著者
奥平 康照
出版者
和光大学現代人間学部
雑誌
和光大学現代人間学部紀要 (ISSN:18827292)
巻号頁・発行日
no.6, pp.7-22, 2013-03

『山びこ学校』は出版直後から高い評価を受けた。教師たちはそこに新しい教育実践への希望を見出し、教育学者はその理論化こそ、これからの仕事だと考えた。さらに哲学者も社会科学者も、日本の民衆の内側から生れる思想と理論の可能性を、そこに読みとることができると考えた。しかし『山びこ学校』大絶賛は、それに見合うほどには理論的思想的成果をもたらすことなく、50年代後半になると急速に萎んでいった。当事者の無着さえも、「山びこ」実践から離脱していった。50年代後半から始まった急激な経済成長と、政府による教育内容の国家統制強化とに対して、日本の民主教育運動と教育学の主流は、「山びこ」実践とその思想を発展させることによって、対抗実践と理論を構築することができると見なかった。「山びこ」実践への驚きと賞賛は、戦後日本の民衆学校の中学生たちが、生活と学習と社会づくりの実践的主体になりえる事例を、直観的にそこに見たからであろう。しかし戦後教育実践・思想・理論は子どもたちを学習・生活・社会づくりの主体として位置づけることができなかった。
著者
山口 誠一
出版者
法政大学文学部
雑誌
法政大学文学部紀要 = Bulletin of Faculty of Letters, Hosei University (ISSN:04412486)
巻号頁・発行日
no.67, pp.13-25, 2013

本論考は,『精神現象学』「序説」の「Ⅰ 現代哲学の課題」の「〔 3〕原理は完成ではないこと,形式主義に対する反対」の前半部を扱う。ここでは,『精神現象学』とりわけ序説執筆時のヨーロッパの歴史との関係が簡潔に語られている。
著者
Saitō Akira
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.17-25, 2013-03-31

チャンドラキールティ作『プラサンナパダー(明句論)』Prasannapadāの第25「涅槃の考察」章には,校訂者のラ・ヴァレ・プサンも完全なかたちの校訂を断念した2つの経典引用がある.2つの経典引用は,それぞれ第1偈(涅槃の可能性をめぐる,反論者による空批判)および第3偈(ナーガールジュナによるニルヴァーナの特徴づけ)をチャンドラキールティが注釈する中で引用される.ラ・ヴァレ・プサンが校訂を断念した背景には,校訂者が利用した『プラサンナパダー』の3写本(カルカッタ,ケンブリッジ,パリ)が比較的新しい類似写本で,カトマンドゥ・ケーサル図書館蔵の紙写本,オクスフォード大学・ボドレー図書館蔵の貝葉写本,およびラサ・ポタラ宮殿蔵の貝葉写本等の古層の写本が発見されていなかったという事情もあった.これに加えてまた,今日では『プラサンナパダー』に対する著者不明の貴重な複注文献も公にされ,米澤嘉康によって研究が進められている.本研究は,『プラサンナパダー』をめぐる以上のような研究環境の進展と,近年におけるパーリ語仏典(本稿との関連では『ウダーナ』)および初期大乗仏典(同じく『聖般若波羅蜜多宝徳蔵偈』,以下『宝徳蔵般若』と略す)の研究の蓄積を踏まえ,あらためて上記の2つの経典引用のテキストとその典拠を考察した.その結果,第1の経典引用は『ウダーナ』8.9に対応するもので,現行のパーリ本と比較するとき,いくつかの特徴が注目される.チャンドラキールティの引用は基本的にパーリ文であったと推定されるが,部分的にサンスクリット化され,されにまた動詞(アオリスト)表現の一文に代わって,名詞構文が採用されている事実も確認された.第2の経典引用は『宝徳蔵般若』22.6に対応するもので,異なる系統の写本にもとづきA(湯山本)とB(オーバーミラー本)2つの校訂本が公にされるなか,基本的にVasantatilakā 韻律に従い,部分的ながらも,A,B 両校訂本のいずれとも異なる読みを採用している点は注目される.本引用の典拠が確認されたことにより,『プラサンナパダー』に引用される『宝徳蔵般若』偈は,従来の研究で知られていた2つの偈の他に,新たに当該偈が加わり,総計で3偈の引用が確認されることになった.本論文では,20近くの存在が報告される『プラサンナパダー』写本の中で,とくに重要と目される古層の3本を含む6写本をもとに,上述の複注文献およびチベット語訳を参照しながら,チャンドラキールティが引用した際の両経典のテキストの復元を試みた.本研究の成果が,今後の『プラサンナパダー』所引経典の精査とともに,典拠となった経典の再検討をうながす一つの契機となれば,本稿の主要な目的は果たされたといえよう.
著者
浅野 有紀 横溝 大 藤谷 武史 原田 大樹 清水 真希子 松中 学 長谷川 晃 田村 哲樹 松尾 陽 加藤 紫帆
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

