著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-16, 2013-03-30
被引用文献数
1

大相撲 / 賭博 / 八百長 / ガチンコ / 行司 / 審判
著者
川部 裕幸
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.21, pp.117-145, 2000-03-30

浮世絵の一つに「疱瘡絵」と称されるものがある。疱瘡絵はかなり特殊な浮世絵である。疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られるという用途に限って用いられた浮世絵である。また、疱瘡絵は、全面、濃淡二種の赤色のみで摺刷されているという、際立った特徴を持つ。 従来、疱瘡絵は、芸術的情趣に乏しいものとして、美術史の立場からはあまり研究がなされてこなかった。しかし、江戸時代の日本人の疱瘡についての観念や習俗を知る上では、貴重な資料となる。本稿は、疱瘡をめぐる民俗の一端として、疱瘡絵を研究することを目的としたものである。 近年、H・O・ローテルムンドが、疱瘡絵に描かれている図像や画賛を分析して、日本人の疱瘡観の一端を鮮やかに解明した。本稿では、今までの研究成果を整理した後に、ローテルムンドが、ほとんど検討していなかった疱瘡絵の使用の実態、すなわち、疱瘡絵の購入者・購入意図、贈られた人々の取り扱い、疱瘡絵の普及状態などを、具体的な資料に基づいて叙説することを目指した。また、疱瘡絵の誕生の経緯とその出自についても検討を加えた。本稿で明らかになったことは次のとおりである。1. 疱瘡絵は、専ら疱瘡見舞いに用いられた特異な浮世絵であり、その誕生からして、疱瘡見舞客の購入を当て込んで、商品開発され売り出された可能性が高い。2. また、疱瘡絵には護符的な用途と病床の疱瘡小児のなぐさみ・弄びものとしての用途があったことを指摘した。そして、病気回復後すぐに放棄されるという、これまた特殊な末路を辿る浮世絵であった。最後に疱瘡絵の発生についていくつかの推量を示した。疱瘡絵の発生の時期に関しては、従来の説よりも四〇~五〇年は遡ることを資料によって明らかにした。また、疱瘡絵が誕生するに当たって影響を与えたと思われる浮世絵の系統としては、鍾馗の図や芝居絵・玩具絵・大津絵などが想定できることを示した。
著者
竹村 亜紀子
出版者
国立国語研究所
雑誌
国立国語研究所論集 (ISSN:2186134X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.103-116, 2012-05

本稿は親の母方言の影響によって鹿児島方言の習得が異なることを報告する。親が体系を異にする方言を母方言とする場合,その子供は方言接触の環境で育っているといえよう。本研究は鹿児島方言を対象に,方言接触がない環境(両親ともに鹿児島方言話者)で育った話者と方言接触の環境で育った話者(片/両親が非鹿児島方言話者)の方言習得の違いを捉えることを目的とする。本研究が行った調査の結果,(1)両親の出身地による方言習得の違いがあること,(2)方言接触がない環境(両親ともに鹿児島方言話者)で育った話者は文法的な要素(音韻規則)は変化しにくく,(3)方言接触の環境で育った話者(片/両親が非鹿児島方言話者)は伝統的な文法的要素の習得が不完全であるために文法的な要素(音韻規則)自体が異なっていることが明らかになった。また方言接触の環境で育った話者は鹿児島方言らしく聞こえるような疑似的な鹿児島方言が多く観察されることも明らかとなった。
著者
福井 大祐
出版者
日本野生動物医学会
雑誌
日本野生動物医学会誌 (ISSN:13426133)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.41-48, 2013
被引用文献数
1

<p> 近年,人為的な要因による野生動物の感染症の発生が問題となっており,課題の1つとして人と野生動物の関わりがあげられる。本来,人が野生動物に餌を与える必要はないが,娯楽のための餌付けから保護を目的とした給餌まで様々な目的で野生動物への餌やりが行われている。一方で,餌やりによって特定の種が局地的に集合して行動生態の改変や生物多様性の低下が起こったり,感染症の発生リスクが高まったり,生態学的健康を人為的に損なうおそれがある。例として,国際的なツル越冬地の出水でナベヅルの高病原性鳥インフルエンザ(2010年冬),旭川でスズメのサルモネラ感染症(2008~2009年冬),北海道内でカラス類における鳥ポックスウイルス感染症(2006年以降)の集団発生が認められ,それぞれ給餌,餌台,ゴミという餌やりが関わっていると考えられる。餌やりによって集合した野生動物が家畜に感染症を拡散させるリスクも問題となっている。人,家畜および野生動物の生命を支える生態学的健康を守るため,人と野生動物の関わりと感染症について,学術整理とバイオセキュリティ対策が必要である。</p>
著者
原田 彰
出版者
不明
雑誌
日本教育社会学会大会発表要旨集録
巻号頁・発行日
no.31, pp.4-5, 1979

