著者
普照 潤子
出版者
美術科教育学会
雑誌
美術教育学:美術科教育学会誌 (ISSN:0917771X)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.347-358, 2007

本論では,わが国においてこれまでほとんど知られることのなかった,ハンガリー人亡命者たちによる反ナチス運動に参加したモホリ=ナギの1940年代の活動を手がかりとして,彼の亡命体験の歴史的苦悩と,その中で,彼がいかに豊かな芸術の哲学と芸術教育学をアメリカに提示したのかを明らかにした。そしてそれらは,バウハウス教師たちの亡命体験を成功物語として一面的に解釈してきたこれまでのバウハウス受容研究の中では,解明できなかったものであった。
著者
佐々木 正寿
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2016, no.67, pp.231-246, 2016-04-01 (Released:2017-10-13)
参考文献数
6

Mit seiner Einstellung zur Lebensphilosophie versuchte Dilthey das Leben aus sich selbst her zu verstehen, und bei ihm wurde die Poesie, die ursprünglich dem Gefühl entspringt, vom Gesichtspunkt der Lebensphilosophie als „Darstellung und Ausdruck des Lebens“ verstanden bzw. die Dichtung als „das Organ des Lebensverständnisses“ bezeichnet. Insofern könnte man die Dichtung für den Ausdruck des Selbstverständnisses des Lebens halten. Goethe hatte gerade in der Dichtung das Leben aus sich selbst her verstanden und, so interpretierte es Dilthey, dieses zum Ausdruck gebracht, und in diesem Sinne kann Goethe als der größte Lyriker überhaupt bezeichnet werden.Wie Dilthey hat auch Nishida dem Gefühl eine überlegende Bedeutung zuerkannt, und zwar macht das Gefühl in Nishidas Gedanken den Gehalt des Selbst aus, der gerade durch künstlerisches Handeln zu fassen sei. In der Tat hat Nishida die Poesie für den Ausdruck des Lebens gehalten und insbesondere die Dichtungsweise „shasei“ (Beschreibung des Lebens) in der japanischen Dichtung Tanka hoch geschätzt. Besonders deutlich hat im Bereich des Tankas Saito Mokichi die Dichtungsweise „shasei“ vertreten. Seiner Meinung nach bedeutet „shasei“ das Beschreiben des Lebens, mit anderen Worten, das unmittelbare zum Ausdruck Bringen des Lebens qua konkrete Wirklichkeit. Gerade in diesem Gedanken von „shasei“ hat er eine gemeinsame Grundtendenz von japanischer Dichtung mit der Lebensphilosophie Diltheys gesehen.In den Werken großartiger Dichter könnte man also die Vereinigung von Dichtung und Leben finden. Auf das Wie dieser Vereinigung bewegten sich auch Saito und besonders Tsuchiya Bunmei mit ihrer Einstellung zur Lebensbeschreibung („shasei“) zu. Bei Saito und Tsuchiya mußte das Tanka-Gedicht schließlich als das Leben selbst auftauchen. Diese radikale Einstellung könnte ein radikales Verständnis des Lebens möglich machen und ein solches Lebensverständnis könnte in der Tanka-Dichtung in Worte gefasst werden, obwohl die dichterischen Worte gewiß anders als philosophische Begriffe wären. Gerade hier dürfte man einen ausgezeichneten Sinn der Lebensbeschreibung („shasei“) erkennen.
著者
小野寺 郷
出版者
筑波大学哲学・思想学会
雑誌
哲学・思想論叢 (ISSN:02873702)
巻号頁・発行日
no.12, pp.13-20, 1994-01-31
著者
加藤 淳子
出版者
東京大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2015-04-01

再分配における平等の問題は、福祉国家研究のみならず、哲学や思想などでも重要課題である一方で、その背後にある動機付けや心理過程については、直接のデータをもって分析されることはなかった。本研究は、福祉国家の所得階層構造(高中低所得層)を踏まえ実際の再分配の問題を考えるため、仮想社会における再分配ルール決定の際の参加者の脳の活動をfMRIで計測することで、平等をめぐる心理過程の解明した論文を自然科学英文専門誌に掲載し、社会科学の分野から複合分野である脳神経科学へ参入に成功した。また、脳神経科学実験を行う際に、政治学の行動分析の知見がどのように役に立つか方法論的考察も行い社会科学専門誌にも寄稿した。
著者
生田 久美子 吉國 陽一 尾崎 博美 畠山 大 岩田 康之 八木 美保子
出版者
田園調布学園大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、「教える」専門家としての教員養成の根幹が問われる中で、学問としての「教育学」が果たすべき役割を明らかにすることを目的とする。具体的には、以下の2点の解明を目指す。①「教える」専門家がもつ「高度な専門性」の特徴を明らかにする。②「教育学」と「教える」専門家の養成との間の歴史的・制度的な関係性を明らかにし、「教育学」に基づく「教える」専門家養成システムの在り方を提示する。以上の2つの目的の達成を、教育哲学・教育思想、教育史、教育制度・教育行政、教育実践の4つの専門領域から検討することを通して、「教える」専門家の養成を学問として構築する「教育学」のあり方(モデル)の提示を目指す。
著者
永井 博
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1954, no.3-4, pp.1-10, 1954-03-31 (Released:2009-07-23)
参考文献数
22
著者
鄭 君達
出版者
北海道大学宗教学インド哲学研究室
雑誌
北大宗教学年報 (ISSN:24343617)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-10, 2019-08-31

