出版者
日経BP社
雑誌
日経トップリーダー
巻号頁・発行日
no.322, pp.25-27, 2011-07

「ようやく発売できた。お客様に申し訳なかった。私もここに登場できて、車ともども喜んでいる」 6月16日、ホンダの新型車「フィットシャトル」発表会の席上で、社長の伊東孝紳は、こんな感想を述べた。フィットシャトルは3月11日の東日本大震災で部品の調達が困難になり、発売延期を余儀なくされていた。 伊東が口にした「喜び」。
著者
星野 太
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本研究課題「偽ロンギノス『崇高論』の研究:言葉とイメージによる共同体の「媒介」の問題を中心に」の二年目である平成21年度においては、主に17世紀および20世紀における「崇高」概念の研究を行った。本年度の前半は、18世紀から19世紀にかけてのイギリス美学史研究、とりわけエドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』(1757)の研究を論文として、学会誌『美学』に発表した。その後、ニコラ・ポワローによる偽ロンギノス『崇高論』の仏訳(1674)、およびその注解についての研究を2010年7月4日の表象文化論学会第五回大会にて口頭発表した。また、年度の後半には、20世紀後半の戦後美術における崇高概念についての研究を公にした。特に、アメリカの美術批評家ロバート・ローゼンブラムの著作「抽象的崇高」、『近代絵画と北方ロマン主義の伝統を、クレメント・グリーンバーグをはじめとする同時代のテクストと比較検討し、この成果を論文として発表した。国外においては、まず第18回国際美学会において、ジャン=フランソワ・リオタールの崇高概念についての発表を行った(北京大学、2010年8月13日)。次いで、国際会議ICCTワークショップにおいて、カントの啓蒙思想、および20世紀のフランス哲学(フーコー、デリダ)におけるその批判的検討を扱った発表を行った(北京大学)。いずれの発表も、大幅な加筆の上、論文として受理されている(前者は国際美学会の記録集に掲載予定、後者は発表済)。
著者
周 愛光 片岡 暁夫
出版者
Japan Society for the Philosophy of Sport and Physical Education
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.17-37, 1995 (Released:2010-04-30)
参考文献数
69

The purpose of the present study was to try to make the cause and conquest of man's alienation in sports cleared by analyse the phenomenon of man's alienation in sports from viwes of commercialization of sports culture, division of labor, and commodity economy.The results obtained from this study are as follows:1. Although there are value and use value in sports culture, it can not become goods because of no exchange value in it, But the sports culture in realistic society can be commercialized by attached exchange value from outside. While, for completely losing the nature of culture, the commercialized sports culture is just a sport goods.2. As long as the sports culture be commercialized, The phenomenon of man's alienation will be produced. Because at this time the player is not the end but only the means of sport activity. So the commercialization of sports culture is the direct and principal cause of man's alienation in sports.3. Because sports is a realistic existence, It must be restricted by society. So the causes of man's alienation of society, such as, division of labor and commodity economy are the indirect and basic cause of man's alienation in sports.4. It is important for overcoming the phenomenon of man's alienation in sports to overcome the commercialization of sports culture. But the phenomenon of man's alienation in sports can only be relatively but not absolutely overcome untill the division of labor and commodity economy be completely overcome.
著者
末松 壽
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
pp.52_a-75_a, 1992

La distinction établie par Émile Benveniste entre discours et récit historique (avater de l'opposition logos / muthos des Anciens) aincité de nombreux critiques (linguistes, tel H. Weinrich, ou philosophes) à réflréchir sur les questions de l'énonciation en général et en particulier sur la modalité de la relation entre ces deux types d'énonciation. Les théoriciens de la littérature de leur côté en ont tiré parti afin de consolider les bases d'une science en construction. Il nous a paru cependant nécessaire de réexaminer la théorie du linguiste, notamment en ce qui concerne la légitimité de poser le discoursi indirect comme"troisième type d'énonciation" (ainsi qu'il l'a fait) et de nous demander s'il n'y avait pas lieu, à la place, de proposer un tout autre type : lavdéfinition Il fallait, d'autre part, mettre en lumière une certaine mutation conceptuelle des termes-clefs (récit, disconrs précisément)de Benveniste aux poéticiens dont Barthes et en particulier G. Genette, changement de perspective qui a permis, depuis les années 1970, l'essor remarquable de la narratologie. Telles sont les tâches que nous nous proposons dans cet essai.
著者
奥堀 亜紀子
出版者
大阪大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2017-04-26

