- 著者
-
松田 素二
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 民族學研究 (ISSN:00215023)
- 巻号頁・発行日
- vol.62, no.2, pp.205-226, 1997
文化相対主義は, 異文化と向き合うための強力な実践的行動指針を私たちに提供してきた。それは, 異文化接触の現場において, 私たちが「非人間的」であると感じる慣習に直面しても, それを無条件に容認すべきという不干渉の哲学であり, 異文化の慣習に直面した個人は, 理性的であるならば受容的に反応すべきという寛容の道徳としてあった。この寛容と不干渉の道徳律を支えてるのが, 共約不可能性のテーゼであった。自文化と異文化のあいだに, 普遍的心性とか人間本性という絶対項を設定することなく, 二つの文化を共約することは不可能なのだろうか。これに対して, 「可能である」という実践をしていたのが, 日本の初期アフリカニストたちであった。彼らは, 異なった者同士がその垣根をそのままにして, その間を跳躍して通交できるという実感をもった。彼らの「実感による通交」論は, いっけん極めて粗暴な議論にみえる。それは丸山真男が批判した, 日本文化の伝統に付随した「合理的ロゴスへの直反発と感覚的なるものへの傾斜」そのものだからだ。しかしながらこうした「実感信仰批判」にもかかわらず, 実感的異文化通交の可能性は指摘できる。一つは, 共約不可能性から出発しても両者の会話を促進することができるという認識である。しかしそれはたんに, 切断された二つの世界の住人が, 相互に語りの主体となって対話を積み重ねる過程にとどまらない。初期アフリカニストが強調したのは, 二つの世界の住人が生活の構えを共有しながら, 日常的思考の共鳴のなかで実感的に通交していくことなのである。こうした実感による異文化通交の認識を語ることは, じつは強大な近代の認識支配の様式とその実践過程に対する, 日常からの微細な抵抗の戦術に他ならないことも最後に指摘される。