古典的アナキストのひとりであるプルードンへの関心は、最近とくに高まってきているように思われる。いわゆる「マルクス・プルードン問題」や「自主管理」に関連して、常識化しているプルードン像が見直されつつある。多産な思想家であり「逆説の人」(ウッドコック)とも呼ばれるプルードンの複雑きわまりない思想を小ぎれいに整理することは困難である。とりわけ彼の自由論については、それを主題にした論文がないだけに、いろんなテキストに分散している考察をつなぎ合わせていく作業が必要である。ここでは、ギュルヴィッテ、アンサール、バンカール、さらに京大人文研などの研究を手がかりにして、プルードンの自由論の現代的意義を探る試みをしたい。
著者
西野 春雄
出版者
法政大学
雑誌
能楽研究 (ISSN:03899616)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.59-88, 1993-03-30

22 0 0 0 IR 藤原清衡論(上)

著者
樋口 知志 HIGUCHI Tonoji
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.82, pp.93-115, 2008-06

藤原清衡(1056 − 1128)はいわずと知れた奥州藤原氏の初代であり,平泉の地に開府を果たして奥羽両国に覇権を樹立し,80余年続いた絢爛豪華ないわゆる平泉文化の礎を築いた人である. 清衡が出生した天喜四年(1056)という年は前九年合戦(1051 - 62)の最中であり,康平五年(1062)に同合戦が源氏・清原氏連合軍の勝利=安倍氏の「滅亡」というかたちで終結したとき,彼は実父の経清を失っている.その後,奥六郡主安倍頼時の娘である彼の母は清原武則の長子武貞の許に再嫁し︑清衡も母の連れ子としてともに清原氏の人となった.彼はその後清原氏の一員として少年・青年期を過ごすが,永保三年(1083)に勃発した後三年合戦(1083 - 87)では清原氏当主の座にあった異父異母兄の真衡や異父同母弟の家衡︑オジの武衡と戦い合い︑合戦終結後は清原氏嫡系男子としてたった一人生き残った.かくして奥羽の二大戦乱を生きぬいた清衡はその後も弛まぬ歩みを続け,十二世紀初頭頃にはついに平泉開府を果たしたのである. 本稿では,そのような数奇な生い立ちと前半生をもつ彼の人生の軌跡について,文献史料の精確な読み直し作業に立脚しつつ,あらためて根本から再考してみたい.というのは,彼の生涯についてはこれまで諸先学によって数多く論及されてきたものの,巷間に流布している通説的見解にもあるいは史的事実に反する誤謬が少なからず含まれているのではないかと愚考されるからである. 平泉の世界遺産登録のことが頻繁に話題とされ奥州藤原氏に関わる平安末期の文化遺産に熱い視線が注がれている昨今であるが,近年そうした動きとも連動するかたちで,前九年・後三年合戦期や奥州藤原氏の時代に関わる諸遺跡の発掘調査が進められて考古学的知見がいちじるしく増大し︑また歴史学(=文献史学)の側においても『陸奥話記』『奥州後三年記』や『吾妻鏡』といった関連する諸文献の史料批判や読み直しにもとづき基礎的研究の拡充が図られるなど,かなりの研究成果の蓄積がみられた.本稿ではそれら数々の新たな成果を踏まえながら,奥州藤原氏初代清衡の全生涯について,時代の趨勢やその変遷との関連をも重視しつつできるかぎり詳細に論じてみたい. もしも本稿における所論の中に,今後の奥羽の古代・中世史研究や平泉文化研究の発展にいささかなりとも寄与しうるところがあるとすれば,まさに望外の幸いという他ない.
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.143-161, 2010-03-31

室町時代中期以後の室町幕府奉行人が幕府に訴えを持ち込まれる諸々の不法案件の問題解決を図るべく当該不法案件の根本の原因を成した不法行為の処置方針を示す目的で作成し、発した奉行人奉書を見ると、「向後」発生する懸念のある同様の不法行為の行為者を「罪科」に処する旨を宣言して予告している事例が相当数見受けられる。しかし、中世前期まで主に訴状の上に書き表されていた「向後傍輩」または「傍輩向後」を見懲らす趣旨の見懲らし文言を載せている奉行人奉書の残存例は、一つも見当たらない。室町幕府が常に当該不法案件に関する終局的な判断を公権的に表示していたと考えられる奉行人奉書の上に見懲らし文言が一度も書き表されることがなかったと言う顕著な特徴点を考慮すると、恐らく当該時期の室町幕府は、不法案件の処理を図る上で中世前期的な見懲らし型刑罰観や中世前期的一般予防観念ひいては一般予防思想に立脚して判断を行ったことが一度もなかったのではないかと考えられる。
著者
伊藤 邦彦
出版者
東京都立産業技術高等専門学校
雑誌
東京都立産業技術高等専門学校研究紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.2-12, 2007-03

鎌倉全期を通じて、守護・守護人・守護所・守護職と様々に表記された名称のうち、必ずしも「正員」を表すとは限らないケースを中心に、その用例を個々に検討した。