- 著者
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澤田 次郎
- 出版者
- 拓殖大学政治経済研究所
- 雑誌
- 拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究 = The review of Takushoku University : Politics, economics and law (ISSN:13446630)
- 巻号頁・発行日
- vol.22, no.1, pp.77-144, 2019-10-31
本稿の目的は1934(昭和9)年から45年にかけての時期を中心に,アフガニスタンをめぐる日本の諜報工作活動を検証することである。1934年,カーブルに日本公使館を開設するにあたって外務省は,アフガニスタンとの親善関係が経済と外交戦略の両面でメリットをもたらし,とくに英ソを牽制することにつながると考えており,このことをふまえて日本公使館は諜報工作活動に着手する。第一に諜報活動については,日本公使館はオシントとヒューミントを組み合わせてさまざまな情報を入手した。しかし防諜面が脆弱であり,郵便,通信を傍受されるだけでなくスパイの浸透を許し,公使館員の行動は英米両国,アフガニスタン当局,あるいはソ連によって捕捉されていた。第二に浸透工作については,日本公使館は石油利権の獲得をめざしたが,アフガニスタン政府の微妙な心境の変化を察知できず,利権をアメリカに回される結果となった。また日本公使館と外務省は6名の学生の日本留学をアレンジし,彼らは帰国後,蔵相・副首相,計画相・最高裁長官をはじめとする要職につき,日本の工作は成果をあげた。ただし彼らの滞日中,ある種の疎外感をもたせたことがネックとなった。第三に特殊工作(謀略活動)については,1937年に武官の宮崎義一少佐が追放されたのち,40年に亀山六蔵中尉がカーブルに入り,諜報活動に着手した。41年以降,ドイツがソ連領中央アジアに対するバスマチ運動再組織の工作を行った際,日本公使館はドイツに協力した。また外務省は元国王のアマーヌッラーを利用すること,アフガニスタンを通じて反英領インド工作を行うことに関心をもっていたが,管見の及ぶ限りでは,具体的な破壊活動を行ったことを示す記録を見出すことができなかった。日本公使館はドイツ,イタリア公使館と交流したものの,三者の思惑は必ずしも一致せず,ドイツは重要情報が日本からソ連に流れることを警戒し,英領インドをめぐって独伊は秘密活動の主導権を他国に渡すまいと考え,日本は両国に非協力的であり,枢軸国間の提携は緊密なものとはいえなかった。以上を通じていえることは,日本は多くの情報を集め,それを活用したが,アフガニスタンでの諜報工作はハードルが高かったということである。