宮城県石巻市を中心に「東日本大震災後の喪の作業の過程に見られる死者と生者の関係性の変容」に関するフィールドワークを継続した。採用年度から3年間のフィールドワークの方法論として「当事者の生活に馴染むこと」を用いていた。地政学的とも言える方法論を通して震災を経験した者の視点から見た死の人称性の揺れを分析し、ジャンケレヴィッチの死の人称性、ハイデガーと田辺による死の哲学 (死と死者の違いについて)といった哲学の問題を掘り下げた。震災を経験した者が失った日常とは何なのだろうか。採用最終年度は、一見して死と反対側にある「生活、日常」を分析していくことを課題として設定した。具体的な研究成果は、臨床実践の現象学会第5回大会の口頭発表において「生活とは何か ―東日本大震災から考える、普段は見知らぬものの存在が際立つとき」、石巻市鹿妻地区にある一坪書店文庫の企画ワークショップ「本屋de哲学」において「二人称の死を考える」を報告した。とりわけ石巻での報告は、参加者である住民 (震災の経験者であり、報告者が3年間にわたって関わってきた住民たち)に対する初めての報告であった。二人称の死が訪れた時に生きている人がおこなう喪の作業のあり方を考察するために石巻市に滞在し、最終的に辿りついたのは、人間がただ繰り返し営んでいる日常生活の本質となる「気、雰囲気、空気、情感」といった、一人の人間が置かれている環境を彩っているものたちの存在であった。死と死者の哲学、死の人称性についての考察を進めてきたが、それらを単純に「死」の哲学から見るのではなく、「生」の哲学の観点から見ることによって「石巻の哲学」なるものが完成する。以上のような「生の哲学における死者の哲学」を基盤にしてジャンケレヴィッチの郷愁論を読み直していくことによって、喪の作業の方法論としてジャンケレヴィッチの郷愁論を構築していく見通しを立てた。
著者
前田 春香
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.3-21, 2021-03-25

本論文の目的は、Correctional Offender Management Profiling for Alternative Sanctions(以下COMPAS)事例においてアルゴリズムが人間と似た方法で差別ができると示すことにある。技術発展とともにアルゴリズムによる差別の事例が増加しているが、何を根拠に差別だといえるかは明らかではない。今回使用するCOMPAS 事例は、人種間格差が問題になっているにもかかわらず、そのアルゴリズムが公平であるかどうかについて未だ論争的な事例であり、さらには差別の観点からは説明されていない。本論文では、「どのような差異の取り扱いが間違っているのか」を説明する差別の規範理論を使ってCOMPAS 事例を分析する。より具体的には、差別の規範理論の中から「ふるまい」による不正さを指摘するHellman 説を適切なものとして選び、アルゴリズムに適用できるよう改良したうえでCOMPAS 事例が差別的であるかどうか分析をおこなう。この作業によって、差別的行為を「ふるまい」の問題として独立させ、一見差別の理論が適用できなさそうなアルゴリズムによる差別性の指摘が可能になる。
著者
渡辺 武志 竹内 史央 中野 和之
出版者
名古屋大学
雑誌
名古屋大学教育学部附属中高等学校紀要 (ISSN:03874761)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.62-64, 2008-01

科学リテラシーの育成を目標に、17世紀近代科学成立期の科学と哲学を中心的題材とする授業を行った。そこでは、「楕円の性質」や「ノストラダムスの預言」などの具体的な題材を通じて、じっくりと科学的な思考の経験を積むよう計画した。また、今回から取り入れた新規の題材である「偽(似非)科学」は、現代的な話題も含み、生徒が実生活の中で科学リテラシーを生かせるようになることを目指したものである。
著者
高田 三郎
出版者
京都哲学会
雑誌
哲学研究 (ISSN:03869563)
巻号頁・発行日
vol.35, no.6, pp.53-58, 1951
著者
麻生 博之
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1997, no.48, pp.297-306, 1997-05-01 (Released:2009-07-23)

後期アドルノは哲学のとるべき態度を「否定弁証法」と規定した。弁証法の否定性が要求される決定的な理由は、「客観の優位」 (Vorrang des Objekts) という反観念論的な主張に求められる。アドルノは、主観性を原理とする哲学を欺瞞として批判しつつ、観念論を乗り越える哲学のあり方を、否定弁証法の名のもとに設定するのである。だがそれゆえに、ともすればアドルノの哲学は、主観性に依拠した理論的次元そのものと訣別するかの印象を与えることにもなる。たしかにアドルノ自身の語るとおり、否定弁証法に貫かれているのは、整合的な概念の「崩壊の論理」にほかならない (GS6. 148) 。しかしアドルノが行なう観念論への仮借なき批判は、概念に基づく思惟のレベルそれ自身を放棄するものではない。否定弁証法を単に観念論へのアンチテーゼとみなすことは、むしろアドルノの意図を捉えそこなうことになる。アドルノが試みたのは、主観性の原理を克服する方途を、あくまで主観それ自身のあり方のうちに見いだすことであった。この逆説的な試みのうちに否定弁証法の実質を見きわめること、ここに本稿の目的がある。つまり、客観の優位を主張するアドルノ哲学の実質がむしろ主観の潜在的可能性に置かれていることを明らかにし、この主観の機能を見定める点である。課題の中心となるのは、アドルノが着目する主観のあり方を、カントとヘーゲルとの関連において際立たせること、そして主観に見込まれる積極的機能を、「経験」 (Erfahrung) と思惟の「自己反省」 (Selbstreflexion) という概念に即し確定することである。テキストとしては、後期の理論的主著『否定弁証法』を中心に、同書と前後して執筆された幾つかの論文を取り上げる。