20世紀のフェミニズム研究は、男性中心主義というキーワードに焦点を当てた。そして宗教研究の領域でも、同じような潮流がみられる。当時、フェミニストの神学者たちは、各自の領域において様々な研究を行い、宗教あるいは宗教研究に潜在する男性中心主義の問題を暴きつつ、女性の権利と自由を求めるために多彩な研究成果を実現した。例えば、R.R.リューサー、E.シュスラー=フィオレンツア、R.グロスとJ.プラスコウのようなフェミニスト神学者たちは、自分たちが持つ宗教伝統を中心にして、そうした伝統を記述する聖典に隠された男性中心主義を分析した。そして、そうした聖典に埋めこまれた、女性を自由に導く啓示性を発見するよう、努力した。そのほか、C.P.クライストのようなフェミニストの神学者は、先史時代においての女神崇拝の研究に専心した。女神崇拝に関する問題は、今までの宗教研究において関心を集めた⼀つの重要なテーマであり、宗教研究における男性中心主義を検討するときに、その男性中心主義に潜在する暴力を暴けるかどうかを左右しうる重 要な議論でもある。したがって、今日のフェミニズムの議論にとって基礎になった20世紀の宗教研究を考察するときに、女神崇拝を検討する意義があると思われる。そこで、本稿では、フェミニスト神学者であるC.P.クライストの宗教研究における男性中心主義に隠された暴力について考察することによって、20世紀のフェミニズム研究の貢献を再考し、そうした議論が形成された原因と問題意識、さらにその限界を考察する。以下では、まず、生成期から20世紀までのフェミニズムの発展史をたどり、主に宗教研究の視点から議論の問題意識をここで可視化する。次に、20世紀のフェミニズム宗教研究における男性中心主義に対する批判に注目する。ここでは、男性中心主義という概念の形成と、本稿の中心になる研究者のクライストの研究を紹介したい。そして、クライストの議論を検討しつつ、その議論から見出された有効性と限界を検討する。
著者
岡田 徹
出版者
日本福祉大学福祉社会開発研究所
雑誌
現代と文化 : 日本福祉大学研究紀要 = Journal of Culture in our Time (ISSN:13451758)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.71-105, 2018-03-31

本稿では,「福祉と開発の人間的基礎」を,森有正というわが国では稀有の思想家,哲学者の人間思索をとおして考究した. ここ【中篇】では,この人間思索をさらに具体的に《感覚-経験-思想》という思惟の道程に沿って考えてみた. 森有正の場合,人間思索は,感覚をその最初の一歩として,《感覚-経験-思想》という道程を辿って深められる.この道程は,実に興味深いことであるが,渡仏後,森有正自身が歩んだ実生活上の道そのものであったことである. 先ず「感覚」については,ここでは感覚の純化である「純粋感覚」に特化して討究した.森有正や,森有正が兄事する彫刻家の高田博厚はこの純粋感覚に,精刻な言葉を与えて肉薄している.ここは「圧巻!」である. 次に「経験」は,森有正哲学の中枢概念にあたる.森有正は経験を,「感覚が純化し,自己批判を繰り返しつつ堆積し,そこに自己のかたちが露われて来る」ものであるとする. 最後の「思想」の段階に到って,すなわち「経験」を言葉で定義する段階で,森有正の筆はピタッと止まる.「実を言うと私は絶望的である」と苦しい胸の裡を明かして,「思想と経験」-「これはいわば哲学者としての絶頂を示す仕事である」とまで言い切っていた,深い思い入れのある「経験と思想」論文を途中で投げ出してしまう. そして思弁的な論議を脱し,踝を返して《感覚-経験-思想》の原質である「純粋感覚」へと立ち戻り,オルガン演奏に没入して《生きて在る》ことそのことへの斜度を深めてゆく.人間思索の深まりとともに,森有正の根本課題「人間が人間になる」ことが少しずつ象を顕わしてくる.
著者
山本,圭
出版者
情報文化学会
雑誌
情報文化学会誌
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, 2008-08-01

