる社会的な経験であるといえる。医療化論において、医師による患者の統制や管理、それによる患者の無力化が批判の対象とされてきた。しかし、そのような医師の行為が形成される背景には、医師の文化や価値体系に裏打ちされた役割意識がある。ところが、そのような現場の医師たちの様々な感情や苦悩といった主観的な経験はほとんど顧みられてこなかった。本稿の目的は、特殊な役割意識を持つ医師たちが、実際の臨床現場で何に苦悩しているのか、それは医師にとってどのような意味があり、どのような対処プロセスがとられてきたのかを明らかにすることである。分析に際しては、実際に現場で働く医師たちのインタビューデータを用いた。インタビュー対象者は日本で働いている総合診療医17名である。医師たちの感情に注目し、彼らの苦悩を概観する中で、新人医師と中堅医師、ベテラン医師の語りを比較し、苦悩の経年変化や対処の方法の違いを確認した。その後、3名の新人医師の詳細な語りの分析を通じて、彼らが経験した患者の苦悩や死、失敗経験が、医師たちにどのような否定的な感情をもたらすものであったのかを分析した。結論として、医師たちは役割意識を持つことによって、患者の苦悩や死に直面することに耐えられるという側面がありつつも、その役割意識によって新たな苦悩が創出されているということが明らかになった。医師の役割意識は、患者や社会からの期待によっても影響を受けており、医師の苦悩も時代とともに変容するものでると考えられる。
著者
外川 昌彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.315-339, 1997

本稿は, インド西ベンガル州のひとつの村落社会を事例に取り上げ, かつてこの地方で強力な覇権を揮っていたヒンドゥー王権と村落社会との関係を考察している。調査地は, インド亜大陸に分布する51の女神の聖地のひとつであり, その村落寺院は中世王権の寄進地を基盤にすることで, 複雑な祭祀体系が今日でも観察可能である。本稿は, 一年半の村落での住み込み調査の資料と, 英領期の土地資料とを統合することで, 村落社会の内部の視点から, 王権が村落の社会生活に深く関与している様子を描き出している。特に, 寺院の祭祀組織が, 王から村落のサーヴィス・カーストに賜与された寄進地と役割配分とに基礎付けられていることが示された。ここでは, 寺院の奉仕者は, 女神祭祀の役割を担うべく王によって任命されたサーヴァントなのであり, 宗教的でかつ政治的なこのような王の役割配分を通して, 王権の正統性が確立されることが論じられた。このような, 南アジア社会に固有の社会的歴史的条件に根ざした政治システムの考察は, 今日の世俗主義(secularism)と宗派主義(communalism)という図式的な対比にも再検討を迫るものとなるだろう。論文は, 8章で構成されている。序論では, 従来の王権論の議論を整理し, 村落社会との関係についての具体的な事例に基づく考察の必要性が論じられる。2章では, 調査村の概況が述べられる。3章では, 女神の聖地の特徴と王の寄進地が検討される。4章と5章は, 女神寺院での実際の儀礼過程が取り上げられる。6章では, 上記の資料に基づいて, 王権の正統性の確立過程が考察される。7章では, 特に, 調査村の独立後の変化に焦点が当てられる。最後に8章で, 結論が述べられている。
著者
山本 紀夫
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.578-581, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
11
著者
板垣 明美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.240, 2008

ラテンアメリカンおよびボールルーム・ダンスの歩行とコネクションの特色を、重心と体重に着目して解析する。KJ法およびNACイメージテクノロジーの技術的協力を得て3次元動作解析を実施した。その結果日本の指導者が「中心」、ロンドンの指導者が「center gravity」と表現する「重心」は骨盤の内部で安定していることがわかった。安定した重心を超えて体重がゆれることがスィング感が生み出れ、連続的なコネクションが得られる。
著者
橋本 栄莉
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.200-220, 2015-09-30 (Released:2017-04-03)

