著者
小野 厚夫
出版者
情報処理学会
雑誌
情報処理 (ISSN:04478053)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.347-351, 2005-04-15

今日のキーワードとなっている情報という言葉は,日本で造られた言葉で,1976年出版の訳書「仏国歩兵陣中要務実地演習軌典」に最初の用例がある.原語はフランス語のrenseignementで,敵の「情状の報知」の意味で使われた.初期には情報と状報が併用されたが,情報に統一された.兵語として用いられていたが,次第に一般化し,日露戦争後には国語事典に収録されるようになった.戦後情報理論の導入に伴い,英語のinformationの日本語訳として用いられるようになった.これら130年に及ぶ情報という言葉の歴史について調べた内容を,用例を示しながた辿ってみた.
著者
カイザー シュテファン
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.35-50, 2005-01-01

本稿は、開港のころ横浜居留地で発生した横浜ダイアレクトの唯一まとまった資料であるExercises in the Yokohama Dialectについて、出版状況を当時の資料により検討し、初版が1873年に出たことなどを明らかにした。また、横浜ダイアレクトの使用者・使用場面について当時の資料を参考に考察し、少なくとも1861年以降の横浜で外国人と日本人の接触場面における商談などが双方向のピジン日本語で行われたこと、そのピジン語を記述した資料としてExercisesが信頼性のある文献であることを確認した。さらに、後世の日本語文献で取り上げられている「横浜言葉」とその資料として使われた「異国言」などの資料を検討し、開港当時の日本人が英語のピジンを話していた証拠とすることができないことを主張した。
著者
青山 昌文
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.55-61, 2010

役者の演技の在り方については、対立する二つの見解が存在している。より正確に言えば、一つの意見と一つの理論が存在しているのである。その一つの意見によれば、役者は、演じている芝居の登場人物の役のなかに自己を没入させるべきであり、心で演じるべきである。その一つの理論によれば、役者は、演じている芝居の登場人物の役を、意識的・自覚的に演技するべきであり、多大な判断力をもってして、演じるべきである。 『俳優についての逆説』と題された著作において、ディドロは、この理論を見事に確立した。彼は、凡庸な、つまらない大根役者を作るのが、極度の感受性であり、無数の幾らでもいる下手な大根役者を作るのが、ほどほどの感受性であり、卓越した役者を準備するのが、感受性の絶対的欠如である、と述べているのである。 この理論は、ディドロのミーメーシス美学に基づいている。感受性の絶対的欠如の理論は、彼の理想的モデルの美学に根拠をもっているのである。 ディドロは、スタニスラフスキーの先駆者である。但し、そのスタニスラフスキーは、真のスタニスラフスキーであって、ソ連の社会主義リアリズムのスタニスラフスキーではなく、演技の実践についての演劇理論のスタニスラフスキーである。 ディドロ美学は、アリストテレス美学と同じく、創造の美学なのである。
著者
許 海華
出版者
関西大学東西学術研究所
雑誌
関西大学東西学術研究所紀要 (ISSN:02878151)
巻号頁・発行日
no.44, pp.297-318, 2011-04

While Japan at the end of the Edo period revised their national seclusion system and started to set forward with internationally opening policy,it was the training of translators to communicate at practical negotiations with foreign countries that was most urgently required. In the case of To tsuji 唐通事,Chinese translators at Nagasaki during the Edo period, some of the youths transferred themselves to be in charge of two languages,from solo translation for Chinese to translation for both Chinese and English. They later became very active in the frontlines for diplomacy,education and translation because of their English abilities during the periods from the end of the Edo to Meiji era. One of the typical examples was Ga Noriyuki. Ga Noriyuki was the person who flourished as a liege of Tokugawa Shogunate, a bureaucrat,an educator as well as a translator,who had been working as a Chinese translator at Nagasaki. It was his mastering English which brought him a great turning point for his life. This paper examines historical backgrouds and progress for Ga Noriyuki's mastering English from the view point of the alteration of To tsuji at Nagasaki during the periods from the end of the Edo to Meiji era, through full survey on articles on his carrers.
著者
西條 辰義
出版者
日本評論社
雑誌
経済セミナー (ISSN:0386992X)
巻号頁・発行日
no.611, pp.46-53, 2005-12
著者
中西 大輔 亀田 達也
出版者
大修館書店
雑誌
言語 (ISSN:02871696)
巻号頁・発行日
vol.31, no.7, pp.12-15, 2002-06
著者
松村 高夫
出版者
慶應義塾経済学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.98, no.4, pp.547(1)-578(32), 2006-01