本稿が目指すのは,今日「ヴァーチャル・コミュニティ」と名指されるオンライン上での人々の集まりを政治理論的観点から分析することである。そもそも人々の共生のあり方である「コミュニティ」はこれまで,政治学や社会科学の領野で議論されできたものであるが,そこで論じられてきたコミュニティは果たして,今日の「ヴァーチャル・コミュニティ」とどのような関連性を持つのであろうか。ヴァーチャル・コミュニティをそのような連関のなかで分析するとき,われわれはそれをめぐる言説の変化に気付かざるを得ない。すなわち,ヴァーチャル・コミュニティの登場ははじめ,理想のコミュニティを実現するものとして歓迎されたが,次第にそれが抱える限界が明らかになるにつれて,その期待は萎みつつあるということである。このようにヴァーチャル・コミュニティが変容するなかで,コミュニティとしてのどのような特質が失われたのかを政治哲学,特にハンナ・アーレントの権力概念に依拠しながら明らかにしたい。ヴァーチャル・コミュニティへの政治哲学からの眼差しは,これまで十分には検討されてこなかった問題を浮き彫りに出来ると考える。
著者
菅井篤
出版者
日本教育心理学会
雑誌
日本教育心理学会第61回総会
巻号頁・発行日
2019-08-29

問題と目的 近年,学習者が対話的に議論し,学習を深めていく教育実践が増加している。この教育実践は,従来学校教育で行われてきた教師が子供へ知識を伝達していく伝統的な授業とは異なり,協働して問題解決していく学習(文部科学省,2012)に学習者が主体的・対話的に参加し,学習活動を展開していく教育実践を指す。文部科学省(2012)は「予測困難な時代において,我が国にとって最も必要なこと」として「将来の我が国が目指すべき社会像を描く知的な構想力」の育成を明示しており,文部科学省(2017)は「主体的・対話的で深い学び」の実現のために授業改善をすることで学習者が新たな学びをつくり出すことを推し進める。我が国の教育の領域では,主体的・対話的で深い学びの新たな創造のために,これまで行われてきた伝統的な学びの問い直しが始まっている。 そこで本研究では,これまで多く注目されてこなかった異学年交流に焦点を当て,具体的な事例を検討することを目的とする。方 法 2018年9月,関東圏内の私立小学校の異学年(1 年生7名,2年生6名,3年生6名,4年生5名,計24名)の集団交流における教師と児童の発話を対象とした。同年12月に異学年集団で行われる劇発表会へ向けた劇づくりの導入の授業であり,哲学対話形式で対話が展開された。そこでの教師と児童の対話をスクリプト化し,藤江(2000)に従って対話を発話として最小単位で区切った。そのほかに,対話場面を「話段(ザトラウスキー,1993)」を1単位として区分し場面の抽出を行った。なお,本研究は,管理職の指導のもと個人情報に留意して実施した。結果と考察 哲学対話形式の対話は24分48秒行われた。まず,藤江(2000)に従い,対話をそれぞれの発話として区切った。その結果,対話は276の発話に区切られた。これらの中から,児童の発話を抽出し,学年別に集計した結果をTable 1に示す。そのほかに,ザトラウスキー(1993)に従い,対話から48の話段を抽出した。話段は,話者が意図したと考えられる会話の「目的(goal)」の達成を1つの対話の終結と捉える対話場面のことである。例えば,Table 2に示した場面では,「なんで劇するの」の教師の問いかけから生じた対話の「劇をする目的の回答」という目的が達成されたことが読み取れる「伝えるため」という教師の発話までを1つの話段として定義し,対話場面を抽出した。抽出された話段のうち,児童の問いかけによって発生した話段は17であった。これらを学年別に集計した結果を,Table 3に示した。その結果,17の話段のうち,5の話段が3年生,12の話段が4年生の問いかけによって発生していることが明らかになり,1年生と2年生の問いかけは確認されなかった。 本研究は,主体的・対話的で深い学びを目指して行われた小学校での異学年交流の具体的な事例を検討することが目的であった。Table 1とTable 3に示したように異学年集団の交流において,児童は学年が上がるほど発話数が増え,目的の達成のために集団への問いかけが多くなることが明らかになった。対象校では,劇づくりの異学年交流は毎年導入されていた。これは,異学年交流型の授業を多く受けてきた上学年の児童ほど課題解決のために対話をパフォーマンスし,学習集団へ積極的に問いを発していたと捉えることができよう。このように,児童らが学習者として自ら問いをつくりながら,学習集団を他者と共に弁証法的に共創していくことができる学習環境は,主体的・対話的で深い学びの成立のための一助となると考えられる。