本論の目的は、独立後南スーダンで流通する予言を事例として、様々な出来事に直面するヌエルの人々が、予言やその背後にあるクウォス(神、神性)を介してどのように新しい経験の可能性を見出しているのかについて検討することにある。100年以上にわたり語り継がれる予言は、内戦や開発援助、国家の独立など、ヌエルの人々が直面する新しい状況を把握する方法と密接に開わってきた。予言の総体は知られていないものの、予言は人々の関心のありようや出来事とともに日々発見され、語り直されている。エヴァンズ=プリチャードとリーンハートのナイル系農牧民の宗教性に関する議論は、当該社会の変化と不可分に結びついた神性と経験のありようを、対象社会の人々の視点から抽出しようとするものであった。彼らの議論を手がかりとしながら、本論では、ヌエルの人々がどのような要素を検討することで予言や予言者の「正しさ」を見出していたのかに着目する。予言に関する人々の語りと対話、予言者を祀った「教会」の実践、近年の武力衝突という異なる場面で人々が吟味していたのは、過去に自分たちの祖先がクウォスに対して犯してしまった過ちや自身の周辺で生じるクウォスの顕れ、そしてその中で再び見出される自分たちの新しい「経験の領域」であった。本論は宗教性や経験に関する理論的検討を行うものではないが、南スーダンで生じている暴力や混乱を理解する上で、二人の人類学者が取り組んできた問題系がいかに無視しえないものとして残されているのかを例示するものである。
著者
金城 朝永
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.15, no.2, pp.88-100, 1950

The name of Ryukyu (Luchu) first appeared in the Sui-shu (History of the Sui Dynasty). Some scholars considered that the Ryukyu mentioned here was another name for Okinawa, while others insisted that it was Formosa. Tan Shidehara, ex-President of Formosa University, criticized these ideas and concluded that it might be a colony of the old Ryukyuans in the southern part of Formosa, explored by the Chinese in early times. If his assumption is true, we may be able to reconstruct the culture and customs of old Okinawa through their colonial phase in Formosa. A no less interesting problem is raised by the legend of the Japanese hero and archer, Tametomo, who is said to have sired King Shunten, the first ruler (1187-1237 A.D.) of Okinawa according to the authorized history of Okinawa. This legend indicates the existence of a close connection between medieval Okinawa and Japan. The Yumiharizuki, a novel adapted from the legend, by Bakin Takizawa in the later years of the Tokugawa Shogunate, exerted a powerful influence upon the Japanese. There were not a few who having read the novel while young, made a visit to the legendary land. Another work on Okinawa of note during the Tokugawa period was the Nantoshi (Notes on Southern Islands), published in 1719, by Hakuseki Arai, a statesman and noted scholar of Chinese classics. After the Restoration of Meiji (1867), the Ryukyus were formally annexed to Japan in spite of Chinese protest, many Japanese came to Okinawa and wrote historical and geographical reports on the islands. As most of them were concerned with Japanizing the Okinawans, they stressed the concept of similar racial and cultural origins of the Okinawans and the Japanese, as well as the existence of close connections between them from early times. It was about half a century until the Okinawans themselves participated in research on their country. Among them, three of the most famous are Fuyu Ifa who devoted his life to the study of the Omorososhi (Collection of old songs of Okinawa), Anko Majikina, author of the History of Okinawa for IO centuries, and Kwanjun Higaonna, editor of the Nanto-Fudoki (Geographical Dictionary of Okinawa). Among the Japanese scholars who were interested in things Okinawan and not only supported but also instructed students in the field of Okinawan studies, are Kunio Yanagita, founder of Japanese Volkskunde, and Shinobu Orikuchi, noted poet and excellent folklorist. Both of thein visited Okinawa about 1920 for the research in folk religion and old customs, and made many contributions to the study of similarity between Japan and Okinawa. Yanagita organized the "Nanto-Danwa-kai." (Southern Islands Coversazione) and edited the "Rohen-sosho" (Fireside Series) in which are contained several works on Okinawa. With the moving of Ifa from Okinawa to Tokyo, the "Nanto-Danwa-kai" was reorganized by the Okinawans in Tokyo and named "Nanto-Bunka-kyokai" (Southern Islands Culture Association) which was the predecessor of the present "Okinawa-Bunka-Kyokai" (Okinawa Culture Association), now the only organ for studies on Okinawa in Japan. Before the war, in Okinawa, the "Okinawa-Kyodo-Kyokai" (Association for Studies on Okinawa) was established centering around Majikina, then President of the Okinawa Library, where there existed a collection of more than three thousand books on Okinawa. All of them were destroyed in air-raids. Since the end of the war, the Okinawans at home have been too preoccupied with their daily livelihoods and with the reconstruction of their war-devastated islands to resume studies on their own country. Members of the "Okinawa-Bunka-Kyokai", conscious of their mission to foster research on their culture, hold lecture meetings once a month and publish a bimonthly mimeographed organ.