歴史の法則的把握か個人の役割の認知かをめぐるE.. H. カー対I. バーリン論争の再検討から始め, 結局カーの歴史学は勝者の歴史であり責任の問題が回避されることを述べる。ついでヴィーコを水源とする4つの潮流, (1)コリングウッド, クローチェ, カーへ, (2)ミシュレを経てフェーブル(フランス社会史)へ, (3)ヘルダー, ブレイク, モリス, E.. P. トムソン(イギリス社会史)へ, (4)ホワイト(ポスト・モダニズム)へいく流れを辿り, 民衆としての個人は3番目の流れが解明できることを指摘する。最後に1990年代に日本で現れた「歴史認識問題」と現在の歴史学の危機について論じる。Beginning by reconsidering the controversy between E. H. Carr and I. Berlin concerning the grasp of history's law, or the cognition of individual role, I argue that in the end, Carr's Historiography is a history of history's winners and avoids the responsibility problem.Subsequently, when taking Vico as the headspring of four water currents and following the flow: (1) to Collingwood, Croce, and Carr; (2) passing through Michelet to Febvre (Annales school = Social History of France); (3) to Helder, Blake, Morris, E. P. Thompson (British Social History); and (4) to White (Port-Modernism), I highlight that the notion of individuals as people may be unraveled by the third flow. Finally, I discuss the "disputes on historical epistemology" appearing in Japan in the 1990s and the crisis of contemporary Historiography.会長講演
著者
豊島 よし江
出版者
了德寺大学
雑誌
了徳寺大学研究紀要 = The bulletin of Ryotokuji University (ISSN:18819796)
巻号頁・発行日
no.10, pp.77-86, 2016

本研究の目的は、江戸時代の人口調節としての間引き・堕胎の実態、また通過儀礼としての産育習俗から見た日本の子育て、日本人の子ども観について文献を通して考察することである。歴史を通して見えてきたのは「堕胎・間引き」は全国的に慣習として存在したこと。堕胎法としては子宮収縮作用のある植物を用いる・冷水に浸かるなどであった。間引き法としては濡紙を口に当てる、手で口をふさぐなどの直接的なものとネグレクトなど間接的方法があった。これらの根底には貧しさがあり、親たちが生きるためのやむにやまれぬ選択であった。そして、そこには「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来の日本人の精神があった。また、七五三に見られる通過儀礼は、子どもが無事に生まれ、無事に育つことの困難な時代にあって不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であった。そこには生まれた子どもを慈しんだ日本人の英知と祈りがあった。The purpose of this research is to investigate the actual conditions of infanticide and abortion as methods for population control during the late Edo Period; the customs of giving birth to and raising a child which Japan viewed as rites of passage; and an outlook on Japanese children. Looking back at history, we have found that abortion and infanticide existed as a custom all throughout Japan. Abortion methods such as soaking in ice cold water and using plants in order to cause the womb to shrink were used. As for infanticide, methods such as putting wet paper on the mouth, more direct acts such as covering the mouth with a hand, and indirect methods such as neglect were used. The use of these methods was essentially a result of poverty and was an inevitable choice for parents. The ancient Japanese spiritual belief that the child belonged to the domain of god until age seven also meant that they were returning the child to god. Furthermore, the rite of passage of Shichigosan (when children age 7, 5, and 3 visit a shrine) was a critical rite of passage that proved the overcoming of an unstable era in which giving birth to and raising children was a hardship. Within this custom was the wisdom and prayers of Japanese people who loved the child to which they gave birth.Keywords: Late Edo Period, abortion, infanticide, a stance on children (a stance on life)
著者
若倉 雅登 山上 明子 岩佐 真弓
出版者
日本神経眼科学会
雑誌
神経眼科
巻号頁・発行日
vol.34, no.4, pp.421-428, 2017

眼球や第一次視覚野までの経路が正常だとしても,例えば何らかの原因で開瞼が不能であればその機能を利用できない.我々はこうした症例を,医学的分類というより,当該患者が何に不都合を感じているかという観点から「眼球使用困難症候群」と名づけた.<br>この症候群は,そうした不都合を有する病態に広く用いたいと考えるが,同症候群の命名のきっかけになった最重症の8症例を提示し,それらの臨床的特徴を明らかにする.8例に共通するのは,微細な光に過敏に反応し,眼球の激痛や高度の羞明に常時悩まされている点である.<br>8例はいずれも,暗い部屋でも閉瞼するだけでなく,アイマスクや遮光眼鏡の使用は日々の生活で常に必需であった.大半の症例はジストニアのような動的異常よりも感覚異常のほうが目立った.一部の症例は,線維筋痛症を含む身体痛,舌痛症,顎関節症や抑鬱を合併していた.また,向精神薬の連用や離脱,頭頸部外傷や何らかの脳症などが契機となって発症していた.<br>このように,全例眼瞼痙攣の最重症例と類似点があるが,完全に一致するかは今後の問題である.<br>眼瞼痙攣は神経科学では局所ジストニアとして理解されているが,本質は,眼球使用ができないことにある.それゆえ,眼球使用困難症候群の一部を成すものとして扱い,特に高度なものは視覚障害者として扱うのが妥当であることを主張する.<br>今回提示した8例以外にも,眼球使用困難症候群はさまざまな場合があると考えられ,症候発現に関する因子も種々であろう.<br>日常生活において高度の不都合があるにもかかわらず,日本の現今の障害者福祉法では,視力のみ及び視野でしか評価しないために,視覚障害として認定されない.このように,眼球使用困難症候群では福祉的救済が必要であるにもかかわらず,法的にこのような障害が想定されていないことが問題点であることを,臨床医学の立場から指摘した.