研究2年目に当たる本年度は、トランスナショナルローを巡る法的・政治的問題についての理論研究をさらに進めると共に、組織規範動態WGと国際金融規制WGにおいて、実証研究に向けた本格的検討を開始した。先ず、理論研究については、3回の全体研究会を開催し(2017年7月、8月、及び、2018年2月)、共同研究者や国内の他の研究者による報告を基に意見交換を行い、知見を深めた。具体的に扱ったテーマは、「トランスナショナル・ローと法哲学の課題――多様な正統性と機能主義的考察」、「グローバルな土地収奪のトランスナショナル・ローの観点からの研究」、「解釈主義的法理論とトランスナショナル・ロー」、「立法過程と政治学の応用」、「批判法学から法多元主義、法多元主義から批判法学へ-無意識的な『法の帝国』化について」、「グローバル・ガバナンスと民主主義-方法論的国家主義を超えて」である。また、実証研究については、組織規範動態WGが2回の会合を(2017年9月、12月)、国際金融規制WGが1回の会合を(2018年3月)開催し、実証研究を進める際のテーマの選定や方法について検討を重ねた。その上で、各研究分担者が、3年目以降にさらに理論又は実証研究を進展させるべく、その基礎となる論稿を中間的成果として日本語・英語で執筆・公表した。具体的には、'Self-regulations and Constitutional Law in Japan as Seen From the Perspective of Legal Pluralism'、「法多元主義の下での抵触法」、「グローバル・ガバナンスと民主主義」、「グローバル化と行政法の変容」、「ソフトロー」、「コーポレートガバナンスと政治」、「グローバル資本規制」等である。

2 0 0 0 OA 表示的意味論

著者
久木田 水生
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.189-198, 2008
著者
関谷 一彦
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

リベルタン文学の中で最も重要と思われる『女哲学者テレーズ』の翻訳を人文書院から出版し、同書の「訳者解説」でリベルタン小説およびリベルタン版画について詳細に説明した。また、リベルタン小説はポルノ小説と混同されがちだが、両者は似て非なるものであることを明らかにした。『女哲学者テレーズ』を始めとするリベルタン小説やこれまであまり研究されてこなかったリベルタン版画を取り上げて、その意味と役割りについても解説した。そして18世紀フランスにおいて、フランス革命に向かう民衆の意識変革にリベルタン文学が果たした役割の重要性を読者に問題提起した。
著者
網谷 祐一
出版者
京都大学文学部科学哲学科学史研究室
雑誌
科学哲学科学史研究 (ISSN:18839177)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-20, 2011-02-28

The species problem is the longstanding puzzle concerning the nature of the species category or how to correctly define "species." Many philosophers, as well as biologists, have attributed the recalcitrant nature of the species problem to the gap between the essentialistic nature of the species concept, on the one hand, and the vague boundaries of actual species, on the other. In this paper I will examine two possible readings of this account. On the first reading, the gap comes from the lack of non-essentialistic definitions of "species." The second reading suggests that the gap comes from biologists' psychological disposition to hold essentialistic conception of species, even when non-essentialistic definitions are available to them. Then I will argue that evidence favors the second reading over the first.
著者
萬屋 博喜
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2012, no.63, pp.297-311_L16, 2012 (Released:2012-10-16)
参考文献数
20

In this paper I examine Hume's theory of meaning and abstraction. Although his doctrine of abstraction relies on his theory of meaning, his own conception of meaning is not necessarily the so-called “idea theory of meaning”, which supports the possibility of private language. On the contrary, he tries to defend a sort of use theory of meaning: the meaning of abstract terms must consist in our custom or disposition to use them in society and conversation. This idea is derived from his concept of ability, which depends on his conception of the resemblance and the uniformity of nature. The aim of this paper is to show that we can interpret Hume's view of meaning as a use theory of meaning. To begin with, I criticize the traditional interpretation of Hume's theory of abstraction, which faces a substantial difficulty concerning the possibility of communication. Then, I clarify that he proposes in his Treatise the following two doctrines of abstraction: (1) two sorts of resemblance and (2) the principle of the uniformity of nature. These enable us to understand language by appealing to the ability to generalize the use of our abstract terms. Finally, I show that his theory of meaning does not only offer us a criterion for the correct use of abstract terms, but also a defensible foundation of communication.
著者
海老田 輝巳
出版者
九州女子大学・九州女子短期大学
雑誌
九州女子大学紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:09162151)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.89-109, 2000-02

我が国の近代文学を代表する二大巨匠は、夏目漱石、森鴎外(森鴎外、夏目漱石)であることは、今さら言うまでもない。この二人には、前者が英文学者、後者が軍医でドイツ文学者、また五歳の年齢差があるが、文学はもとより、漢学の造詣の深さに対しても瞠目に値するものがある。漱石の作品には、英文学をはじめとする欧米の文学、哲学、美術のみならず、東洋の文学、哲学、芸術などの反映が見られる。特に中国哲学においては、儒学思想(儒家思想)、老荘思想(道家思想)、禅の思想が漱石の作品に大きく反映している。この点については、すでに先学によって論究されている。たとえば、儒学・老荘の思想については、漱石と荀子性悪説、老子に関するものとして、江藤淳「漱石と中国思想-『心』『道草』と荀子、老子」(雑誌『新潮』昭和五十三年四月号)、陽明学に関するものとして、佐古純一郎「夏目漱石と陽明学」(『夏目漱石論』昭和53年審美社)の名著がある。たしかに、この江藤・佐古両氏の論考については、何れも卓越せる著作である。漱石の小説『こころ』について、江藤氏は荀子性悪説に基づくものだとし、佐古氏は陽明学の心学に基づくものとしているが首肯できない。この点については、すでに論述しているのでここでは述べない。だからといって漱石の作品に、荀子や王陽明の影響が全くないというのではない。漱石の作品によっては、荀子や王陽明の影響を受けているものがあり、特に陽明学の影響は大きい。漱石の中国哲学、中国文学の造詣は、少年時代に学んだ漢学塾によるものである。その漢学塾は、陽明学者三島中洲の創立した二松学舎(現二松学舎大学)である。したがって漱石は、陽明学の影響を受けた。また中国哲学を代表する孔子や『論語』の影響も受けた。のみならず関わりの深い中国に対する観方については、紀行文、その他の作品で見ることができる。